第41話:建国祭の足音と、常連たちの無茶ぶり
王都アルカディアに、一年に一度の最も華やかで熱狂的な季節がやってきた。
長く厳しい冬の寒さがようやく底を打ち、微かに春の気配が風に混じり始める頃、王都は国を挙げての巨大な祭典『建国祭』の準備で一色に染まる。
数百年前、初代国王が建国を宣言し、魔王軍を辺境へと退けた日を記念するこの祭りは、貴族からスラムの住人に至るまで、すべての身分を取り払って三日三晩飲み明かすという無礼講の祝祭である。
大通りには色鮮やかな万国旗のような飾り付けがはためき、石畳の広場には巨大な櫓が組まれつつあった。道行く人々の足取りはどこか浮き足立ち、街全体が巨大な生き物のようにドクドクと熱い鼓動を打っているのが、路地裏にひっそりと暖簾を掲げる小料理屋『結』の表口からでもはっきりと感じ取れた。
「すごい活気ね……。これが、ファンタジー世界の本当のお祭り……」
真っ白な割烹着に身を包んだ店主の藤原栞は、引き戸を少しだけ開けて、遠くに見える大通りの喧騒を眩しそうに見つめていた。
日本にいた頃、栞も板前修業の合間に、近所の神社の夏祭りや商店街の秋祭りに出かけたことはある。しかし、一国の首都全体が狂喜乱舞する建国祭のスケールは、次元が違っていた。行き交う馬車には花が飾られ、吟遊詩人たちがリュートを掻き鳴らし、子供たちが木剣を持って初代国王の真似事をして走り回っている。
とはいえ、栞にとってそれはあくまで『窓の外の出来事』であった。
小料理屋『結』は、王都の喧騒から逃れてきた者たちが静かに羽を休めるための、隠れ家的なオアシスだ。表通りのどんちゃん騒ぎがどれほど大きくなろうと、自分はいつも通り、この静かな厨房で出汁を引き、温かい料理を作り続けるだけだと思っていた。
——その夜までは。
「女将ぃぃぃぃっ!! 頼む! 一生のお願いだ!!」
「店主さぁぁぁん!! 私からもお願いしますぅぅぅっ!!」
「この通りだ! 俺の髭を担保に入れてもいいから、どうか頷いてくれぇぇっ!」
「……私からも、頭を下げる。どうか、我々の願いを聞き入れてはもらえないだろうか」
夜の営業が始まって間もなく。
カウンターに並んで座った四人の常連客——王都警備隊長のバルトルト、新米魔法使いのミレイユ、ドワーフの鍛冶職人ドラン、そしてエルフの密偵ファリスが、揃いも揃って栞に向かって深々と頭を下げていたのだ。
土下座一歩手前の、凄まじい懇願のポーズである。
栞は片手に菜箸を持ったまま、目を丸くして硬直した。
「えっと……皆さん、急にどうしたんですか? そんなに一斉に頭を下げられても、私、困っちゃうんですけど……」
「女将! もうすぐ建国祭が始まるのは知ってるな!?」
バルトルトがガバッと顔を上げ、血走った目で栞を見つめた。
「ええ、まあ。表の通りがすごく賑やかになってきてますし」
「建国祭ってのはな、王都の住人にとって一年で一番の楽しみなんだ! 俺たち警備隊も、この三日間だけは交代制で非番がもらえて、堂々と広場で酒を飲んで騒ぐことが許されてる! でもな……肝心の『飯』が最悪なんだよ!!」
バルトルトの悲痛な叫びに、ドランがバンッとカウンターを叩いて同調した。
「そうだ! 祭りの広場には何百っていう屋台が出るが、どこもかしこも出してるのはパッサパサに乾いた串焼き肉か、塩を振っただけの豆、あとは酸っぱくて不味いエール(麦酒)ばっかりだ! 俺たちはもう、女将の作る『旨味』の塊みたいな極上のメシと、キンキンに冷えた生ビールの味を知っちまったんだぞ! あんなエサみたいな屋台飯で、一年に一度の祭りを我慢できるわけがねぇだろうが!」
「そうですよぉ! お祭りの雰囲気は最高なのに、ご飯が美味しくないなんて地獄ですぅ! 私、お祭りの広場でも店主さんの美味しいご飯をお腹いっぱい食べたいですぅぅっ!」
ミレイユが涙目で訴えかける。
ファリスもまた、静かに、しかし切実な声で同意した。
「……肉ばかりの屋台など、エルフである私には地獄でしかない。奥様(ベアトリス公爵夫人)もお忍びで祭りを歩くのを楽しみにされているが、出される食事がアレでは、胃を痛められるのが目に見えている。だから、店主……」
四人の視線が、一点に集中する。
「女将! 頼む! 建国祭の広場に、『結』の屋台を出店してくれ!!」
——屋台の出店。
それが、彼らの無茶ぶりの正体であった。
栞は数秒間、ポカンと口を開けたまま瞬きを繰り返し、やがて現状を理解すると、思い切り両腕でバツ印を作った。
「むーりーでーすー!! 絶対に無理! 却下です!」
「なっ、なぜだ女将! 俺たちがこんなに頼んでるのに!」
「なぜだも何もありませんよ! お祭りっていうのはね、尋常じゃない数の人が来るんですよ!? 私一人で何百、何千っていうお客さんの料理を捌き切れるわけがないじゃないですか!」
栞は必死に反論した。
彼女は日本にいた頃、修行先の料亭の親方に連れられて、デパートの催事場や地域のイベントで出張販売の手伝いをした経験があった。それはまさに『戦場』であった。次から次へと押し寄せる客。止まらない注文。休む暇など一秒もなく、油の熱気と煙の中でひたすらに手を動かし続けなければならない過酷な労働。
それを、たった一人で、しかも異世界の一国を挙げての巨大な祭りでやれというのか。自殺行為にもほどがある。
「それに、うちには屋台をやるための『機材』がありません! こんな厨房の小さなコンロじゃ、お祭りの大量の注文には絶対に追いつかないし、そもそもお店の設備を広場に持っていくことなんて物理的に不可能です!」
栞の極めてまっとうな正論に、常連客たちは一瞬言葉を詰まらせた。
しかし、彼らの『結の飯を祭りで食いたい』という執念は、そんな常識の壁で諦められるほど浅いものではなかった。
「……女将。人手が足りないなら、俺たちを手足のように使えばいい」
バルトルトが、ニヤリと不敵に笑って言った。
「なんだと?」
「俺たち第三部隊の非番の連中を、全員お前の屋台の警備と、客の整列、それに力仕事の雑用係として動員してやる! 王都警備隊の統率力があれば、どんな大行列ができようが完璧に捌き切ってみせるぜ!」
「隊長の言う通りだ!」
ドランも身を乗り出した。
「機材がねぇなら、俺がなんとかしてやる! 鉄板が要るなら王都一番の極厚のミスリル混じりの鉄板を打ってやるし、屋台の骨組みだって一日で組み上げてやる! 鍛冶職人の腕を舐めるなよ!」
「私だって手伝います! 火力が足りないなら炎の魔法で火加減を調整しますし、風の魔法でお肉のいい匂いを広場中に拡散させて、お客さんをいーっぱい呼んできますから!」
ミレイユが杖を振り回してアピールする。
最後にファリスが、懐から一枚の羊皮紙を取り出してカウンターに置いた。
「……屋台を出すための『営業許可証』や、場所の確保といった面倒な手続き関係は、すべて公爵家の権限で私が裏から手を回して、一番良い広場の中央を確保しておいた。あとは、店主が『やる』と頷くだけだ」
警備隊の統率力による交通整理。
天才鍛冶職人による機材調達。
魔法使いによる火力と宣伝サポート。
そして、公爵家の権力を使った場所の確保と許可証。
王都アルカディアにおける、物理、魔法、権力のすべてを注ぎ込んだ、前代未聞の『屋台出店サポート体制』が、すでに栞の目の前に完璧な布陣で敷かれていたのである。
「あ、あんたたち……。そこまで周到に準備して……どんだけ私の料理がお祭りで食べたいんですか……」
栞は呆れ果てて、深々とため息をついた。
だが、その呆れの中には、料理人としての純粋な『喜び』も確かに混じっていた。
一年に一度の、彼らにとって最も楽しい晴れ舞台。その場所に、他のどんなご馳走でもなく、自分の作る料理がどうしても必要だと言ってくれているのだ。板前冥利に尽きるという言葉では到底足りないほどの、強烈な信頼と愛情。
(……私一人じゃ絶対に無理だけど。でも、この人たちが本気で手伝ってくれるなら……)
栞の脳裏に、一つの強烈なイメージが湧き上がった。
ファンタジー世界の住人たちが、日本のB級グルメの王道である『屋台飯』を口にした時、果たしてどんな顔をするだろうか。
香ばしく焦げる醤油の匂い。鉄板の上で踊るソースの暴力的な香り。
それは間違いなく、王都の食文化に革命——否、パニックを引き起こすだろう。
「……女将さん。俺たち、どうしても建国祭で、お前の飯を食いながら笑って酒が飲みてぇんだ。頼む」
バルトルトが、静かに、だが熱を込めてもう一度頭を下げた。
栞は、しばらく黙って腕を組んでいたが、やがて顔を上げると、観念したように、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開いた。
「……わかりました。そこまで言われちゃ、料理人として断るわけにはいきませんね」
「お、おおっ!? じゃあ!」
「はい。建国祭の広場で、『小料理屋 結・特設屋台』、やらせていただきます!」
「「「うおおおおおおおおっ!!!」」」
店内が揺れるほどの、大歓声が爆発した。
バルトルトとドランが涙を流して抱き合い、ミレイユがピョンピョンと飛び跳ねている。ファリスもホッと胸を撫で下ろし、微かに微笑んでいた。
「ただし!」
栞がパンッと手を叩いて、彼らを静まらせた。
「やるからには、徹底的にやりますよ! 王都の屋台飯の常識を根底からひっくり返すような、究極の『お祭りメニュー』で勝負します! 皆さんはこれから、私の手足となって死ぬ気で働いてもらいますからね!」
「おう! 望むところだ! で、女将! 何を出すんだ!? やっぱり角煮か!? それとも串カツか!?」
目を輝かせるバルトルトに対し、栞はニヤリと笑って、日本の屋台の絶対的王者の名前を口にした。
「お祭りの屋台といえば、これしかありません。……甘辛いタレが焦げる匂いで客を狂わせる『焼き鳥』と、鉄板の上でソースが踊る『お好み焼き』です!」
「ヤキトリ!? オコノミヤキ!?」
聞き馴染みのない料理名に、四人は首を傾げた。
「ふふっ。百聞は一食にしかず、ですね。ちょうど今、試作用に仕込んでおいたものがあるんです。ちょっと食べてみてください」
栞はコンロの火をつけ、あらかじめ仕込んでおいた『鶏のつくね』の串を網の上に乗せた。
鶏のひき肉に、たっぷりの長ネギと生姜、そして大葉を細かく刻んで混ぜ込み、ふっくらと丸めて串に刺したものだ。
ジュウウゥゥッ。
鶏の脂が網の下に落ち、煙が立ち昇る。
しかし、本当の魔法はここからだ。栞は厨房の奥で長時間コトコトと煮詰めていた、黒褐色のドロリとした液体の入った壺を取り出した。
醤油、みりん、砂糖、酒、そして鶏肉の端材を加えてじっくりと煮詰めた、日本の焼き鳥の魂——『秘伝の甘辛ダレ』である。
栞はこんがりと焼けたつくね串を、その壺の中にドップリと沈め、引き上げた。
タレをたっぷりと纏ったつくねを、再び網の上に戻す。
——ジュワァァァァァァァァッ!!!
「…………ッ!!!」
常連客たちの動きが、ピタリと停止した。
タレの糖分と醤油が熱せられた網に触れ、一瞬で焦げたのだ。
その瞬間に爆発した、甘辛く、暴力的なまでに食欲を刺激する『焦がし醤油』の圧倒的な匂い。それが、換気扇を通ることもなく、ダイレクトに彼らの鼻腔を強打した。
「な、なんだこの匂いはぁぁぁぁっ!!」
バルトルトが両手で頭を抱え、絶叫した。
「甘くて、しょっぱくて、香ばしい! 肉を焼いただけの匂いじゃない! この匂いだけで、麦酒の樽が空になっちまうぞ!!」
「これが……ヤキトリの匂い……! すげぇ、脳みそが溶けそうなくらい美味そうな匂いだ!」
ドランがよだれを垂らしながら身を乗り出す。
「はい、どうぞ」
栞はタレがテリテリに輝く熱々のつくね串を、新鮮な卵の『卵黄』を添えた小皿に乗せて彼らの前に出した。
「この卵の黄身をたっぷりと絡めて、一口で食べてみてください」
バルトルトは震える手で串を持ち、黄金色の卵黄をタレのつくねにたっぷりと擦りつけ、大きく口を開けてかぶりついた。
「…………あああぁぁぁぁっ!!」
咀嚼した瞬間、バルトルトは天を仰いで至福の呻き声を上げた。
ふっくらと柔らかいつくねの食感。中から溢れ出す鶏の旨味と、大葉と生姜の爽やかな風味。
しかし何より彼を打ちのめしたのは、表面に纏った『甘辛ダレ』と『卵黄』の完璧すぎるマリアージュだった。
醤油の塩気と砂糖の甘さが、焦げた香ばしさと共に味覚を蹂躙し、そこに卵黄の圧倒的なコクとまろやかさが加わることで、味が何十倍にも深く、濃厚に変化しているのだ。
噛みしめるたびに、タレの旨味と肉汁が口の中で暴れ回り、今すぐ強烈な酒を流し込みたいという衝動に駆られる。
「う、美味ぇ……! 美味すぎる! なんだこのタレは! 肉の味を極限まで引き上げやがった! こんなもん、広場で焼いたら王都の連中が匂いだけで発狂しちまうぞ!」
「でしょ? これが、私たちが建国祭で出す武器の一つです」
栞は誇らしげに胸を張った。
「お祭りっていうのは、非日常の空間なんです。だから、普段の繊細なお出汁の料理よりも、こういうガツンと味が濃くて、匂いでお客さんを狂わせるような『ジャンクな味付け』が絶対に勝つんですよ」
焼き鳥のタレの破壊力を見せつけられ、四人の常連客の瞳には、建国祭での大勝利を確信する猛烈な炎が灯っていた。
「女将! 機材のことは心配するなと言ったが……その、このヤキトリを大量に焼くためには、どういう道具が必要なんだ?」
ドランが真剣な顔で尋ねる。
栞は腕を組み、ニヤリと笑った。
「ドランさんに作ってもらいたいものもありますが……実を言うと、機材の大部分は『私の故郷』から直接取り寄せようと思っています」
「故郷から?」
「はい。お祭りの屋台を本気でやるなら、プロ仕様の機材が絶対に必要ですからね」
異世界アルカディアの住人たちは知らない。
小料理屋『結』の裏口が、日本の業務用スーパーや問屋街に直接繋がっていることを。
そして、栞がこれから、札束(宝石の換金で得た潤沢な資金)の力を駆使して、日本の最新鋭の屋台機材を裏口から大量に搬入するという、常軌を逸した荒業に出ようとしていることを。
「皆さん、覚悟してくださいね。明日から建国祭までの数日間、寝る間もないくらいの地獄の準備期間が始まりますよ!」
「おう! 望むところだ! 俺たちのオアシスの味を、王都の連中に思い知らせてやろうぜ!」
熱く燃え上がる常連客たち。
建国祭という巨大な舞台に向けて、小料理屋『結』の総力を結集した前代未聞のプロジェクトが、甘辛いタレの匂いと共に、今まさに動き出そうとしていた。
二つの世界を結ぶ境界線の店主は、これまでにない巨大な戦い(お祭り)に向けて、包丁を力強く握り直すのであった。




