第32話:スランプのドワーフと、鯵のなめろう三段活用
王都アルカディアの空に、無数の星々が瞬く夜。
路地裏にひっそりと灯りをともす小料理屋『結』の店内は、いつになく静かな空気に包まれていた。
普段であれば、王都警備隊のバルトルトたちが一日の愚痴をこぼしながら杯を交わし、魔法使いのミレイユがご飯のおかわりを要求して騒ぎ立てている時間である。だが、今夜は彼らの姿はなく、カウンターにはただ一人の客だけがぽつんと座っていた。
百五十歳を超えるドワーフの鍛冶職人、ドランである。
いつもなら、席に着くなり「女将! キンキンに冷えた生ビールを大ジョッキで頼むぜ! あと脂っこい揚げ物を山盛りだ!」と腹の底から響くような大声で注文するはずの彼が、今夜はまるで借りてきた猫のように背中を丸め、ため息をつきながら、小さなコップに注がれたビールをちびちびと舐めているだけだった。
「……はぁ。ダメだ。全然、いいアイデアが浮かばねぇ」
赤茶色の立派な髭を撫でつけながら、ドランは何度目かわからない深い溜息を漏らした。
厨房の奥で小鉢の仕込みをしていた店主の藤原栞は、その様子を見て心配そうに手を止めた。真っ白な割烹着で手を拭きながら、カウンター越しに声をかける。
「ドランさん、どうしたんですか? いつもの豪快な飲みっぷりがないじゃないですか。お体の具合でも悪いんですか?」
「……いや、体はどこも悪かねぇ。ただ、ちっとばかし『スランプ』ってやつになっちまったみたいでな」
ドランは太い指でビールのグラスを弄りながら、自嘲気味に笑った。
「俺ぁ、百五十年以上、毎日毎日炉の前に立って、鉄を叩き続けてきた。剣、槍、斧、盾……ありとあらゆる武具を打ってきたし、王都の騎士団からも指名を受けるくらいの腕はあるつもりだった。……でもな、最近、自分が打つ剣に『新しさ』が全く感じられねぇんだよ」
鍛冶職人としての、深い苦悩。
「同じ鉄という素材を、同じように熱して、同じように叩く。出来上がるのは、確かに切れ味はいいが、どこかで見たことのあるような平凡な剣ばかりだ。素材の持つ限界にぶち当たっちまったというか……同じ素材ばかり扱ってると、もうこれ以上、新しい形や力を引き出せねぇんじゃないかって、行き詰まっちまってな。……酒も飯も、喉を通らねぇんだ」
ドワーフにとって、武具を打つことは生きることそのものだ。その情熱が停滞しているのだから、元気が出ないのも無理はない。
栞は、じっとドランの話に耳を傾けていた。
同じ素材ばかりを扱っていると、視点が固定化され、新しい発想が生まれなくなる。その職人としての壁の高さは、料理人である栞にも痛いほどよくわかった。
だからこそ、彼女はニコリと明るく微笑んでみせた。
「なるほど。同じ素材だから、同じものしか作れないと思い込んじゃってるんですね」
「……ああ。鉄は鉄だ。どんなに叩いても、金やミスリルに変わるわけじゃねぇからな」
「じゃあ、ドランさん。今日は私から、ちょっとした『職人の魔法』をお見せしますよ」
栞はそう言うと、厨房の奥にある最新型の業務用冷蔵庫へと向かった。
「同じ一つの素材でも、職人の『見方』と『技術』一つで、全く違う三つの顔を引き出すことができる。和食の奥深さを、その舌で味わってみてください」
栞が冷蔵庫のチルド室から取り出してきたのは、日本の市場で仕入れたばかりの、丸々と太った新鮮な『鯵』だった。
背中は青光りし、目は澄んでいて、今にも跳ね出しそうなほどの鮮度を保っている。
「魚か。確かに美味そうだが、刺身にするか焼くかくらいしかねぇだろ?」
ドランが不思議そうに首を傾げる中、栞はドランが打ってくれたミスリル製の包丁を手に取った。
「よく見ててくださいね。まずは、この鯵という素材の『第一の形』です」
栞の包丁さばきは、まさに神業であった。
ゼイゴと呼ばれる硬いウロコを一瞬で削ぎ落とし、頭を落として内臓を抜く。水で綺麗に洗い流した後、三枚におろし、腹骨をすき、専用の骨抜きで中骨を一本残らず丁寧に抜き取っていく。
ここまでは、ただのお刺身の準備だ。しかし、ここからが違う。
栞は皮を剥いだ鯵の身をまな板の上に置き、二本の包丁を両手に構えた。
そして、鯵の身に向かって、リズミカルに包丁を振り下ろし始めたのだ。
——トトトトトトトッ! トントン、トトトトッ!
厨房内に、小気味良い包丁の音が響き渡る。
栞は鯵の身を細かく細かく刻み、さらに叩いていく。ある程度身が細かくなったところで、そこに日本の味噌(合わせ味噌)をたっぷりと加え、さらにみじん切りにした長ネギ、おろしたての生姜、そして香りの強い大葉をちぎって投入した。
それらをすべて巻き込むようにして、さらに包丁で叩く。叩いて、混ぜて、また叩く。
鯵の身のタンパク質が壊れ、味噌の塩分と混ざり合うことで、徐々に強い『粘り気』が出てくる。まな板の上の鯵は、もはや魚の切り身ではなく、ねっとりとしたペースト状の何かへと姿を変えていた。
味噌の香ばしさと、薬味の鮮烈な香りが、魚の生臭さを完全に打ち消し、食欲を刺激する暴力的な匂いとなってドランの鼻腔をくすぐる。
「はい、お待たせしました。これが鯵の第一形態……日本の漁師料理、『なめろう』です」
栞は、大葉を敷いた小皿の上に、そのねっとりとしたペーストを小高く盛り付けてドランの前に出した。
「なめろう? 皿を舐めたくなるほど美味いから、そう呼ばれてるらしいですよ。そのまま箸で少しずつ摘んで、お酒と一緒に食べてみてください」
ドランは半信半疑のまま、箸の先でなめろうを少しだけすくい取り、口の中へと入れた。
「…………ッ!!!」
ドランの目が、驚愕に見開かれた。
ねっとりとした舌触り。しかし、噛めば新鮮な鯵のプリプリとした身の食感が微かに残っている。そして何より、鯵の強烈な旨味が、味噌のコクと塩気によって極限まで引き出され、ネギと生姜の爽やかなパンチが脳髄を揺さぶるのだ。
魚を生で叩き潰し、味をつける。たったそれだけのことで、ただの刺身とは全く次元の違う、濃厚で悪魔的な『酒の肴』が誕生していた。
「う、うめぇ……! なんだこれ、味が濃くて、生魚なのに全然生臭くねぇ! それに、このねっとりとした食感がたまらねぇ!」
ドランはたまらず、目の前にあった生ビールをグビグビと煽った。
なめろうの強烈な旨味を、ビールの炭酸と苦味がスカッと洗い流し、すぐさま次の一口を強烈に要求してくる。無限ループの完成である。
「うおぉぉっ! これだけでビール樽が空になっちまうぞ! 女将、すげぇな! 魚を叩くだけでこんな形になるなんて!」
「ふふっ。でも、驚くのはまだ早いですよ」
ドランがなめろうを半分ほど食べたところで、栞はスッとその小皿を取り上げた。
「えっ!? お、おい女将! まだ半分残ってるぞ!」
「ここからが『第二の形』です。素材の見方を、ほんの少しだけ変えてみましょうか」
栞は、残ったなめろうをまな板の上に戻し、それを二枚の大葉の裏側に、平たく塗りつけるようにして貼り付けた。
そして、コンロに置かれた鉄のフライパンを強火で熱し、ごま油を薄く引く。
そこへ、大葉に貼り付けたなめろうを、肉の面を下にしてジュワッと押し付けたのだ。
——ジューーーーーッ!!!
凄まじい音と共に、ごま油の香ばしさと、何より『味噌が焦げる匂い』が爆発的に厨房を覆い尽くした。
「な、なにっ!? 生のまま食ってたやつを、今度は焼くのか!?」
ドランが身を乗り出す。
数十秒後、栞はフライパンの中でそれをひっくり返した。大葉は鮮やかな緑色を残したままパリッと焼き上がり、肉の面にはこんがりと美しいキツネ色の焼き目がついている。
「完成です。これが鯵の第二形態……千葉県の郷土料理、『さんが焼き』です」
熱々のさんが焼きが、ドランの前に置かれた。
先ほどまでの生のねっとり感は消え失せ、まるで小さなハンバーグのような見た目に変わっている。
「熱いうちに、一口でいっちゃってください」
ドランは促されるまま、香ばしく焼かれたさんが焼きを箸でつまみ、口の中に放り込んだ。
「…………おおおおおっ!!?」
ドランは思わず立ち上がり、両手で頬を押さえた。
噛んだ瞬間、パリッとした大葉の食感と共に、中から熱々の『肉汁』がジュワァァッと溢れ出したのだ。
先ほどまで生のペーストだったものが、火を通されたことでギュッと身を縮め、まるで極上の肉料理のようなフワフワでジューシーな食感へと変化している。
さらに、焼かれたことで味噌の香ばしさが何十倍にも増幅され、生姜やネギの風味が熱に乗って鼻腔を突き抜けていく。
「ま、全く違う! さっきの『なめろう』とは別の料理だ! 火を通しただけで、ここまで食感も香りも変化するのか!? 生魚の旨さが、完全に肉の旨さに化けやがった!」
「同じ素材でも、熱の加え方一つで全く違う顔を見せる。それが料理の面白いところなんです」
ドランはあまりの美味さと驚きに、さんが焼きを噛み締めながら生ビールを一瞬で飲み干してしまった。
「すごいぜ女将……。俺の負けだ。同じ鯵でも、生と焼きでここまで変わるんだな」
「まだですよ、ドランさん。今日は『三段活用』って言ったじゃないですか」
栞の目が、いたずらっぽく光った。
「まだ、もう一欠片だけ、さんが焼きが残っていますよね。それが『第三の形』への鍵です」
栞は、小さな漆塗りの丼を用意し、そこに炊きたての熱々のご飯を少しだけよそった。
そして、ドランの皿に残っていた最後の一口分のさんが焼きを、そのご飯の上に乗せる。さらに、白ごま、刻み海苔、そして少量の本わさびを添えた。
「さあ、総仕上げです」
栞は、厨房の奥で熱々に熱しておいた、利尻昆布と本枯れ節の『極上の一番出汁』が入った急須を持ってきた。
そして、ご飯の上に乗ったさんが焼きに向かって、その黄金色の出汁を、湯気を立てながらたっぷりと回しかけたのだ。
——チョロチョロチョロ……。
熱い出汁がさんが焼きに触れた瞬間、凝縮されていた味噌と鯵の旨味が、一気にスープの中へと溶け出し始めた。
透明だった出汁が、ほんのりと白濁した琥珀色へと変わり、海と大地のすべての旨味を濃縮したような、究極の香りが立ち昇る。
「お待たせしました。これが鯵の最終形態……『孫茶漬け(まごちゃづけ)』です。少し崩しながら、出汁と一緒にご飯をサラサラッと書き込んでください」
ドランは、無言で丼を両手で包み込んだ。
丼から伝わってくる温もり。そして、鼻をくすぐる圧倒的な出汁と焼けた味噌の匂い。
ドランはわさびを少し溶かし、さんが焼きを箸で崩しながら、ご飯と共に出汁をすすり込んだ。
「…………あぁ」
ドワーフの巨体から、魂が抜けるような深い深い吐息が漏れた。
旨味の暴力だった。
焼かれて香ばしさを増した鯵と味噌の風味が、熱い一番出汁の中に完全に溶け出し、極上の即席スープを生み出している。
それが、ご飯の甘みと絡み合いながら、喉の奥へと滑り落ちていく。わさびの清涼感が、濃厚な旨味の後にスッと一陣の風を吹かせ、口の中を完璧にリセットしてくれる。
生で食べ、焼いて食べ、最後は出汁をかけて汁物として食べる。
一つの素材が、三度の全く異なる絶頂を迎え、食べる者の心と胃袋を完全に満たし尽くす。
冷えたビールで疲れた胃に、この温かくて優しい出汁の旨味は、まさに究極の『シメ』であった。
「……美味ぇ。美味すぎる。腹の底から、力が湧き上がってくるのがわかるぜ……」
ドランは丼に口をつけ、最後の一滴の出汁までズズズッと飲み干した。
空になった丼を置き、彼は深く目を閉じた。
その脳裏に浮かんでいるのは、先ほどまで彼が嘆いていた『鉄』という素材のことだった。
「……そうか」
ドランが、ゆっくりと目を開けた。
その瞳には、先ほどまでの絶望や停滞の色は微塵もなく、燃え盛る炉の炎のような、職人としての猛烈な熱の光が宿っていた。
「同じ素材でも、見方一つだ。叩くだけが能じゃねぇ。違う素材と混ぜ合わせたり、熱の加え方を変えたり、あるいは水(出汁)で冷やすタイミングを変えたり……。やり方は、工夫次第で無限にあるんだ」
ドランは立ち上がり、バンッ! と力強くカウンターを叩いた。
「俺は、鉄という素材の限界を勝手に決めつけていた。だが、女将のこの鯵の料理を見てわかったぜ! 鉄には、まだまだ引き出せる『新しい形』が眠っている! 俺の技術が、まだそこまで追いついていなかっただけだ!」
ドワーフの鍛冶職人は、完全にスランプから抜け出していた。
己の前に立ちはだかっていた見えない壁を、日本の『なめろうの三段活用』が見事に粉砕してくれたのだ。
「ありがとうよ、女将! 最高の料理と、最高のヒントをもらったぜ!」
ドランはカウンターに金貨を叩きつけるように置くと、ものすごい勢いで店の引き戸へと向かった。
「ドランさん、もう帰っちゃうんですか? まだ夜はこれからですよ!」
「バカ言え! こんなすげぇインスピレーションをもらって、酒なんか飲んでる暇はねぇ! 今すぐ炉に火を入れて、俺の最高傑作の剣を打ち直してやる!」
ガラガラガラッ! ピシャァァンッ!!
嵐のように店を飛び出していくドランの背中を見送りながら、栞はポカンとした後、クスクスと楽しそうに笑い声を立てた。
「ふふっ。美味しいものを食べれば、どんなスランプだって吹き飛んじゃうよね」
カウンターに残された、綺麗に空になった小皿と丼。
それは、日本の和食が持つ『素材を活かす無限の可能性』が、異世界の職人の魂に火をつけた何よりの証拠であった。
誰もいなくなった静かな店内で、栞は次のお客さんのために、ゆっくりと出汁の火加減を調整し始めた。
王都アルカディアの夜は、まだまだ長い。小料理屋『結』は、今日も疲れた誰かの背中を、美味しいご飯でそっと押し続けている。




