第22話:王都の噂と、魅惑のネギ入りだし巻き
王都アルカディアの貴族社会において、一つの奇妙な噂がまことしやかに囁かれるようになっていた。
『社交界の頂点に立つ美食の公爵夫人ベアトリスが、夜な夜な城を抜け出して秘密の晩餐を楽しんでいる』というものである。
これまで連日の派閥争いや政務の重圧により、顔色を青白くし、王城の豪華なフルコースにも一切手をつけなくなっていたベアトリス。彼女がここ数日、見違えるほどに血色を良くし、肌には若々しい艶を取り戻し、精力的に政務をこなすようになったのだ。
何らかの強力な魔法薬を手に入れたのか、はたまた伝説の錬金術師を召抱えたのか。貴族たちが放った密偵たちは、血眼になってベアトリスの夜の行動を探ろうとしたが、彼女の護衛を務めるエルフの密偵ファリスによってことごとく妨害され、誰もその『秘密の場所』を突き止めることはできていなかった。
しかし、その絶対的な秘密主義に対し、最も身近な場所で異議を唱える者がいた。
ベアトリス公爵夫人の身辺警護を直接任されている、お付きの女騎士セリーヌである。
「奥様。これ以上の単独行動、ならびに私を置いての夜間の外出は、護衛騎士として断じて見過ごすことはできません」
公爵邸の私室。銀色に輝く美しい軽鎧に身を包み、腰に細身の長剣を帯びたセリーヌは、主君であるベアトリスに向かって深々と頭を下げたまま、しかし退かぬ意志を込めて進言した。
「ファリス殿が優秀な密偵であることは承知しております。しかし、王都の治安は決して完璧ではありません。もし奥様の身に何かあれば、私は腹を切ってお詫びせねばなりません。どうか、その『秘密の店』とやらに、今夜は私を同行させてくださいませ」
セリーヌの真剣な眼差しに、ベアトリスは困ったように微笑み、やがて小さく息を吐いた。
「……貴女の忠義にはいつも感謝しているわ、セリーヌ。ファリスと二人だけというのは、確かに貴女を不安にさせてしまったわね。わかったわ。今夜は貴女も一緒に来なさい。ただし、あの店では身分を隠すこと。そして、剣を抜かないこと。約束できるわね?」
「はっ! 必ずや!」
力強く頷いたセリーヌだったが、彼女の内心は疑念と警戒心で煮えくり返っていた。
(奥様をここまで骨抜きにする店……いったいどんな怪しい呪術を使っているのか。怪しい薬物や、精神を操作する魔法が使われている可能性も高い。私がこの目で確かめ、少しでも怪しい点があれば、即座に店主を斬り捨てて店を封鎖する!)
忠義に燃える女騎士は、密かにそんな物騒な決意を胸に秘めていた。
夜の帳が下りた王都の裏路地。
ベアトリスと共に、目立たない黒のローブを深く被ったセリーヌは、周囲への警戒を限界まで高めながら暗い石畳を歩いていた。こんなスラムに近い場所に、公爵夫人が足を運ぶなど正気の沙汰ではない。
やがて、一行はポツンと灯りが漏れる、小さな木造の建物の前に辿り着いた。
入り口には藍色の布が垂れ下がっており、微かに香ばしい匂いが漂っている。セリーヌは柄に手をかけ、いつでも剣を抜ける体勢を整えた。
ベアトリスが慣れた手つきで引き戸を開ける。
カラン、コロン。
「いらっしゃいませ! あ、ベアトリス様、ファリスさん。こんばんは」
中から聞こえてきたのは、怪しげな呪術師のしゃがれ声ではなく、鈴を転がすような若い娘の明るい声だった。
店内に足を踏み入れたセリーヌは、拍子抜けしたように目を瞬かせた。そこは、白木のカウンターが美しく磨き上げられた、清潔でこぢんまりとした空間だった。怪しい魔法陣も、いかがわしい薬草の瓶もない。
だが、セリーヌの視線は、カウンターの奥で一人酒を飲んでいた巨漢の男に釘付けになった。
「……第三部隊の、バルトルト隊長?」
「ぶふぉっ!?」
名前を呼ばれた男――王都警備隊のバルトルトは、口に含んでいた熱燗を派手に吹き出しそうになり、慌ててむせながら立ち上がった。
「ゲホッ、ゴホッ! こ、公爵夫人閣下!? それに、セリーヌ殿まで! な、なぜこのような路地裏に……」
王都の治安を預かる警備隊長と、社交界の頂点に立つ公爵夫人が、揃って路地裏の小さな店で鉢合わせる。お互いに気まずい空気が流れたが、ベアトリスは優雅に微笑んで人差し指を口元に当てた。
「ここでは身分は関係ありませんよ、警備隊長。私たちも、ただ美味しいお料理をいただきに来ただけの客ですから。セリーヌ、貴女も座りなさい」
「は、はい……」
セリーヌは困惑しながらも、ベアトリスの隣の丸椅子に腰を下ろした。
ベアトリスの視線が、ふとバルトルトの目の前に置かれた皿へと向けられた。
そこには、黄金色に輝く四角いブロック状の食べ物が乗っていた。湯気を立てるその断面からは、透明な琥珀色のスープがじゅわりと滲み出しており、その中には色鮮やかな緑色の細かな粒が散りばめられている。
「店主。隊長が食べているあの美しいお料理は、何かしら?」
「ああ、あれは『ネギ入りだし巻き卵』ですよ。いつものだし巻き卵に、たっぷりの青ネギを巻き込んで焼き上げたものです」
真っ白な割烹着を着た店主――栞が、にこやかに答える。
「ネギ入り……。卵の黄色とネギの緑の対比が、とても美しいわね。私もそれをいただこうかしら」
「かしこまりました。セリーヌさんも、同じものでよろしいですか?」
「え、あ、私は護衛ですので食事は……」
「セリーヌ。ここのお料理を食べずに帰るなんて、人生の半分を損するのと同じよ。店主、この子の分もお願いね」
ベアトリスに強引に押し切られ、セリーヌは渋々頷いた。しかし、その目は鋭く栞の手元を監視していた。(どんな毒や薬物を仕込むか、私の目は誤魔化せないぞ)
栞は厨房の奥で、手早く調理の準備を始めた。
和食の板前である彼女にとって、だし巻き卵は己の技術を証明するための名刺代わりのようなものだ。そして、ネギを入れるとなれば、その難易度と味わいはさらに一段階上がる。
ボウルに新鮮な卵を割り入れ、菜箸で白身のコシを切りながら溶きほぐす。そこに合わせるのは、利尻昆布と本枯れ節から引いた、極上の一番出汁。さらに、薄口醤油とみりんで味を整える。
ここまでは通常のだし巻き卵と同じだ。栞はそこに、日本の裏口から仕入れてきた新鮮な『青ネギ(九条ネギ)』の小口切りを、これでもかというほど大量に投入した。
ネギ特有のツンとした刺激臭。しかし、これが熱を加えることで、驚くほどの『甘み』へと変化するのだ。
使い込まれた銅製の卵焼き器をコンロの強火にかける。
油引きで薄く油を馴染ませ、鍋から微かに煙が立ち昇った限界の温度を見極め、栞はネギがたっぷりと混ざった卵液をお玉で流し込んだ。
――ジューーーーーッ!!
香ばしい音と共に、出汁の香りとネギの鮮烈な匂いが一気に立ち昇り、厨房を満たす。セリーヌは思わず息を呑んだ。ただの卵を焼く匂いではない。昆布と鰹の海の香りに、ネギの青々とした大地の香りが混ざり合い、暴力的なまでに食欲を刺激してくる。
栞の手首が、まるで舞いでも踊るかのようにしなやかに動いた。
卵焼き器の縁を使って気泡を潰し、手首のスナップを利かせて、固まりかけた卵の層を手前へとクルクルと巻き込んでいく。空いたスペースにすかさず油を引き、再びネギ入りの卵液を流し込む。
ジュッ、クルッ。ジュッ、クルッ。
幾重にも層が折り重なり、分厚く、そして極限まで出汁を抱え込んだフワフワの黄金色のブロックが形成されていく。ネギの水分が出る分、普通のだし巻きよりも巻き上げるのが難しいが、栞の十年間の修業で培われた技術は、寸分の狂いもなく完璧な長方形を創り出していた。
「お待たせいたしました。当店特製、ネギ入りだし巻き卵です」
トン、とカウンターに置かれた漆黒の長皿。
そこには、鮮やかな黄色の中にエメラルドのような緑の斑点が散りばめられた、芸術品のように美しい卵焼きが鎮座していた。湯気と共に、焦げた醤油と出汁、そしてネギの甘い香りが、セリーヌの鼻腔を容赦なく蹂躙する。
「まぁ……なんて良い匂い。では、いただきます」
ベアトリスは慣れた手つきで箸を持ち、だし巻き卵を切り分けて口に運んだ。
咀嚼した瞬間、彼女の顔がふわりとほころび、恍惚とした吐息が漏れる。
「……美味しい。いつものだし巻き卵の出汁の深みに、ネギの爽やかな香りと驚くほどの甘みが加わって……お箸が止まらなくなってしまいそう」
ベアトリスが幸せそうに卵を味わう横で、セリーヌはまだ警戒を解いていなかった。
(い、いや、騙されないぞ。あの匂い、何らかの幻覚作用を引き起こす香草の類かもしれない。私が身をもって、毒見をしてやる!)
セリーヌは決死の覚悟で箸を握りしめ、黄金色のブロックを大きく切り取った。
断面から、ジュワリと出汁が溢れ出す。
それを、一気に口の中へと放り込んだ。
「…………ッ!!?」
次の瞬間、セリーヌの脳髄を、雷のような衝撃が打ち抜いた。
最初に舌に触れたのは、雲のようにフワフワで柔らかな卵の食感。しかし、それを噛み締めた瞬間、中に限界まで閉じ込められていた熱々の『一番出汁』が、滝のように口内へと溢れ出したのだ。
昆布の深い旨味。鰹節の力強い風味。
騎士として、塩と胡椒だけで焼かれた硬い肉ばかりを食べて生きてきたセリーヌにとって、それは未知なる『旨味』の奔流だった。
そして、その旨味の波を突破してくるのが、たっぷりと巻き込まれた『青ネギ』の存在である。
シャキッとした心地よい歯ごたえを残しながらも、熱を通されたネギは驚くほどに甘く、卵のまろやかさと完璧なコントラストを描いていた。ネギの青々とした風味が、卵の脂っぽさを一瞬で洗い流し、口の中をさっぱりとさせてくれるため、無限に食べ続けられるような錯覚に陥る。
「な、なんだこれは……っ!?」
セリーヌは目を見開き、口元を押さえた。
「毒でも、魔法薬でもない……ただの卵とネギの料理だというのに……どうしてこんなに、心が満たされるような味がするのだ……!」
「ふふっ。それが和食の『出汁』の魔法ですよ」
栞がカウンター越しに微笑む。
「お出汁の旨味と、ネギの甘み。素材が持っている本当の美味しさを引き出して、優しくまとめるのが板前の仕事ですから」
セリーヌの警戒心は、もはや塵一つ残っていなかった。
彼女の箸は、自分でも制御できないほどのスピードで動き始めていた。だし巻き卵を切り分け、熱々の出汁をすすり、大根おろしを乗せて味の変化を楽しむ。
一口食べるごとに、厳しい訓練と警護の任務で張り詰めていた神経が、スゥーッと解け、身体の芯からジンジンと温まっていくのがわかった。
「美味しい……本当に、美味しい……! こんなに優しくて、ホッとする食べ物がこの世にあったなんて……!」
気がつけば、セリーヌの目からは大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
忠義に燃える女騎士の仮面が剥がれ落ち、美味しいものを前にして感動する、一人の少女のような素顔がそこにあった。
その様子を見て、ベアトリスはクスクスと上品に笑った。
「どうかしら、セリーヌ。私が夜な夜な城を抜け出す理由が、わかってもらえたかしら?」
「……奥様。私の目が、完全に節穴でございました」
セリーヌは涙を拭いながら、真剣な表情でベアトリスに向き直った。
「このような素晴らしいオアシスを、私だけが知らなかったなど、一生の不覚です。これからは、夜の警護という名目で、毎晩私も奥様のお供としてこの店に通わせていただきます!」
「あら、結局貴女も食べたいだけじゃないの」
「そ、そのようなことは! あくまで護衛の任務のついででございます!」
顔を真っ赤にして弁解するセリーヌに、隣で飲んでいたバルトルトも大声で笑い声を上げた。
王都の貴族社会で囁かれる奇妙な噂。
その真相を確かめようとした生真面目な女騎士もまた、日本の職人技が光る『ネギ入りだし巻き卵』の圧倒的な旨味と優しさの前に、完全なる敗北を喫したのである。
白木のカウンターに並んだ、身分も立場も違う常連客たち。
彼らの笑顔と笑い声が交差するこの小さな店は、王都の厳しい現実から逃れられる唯一無二の場所として、その縁をさらに深く、広く結んでいくのであった。
厨房の奥で、栞は次のお酒の準備をしながら、満足げな板前の笑みを浮かべていた。




