第23話:配達員・浩太の疑惑と、札束の暴力
日本の、とある地方都市の路地裏。
午後一時を回ったばかりの太陽が、雑居ビルの隙間から細く差し込んでいる。
小料理屋『結』の店主である藤原栞は、銀行のロゴが入った分厚い茶封筒を割烹着の懐にしっかりと抱え込みながら、周囲を警戒するように小走りで店の勝手口――つまり、日本側の裏口へと向かっていた。
「ふふふ……ふははははっ!」
鍵を開けて厨房に滑り込んだ瞬間、栞は誰にも見られていないことを確認し、ついにこらえきれずに怪しい笑い声を漏らした。
懐から取り出した茶封筒の口を開けると、そこには福沢諭吉が隙間なくギッシリと、まるでレンガのような束になって詰め込まれていた。
その額、なんと三百万円である。
つい先ほど、栞は駅前にある貴金属買取店『大黒屋』へと足を運んでいた。以前、公爵夫人ベアトリスのために『筑前煮』を作った際、その報酬としてエルフの密偵ファリスから受け取った、親指ほどもある巨大なエメラルドの原石を換金するためだ。
鑑定士の男性は、その不純物が一切混じっていない奇跡のようなエメラルドを見るなり目を剥き、ルーペを落としそうになりながら「す、素晴らしい……! どこでこんな国宝級の品を!?」と震えていた。
栞は「海外のパトロンからのいただきものです」と適当に誤魔化し、提示された三百万という破格の買取額に即座にサインをして、現金を持ち帰ってきたのである。
「これで……これでまた、最高のお酒と食材がいくらでも仕入れられるわ!」
栞は札束を頬にすりすりしながら、板前としての野望を燃やしていた。
異世界アルカディアの住人たちは、とにかくよく食べるし、恐ろしいほど酒を飲む。王都警備隊長のバルトルトは毎晩のように一升瓶を空け、ドワーフのドランに至っては生ビールの樽を水のように飲み干していく。彼らの胃袋を満たすためには、日本円という強大な資金力が絶対に不可欠なのだ。
栞が金庫に札束をしまおうとした、まさにその時だった。
——ガチャリ。
「ちわーっす。リカーショップサトウの配達……って、栞ちゃん、こんな時間に一人でニヤニヤしてどうしたの?」
勝手口の鉄扉が開き、首にタオルを巻いた酒販店の配達員、浩太が台車を押しながら入ってきた。
「ひゃああっ!? こ、浩太さん! ノックくらいしてくださいよ!」
「いや、いつも勝手に入って裏の冷蔵庫に納品していいって言ってるの、栞ちゃんじゃん」
浩太は呆れたように言いながら、台車に乗せられた日本酒の一升瓶ケースや、生ビールの二十リットル樽を次々と厨房に運び込んでいく。
しかし、今日の浩太はいつものような軽口を叩きながらも、どこか様子がおかしかった。
納品を終え、受領書に栞のサインをもらう段になっても、浩太は帰ろうとせず、腕を組んでジッと栞の顔を見つめてきたのだ。
「……浩太さん? どうしたんですか、私の顔に何か付いてます?」
「栞ちゃん」
浩太の声は、かつてないほど真剣で、どこか刑事の取り調べのような低いトーンだった。
「ちょっと、そこに座って話そうか」
「えっ? いや、私これから夜の仕込みが……」
「五分で終わるから。いいから、座って」
有無を言わさぬ圧に押され、栞はパイプ椅子にちょこんと腰を下ろした。
浩太は手に持っていたバインダー(今までの納品伝票が束になっているもの)をパラパラとめくり、ため息をついた。
「栞ちゃん。俺たち、なんだかんだでもう数ヶ月の付き合いになるよね。栞ちゃんが独立してこの店を持った時から、うちの酒屋を使ってくれてる。それは本当に感謝してるんだ」
「は、はい。いつも重たいお酒を運んでくれて、助かってます」
「うん。でもね……俺、配達員としていろんな居酒屋やレストランを見てきたけど、どうしてもこの店の『消費量』には納得がいかないんだよ」
浩太はバインダーを栞の目の前に突きつけた。
「よく見てよ、これ。先週一週間の納品記録」
「えーっと……」
「日本酒の一升瓶が三十本。生ビールの二十リットル樽が五本。ウイスキーのボトルが十本。それに加えて、醤油やみりん、料理酒といった業務用の調味料が一斗缶(十八リットル)で次々と消えていく」
浩太の目が、スゥッと細められた。
「栞ちゃん。この店、カウンター十席しかないんだよね? しかも、外から見ててもお客さんが並んでる様子は一度もないし、そもそも表の看板すら出してない隠れ家だ。……物理法則がおかしいんだよ。十人の客が毎日満席になったとしても、こんな量のお酒、絶対に飲みきれるわけがない」
「うっ……」
「一日で一升瓶が四、五本空くって、どういうこと? 一人で一升瓶を丸ごと一本空けるようなバケモノが、毎日四人も五人も集まってるって言うの?」
浩太の指摘は、ぐうの音も出ないほど正論だった。
彼の言う通り、バルトルトやドラン、さらにはエルフのファリスまでもが、日本の常識を遥かに超えるアルコール分解能力を発揮し、毎晩底なし沼のように酒を消費しているのだ。
「あのね、浩太さん。前にも言ったと思うけど、うちのお客さんは海外の……そう、北欧あたりの凄く身体の大きな方々ばかりで……」
「まだその『海外の富裕層のコスプレイヤー』設定を引きずるの?」
浩太は呆れ果てたように首を振った。
「あのさ、俺も最初は信じようとしたよ。でもね、俺も馬鹿じゃない。これだけの酒を仕入れて、表立って営業してないとなると……どうしても一つの可能性に思い至っちゃうんだよ」
「可、可能性?」
浩太は周囲を見回し、声を潜めた。
「栞ちゃん……君、もしかして『横流し』してるんじゃないの?」
「……はい?」
「つまり、飲食店向けの安い卸値でうちから酒と調味料を大量に仕入れて、それを裏のルートで別の店に高く転売してるか……最悪の場合、どっかの地下組織のヤミ宴会場の元締めになってるとか……」
「なっ、ならないわよ!! 私をなんだと思ってるの!!」
栞は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「私は板前よ! 仕入れたお酒とお醤油は、全部このお店のお客さんの胃袋に入ってるの!」
「だから、それが物理的におかしいって言ってんの! 力士の打ち上げだってこんなに飲まないよ!」
浩太も負けじと声を荒らげた。
「栞ちゃんが変な犯罪に巻き込まれてるんじゃないかって、俺は心配してるんだよ! もし本当に正当な営業をしてるっていうなら、今日の夜、俺を客として表から店に入れてよ! 俺の目で確かめさせてもらうから!」
絶体絶命のピンチであった。
浩太が夜の営業時間に表の引き戸を開ければ、そこには異世界の路地裏が広がり、屈強な甲冑の騎士やドワーフが酒盛りをしている光景が丸見えになってしまう。
それだけは、絶対に避けなければならない。
言葉で説得するのは無理だ。浩太は理詰めで迫ってきている。ならば、どうするか。
(……ごめんなさい、浩太さん。私の平和な日常を守るためよ)
栞はスゥッと深呼吸をし、極めて冷徹な、そして毅然とした『大人の女』の表情へと切り替わった。
「……浩太さん。そこまで言うなら、お見せします」
「えっ、いいの?」
「ええ。ただし、表の客席ではなく、私の『誠意』と『真実』をね」
栞は静かに振り返り、先ほどエメラルドを換金してきたばかりの分厚い茶封筒を金庫から取り出した。
そして、浩太の目の前にあるステンレスの作業台に、その茶封筒をドンッ! と叩きつけた。
「な、なにこれ」
「開けてみてください」
浩太が恐る恐る茶封筒の口を開く。
その中身を見た瞬間、浩太の目が文字通り飛び出さんばかりに見開かれ、顎が外れそうなほど口が大きく開いた。
「なっ……じゅ、ひゃ、ひゃく……えええええっ!?」
そこに入っていたのは、数枚の札束ではない。帯のついた百万円の束が、三つ。合計三百万円の現金である。
酒屋の配達員として毎日汗水垂らして働いている浩太にとって、それは手渡しで見せられるような額の現金では到底なかった。
「し、栞ちゃん……これ、どうしたの……まさか本当にヤバイ組織の……」
「違います」
栞は浩太の言葉をピシャリと遮り、冷たいほどの微笑みを浮かべて浩太の目を見据えた。
「浩太さん。これは、先ほどもお話しした『海外の富裕層のお客様』からお預かりした、貸切営業のデポジット(預かり金)です。……その方々は、日本の美味しいお酒と料理のためなら、これくらいの額をポンと出せるほどの身分の方々なのです」
「は、はぁ……」
「そして、これは浩太さんへの『お願い』の資金でもあります」
栞は、三百万円の札束を、スーッと浩太の方へと押しやった。
「うちのお客様たちは、現在の日本酒のラインナップでは少し物足りなくなってきているようです。そこで、浩太さんの酒屋に『追加発注』をお願いしたいんです。……予算の糸目はつけません。手に入る限りの最高級の純米大吟醸、何十年も熟成された幻の古酒、プレミアムな麦焼酎。そういったものを、この資金を使って、うちの店に優先的に卸してもらえないでしょうか?」
浩太の脳内で、とてつもない音を立てて『営業マンとしての計算機』が弾き出された。
三百万円の特上酒の注文。
もしこれを自分が受注し、会社に持ち帰ればどうなるか。
今月の営業ノルマなど一瞬で粉砕し、ぶっちぎりのトップセールスを記録する。支店長からは土下座で感謝され、夏のボーナスは跳ね上がり、配達員から一気に営業の役職へと昇進する可能性すらある。
目の前に積まれた札束の暴力的なまでの説得力。
それは、浩太が抱いていた「物理的におかしい」という真っ当な疑念を、一瞬にして消し去るほどの破壊力を持っていた。
「……純米大吟醸の、最高峰……」
浩太の目が、すでに円(¥)のマークに変わっていた。
「ええ。お客様は『最高のものを持ってこい』と仰っています。もちろん、浩太さんにはいつもお世話になっていますから、この注文はすべて浩太さんの手柄にしていただいて構いません。ただ……」
栞はスッと目を細め、凄みのある声で囁いた。
「富裕層の方々は、プライバシーを極端に重んじます。余計な詮索をする酒屋には、二度と注文は出さないでしょう。……浩太さんは、優秀な酒屋さんですよね?」
沈黙。
厨房内に、冷蔵庫のモーター音だけが響く。
数秒後。
浩太は、目にも留まらぬ速さで茶封筒をひったくり、前掛けの懐にねじ込んだ。
そして、直立不動の姿勢をとり、九十度の完璧な角度で深く、深く頭を下げた。
「誠にありがとうございます!! リカーショップサトウ、配達担当の浩太、お客様のプライバシー保護を第一に、最高の銘酒を全国からかき集めてまいります!!」
「ふふっ。疑いは晴れましたか?」
「疑い? なんのことでしょうか! 当店は、繁盛店である小料理屋『結』様の全面的なバックアップをお約束いたします! 表の入り口など、私のような下っ端が覗くような真似は決して足しません!! 見ざる、言わざる、聞かざる! それが酒屋の鉄則でございます!!」
手のひらを返すどころか、手首が千切れるほどの見事な寝返りであった。
浩太は深々と何度もお辞儀を繰り返した後、「では、さっそく大至急で幻の大吟醸の手配に入ります!!」と叫び、猛ダッシュで裏口から飛び出していった。
バタンッ! という鉄扉の閉まる音が響き、厨房には再び静寂が戻った。
「…………ふぅぅぅぅぅっ」
栞は全身の力が抜け、その場にズルズルと座り込んでしまった。
「寿命が……寿命が十年くらい縮んだわ……」
心臓が早鐘のように打っている。エメラルドという資金源がなければ、完全に詰んでいた。
異世界と繋がっているという最大の秘密を守るため、札束という圧倒的な物理的(資本主義的)暴力で、善良な酒屋の配達員を黙らせたのだ。少しだけ罪悪感はあるが、これで当分の間、酒の供給ルートが断たれる心配はなくなった。
「それにしても……最高級の純米大吟醸、か」
栞は立ち上がり、パンパンと割烹着のシワを伸ばした。
バルトルトやドラン、ファリスたちは、今まで飲んでいた普通のお酒でも大喜びしていた。彼らに、日本の醸造技術の最高到達点である『純米大吟醸』を出したら、一体どんな反応をするのだろうか。
想像するだけで、板前としての笑みが自然とこぼれてくる。
「高くついたけど、お客さんたちを喜ばせるための投資だと思えば安いものよね」
数日後、浩太の執念によって日本全国から集められた極上の銘酒たちが、異世界の常連客たちを未知の感動の渦へと巻き込むことになるのだが、それはまた別の夜のお話。
小料理屋『結』の店主は、今日も逞しく、二つの世界を股にかけて厨房に立ち続けるのであった。




