第40話:隊長の栄転話と、原点のだし巻き卵
王都アルカディアは、一年で最も底冷えのする厳しい季節を迎えていた。
石畳を覆うように薄っすらと白い霜が降り、日が落ちると同時に吹き荒れる北風は、分厚い外套を貫通して人々の体温を容赦なく奪っていく。街の住人たちは皆、逃げるように家路につき、分厚い扉を閉ざして暖炉の火にしがみついていた。
そんな生命を拒絶するような極寒の夜であっても、裏路地にひっそりと暖簾を掲げる小料理屋『結』の店内だけは、別世界のように暖かな熱気と、出汁の芳醇な香りに満ち溢れていた。
しかし、今夜のカウンターの空気は、いつものような馬鹿騒ぎの喧噪とは少し違っていた。
ドワーフのドランが巨大なジョッキを傾けず、魔法使いのミレイユがご飯のおかわりを要求せず、エルフのファリスが静かに杯を見つめている。
彼らの視線の先、カウンターの中央に陣取っているのは、この店の最古参の常連客であり、王都警備隊第三部隊を率いる隊長、バルトルトであった。
いつもなら「女将、やってるか! 今日も死ぬほど疲れたぜ!」と大声で飛び込んでくる彼が、今夜は店に入ってくるなり、まるで借りてきた猫のように背中を丸め、空になったお猪口を無言で見つめていたのだ。
「……バルトルトさん。お酒、もう一本お燗しましょうか?」
真っ白な割烹着に身を包んだ店主の藤原栞が、心配そうに声をかける。
バルトルトはハッと顔を上げ、曖昧な笑みを浮かべた。
「あ、ああ……すまねぇ女将。頼む。なんだか今日は、酒の回りが遅くてな」
「珍しいですね、隊長さんがそんなに静かなんて。部下の皆さんと何かあったんですか?」
栞が酒燗器に新しい徳利をセットしながら尋ねると、バルトルトは大きな手で顔を覆い、深々と、それはもう店内の空気を一気に重くするような深い溜息を吐き出した。
「……実はな。今日、上層部から呼び出しを食らったんだ」
バルトルトのその重苦しい声に、横で聞いていたドランがピクリと反応した。
「おいおい、騎士の旦那。まさかクビか? それとも左遷か? 何かデカいヘマでもやらかしたのか?」
「……逆だ」
「逆?」
「栄転の話を持ちかけられたんだよ。現場の第三部隊の隊長を外れて、王城の内部、中枢の警備を統括する『近衛騎士団・副団長』の椅子に座らないかってな」
その言葉に、店内の時が止まった。
近衛騎士団の副団長。それは、泥にまみれて路地裏や下水道を走り回る下っ端の警備隊長とは、天と地ほども違う雲の上の階級だ。給料は跳ね上がり、雨風に晒されることもなく、城の奥深くの安全で暖かい執務室で、優雅に指揮を執るだけの仕事。
王都で剣を振るう者であれば、誰もが憧れ、這い上がろうとする究極の出世コースである。
「す、すごいじゃないですか隊長! 大出世ですよ!」
ミレイユが身を乗り出して歓声を上げた。
「お給料がたくさんもらえるなら、このお店の美味しいお料理も毎日食べ放題ですね! 私の分も奢ってくださいよ!」
「……ミレイユ。そう簡単な話ではないぞ」
ファリスが静かに、冷や水を浴びせるように言った。
「近衛騎士団の中枢に入れば、当然ながら貴族たちの政治闘争に巻き込まれる。毎晩のように城の晩餐会や会議に出席を求められ、自由な時間など一切なくなる。……つまり、フラリとこんな路地裏の店に立ち寄るような真似は、二度と許されなくなるということだ。身分が違うからな」
「えっ……」
ミレイユが息を呑み、ドランも黙り込んだ。
バルトルトは力なく頷いた。
「エルフの嬢ちゃんの言う通りだ。近衛になれば、俺はもう『現場の人間』ではなくなる。馬鹿で手のかかるクラウスやマルコたちの面倒を見てやることもできなくなるし、何より……」
バルトルトは、カウンターの木目を愛おしそうに撫でた。
「毎晩のようにこの店に通って、お前らと馬鹿話をしながら女将の美味い飯を食う。この、俺にとって一番大切な『オアシス』を失うことになるんだ」
出世と引き換えに、現場の仲間と、この温かい居場所を捨てる。
それが、彼を深く悩ませている原因だった。
「だったら断ればいいじゃねぇか! アンタは城の奥に引っ込んでるようなタマじゃねぇだろうが!」
ドランが声を荒げるが、バルトルトは苦しげに首を振った。
「……俺だって、今年で四十二だ。いつまでも若い連中と同じように、最前線で剣を振るって魔物を斬り伏せる体力が続くわけじゃねぇ。それに、俺が近衛に入って権力を持てば、現場で苦労してる部下たちの待遇を、上から引き上げてやることもできる。……頭じゃわかってるんだ。俺がこの話を受けるのが、部下たちのためにも、自分の将来のためにも一番正しい選択だってことくらいな」
バルトルトの言葉には、抗いようのない大人の現実と、哀愁が滲んでいた。
現場への未練と、オアシスを失う寂しさ。そして、中間管理職として部下の未来を切り開くための自己犠牲。
その板挟みになって、彼の心は完全に迷子になっていたのだ。
「……バルトルトさん」
ずっと黙って話を聞いていた栞が、静かに口を開いた。
「難しいお話は、一旦お休みにしましょう。お酒、温まりましたよ。……今日は、私がバルトルトさんのために『特別なお料理』を作ります」
「女将……特別なお料理?」
「はい。バルトルトさんが、初めてこのお店の暖簾をくぐってくれた日のことを、覚えていますか?」
栞の言葉に、バルトルトはハッとして目を見開いた。
忘れられるはずがない。
度重なる魔物討伐と、上司からの無茶振り。心身ともに限界を迎え、ボロボロになって路地裏を彷徨っていた時、偶然見つけたこの不思議な小料理屋。
あの時、死にそうな顔をしていた自分に、この若い女将が出してくれた料理の味を。
「……ああ。忘れるもんか。俺はあの飯を食って、魂を救われたんだからな」
「ふふっ。では、今日は原点回帰です」
栞はコンロの火をつけ、使い込まれた銅製の卵焼き器を取り出した。
ボウルに新鮮な卵を割り入れ、菜箸で白身のコシを切りながら空気を入れないように溶きほぐす。
「あの時は、私もまだ異世界のお客さんがどんな味付けを好むかわからなくて、すごく手探りで作ったんですよ。でも、今は違います」
栞が卵液に合わせるのは、黄金色に輝く極上の『一番出汁』だ。
利尻昆布の最高級品と、本枯れ節。それらを、あの開店初日とは全く違う、はるかに研ぎ澄まされた温度管理と時間調整で引いた、栞の十年間の修業の結晶にして、現在進行形で進化し続けている至高のスープである。
さらに、薄口醤油と本みりんをほんの数滴だけ垂らし、味の輪郭をミリ単位で整える。
——ジュワァァァァッ!
熱した卵焼き器に油を引き、卵液を流し込んだ瞬間。
あの初日と同じ、否、あの日よりも遥かに芳醇で、深く、暴力的ですらある強烈な『出汁の香り』が厨房を越えて店内に爆発した。
「うおっ……! なんだ、この凄まじい匂いは!」
ドランが思わず身を乗り出す。
栞の手首が、舞いのようにしなやかに躍動する。卵焼き器をリズミカルに煽り、気泡を潰し、半熟のトロトロの層を何度も何度も折りたたんでいく。
出汁の割合が限界まで多いため、普通の料理人であれば巻くことすら不可能なほど柔らかい卵液。それを、栞は寸分の狂いもなく、完璧な黄金色の長方形のブロックへと巻き上げていく。
ジュッ、クルッ。ジュッ、クルッ。
小気味良い音が鳴るたびに、卵の中に熱々の出汁が何層にもわたって閉じ込められていく。
「お待たせしました」
栞は、湯気を立てる完璧な黄金色のブロックを切り分け、漆黒の皿に美しく盛り付けた。傍らには、雪のように真っ白な大根おろしを添える。
そして、きっかり四十五度の『上燗』に温められた純米酒の徳利とお猪口を、バルトルトの前にそっと置いた。
「当店特製、原点の『だし巻き卵』と『熱燗』です」
あの日の夜と、全く同じメニュー。
しかし、目の前に置かれただし巻き卵が放つオーラは、明らかにあの日のものとは違っていた。表面はどこまでも滑らかで、プルプルと艶かしく震え、断面からは限界まで抱え込まれた琥珀色の出汁がジュワリと滲み出している。
「……いただくぜ」
バルトルトは震える手で箸を持ち、だし巻き卵を大きく切り取った。
あの日の記憶が蘇る。異世界の香辛料と塩焼きしかない大味な食文化で育った自分が、初めて『和食』という未知の文化に触れた瞬間。
バルトルトは、大根おろしを乗せた黄金色の塊を、静かに口の中へと運んだ。
「…………ッ!!!」
次の瞬間、バルトルトの脳髄を、雷のような衝撃が突き抜けた。
咀嚼する必要などなかった。舌の上に触れた瞬間、だし巻き卵はまるで雲のようにフワリとほどけ、中に閉じ込められていた熱々の出汁が、滝のように口内へと雪崩を打って溢れ出したのだ。
旨い。ただひたすらに、旨い。
しかし、あの日食べた味とは違う。
あの日感じた感動を遥かに凌駕する、圧倒的な『深み』と『透明感』がそこにあったのだ。
昆布の包容力のある甘みと、鰹節の力強い風味が、雑味を一切伴うことなく、極限まで澄み切った状態で味覚を支配する。卵の濃厚なコクと、出汁の旨味。それが信じられないほどの高い次元で完全に調和し、一つの芸術作品として完成されていた。
口の中を火傷しそうになりながら、バルトルトはすぐさま熱燗をあおった。
——キュッ。
温かい純米酒の米の甘みが、だし巻き卵の出汁の余韻を優しく包み込み、食道を滑り落ちていく。その圧倒的な美味さと温もりが、迷いと疲労で凍りついていたバルトルトの五臓六腑を、芯からジンジンと溶かしていくのがわかった。
「……女将。こいつは……」
バルトルトの瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
悲しいわけではない。あまりの美味さと、その奥に込められた栞のメッセージに気づき、魂が震えたのだ。
「あの日食っただし巻き卵と、形は同じだが……味が全然違う。出汁の旨味が、信じられないくらい深くなって、それでいて研ぎ澄まされてる。……お前、俺たちに毎日美味い飯を食わせながら、裏でずっと腕を磨き続けていたんだな」
バルトルトの言葉に、栞は割烹着のシワを伸ばし、誇らしげに微笑んだ。
「ええ。同じ『だし巻き卵』でも、昨日と同じものを出していては、お客さんにはいつか飽きられてしまいます。昆布の浸水時間を変えてみたり、鰹節の削り方を調整したり、卵の火入れの温度をコンマ一秒単位で見直したり。……一見すると同じように見える現場の仕事でも、その中には無限の『進化』と『成長』の余地が隠されているんです」
栞の言葉が、バルトルトの胸に深く、熱く突き刺さった。
『一見すると同じように見える現場の仕事でも、無限の進化の余地がある』
自分は、現場での仕事はもうやり尽くした、これ以上体力も続かないし成長もないと、勝手に限界を決めて逃げようとしていたのではないか。
だが、この目の前の若い女将はどうだ。毎日同じカウンターに立ち、同じメニューを作り続けながらも、決して現状に満足せず、見えないところでミリ単位の努力を重ね、確実な進化を遂げている。
同じ場所にとどまることは、決して停滞ではない。そこからさらに深く根を張り、味を極めていくこともできるのだと、彼女は料理を通して教えてくれたのだ。
「……ははっ。はははははっ!」
バルトルトは突然、大声で笑い出した。
目から涙を流しながら、腹の底から湧き上がるような豪快な笑い声を、店内に響き渡らせた。
「隊長……?」
「いや、悪い。俺が馬鹿だった。完全に目が覚めたぜ!」
バルトルトは残りのだし巻き卵を一口で放り込み、熱燗を最後の一滴まで飲み干すと、バンッ! と力強くカウンターを叩いて立ち上がった。
「出世して城の奥に引っ込むなんて、俺の柄じゃねぇ! 俺にはまだ、現場で泥にまみれながら、この剣と身体で守らなきゃならねぇ馬鹿な部下たちがいる! そして何より……」
バルトルトは、カウンターに並ぶ常連客たちと、栞の顔を順に見渡した。
「女将のこの進化し続ける極上の飯と、このオアシスを失ってまで欲しい地位なんか、この世のどこにもねぇってことに気づいちまったからな!」
その宣言に、店内が数秒の沈黙に包まれ。
次の瞬間、爆発的な歓声が沸き起こった。
「やったぁぁぁっ! 隊長、それでこそ私たちの隊長ですぅぅっ!」
「おうおう! やっぱり騎士の旦那は、泥臭く現場を走ってる方が似合ってるぜ!」
「……ふっ。愚かな選択だが、貴様らしくて良いのではないか。共にこのオアシスの酒を飲み交わす腐れ縁が消えなくて、私も少しだけ安心した」
ミレイユ、ドラン、ファリスが、口々にバルトルトの決断を祝福する。
「お前ら、心配かけちまって悪かったな! 俺はまだまだ、現場でもう少し汗を流すさ! 俺自身の『出汁』をもっと深く、研ぎ澄ませていくためにな!」
バルトルトは満面の笑みを浮かべ、空になったお猪口を突き出した。
「女将! 熱燗のおかわりだ! 今日は俺の『出世を蹴っ飛ばした記念』の祝杯だ! 全員にキンキンに冷えた酒を振る舞ってやってくれ!」
「はいっ! 喜んで!」
栞は最高の板前の笑顔を浮かべ、冷蔵庫からとびきり美味しい日本酒の瓶を何本も取り出した。
栄転という誘惑を蹴り飛ばし、己の原点とオアシスを守ることを選んだ男。
その決断を祝福するかのように、小料理屋『結』の店内は、いつにも増して熱い熱気と、出汁の香りと、種族を超えた仲間たちの高らかな乾杯の音色に包まれていた。
外の極寒の夜風など、この小さな境界線の店には一切届かない。
進化し続ける極上の料理と、決して変わらない温かい絆が、今日も疲れた誰かの背中を力強く押し続けているのであった。




