第33話:水と油の派閥争いと、仲良し二色鍋
王都アルカディアに本格的な冬が到来し、石畳を吹き抜ける風が肌を刺すように冷たくなったある日の夕刻。
王都警備隊第三部隊の詰め所には、外の寒空とは対極にある、今にも爆発しそうなほど熱く、そして険悪な空気が充満していた。
「だから言っているだろう、レオン! 貴様のその無計画な突撃が、部隊全体の陣形を崩す原因になっているのだ! 昨日の魔物討伐でも、あと数秒支援魔法の展開が遅れていたら、貴様の部隊は全滅していたかもしれないんだぞ!」
「うるせぇな、フェリックス! お前ら後方支援組がチンタラと魔法の準備なんかしてるから、魔物に逃げられる隙を与えちまうんだろうが! 前線ってのはな、勢いと突破力がすべてなんだよ! 机上の空論ばかり並べて、剣の一つも振らねぇ奴が偉そうに指示出ししてんじゃねぇ!」
執務室の中央で、二人の若き騎士が今にも取っ組み合いの喧嘩を始めんばかりの勢いで睨み合っていた。
一人は、燃えるような赤い髪と屈強な体躯を持つ、前衛・突撃班のリーダーであるレオン。
もう一人は、銀色の髪を几帳面に切り揃え、常に冷静沈着な後方・戦術支援班のリーダーであるフェリックス。
この二人は、第三部隊における若手の双璧と呼べるほど優秀な騎士であったが、その性格と戦術思想はまさに『水と油』であった。圧倒的な武力で正面突破を図る武闘派のレオンと、緻密な計算と魔法支援で被害を最小限に抑えようとする知性派のフェリックス。
彼ら二人の対立は、そのまま部隊内の若手隊員たちを二分する『派閥争い』へと発展しており、最近では訓練中はおろか、食堂や休憩時間においてすら互いの派閥が険悪な視線を飛ばし合うという、部隊の連帯を揺るがす深刻な事態に陥っていた。
「俺たちが最前線で命を張って血を流してるから、お前らは安全な後ろで魔法を撃っていられるんだろうが!」
「野蛮な力任せの戦い方しかできない猪が。私たちの戦術と防壁魔法がなければ、貴様らなどただの肉の壁ではないか!」
「なんだと、もういっぺん言ってみろこの野郎!」
「事実を述べたまでだ。かかってくるなら相手になるぞ」
二人が互いの胸ぐらを掴み、今まさに拳が振り上げられようとした、その瞬間。
——ドンッ!!!!
執務室の空気を震わせるほどの凄まじい音が響き渡った。
部隊長であるバルトルトが、自身のデスクを拳で粉砕せんばかりの勢いで叩き割った音だった。
「……てめぇら。いい加減にしろよ」
バルトルトの額には、怒りの青筋がくっきりと浮かび上がっていた。中間管理職としてただでさえ上層部からのストレスで胃を痛めているというのに、頼みの綱である若手のエース二人が毎日毎日、顔を合わせるたびにいがみ合っているのだ。
「た、隊長……! ですが、こいつのやり方では……」
「黙れ。どっちの言い分も聞き飽きた」
バルトルトは立ち上がり、巨大な影で二人を威圧した。
「お前ら、今日の業務はここまでだ。剣を置いて、今すぐ俺についてこい」
「えっ? ついてこいって、どこへですか?」
「問答無用だ。お前らみたいな血の気の多い馬鹿と、頭の硬い馬鹿を黙らせるには、あそこに行くしかねぇんだよ」
バルトルトは二人の首根っこを掴むと、詰め所の外へ、凍てつく王都の路地裏へと強引に引きずり出していった。
***
冷たい木枯らしが吹き荒れる中、バルトルトに連れられて二人の若き騎士が辿り着いたのは、裏路地にひっそりと佇む小さな木造の建物だった。
藍色の暖簾が風に揺れ、そこからは得体の知れない、しかし抗いがたいほどに食欲をそそる香ばしい匂いが漏れ出している。
「隊長、ここは……?」
「酒場、ですか? 我々はまだ勤務明けの報告書も提出していないのですが……」
「いいから入れ」
バルトルトが引き戸を開ける。
カラン、コロン。
「いらっしゃいませーっ! あ、バルトルトさん! 今日はお連れ様がいらっしゃるんですね」
店内に踏み込んだレオンとフェリックスを出迎えたのは、真っ白な衣服(割烹着)に身を包んだ、黒髪の美しい人間の娘だった。
外の凍えるような寒さが嘘のように、店内は温かく、清浄な空気に満ちている。
「おう女将。こいつらはうちの部隊の若手のエースなんだがな……どうにもソリが合わなくて、毎日毎日いがみ合って部隊の空気を悪くしてやがるんだ」
バルトルトは二人をカウンターの席に無理やり座らせ、深くため息をついた。
「女将、俺はもうこいつらの喧嘩の仲裁で胃に穴が空きそうなんだ。何か、この水と油みたいに交わらねぇ馬鹿二人の目を覚まさせて、黙って仲良くメシを食わせるような、魔法みたいな料理はねぇか?」
無茶振りもいいところである。
しかし、店主である藤原栞は、困った顔をするどころか、カウンター越しにレオンとフェリックスの様子をじっと観察し、ふわりと優しく微笑んだ。
レオンは腕を組み、そっぽを向いて不機嫌そうに舌打ちをしている。フェリックスもまた、レオンとは逆の方向を向き、冷ややかな視線を壁に向けている。見事なまでに正反対の二人。まさに、決して交わることのない水と油だ。
「……なるほど。お互いのことが気に食わなくて、絶対に相容れないと思っているんですね」
栞はクスリと笑い、割烹着の袖をまくり上げた。
「わかりました。そんなお二人には、この冷え切った夜にぴったりの、最高に温まる『お鍋』をご用意しましょう。少しだけ、待っていてくださいね」
栞は厨房の奥へと向かい、日本の業務用機器が並ぶスペースから、ある特製の鍋を取り出してきた。
それは、真ん中がゆるやかなS字型の金属板で仕切られ、二つの空間に完全に分かれている、特殊な形状をした『二色鍋(火鍋用の陰陽鍋)』であった。
「水と油。正反対の個性。……それなら、無理に混ぜ合わせる必要はないわ。それぞれの良さを極限まで引き出して、同じ鍋の中で共存させればいいんだから」
栞は二つのスープの仕込みを同時に開始した。
まず片方の仕切りには、燃え上がるような『赤』のスープ。
ベースとなるのは、鶏ガラと豚骨をじっくりと煮込んだ濃厚な白湯スープだ。そこへ、日本の豆板醤とコチュジャンをたっぷりと溶かし込み、刻んだニンニク、生姜、そして強烈な辛味を持つ赤い乾燥唐辛子を丸ごと何本も投入する。さらに、味の決め手として、舌を痺れさせるような爽快な刺激を持つ『花椒』をひとつまみ。
火にかけると、真っ赤なスープがマグマのようにグラグラと沸き立ち、目に染みるほどの強烈なスパイスの香りと、闘争本能を直接殴りつけるような暴力的なまでの『辛味の匂い』が厨房に立ち昇った。
そして、もう片方の仕切りには、純白の『白』のスープ。
こちらのベースは、栞の最大の武器である、利尻昆布と本枯れ節から引いた極上の『一番出汁』である。その透き通った黄金の出汁に、大豆の甘みと栄養がたっぷりと詰まった濃厚な『無調整豆乳』をなみなみと注ぎ込む。味付けは、白味噌と少量の薄口醤油、そしてすり潰した白ごまのみ。
こちらは赤いスープとは対極的に、沸騰させないように極弱火でゆっくりと温めていく。立ち昇る湯気からは、大豆のまろやかで優しい甘い香りと、鰹節の奥深い海の香りが漂い、嗅ぐ者の心を聖母のように優しく包み込んでいく。
「スープは完璧ね。次はお肉とお野菜」
栞は最新型の冷蔵庫から、美しいサシの入った異世界の豚肉(オーク肉)のブロックを取り出し、ドラン特製のミスリル包丁で、向こう側が透けて見えるほどの極薄にスライスしていく。
さらに、たっぷりの白菜、ネギ、エノキやシイタケといったキノコ類、そして絹ごし豆腐を大皿に美しく、山のように盛り付けた。
「お待たせいたしました」
栞は、カウンターの上に携帯用の魔導コンロ(日本のカセットコンロ)をセットし、その上に二つのスープが波打つ二色鍋をドンと置いた。
続いて、山盛りの肉と野菜の皿が運ばれてくる。
「……なんだ、この鍋は? 真ん中で真っ二つに分かれているじゃないか」
フェリックスが、眼鏡の奥の目を丸くして尋ねた。
「ええ。当店特製、『仲良し二色鍋』です。向かって右側は、数種類のスパイスと唐辛子を効かせた、燃えるように辛い『激辛火鍋風スープ』。左側は、お出汁と豆乳を合わせた、まろやかで優しい『特製豆乳スープ』になっています」
栞はニッコリと笑って、二人それぞれに取り皿とトングを渡した。
「一つの鍋で、全く違う二つの味が楽しめるんです。お肉やお野菜を、好きな方のスープにしゃぶしゃぶっとくぐらせて、火が通ったら食べてみてください」
「ふんっ。俺はこっちの、真っ赤なスープ一択だな。戦士たるもの、こういう刺激の強いものを食わねぇと気合が入らねぇ」
レオンは迷うことなく、トングで薄切りの肉を掴み、マグマのように沸き立つ赤いスープの中に放り込んだ。
数秒で肉に火が通り、赤いスパイスをたっぷりと纏った肉を引き上げる。それを、フーフーと息を吹きかけてから、一気に口の中へと放り込んだ。
「…………ッ!!!」
レオンの瞳孔が、極限まで見開かれた。
口の中に入れた瞬間、爆発的な『辛さ』が舌を襲った。豆板醤のコクのある辛味、唐辛子の突き刺さるような熱、そして花椒のビリビリとした痺れ。それらが一丸となって、味覚を容赦なく蹂躙する。
だが、ただ辛いだけではない。
その暴力的な刺激の奥から、鶏ガラと豚骨の圧倒的な旨味と、オーク肉の濃厚な脂の甘みが、怒涛の勢いで押し寄せてきたのだ。
「か、からっ……! 辛ぇ! だが、うめぇぇぇっ!!」
レオンの額から一瞬で大粒の汗が噴き出す。
「なんだこれ、口の中が火事みたいになってるのに、箸が止まらねぇ! この突き抜けるような刺激、たまらなく俺の闘争本能を滾らせやがる! 最高だぜ!」
レオンは歓喜の声を上げながら、次々と肉や野菜を赤いスープに投入し、貪るように食べ始めた。
その野蛮な食べ方を見て、フェリックスは呆れたように小さくため息をついた。
「……味覚まで脳筋だな。あんな刺激物ばかり食べていては、素材の本当の味がわからなくなるというのに」
フェリックスは優雅な手つきで肉をつまみ、静かに湯気を立てる純白の豆乳スープの中へとくぐらせた。
肉の色が変わったところで引き上げ、小鉢にとって口に運ぶ。
「…………ぁ」
フェリックスは、思わず目を閉じて至福の吐息を漏らした。
なんて、優しい味なのだ。
口の中を支配したのは、大豆の持つ圧倒的なまろやかさと、自然な甘み。それが、極上の昆布と鰹の『出汁』の旨味と完璧に融合し、肉の脂をシルクのような滑らかさで包み込んでいる。
刺激など一切ない。ただひたすらに、深く、静かで、理知的な味わいが、疲労した脳と身体の細胞一つ一つに染み渡っていくのを感じる。
「……素晴らしい。これほどまでに計算し尽くされた、調和の取れた味があるとは。豆乳の甘みが出汁の塩気を引き立て、肉の旨味を最大限に活かしている。……これこそが、真の料理というものだ」
フェリックスもまた、豆乳スープの持つ底知れぬ魅力に取り憑かれ、静かに、しかし確かなペースで箸を進め始めた。
右では、汗だくになりながら赤いスープで肉を食らうレオン。
左では、涼しい顔で白いスープで野菜を味わうフェリックス。
二人とも、自分の選んだスープの味に大満足し、相変わらず一言も交わすことなく、別々の世界で食事を進めていた。
「ほら見ろ。俺の選んだこの赤いスープこそが至高だ。お前みたいなひ弱な奴には、この燃えるような美味さは一生わかるまい」
「愚かな。その白いスープの持つ緻密な計算と、奥深い知性が理解できないとは。お前は一生、その舌を麻痺させていればいい」
美味しいものを食べているというのに、二人の間の壁は全く崩れる気配がない。
それを見ていたバルトルトが、「女将、やっぱりこいつらには無駄だったんじゃないか……」と頭を抱えようとした、その時である。
「お二人とも。自分の好きな味を楽しむのもいいですが、この『二色鍋』の本当の魔法は、ここからなんですよ」
栞が、二人の間に割って入った。
「騙されたと思って、一度だけ、相手が食べている方のスープのお肉を食べてみてください」
「えっ? 俺が、こんな味のしなさそうな白いスープを?」
「私が、あんな野蛮な赤い毒液のようなものを?」
二人は露骨に嫌な顔をしたが、栞の「いいから、やってみてください!」という有無を言わさぬ笑顔の圧に押され、渋々、互いの領域であるスープに肉をくぐらせた。
レオンは、白い豆乳スープで煮た肉を口に入れた。
「…………っ!?」
レオンの目が、見開かれた。
先ほどまで赤い激辛スープを食べ続け、ヒリヒリと焼け付くように麻痺していた彼の口内。そこへ、冷たい泉のように滑らかで優しい豆乳スープが流れ込んできたのだ。
大豆の甘みが、舌の痛みを一瞬にして包み込み、癒やしていく。
そして、辛味がリセットされたことで、出汁の持つ『旨味』というものが、信じられないほど鮮明に、かつ深く感じられたのだ。
「な、なんだこれ……。ただ薄味なだけかと思ってたのに、辛いものを食った後に食うと、すげぇ優しくて……旨味が何倍にもなって感じられる……。口の中がリフレッシュして、またあの辛いスープが猛烈に食いたくなってきたぞ!」
一方のフェリックスは、赤い激辛スープで煮た肉を口に入れた。
「…………なっ!!」
フェリックスは、思わず咳き込みそうになった。
強烈な刺激。だが、ずっとマイルドな豆乳スープを食べて口の中がまろやかになっていたからこそ、そのスパイスの『香り』と、突き抜けるような『辛味の輪郭』が、恐ろしいほどの鮮明さを持って彼の脳を直撃したのだ。
豆乳の甘みが口の奥に残っているため、辛さは暴力的な痛みではなく、心地よい熱となって全身の血流を沸騰させる。
「こ、これは……。ただ野蛮なだけではない。この強烈な刺激があるからこそ、次に食べる豆乳の甘みが、より一層際立つというのか……!? 計算された味のコントラスト。まるで、光と影のように互いを引き立て合っている……!」
レオンとフェリックスの二人は、そこから憑かれたように、赤いスープと白いスープを『交互に』食べ始めた。
辛い。熱い。旨い。
優しい。甘い。深い。
赤を食べれば白が欲しくなり、白を食べれば赤が欲しくなる。
決して交わることのない、全く異なる二つの味。しかし、それらを交互に味わうことで、単体で食べるよりも遥かに高い次元の『美味しさ』へと昇華されていくのだ。
同じ一つの鍋の中で、強烈な個性を持った二つの味が共存し、互いの長所を引き出し、欠点を補い合っている。
その事実を、二人は自分たちの『舌』で、理屈抜きに理解させられていた。
「…………」
レオンは、箸を止めて、目の前で仕切られた二色鍋を見つめた。
そして、チラリと横に座るフェリックスを見た。
「……おい。フェリックス」
「なんだ」
「……お前の後方支援の魔法があるから、俺たちは前線で、心置きなくあの赤いスープみたいに暴れ回れるのかもしれねぇな。……お前のその、白いスープみたいな冷静さがないと、俺たちはただ焼け焦げて終わっちまう」
レオンが、ボソリと、だが確かな声で言った。
それは、彼が初めて見せた、フェリックスへの敬意の言葉だった。
フェリックスもまた、眼鏡を押し上げながら、小さく息を吐いた。
「……私の方こそ、偏見を持っていたよ。どれほど完璧な戦術(白いスープ)を組み立てたところで、それを実行し、敵陣を打ち破る圧倒的な突破力(赤いスープ)がなければ、戦局は動かせない。……貴様らのその強烈な熱が、第三部隊には必要なのだ」
決して交わることのない、水と油。
しかし、水と油は、一つの鍋(部隊)に仕切りを設けて共存させることで、これほどまでに素晴らしい相乗効果を生み出すことができる。
互いが互いを必要としているのだと、彼らは栞の料理を通して、ようやく理解したのだった。
「……おい、レオン。お前のグラス、空いているぞ」
フェリックスが、カウンターに置かれていた冷えた瓶ビールを手に取り、レオンのグラスに向けて静かに傾けた。
「……おう。わりぃな」
レオンは少し照れくさそうにグラスを差し出し、ビールを受け取った。
そして、今度はレオンが熱燗の徳利を手に取り、フェリックスのお猪口へと注ぎ返す。
「お前も、少しは熱い酒を飲んで、血の巡りを良くしろよ。戦術を考える頭が冷えちまうぞ」
「……ふっ。余計なお世話だ」
コチンッ。
二人の若き騎士のグラスが、不器用に、しかし確かに触れ合った。
二色鍋の湯気の向こうで、彼らは相変わらず憎まれ口を叩き合いながらも、今までのような殺伐とした空気は完全に消え去り、そこには確かな『戦友』としての絆が芽生え始めていた。
「はははっ! 女将、大成功じゃねぇか!」
その光景を見ていたバルトルトは、心の底から嬉しそうに大笑いし、自分も熱燗をグイッと煽った。
「これで明日から、俺の胃痛も少しは治まりそうだぜ。女将の料理は、本当にどんな魔法よりもすげぇな!」
「ふふっ。お鍋は、みんなで囲んで食べるのが一番ですからね。……さあさあ、お肉もお野菜も追加がたくさんありますから、今日は二人で仲良く、お腹いっぱい食べていってくださいね!」
真っ赤なスープと、純白のスープ。
二つの味が波打つ仲良し二色鍋は、対立していた若き騎士たちの心を解きほぐし、王都警備隊をさらに強固な組織へと成長させる最高の一夜を演出した。
外の凍えるような寒さなど忘れさせるほど、小料理屋『結』の店内は、熱気と、出汁の香りと、心地よい笑い声に満ち溢れていた。




