第42話:裏口の過酷な搬入作業と、鉄板の調達
王都アルカディアが年に一度の熱狂に包まれる『建国祭』まで、残すところあと数日。
表の通りから聞こえてくる吟遊詩人たちの陽気なリュートの音色や、祭りの準備に浮き足立つ人々のざわめきを背に、小料理屋『結』の店主・藤原栞は、誰の目にも触れない厨房の奥で、頭を抱えて唸り声を上げていた。
「……甘かった。お祭りの屋台を舐めてたわ。気合いと根性だけでどうにかなる物理法則じゃない」
栞の目の前には、建国祭の広場での出店に向けて書き出した『必要なものリスト』の羊皮紙が置かれている。
メニューは、焦がし醤油のタレが決め手の『焼き鳥』と、ソースの暴力的な香りで客を狂わせる『お好み焼き』の二枚看板。常連客である王都警備隊の面々が、客の誘導や警備といった人員面のサポートを完璧にこなしてくれることは確定している。
だが、根本的な問題があった。
『火力』と『調理面積』である。
現在、この小さな厨房にあるのは、家庭用の延長のような三口のガスコンロと、中型のフライパンや鍋類のみだ。十席しかないカウンターの客を相手にするには十分な設備だが、王都中から数万人が集まる建国祭の大行列を捌き切るには、まるでおもちゃの水鉄砲でドラゴンの群れに立ち向かうようなものである。
焼き鳥を一度に何十本も焼き上げるための、専用の長く巨大な『焼き台』。
そして、分厚い肉や山盛りのキャベツを乗せたお好み焼きを、温度を下げずに十枚、二十枚と同時進行で焼き上げるための、極厚の巨大な『業務用鉄板』。
これらがなければ、あっという間に注文の波に飲まれ、客を待たせた挙句に屋台は崩壊してしまう。
「ドランさんに作ってもらうことも考えたけど、お祭りまで時間がなさすぎるし、日本の規格に合わせたガス管の接続や特殊なバーナーの構造を異世界の鍛冶で一から再現するのは無理があるわね。……となると、やっぱり頼れるのは『故郷』の経済力と流通網しかないわ!」
栞はエプロンのポケットから、先日、宝石鑑定士の源蔵の店でエメラルドやルビーを換金して得た、分厚い札束の入った茶封筒を取り出した。
異世界の宝石がもたらした、日本の強力な資本主義の力。
栞はすぐさま裏口から日本の電波を拾い、スマートフォンの画面をタップして、厨房機器の専門業者や馴染みの酒屋である浩太のスマートフォンへと、次々と尋常ではない量の発注メールを送信し始めた。
そして、翌日の深夜。
日本の地方都市の、人通りの途絶えた薄暗い路地裏に、不釣り合いなほど大きなトラックのエンジン音が響き渡った。
「おーい、栞ちゃん……。頼まれた特急便、持ってきたけどさぁ……」
勝手口の鉄扉を開けたのは、首にタオルを巻き、すっかり疲労困憊の表情を浮かべた酒販店の配達員、浩太であった。
彼は台車を引いて厨房に足を踏み入れたが、その台車の上、そして路地裏に停められたトラックの荷台には、信じられないほどの物資が積み上げられていた。
「浩太さん! 深夜に急な手配をお願いしてごめんなさい! 助かりました!」
「いや、助かりましたじゃないよ。俺、一応酒屋の配達員なんだけど。……なんだい、これ」
浩太は手元の納品書をバサバサと振った。
「業務用焼き鳥台、幅一メートル二〇センチ。プロパンガス用特注バーナー。お好み焼き用極厚鉄板、幅一メートル五〇センチ、厚さ一二ミリ。それに加えて、最高級の紀州備長炭が十箱に、お好み焼き用の業務用ソースが一斗缶で五つ。……あのさ、栞ちゃん。ここ、カウンター十席の隠れ家的な小料理屋だよね?」
浩太の目が、スゥッと細められ、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
以前、異常な酒の消費量を疑われた時と同じ、理詰めの追及モードである。
「俺、配達員としていろんなお店を見てきたけど、物理的におかしいんだよ。この店の中に、幅一メートル半の鉄板を置くスペースなんてどこにもないし、そもそも炭火焼き鳥をこんな大量に焼いたら、煙で近所から通報されるよ。……栞ちゃん、まさか君、どこかの反社会的勢力の大規模な炊き出しでも請け負ってるんじゃ……」
「ち、ちがいまーす! ちょっと、本当にちょっとした野外イベントのケータリングを頼まれちゃって! 海外の富裕層のお客様たちが、日本のB級グルメの屋台をどうしても庭でやりたいってワガママを言うもので!」
「またその海外の富裕層設定かよ! どんな庭だよ、フェスでもやる気か!」
浩太が呆れ果ててトラックの荷台を指差した。
「百歩譲ってその設定を信じるとしてもだ。この鉄板、重さが百キロ近くあるんだよ。焼き台だって金属の塊だ。俺、酒屋の配達員であって引っ越し業者じゃないからね。こんなの、俺と栞ちゃんの二人で裏口の狭い段差を越えて搬入するなんて、絶対に無理だから」
「そこをなんとか! 浩太さんのその逞しい筋肉だけが頼りなんです!」
「無理無理。俺の腰が砕け散る。明日の配達に響くから、業者を手配して出直して……」
浩太が踵を返そうとした、まさにその瞬間。
ドンッ!
栞は、浩太の目の前にあるステンレスの作業台に、分厚い茶封筒を叩きつけた。
中からは、帯のついた福沢諭吉の束が覗いている。
「……浩太さん。これは、海外のお客様からお預かりした、機材調達費と『特別搬入手当』です」
「なっ……」
「いつものお酒の追加発注も含めて、売上成績はすべて浩太さんの手柄にしていただいて構いません。この手当も、浩太さんの懐に入れてもらって結構です。……どうでしょう?」
札束の暴力。
以前、純米大吟醸を大量発注した際にも使われた、栞の必殺の交渉術である。
浩太の目が一瞬にして円(¥)のマークに変わり、喉がゴクリと鳴った。しかし、今日の浩太はただ金に目が眩むだけの男ではなかった。百キロの鉄板を狭い路地で運ぶという肉体労働は、札束の魅力と天秤にかけても、なお彼の腰を躊躇させるほどの過酷さだったのだ。
「うっ……た、確かに魅力的な額だけど……でも、こればっかりは腰をやっちまったら終わりなんだよ! 俺の肉体は金じゃ動かない!」
浩太が悲痛な叫びを上げたのを見て、栞はスッと茶封筒を引き下げた。
(なるほど。現金という物理的な報酬だけでは、彼の疲労した肉体と腰への恐怖を打ち破れないのね。……ならば、板前としての最大の武器を使うしかないわ)
「わかりました。お金では動けない浩太さんのために、私が特別に『まかない』を作ってあげます」
「まかない……? いや、いくら栞ちゃんの飯が美味いからって、百キロの鉄板を運ぶ対価には……」
「ただのまかないじゃありません。深夜の労働の前、極限までお腹を空かせた男の胃袋と脳みそを、最も強烈に満たす究極の一杯……『極厚・特製カツ丼』です」
「カ、カツ丼……!?」
カツ丼。
その響きには、日本の成人男性を無条件でひれ伏させる魔力が宿っている。
サクサクのトンカツ、甘辛い出汁、そしてそれを優しく包み込む半熟の卵。
浩太の腹が、ぐぅぅぅぅぅっ、と盛大に鳴り響いた。
「……五分。五分だけ待っていてください」
栞は有無を言わさずコンロの火をつけ、凄まじいスピードで調理を開始した。
冷蔵庫から取り出したのは、普通のトンカツの倍はあろうかという、厚さ三センチの極上の国産豚ロース肉。
分厚い肉の筋を丁寧に切り、肉叩きで叩いて繊維を柔らかくしてから、塩コショウを振る。小麦粉、卵、そして粗めの生パン粉をたっぷりと纏わせ、百六十度のラードとサラダ油の混合油の中へと静かに沈めた。
——ジュワァァァァァァァァッ!!!
香ばしい油の弾ける音が厨房に響き渡り、豚の脂が溶け出す甘い匂いが、浩太の鼻腔を容赦なく強打した。
「うおぉぉっ……深夜の揚げ物の匂い……これはテロだ……!」
浩太はトラックの荷台から身を乗り出し、ふらふらと厨房の入り口まで引き寄せられていく。
栞は肉を揚げている間に、隣のコンロで小さな親子鍋(カツ丼用の平たい鍋)を熱し始めた。
そこに注ぎ込まれるのは、利尻昆布と本枯れ節で引いた黄金色の一番出汁に、醤油、みりん、多めの砂糖を合わせた、特製の甘辛い割り下だ。
スライスした玉ねぎを加え、グツグツと煮立てていく。出汁の芳醇な香りと、醤油が煮詰まる暴力的な匂いが、油の香ばしさと混ざり合って無敵の空間を作り出す。
「よしっ!」
栞はキツネ色に揚がった極厚のトンカツを油から引き上げ、ザクッ、ザクッ! と包丁で小気味良い音を立てて切り分けた。
断面からは、ほんのりと桜色を残した豚肉から、熱々の肉汁がジュワリと溢れ出している。
それを、玉ねぎが煮える親子鍋の割り下の中央に、ドンッと鎮座させる。
——ジュウウゥゥゥッ!
カツの衣の底面が、甘辛い出汁を吸い込んでいく最高の音が鳴る。
上半分はサクサクのまま、下半分は出汁を吸ってジュワジュワになる。この完璧なバランスこそが、カツ丼の真髄である。
そして、最終工程。
栞はボウルに新鮮な卵を二つ割り入れ、あえて白身と黄身が完全に混ざりきらないよう、菜箸で三回だけ、ざっくりと切るように混ぜた。
「卵は『二回に分けて』入れるのが、究極の半熟への道です!」
栞は溶き卵の三分の二を、煮立つカツの周囲に円を描くように流し入れた。
火を通し、卵が白く固まって土台を作ったのを確認すると、残りの三分の一の卵を、今度はカツの真上からトロリと回しかける。
そして、すかさず火を止め、蓋をしてきっかり十秒だけ蒸らす。
丼に炊きたての熱々ご飯をよそい、親子鍋の蓋を開けて、カツと卵をご飯の上に滑らせるようにして一気に乗せた。最後に、彩りの三つ葉を添える。
「お待たせしました。浩太さん専用、活力百倍『まかない極厚カツ丼』です!」
カウンターに置かれた丼を見た瞬間、浩太は魂を抜かれたように立ち尽くした。
湯気と共に立ち昇る、出汁と醤油、豚の脂身、そして卵の甘い香り。
二回に分けて入れられた卵は、下半分は出汁を吸ってフワフワに固まり、上半分はカツをコーティングするように、トロットロの半熟のまま黄金色に輝いている。
サクサクの衣と、出汁を吸った衣のコントラストが、視覚からも暴力的に食欲を刺激してくる。
「……食って、いいのか?」
「どうぞ。冷めないうちにかき込んでください」
浩太は無言で割り箸を割り、分厚いカツを一切れ、半熟卵とご飯ごとすくい上げて口の中に放り込んだ。
「…………ッ!!!」
浩太の瞳孔が限界まで見開かれ、全身に稲妻のような衝撃が走った。
噛み締めた瞬間、分厚い豚ロースから驚くほど柔らかな食感と共に、濃厚な肉汁が溢れ出す。そこに、利尻昆布と鰹節の旨味が限界まで濃縮された甘辛い割り下が絡みつき、トロトロの半熟卵がすべてを優しく、そして暴力的なまでのコクで包み込む。
衣のサクサク感と、出汁を吸ったジュワッとした部分の二重奏。
それを、硬めに炊かれた熱々のご飯がしっかりと受け止め、喉の奥へと滑り落ちていく。
「う……うめぇぇぇぇぇっ!!!」
浩太は深夜の路地裏であることを忘れ、歓喜の絶叫を上げた。
「なんだこれ! 肉が分厚いのに歯がいらないくらい柔らかい! それにこの出汁の味……俺が今まで食ってきたカツ丼は一体なんだったんだってくらい、旨味が深くて甘辛くて……っ! 卵のトロトロ具合が神がかってる!」
浩太はもう言葉を発することもなく、ただひたすらに、一心不乱にカツ丼をかき込み始めた。
ズズッ、ハフッ、ザクッ!
額に汗を浮かべ、丼の底に残ったご飯粒一つ、出汁の一滴まで、狂ったように平らげていく。
深夜という罪悪感すらも、この圧倒的な美味さの前にはただのスパイスでしかない。
「……ふぅぅぅっ。ごちそうさま!!」
数分後、綺麗に空になった丼を置き、浩太は天を仰いで至福の吐息を漏らした。
満腹感と、豚肉のビタミンB群、そしてご飯の糖質が、疲労しきっていた彼の肉体と脳に、バチバチと新たなエネルギーを注入していくのがわかる。
「どうですか、浩太さん。エネルギー、チャージできました?」
栞がニッコリと笑って冷たい麦茶を差し出す。
浩太は麦茶を一気に飲み干し、ドンッとグラスを置いて立ち上がった。
その顔には、先ほどまでの疲労と腰への不安は微塵も残っていなかった。あるのは、極上のカツ丼を食わせてもらったことへの恩義と、燃え上がるような労働意欲だけだ。
「栞ちゃん。……俺は、男だ」
「はい」
「こんなに美味いもんを食わされて、しかもあんな分厚い茶封筒まで用意されて、ここで『重たいから帰る』なんて言ったら、酒屋の配達員としてのプライドが許さねぇ」
浩太は首に巻いたタオルを締め直し、腕まくりをした。
「行くぞ! 百キロの鉄板だろうが、焼き台だろうが、俺の気合いとカツ丼パワーで、この厨房にねじ込んでやる!!」
「浩太さん……! ありがとうございます!」
ここから、深夜の路地裏における、地獄の搬入作業が幕を開けた。
浩太の言う通り、幅一メートル半、厚さ一二ミリの業務用鉄板は、まさに鉄の塊であり、狂気の沙汰とも言える重さだった。
「うおぉぉぉぉぉっ!! お、重てぇぇぇっ!! なんだこれ、地球の重力がおかしくなってねぇか!?」
「浩太さん、踏ん張って! 私が下を支えますから!」
「栞ちゃんは手ぇ挟むからどいてて! 俺が台車に乗せて滑らせるから!」
ギリギリ、ギギギギッ……!
台車の車輪が悲鳴を上げ、狭い裏口のドア枠に鉄板が擦れる。
浩太の腕の筋肉がはち切れんばかりに膨張し、額からは滝のような汗が流れ落ちる。
もしこの時、彼らがバランスを崩して鉄板を落とし、厨房を突き抜けて『表の引き戸』——すなわち異世界の路地裏側へ飛び出していれば、警備隊のバルトルトたちと鉢合わせる大惨事になっていたかもしれない。
しかし、栞の的確な誘導と、カツ丼によって限界突破した浩太の火事場の馬鹿力により、巨大な機材たちはミリ単位の攻防を制して、一つ、また一つと厨房の奥へと押し込まれていった。
「右! あと五センチ右に切って! ストップ! そこで降ろします! せーのっ!」
ドスゥゥゥゥゥンッ!!!
厨房の床が抜けんばかりの地響きと共に、ついに巨大なお好み焼き用鉄板と、専用の焼き鳥台が、栞の指定した位置に完璧に設置された。
「……はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
「……や、やりましたね……浩太さん……」
二人は厨房の床に大の字になって倒れ込み、肩で激しく息をしていた。
浩太の服は汗で完全に色を変え、栞の割烹着もススと埃で薄汚れている。
「……死ぬかと、思ったぜ……。栞ちゃん、これで明日の朝、俺がぎっくり腰で起き上がれなくても、労災は下りないからな……」
「ふふっ……その時は、毎日ベッドまで極上のカツ丼を配達してあげますよ」
「……そいつは、悪くねぇな」
浩太は天井を見上げたまま、力なく笑った。
「本当に、ありがとうございました。浩太さんのおかげで、これで『お祭り』の準備は完璧です」
栞は起き上がり、厨房の半分を占領するようになった、ピカピカの巨大な鉄板と焼き台を見上げて、確かな決意の炎を瞳に宿した。
これだけの火力と面積があれば、どんなに大勢の異世界人が押し寄せようと、絶対にさばき切ってみせる。
日本の屋台飯の恐ろしさと美味さを、王都アルカディアの住人たちの魂に刻み込んでやるのだ。
「……栞ちゃん、やっぱり君、どっかの巨大なフェスか何かの元締めなんだろ?」
帰り際、トラックに乗り込みながら浩太が呆れたように言った。
「秘密です! また美味しいお酒の発注、よろしくお願いしますね!」
栞が笑顔で手を振ると、浩太はため息をつきながらも、満足そうな顔でトラックを発進させ、夜の闇の中へと消えていった。
静まり返った厨房に戻った栞は、新しく設置された冷たい鉄板の表面を、手のひらで優しく撫でた。
「さあ、相棒。数日後には、あなたの上で最高のソースを踊らせてあげるからね」
建国祭の足音が、もうすぐそこまで迫っている。
小料理屋『結』は、異世界の祭典に向けて、完全武装を終えたのであった。




