第31話:堅物査察官と、しなやかな牛蒡のきんぴら
王都アルカディアの上空を、重く冷たい鉛色の雲がどんよりと覆い隠していた。
吹きすさぶ北風は石造りの建物の隙間をすり抜け、王都警備隊の詰め所にも容赦なく冷気を運び込んでいる。しかし、第三部隊の執務室を満たしていたのは、冬の寒さなど比較にならないほどの、息が詰まるような重苦しく冷え切った空気だった。
「なんですか、この報告書は! 討伐したゴブリンの数が『約十匹』とはどういうことですか! 九匹なのか、十一匹なのか、正確な数字を記載するのが王都を預かる警備隊の義務でしょう! それに、この余白のズレ! 規定の書式から三ミリもはみ出しています! やり直し! すべて今日中に書き直しなさい!」
執務室の中心で、甲高いヒステリックな怒声を張り上げているのは、銀縁の眼鏡を光らせた神経質そうな痩せ型の男だった。
彼こそが、王都の監査局から第三部隊へと派遣されてきた堅物査察官、ハインリヒである。
法と規律を絶対とし、融通という言葉を母親の胎内に忘れてきたかのようなこの男は、赴任してくるなり第三部隊の日常を地獄へと変えた。剣の素振りの角度から、鎧のわずかな拭き残し、さらには休憩時間の数秒のズレに至るまで、ありとあらゆる事象を規定集と照らし合わせてはヒステリックに糾弾してくるのだ。
「も、申し訳ありません、ハインリヒ査察官……。ですが、乱戦の中で魔物の正確な数を把握するのは難しく……」
目の下に真っ黒なクマを作った若き隊員・クラウスが、胃のあたりを押さえながら消え入りそうな声で弁明する。
「言い訳など聞いていません! それができないなら、あなたたちは無能だということです! この私が直々に、あなたたちのたるみきった根性を叩き直して差し上げます! さあ、すぐに書類の修正にかかりなさい!」
ハインリヒの容赦ない言葉のムチが飛び交い、クラウスの隣でマルコも絶望的な表情で項垂れている。
隊長であるバルトルトもまた、自席でこめかみを強く揉みほぐしていた。彼とて部下を庇いたいのは山々だが、ハインリヒの指摘は『王都の規定』という絶対的な盾に守られているため、正面から反論すれば部隊全体が反逆とみなされかねない。
まさに、触れるものすべてを傷つける鋼鉄の塊のような男。
中間管理職であるバルトルトの胃袋は、部下たちのそれと同様に、ギリギリと悲鳴を上げていた。
「隊長……もう、限界っす……」
夜になり、ようやくハインリヒが執務室から引き揚げた後。マルコが机に突っ伏したまま、呻くように言った。
「俺、あの査察官の顔を見るだけで、胃酸が逆流してきそうです。剣の腕なら負けねぇのに、口喧嘩じゃ規則を盾にされて手も足も出ない。これじゃあ、魔物と戦う前に胃に穴が空いて死んじゃいますよ……」
「ああ、俺もだ……。ちょっとでも反論しようものなら、倍になって小言が返ってくる。あいつは血も涙もないゴーレムか何かか?」
クラウスも力なく同意する。
バルトルトは深く息を吐き、立ち上がった。
「……お前ら、よく耐えた。あの鋼鉄のゴーレムの相手は明日また考えるとして、今はとにかく、傷ついた胃袋と神経を癒やすのが先決だ。行くぞ、俺たちの『オアシス』へ」
バルトルトのその一言に、死んだ魚のようになっていた二人の部下の目に、微かな希望の光が宿った。
夜の路地裏。
冷たい風を遮るようにして石畳を歩き、三人はポツンと灯りが漏れる小さな木造の建物の前に辿り着いた。藍色の暖簾をくぐり、引き戸を開ける。
カラン、コロン。
「いらっしゃいませーっ! あ、バルトルトさん、クラウスさんにマルコさん! 今日もお疲れ様です!」
温かいオレンジ色の照明と、ふわりと漂う出汁の優しい香り。そして、真っ白な割烹着に身を包んだ店主・栞の、太陽のように明るい笑顔。
その瞬間、三人の屈強な騎士たちは、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、カウンターに雪崩れ込むようにして倒れ伏した。
「お、女将ぃ……助けてくれ……俺たちはもう、ダメかもしれない……」
「胃が……胃がチクチクして痛いんです……何か、優しいものを……」
泣き言を漏らす大の大人三人を見て、栞は驚きながらもすぐに温かいおしぼりを出した。
「ちょっとちょっと、どうしたんですか三人とも。魔物の討伐で怪我でもしたんですか?」
「魔物より厄介な化け物に遭遇してな……」
バルトルトはおしぼりで顔を覆い、ハインリヒ査察官の理不尽なまでの堅物ぶりと、詰め所の重苦しい状況をぽつりぽつりと語り始めた。
「なるほど……。規則、規則でガチガチに固まった、融通の全く利かない査察官さんですか。それは確かに、胃が痛くなっちゃいますね」
栞は同情するように眉を下げた。
ルールを守ることは大切だが、現場の状況を無視して正論だけを振りかざす人間は、時に最も厄介な障害となる。正面からぶつかればこちらが折れてしまうし、逃げることも許されない。
「あいつは岩だ。いや、鋼鉄の壁だ」
クラウスが温かいお茶をすすりながら力なく言う。
「俺たちがどれだけ現場の苦労を説明しても、すべて弾き返される。硬すぎて、全く隙がないんだ。あんなのとあと一ヶ月も付き合わなきゃならないなんて、絶望しかないですよ……」
「そうですね……。でも、硬いからといって、絶対に崩せないわけじゃありませんよ」
栞はふわりと微笑むと、厨房の奥へと向かった。
「今日は、その鋼鉄の壁を乗り越えるための『ヒント』になるような、美味しいお料理を作ってあげますね。少し待っててください」
栞が冷蔵庫の野菜室から取り出してきたのは、泥にまみれた、細長くてゴツゴツとした茶色い木の根のようなものだった。
それをカウンターの上にドンと置く。
「……女将。なんだその、土のついた木の枝は?」
バルトルトが不思議そうに眉をひそめた。
「薪が足りなくなったんですか? 俺が裏で割ってきましょうか?」
マルコが本気でそう申し出るのも無理はない。ファンタジー世界である王都アルカディアにおいて、これほど泥臭く、見るからに硬そうな植物の根を食べる文化は存在しないのだ。どう見ても、ただの枯れ枝にしか見えない。
「違いますよ、マルコさん。これは薪じゃなくて、立派なお野菜です。日本の名前で『牛蒡』って言います。今日はこれを使って、最高に美味しい一品を作りますからね」
栞は泥付きの牛蒡を流し台に持っていき、たわしで表面の泥を優しく洗い落とした。
牛蒡の命は、その皮のすぐ下にある強烈な風味と旨味だ。真っ白になるまで皮を剥いてしまっては、せっかくの香りが飛んでしまう。栞は包丁の峰を使い、薄皮をこそげるようにして処理していく。
そして、まな板の上に牛蒡を置き、包丁を斜めに構えた。
シャッ、シャッ、シャッ!
まるで鉛筆を削るかのように、牛蒡を回しながら薄く、細長く削ぎ落としていく。和食特有の包丁技術『笹垣』である。
硬い繊維を持つ牛蒡も、この笹垣にすることで繊維を断ち切り、火を通りやすくし、同時に調味料の味を限界まで染み込ませることができるのだ。水に放って軽くアクを抜き、同じく細切りにした人参と一緒にザルに上げる。
「さあ、ここからが一気に勝負ですよ」
栞は鉄のフライパンを強火にかけ、たっぷりのごま油を引いた。
——ジュワァァァァァッ!!
水気を切った牛蒡と人参を投入した瞬間、食欲を暴力的なまでに刺激するごま油の香ばしい匂いが厨房いっぱいに弾け飛んだ。
「うおっ!? なんだこのいい匂いは!」
クラウスとマルコが、胃痛も忘れて身を乗り出す。
栞は手首のスナップを利かせてフライパンを大きく煽り、牛蒡にしっかりと油をコーティングしていく。最初は硬かった笹垣の牛蒡が、油を吸って徐々にしんなりとしてきたところで、味付けの魔法をかける。
日本の本みりん、料理酒、そして少し多めの砂糖。
それらを加えて全体に絡め、最後に風味豊かな丸大豆醤油を鍋肌から回し入れた。
——ジューーーーーッ。
焦がし醤油の強烈な香りが立ち昇る。みりんの糖分と醤油が熱せられ、フライパンの中で艶やかな飴色の照りとなって牛蒡を包み込んでいく。水分が飛んでチリチリという音に変わったところで、隠し味として少量の和風出汁と、ピリッとした辛味のアクセントになる鷹の爪(赤唐辛子)、そして炒りごまをたっぷりと振りかけて完成だ。
調理時間はわずか数分。しかし、その間に立ち昇った甘辛く香ばしい匂いは、三人の騎士の胃袋を完全に覚醒させていた。
「お待たせしました! 当店特製、日本の伝統的なおばんざい……『牛蒡のきんぴら』です!」
白い小鉢に小高く盛り付けられたそれは、艶やかな飴色に輝き、散らされた白ごまが雪のように美しく映えていた。
ごま油と醤油の香りが、容赦なく鼻腔をくすぐる。
「こ、これが……さっきの木の枝だって言うのか?」
「信じられん。匂いだけで、よだれが止まらねぇぞ……」
バルトルトたちはゴクリと喉を鳴らし、渡された箸で恐る恐る飴色に光る牛蒡をつまみ上げた。
そして、口の中へと運ぶ。
「…………ッ!!!」
三人の動きが、ピタリと止まった。
最初に訪れたのは、ごま油の濃厚な風味と、醤油と砂糖の甘辛い完璧な味付け。それが、噛み締めた瞬間に爆発した。
シャキッ! コリッ!
小気味良い、それでいて決して硬すぎない絶妙な歯ごたえ。笹垣にされた牛蒡は、芯に心地よい食感を残しながらも、信じられないほど柔らかく、そして驚くほどに『しなやか』だった。
噛めば噛むほど、ごま油のコクと共に、牛蒡自身が持つ大地の力強い旨味と香りが口いっぱいに広がる。そして最後に、鷹の爪のピリッとした辛味が全体をシャープに引き締め、次の一口を強烈に要求してくるのだ。
「う、うめぇぇぇぇっ!!」
マルコが歓喜の声を上げた。
「なんだこれ! あんなにカチカチの木の根っこみたいだったのに、噛むとシャキシャキして、味が中まで信じられないくらい染み込んでる! この甘辛い味、一生噛んでいられますよ!」
「ああ、たまらん! 胃が痛かったはずなのに、このごま油の香りとピリ辛さで、一気に食欲が爆発しやがった! 女将! これに合う熱燗をくれ! 絶対に酒泥棒だぞこの料理は!」
クラウスも胃痛など完全に忘れ去り、夢中で箸を動かしている。
バルトルトもまた、きんぴらを肴に熱燗をキュッと煽り、至福の吐息を漏らした。
「……美味い。見た目は武骨で地味だが、噛むほどに味が出る。ただ硬いだけじゃない。この歯に反発してくるような、不思議な弾力と食感。……女将、この『ごぼう』という野菜は、実に面白いな」
「ええ、そうでしょう?」
栞は微笑みながら、カウンター越しに三人の顔を見渡した。
「牛蒡はね、そのままでは硬くて、食べられたものじゃありません。でも、こうして笹垣にして繊維を断ち切り、油で炒めることで、あんなに『しなやか』になるんです。……そして、しなやかだからこそ、お醤油やお砂糖の味をしっかりと受け止めて、美味しくなることができるんですよ」
栞はそこまで言うと、少しだけ真面目な顔になり、バルトルトたちの目を見た。
「……硬いだけの木は、強い風が吹けばポキッと折れてしまいます。でも、しなやかな柳の枝や、この牛蒡の繊維は、風を受けてもグッと曲がるだけで、決して折れることはありません。力を逃がして、また元に戻るんです」
「しなやかだから、折れない……」
クラウスが、箸を止めてその言葉を反芻した。
「査察官のハインリヒさんも、今は鋼鉄みたいに硬くて、皆さんは正面からぶつかって弾き返されている状態ですよね。でも、もし皆さんが『牛蒡』みたいにしなやかになれたら、どうでしょう?」
栞の言葉に、バルトルトの目がハッと見開かれた。
「……なるほど。正面から反論してぶつかるから、あいつは規則という硬い盾で弾き返してくる。ならば、俺たちの方から反発するのをやめて、しなやかに受け流してしまえばいいということか!」
「そうです」
栞はにっこりと頷いた。
「相手が規則を振りかざして怒鳴ってきたら、『仰る通りです! 素晴らしいご指摘ありがとうございます!』って、まずは相手の勢いを完全に吸収しちゃうんです。相手の味(言葉)を一度自分の中に染み込ませてから、『では、この規定を完璧に守るために、明日の警備ルートはすべてハインリヒ様に同行してご指導いただきたいのですが!』って、相手の力を利用してペースを握り返しちゃうんですよ」
のれんに腕押し、柳に風。
硬い相手には、硬さで挑むのではなく、しなやかさで対応する。
栞の提案した『牛蒡のきんぴら作戦』に、クラウスとマルコの顔にパァァッと悪魔的な……いや、希望に満ちた笑みが広がった。
「そ、それだ! あいつは現場に出るのを極端に嫌がってる! 『規定通りにやるためのお手本を、ぜひ最前線のスラム街で徹夜で見せてください!』って笑顔で言えば、あいつ絶対に逃げ出しますよ!」
「ああ! 反論するんじゃなくて、すべて肯定した上で、あいつ自身に規則の実行を丸投げしてやればいいんだ! 俺たち、今まで真正面からぶつかりすぎてたんだ!」
「ふっ……違いねぇ。鋼鉄の壁を殴るから拳が痛くなる。壁ごと抱きしめて、一緒に泥沼に引きずり込んでやればいいんだな」
バルトルトもまた、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべて熱燗を飲み干した。
胃痛に苦しんでいた騎士たちの顔から、絶望の色は完全に消え去っていた。
彼らの心は今、ごま油と甘辛い醤油の味が染み込んだ牛蒡のように、どんな理不尽な圧力にも決して折れない、強靭な『しなやかさ』を手に入れていたのである。
「女将! この牛蒡のきんぴら、もう二皿追加だ! 明日の反撃に向けて、このしなやかな食感を身体の隅々にまで叩き込んでおくぜ!」
「俺は熱燗のおかわりをお願いします! なんだか急に、明日仕事に行くのが楽しみになってきましたよ!」
「はいはい、きんぴらのおかわりですね。お酒もいっぱいありますから、今日はゆっくり英気を養っていってくださいね」
翌日。
王都警備隊第三部隊の詰め所に現れたハインリヒ査察官は、いつものようにヒステリックな怒声を張り上げようとした。
しかし、バルトルトをはじめとする隊員全員が、満面の笑みで「素晴らしいご指摘です! では、その完璧な規定を実地で学ぶため、今からハインリヒ様を先頭にして、王都で最も危険な魔物の巣窟である地下水路の巡回に出発しましょう! さあ、査察官殿も剣をお持ちになって!」と、有無を言わさぬ勢いで彼を最前線の泥沼へと引きずり出したのである。
結果として、実戦経験のないハインリヒはわずか半日で音を上げ、「き、君たちのやり方にも、現場なりの合理性があるようだね……少し、規定の方を柔軟に見直そう……」と、涙目で白旗を上げることになるのだが、それは栞の知る由もないことである。
ただ一つ言えるのは、日本の素朴な家庭料理が持つ哲学が、異世界の堅物な査察官を見事に打ち破ったということだ。
深夜の小料理屋『結』には、今日も香ばしいごま油の香りと、明日の活力を手に入れた常連客たちの明るい笑い声が、いつまでも絶えることなく響き渡っていた。




