第24話:純米大吟醸の開栓と、騎士たちの宴
日本の地方都市、その片隅にある雑居ビルの裏路地。
じりじりとアスファルトを焦がすような昼下がりの熱気の中、酒販店『リカーショップサトウ』の配達員である浩太は、いつも以上に慎重な足取りで台車を押していた。
台車の上に乗せられているのは、いつものようなプラスチックケースに無造作に突っ込まれた一升瓶ではない。厳重に緩衝材で包まれ、さらに桐の箱に収められた、ただならぬオーラを放つ数本の瓶だった。
「ちわーっす、栞ちゃん! 頼まれてた超特急の『ブツ』、全国の伝手を頼ってかき集めてきたよ!」
勝手口の鉄扉を開け、浩太は誇らしげに声を上げた。
厨房の奥から顔を出した小料理屋『結』の店主・藤原栞は、その桐箱を見るなり、パァッと顔を輝かせた。
「浩太さん! ありがとうございます、本当に見つけてきてくれたんですね!」
「当たり前でしょ! お得意様の、しかも予算に糸目をつけない特注とあっちゃ、酒屋の意地にかけても最高峰を揃えるよ。見てよこれ」
浩太がうやうやしく桐箱の蓋を開けると、中には和紙に包まれ、金箔の文字で銘柄が記された重厚なすりガラスの瓶が鎮座していた。
「精米歩合、驚異の二割三分。日本最高峰の酒米である山田錦を、限界の限界まで磨き上げて醸造された、まさに日本酒の芸術品……『純米大吟醸』の最高ランクだよ。一本で数万円は下らない、幻の銘酒だ」
浩太は興奮気味に語る。
純米大吟醸。それは、米の表面にある雑味となるタンパク質や脂質を極限まで削り落とし、中心にある純粋なデンプン質(心白)のみを使って低温でじっくりと発酵させる、日本酒造りにおける最高難度の技術の結晶である。
「すごい……瓶からすでに気品が漂ってるわね」
「海外の富裕層のお客さんたちも、これなら絶対に文句は言わないはずだよ。冷蔵庫の一番冷えるところで、しっかり冷やしておいてね。大吟醸は温度が変わると香りが飛んじゃうから」
「ええ、任せてください。浩太さん、本当にありがとう!」
満面の笑みで受け取る栞に、浩太は「まいどありっ!」と機嫌良く親指を立て、再び日本の熱気の中へと帰っていった。
浩太を見送った後、栞はすぐさま最新型の大型業務用冷蔵庫に純米大吟醸の瓶をしまい込み、完璧な温度管理に設定した。
「……さてと。最高のお酒には、最高の『器』と『肴』を用意しなくちゃね」
栞は厨房の棚の奥から、普段は使わない特別なグラスを取り出してきた。
それは、お猪口や徳利ではない。丸みを帯びた大きなボウル部分と、細い脚を持つ、薄張りの『ワイングラス』である。
日本酒をワイングラスで飲む。一昔前なら邪道と言われたかもしれないが、現代の和食界隈では、大吟醸特有の華やかな香り(吟醸香)を最大限に楽しむための理にかなった作法として定着している。グラスの膨らみの中に香りを閉じ込め、飲む瞬間に鼻腔へとダイレクトに果実のような香りを届けるための計算された器なのだ。
栞はグラスに曇りが一つもないよう、専用のクロスでキュッキュッと入念に磨き上げた。
肴は、大吟醸の繊細な味を邪魔しないよう、極限までさっぱりとしたものがいい。
栞は、市場で仕入れておいた新鮮な『白身魚(ヒラメに似た異世界の高級魚)』を昆布締めにし、ほんのわずかな粗塩と、スダチの絞り汁だけでいただく極上の薄造りを準備した。
準備はすべて整った。
やがて、王都アルカディアの路地裏が深い夜の闇に包まれる頃。
——ガラガラガラッ!
「女将! やってるか! 今日も魔物の群れを相手に一暴れしてきたぜ!」
「酒だ酒だ! 喉が干からびて死にそうだぞ女将!」
いつものように騒々しく店に飛び込んできたのは、王都警備隊長のバルトルトと、ドワーフの鍛冶職人ドランの二人だった。二人とも、討伐任務と鍛冶の激務を終えたばかりで、全身から疲労と汗の匂いを漂わせている。
「いらっしゃいませ、お二人とも。今日もお疲れ様です」
栞が笑顔で迎えた直後、今度は静かに引き戸が開き、目立たないローブを被った二人の女性が店に入ってきた。
「こんばんは、店主。今日も私の胃を癒やしてくれるかしら」
「奥様の護衛として参りました。……が、私も少しだけお相伴にあずかりたく存じます」
ローブのフードを下ろしたのは、王都の社交界に君臨する美食の公爵夫人ベアトリスと、その腹心であるエルフの密偵ファリスだった。
泥臭い現場組の男たちと、優雅な王城の貴族たち。
本来なら決して交わらないはずの四人が、カウンターに並んで腰を下ろす。
「ふぅ……。今日も一日、城の狸どもと腹の探り合いをして疲れ果ててしまったわ。店主、いつものように胃に優しいお出汁のお料理をいただけるかしら。飲み物は、そうね……少しだけ、冷たいお酒を」
ベアトリスが優雅に扇子を畳みながら注文する。
「おう女将! 俺にはキンキンに冷えた生ビールだ! 喉にガツンとくるやつを頼むぜ!」
ドランがカウンターを叩く。
「俺はいつもの熱燗だ。五臓六腑を温めねぇと、疲れが抜けねぇからな」
バルトルトが肩を回しながら言う。
三者三様の注文。
しかし、今日の栞はニコリと笑って首を横に振った。
「ドランさん、バルトルトさん。ごめんなさい。今日の一杯目は、生ビールも熱燗もお預けです。ベアトリス様も、いつもの冷酒とは少し違うものをお出ししますね」
「あん? お預けって、どういうことだ?」
ドランが不満げに眉をひそめる。
「今日は特別なんです。私が日本……いえ、私の故郷から取り寄せた、最高傑作のお酒が届いたんです。皆さんに、どうしてもそれを味わっていただきたくて」
栞はそう言うと、磨き上げた四つのワイングラスを、四人の前にトン、トン、と静かに置いた。
その透明で脚の細いガラスの器を見て、ベアトリスが目を丸くした。
「……グラス? これは、王城の晩餐会でワインを飲む時に使うクリスタルグラスによく似ているわね。でも、なぜこれを?」
「お酒の『香り』を、一滴残らず楽しんでいただくための器です」
栞は冷蔵庫の奥から、先ほど浩太が届けてくれた重厚なすりガラスの瓶を取り出した。
霜がうっすらと吹き、極限まで冷やされていることがわかる。
栞は瓶の封を切り、静かに、慎重に栓を抜いた。
——ポンッ。
小気味良い音が店内に響いた、その瞬間である。
「…………っ!!?」
カウンターに座っていた四人の動きが、一斉に停止した。
瓶の口からフワァァッと立ち昇り、厨房を越えて店内に一気に広がった『香り』。
それは、彼らが今まで嗅いできたどんな酒の匂いとも違っていた。
アルコール特有の鼻を突く刺激臭は微塵もない。熟れたメロン、あるいは青リンゴやマスカットのような、瑞々しくも華やかな極上のフルーツの香りが、空間全体を優しく、そして圧倒的な気品で包み込んだのだ。
「な、なんだこの香りは……!? 果実の酒か!?」
バルトルトが思わず身を乗り出す。
「いえ。材料は『お米』と『水』だけです」
栞は微笑みながら、四人のワイングラスに、トクトクトクッ……と透明な液体を注いでいった。
グラスの三分の一ほどまで注がれた液体は、水のように無色透明で、美しい輝きを放っている。
「これが、私の故郷の醸造技術の最高到達点。お米を極限まで磨き上げ、低温でじっくりと時間をかけて醸した奇跡の雫……『純米大吟醸』です。グラスの脚を持って、軽く回してから、まずは香りを嗅いでみてください」
栞の言葉に従い、ベアトリスが優雅な手つきでグラスの脚を持ち、クルクルと中の液体を回した。
そして、グラスの膨らみに鼻を近づけ、深く息を吸い込む。
「…………ぁ」
ベアトリスの瞳孔が、極限まで見開かれた。
「嘘でしょう……。王城の地下蔵に眠る、百年物の最高級ワインすら霞んでしまうほどの、この華やかで気高い香り。これが、本当にお米と水だけで作られているというの?」
信じられないといった様子で、ベアトリスはグラスに口をつけ、透明な液体を一口含んだ。
「…………ッ!!!」
ベアトリスの全身を、雷に打たれたような衝撃が駆け抜けた。
口に含んだ瞬間、まるで雪解け水のように清らかで滑らかな液体が、舌の上を抵抗なく滑っていく。
そして、その直後。
閉じ込められていた果実のような吟醸香が、口から鼻腔へと爆発的に突き抜けたのだ。
甘い。しかし、砂糖のようなベタつく甘さではない。米の純粋なデンプンが極限まで洗練された、透き通るような上品な甘み。それが口いっぱいに広がったかと思うと、飲み込んだ瞬間にスゥッと雪のように消え去り、後には清涼な風が吹き抜けたかのような完璧な余韻だけが残る。
雑味が、一切ない。
ただひたすらに純粋で、美しく、芸術的な味わい。
「なんてこと……。こんなに澄み切ったお酒が、この世に存在するなんて……」
美食の公爵夫人は、あまりの感動に震える手でグラスを握りしめ、言葉を失ってしまった。
隣で飲んでいたバルトルトも、目をひん剥いて固まっていた。
「う、美味ぇ……! 俺がいつも飲んでる、喉が焼けるような強い酒とは次元が違いすぎる! 水みたいにスルスル入ってくるのに、腹の底から極上の香りが湧き上がってきやがる! こんな酒、王都の騎士団長だって一生飲めねぇぞ!」
そして、誰よりも強烈な反応を示したのは、ドワーフのドランだった。
彼は大ジョッキで生ビールをガブ飲みするのが信条の男だ。繊細なワイングラスを不器用な太い指でつまみ上げ、一気に呷ったドランは、その直後、目を白黒させてカウンターに突っ伏した。
「……親父? どうした、口に合わなかったか?」
バルトルトが心配して覗き込むと、ドランの肩がワナワナと激しく震え始めた。
そして。
「う、うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!」
ドランは突如として咆哮を上げ、両手で自分の自慢の赤茶色の髭を、ブチブチと引きちぎらんばかりの勢いで引っ張り始めたのだ。
「ちょ、ドランさん!? 何してるんですか!? お髭が抜けちゃいますよ!」
栞が慌てて止めに入ろうとするが、ドランは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。
「美味ぇ!! 美味すぎるんだよチクショォォォォッ!! なんだこの酒は! 俺たちドワーフは、酒造りにおいても世界一の種族だと誇りを持っていた! だが、この透き通った黄金の雫の前じゃ、俺たちのエールなんてただの泥水だ! 悔しい! 悔しいが美味すぎる! こんな美味いものを飲んじまったら、感動で頭がおかしくなりそうだ! 髭でもむしらねぇと正気を保てねぇ!!」
ブチッ、ブチッ、と本当に数本の髭を引き抜きながら号泣する百五十歳のドワーフ。
それほどまでに、純米大吟醸の放つクリアな味わいと華やかな香りは、異世界の酒文化の常識を根底から破壊するほどの威力を持っていた。
ファリスもまた、静かに目を閉じてグラスを傾けていた。
「……森の奥深く、世界樹の根元から湧き出るという伝説の霊薬。私はそれを飲んだことはないが、きっとこのような清らかな味がするのだろうな。心が、魂の底から浄化されていくようだ」
四人の常連客が、完全に純米大吟醸の魔力に陥落したのを見届け、栞はクスリと笑って、準備しておいた白身魚の昆布締め薄造りをカウンターに出した。
「この純米大吟醸には、香りの強いお肉や、味の濃いお料理は合いません。お酒の繊細な香りを壊さないよう、極限までシンプルに旨味を引き出したお刺身を用意しました。お塩と、柑橘の果汁だけで召し上がってください」
ベアトリスが薄造りを一枚口に含み、すかさず大吟醸を流し込む。
「……っ! お魚の淡白な甘みと昆布の旨味が、お酒のフルーティな香りと口の中で完璧に溶け合って……。素晴らしいわ。もう、王城の晩餐会には一生出たくなくなってしまいそう」
極上の酒と、それを引き立てる極上の肴。
店内は、もはや居酒屋の喧騒ではなく、神聖な儀式を執り行っているかのような、深く、静かで、圧倒的な至福の空気に包まれていた。
「女将! おかわりだ! 俺の全財産を叩いてもいい、この瓶ごと売ってくれ!」
「ドランさん、ダメですよ。これはみんなで分かち合うものですから。少しずつ、香りを楽しみながら飲んでくださいね」
暴走しそうになるドランをたしなめながら、栞は一人一人のグラスに、黄金の雫を丁寧に注ぎ足していく。
配達員の浩太が走り回り、日本の技術の粋を集めて作られた最高峰の日本酒。
それが、異世界の過酷な日々を生きる騎士や貴族たちの心を、これほどまでに深く癒やし、笑顔にしている。
栞はワイングラスの中で美しく揺れる液体を見つめながら、あの裏口での札束の攻防は、決して無駄な投資ではなかったと確信した。
「さあ、夜はまだまだこれからですよ。最高のお酒で、今日の疲れを全部洗い流していってくださいね」
栞の温かい声に、四人は満面の笑みでグラスを掲げた。
王都アルカディアの路地裏。小さな小料理屋『結』の店内は、大吟醸の華やかな香りと、種族を超えた常連客たちの穏やかな笑い声に満ち溢れ、夜更けまで極上の宴が続くのであった。




