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異世界交差点の小料理屋〜10年修行した女板前は、今日も日本の裏口から仕入れた食材で疲れた異世界人の胃袋と心を癒やします〜  作者: タカノ


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第21話:美食の公爵夫人と、黄金色のふろふき大根

王都アルカディアの中心にそびえ立つ、豪奢な白亜の公爵邸。

その最上階にある豪麗なダイニングルームで、公爵夫人ベアトリスは、目の前に並べられた豪華絢爛な晩餐を前にして、ひっそりと、しかし深い絶望にも似た溜息を漏らしていた。


「……お下げなさい。もう結構よ」

「奥様、しかし……本日は一口しか召し上がっておられません。料理長が腕によりをかけた、幻の黄金鳥のローストと、極上のトリュフをふんだんに使ったクリームソースでございます。どうか、もう少しだけでも……」

「くどいですよ。下げなさいと言っているのです。今の私に、その脂の浮いた重たいソースの匂いは、ただの毒にしかなりません」


ベアトリスの冷たく、ひどく疲労の滲んだ声に、侍女は顔を青くしてそそくさと銀の皿を下げていった。

ベアトリス公爵夫人。王都の社交界において頂点に君臨し、常に華やかで隙のない振る舞いを求められる彼女は、今、心身共に限界を迎えていた。

連日のように続く貴族たちの終わりの見えない派閥争い。笑顔の裏で刃を交え合うようなドロドロとした権力闘争。他者を蹴落とすための陰謀と策謀の渦の中で、ベアトリスは当主として気を張って生き続けなければならない。

その極限のストレスは、如実に彼女の『胃腸』を蝕んでいた。

宮廷や公爵邸で出される料理といえば、希少な魔物の肉をこってりとした脂と強い香辛料で焼き上げたものか、濃厚なバターやクリームを致死量ほど使った煮込み料理ばかりだ。権力と財力の象徴としての『美食』は、疲弊しきったベアトリスの内臓にはもはや拷問でしかなかった。


「……ああ、胃が重い。何か、もっと清らかで、心が休まるような食べ物はこの王都にはないのかしら……」


誰もいなくなったダイニングで、ベアトリスがテーブルに突っ伏しそうになった時である。

音もなく、部屋の影から一人の美しいエルフの女性が姿を現した。ベアトリスが最も信頼を置く腹心にして、凄腕の密偵、ファリスだ。


「……奥様。お加減が優れないようですね」

「ファリス……ええ、そうね。もう三日ほど、まともに食事を喉に通していないわ。お腹は空いているはずなのに、食べ物の匂いを嗅ぐだけで胸がむかつくのよ」

自嘲気味に笑うベアトリスに対し、ファリスは静かに、だが確かな自信を持って口を開いた。


「奥様。もしよろしければ、今夜、少しだけ城を抜け出してみませんか」

「抜け出す? 私が?」

「はい。実は最近、私が任務の合間に見つけた『隠れ家』があるのです。そこは王都のどんな高級店とも違う、不思議な料理を出す店でして……あそこの女将が作る料理ならば、今の奥様の疲れ切った胃の腑も、必ずや優しく癒やしてくれるはずです」

普段は食に対して全く興味を示さない、むしろ偏食家で生野菜しか口にしなかったはずのエルフのファリスが、自ら料理店を勧めてくる。

その異常事態に、ベアトリスは少しだけ興味を惹かれた。

「……貴女がそこまで言うのなら、行ってみましょう。どうせこのまま部屋にいても、息が詰まるだけだわ」


数十分後。

目立たない黒のローブを深く被り、お忍びの姿となったベアトリスは、ファリスの先導で王都の薄暗い裏路地を歩いていた。

足元は悪く、泥水が跳ね、スラムの住人たちがうろつくような治安の悪い裏通り。こんな場所に、自分を満足させるような料理店があるとは到底思えない。ベアトリスの心に疑念が湧き上がり、引き返そうかと口を開きかけたその時だった。


「着きました。ここです」


ファリスが立ち止まったのは、古ぼけた雑居ビルのような建物の、小さな引き戸の前だった。藍色の布(暖簾)が風に揺れ、そこから、オレンジ色の温かい灯りと……今まで嗅いだことのない、得体の知れない、しかし決して不快ではない静謐な香りが漏れ出していた。

ファリスが引き戸を開ける。

カラン、コロン。

真鍮の鈴が鳴り、二人は店内へと足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ! あ、ファリスさん。こんばんは」

厨房の奥から、真っ白な割烹着に身を包んだ黒髪の娘が、太陽のように明るい笑顔で出迎えた。

店の中は、外の不潔な路地裏からは想像もつかないほど、チリ一つなく磨き上げられていた。白木のカウンター、整然と並べられた見慣れない器、そして何より、空気が清浄だった。強い香辛料や、脂の焦げる嫌な匂いが一切しない。

その代わりに満ちていたのは、海と大地の恵みを極限まで煮詰めたような、甘く、深い『出汁(だし)』の香りである。


「店主。今日は私の大切な主君を連れてきた。お忍びゆえ、身分は明かせないが……見ての通り、酷くお疲れだ。胃が一切の脂を受け付けなくなっておられる。何か、奥様の身体を労わる、極上の品を頼めないだろうか」

ファリスの言葉に、店主である栞(しおり)は、カウンターに座ったベアトリスをじっと見つめた。

深いローブで顔を隠してはいるものの、その所作の美しさや、ローブの下から覗く最高級の絹のドレス、そして何より、青白く疲労しきった肌の色から、彼女が相当な身分の貴族であり、同時に極限のストレスに晒されていることは、板前である栞の目には一目瞭然だった。


「……なるほど。酷いお疲れですね。胃腸がお休みを求めているみたいです」

栞はふわりと優しく微笑んだ。

「かしこまりました。お肉もお魚も使いません。ただひたすらに胃に優しく、そして心をホッと温める、日本の究極の『引き算の料理』をお出ししますね。少しだけ、お待ちください」


栞は厨房の奥へと戻り、すぐさま調理を開始した。

ベアトリスは、出された温かいおしぼりで手を拭きながら、半信半疑の目で厨房を見つめていた。

(肉も魚も使わない料理……? まさか、ただの草の塩茹でや、味気ないポタージュを出すつもりではないでしょうね)

いくら胃が疲れているとはいえ、彼女は舌の肥えた美食の公爵夫人である。ただの質素な料理で満足するような安い味覚は持ち合わせていない。


そんなベアトリスの思考をよそに、栞の手元では着々と和食の魔法が紡がれていた。

栞が日本の裏口(業務用スーパー)で今日仕入れてきたばかりの食材。それは、驚くほど太く、瑞々しい、純白の『大根』だった。

大根という食材は、和食において最も奥深く、ポテンシャルの高い根菜である。上部は甘く、下部は辛い。生で食べればシャキシャキと、煮込めばホロホロに。

栞は、大根の最も甘みが強く、繊維のきめ細かい『真ん中の部分』だけを贅沢に切り出した。厚さはなんと三センチ以上。極厚の輪切りである。

「大根は、皮の近くに硬い繊維と筋が通っているから、もったいないと思っても厚く剥くのが鉄則よ」

栞は包丁を滑らせ、分厚く皮を剥き落とす。そして、煮崩れを防ぐために角を削り落とす『面取り(めんとり)』を施し、裏側に火が通りやすく、かつ味が染み込みやすくするための十字の切れ込み『隠し包丁』を深々と入れた。

たかが大根の輪切り一つに、これほどまでの手間と技術を注ぎ込む。それが和食の『心』だ。


しかし、これで終わりではない。大根をいきなり出汁で煮てはいけない。

栞は大鍋に水を張り、そこに『ひとつかみのお米』を放り込んで、大根と一緒に下茹でを始めたのだ。

米のとぎ汁、あるいはお米そのものを入れて大根を下茹でする。米のデンプン質が大根のアクやえぐみを強力に吸着し、同時に大根の持つ純白の美しさをさらに際立たせるための、先人たちが編み出した究極の科学である。

コトコトと竹串がスッと通るまで下茹でした大根を取り出し、水で綺麗に洗い流す。

そこへ、いよいよ主役の登場だ。

栞が丹精込めて引いた、利尻昆布の最高級の一番出汁。黄金色に輝くその出汁を鍋に張り、下茹でを終えた純白の大根を静かに沈める。

極弱火で、出汁が沸騰しないギリギリの温度を保ちながら、じっくりと、じっくりと大根に出汁の旨味を含ませていく。大根自身が持つ大地の甘みと、昆布が持つ海の旨味が、ゆっくりと鍋の中で交わり、溶け合っていく。


「ふう……大根はこれでよし。次は、上に乗せるお味噌ね」

大根を煮込んでいる間、栞は小さな小鍋を取り出した。

日本の『白味噌(西京味噌)』をたっぷりと入れ、そこに本みりん、料理酒、少量の砂糖を加えて火にかける。焦げないように木べらで丁寧に練り上げながら、アルコールを飛ばし、滑らかでツヤのある『玉味噌』を作り上げる。

そして仕上げに、すりおろしたばかりの『柚子(ゆず)』の皮を、たっぷりと混ぜ込んだ。

——フワァァァァッ。

その瞬間、厨房内に爽やかな柑橘の香りが爆発的に広がり、出汁の香りと混ざり合って、ベアトリスの鼻腔を強烈にノックした。


(な、何……? この、目が覚めるような清涼感のある香りは……!?)

ベアトリスは思わず背筋を伸ばし、深く息を吸い込んだ。

柑橘類の香りだが、レモンやオレンジとは全く違う。もっと奥深く、凛としていて、心の中のモヤモヤとした霧を一瞬で晴らしてくれるような、圧倒的な気品を持つ香り。

疲労で完全に閉ざされていたはずのベアトリスの胃の腑が、その香りを嗅いだ瞬間に『きゅぅっ』と小さく鳴った。


「お待たせいたしました」


栞がカウンターに静かに置いたのは、漆黒の美しい深皿だった。

その皿の中央に鎮座しているのは、ただ一つの、分厚く丸い純白の塊。

下茹でと昆布出汁での煮込みを経て、大根はもはや野菜ではなく、透き通るような琥珀色を帯びた宝石へと変貌していた。表面からは熱々の湯気が立ち昇り、大根の頂上には、ぽってりとした黄金色の『柚子味噌』が美しく乗せられている。


「当店特製、極上昆布出汁の『ふろふき大根』でございます。熱いうちに、お箸で切り分けて、お味噌を絡めて召し上がってください」

ふろふき大根。

それを見たベアトリスの最初の感情は、やはり『落胆』に近いものだった。

「……ただの、根菜の煮込み? これが、私を満足させる極上の品だとでも言うのかしら」

見た目は確かに美しい。だが、肉も魚もなく、華やかなソースもない。ただ丸い根菜に、黄色いペーストが乗っているだけではないか。これが王城で出されれば、料理長は即座に解雇されるレベルの質素さだ。

「奥様。騙されたと思って、一口召し上がってみてください。この店主の料理は、見た目の派手さではなく、本質にこそ魔法が宿っているのですから」

隣に座るファリスの真剣な説得に、ベアトリスは小さくため息をつき、栞が用意した細身の箸を手に取った。


極厚に切られた大根に向かって、箸を突き立てる。

……硬い根菜なのだから、力を入れなければ切れないだろう。そう思って、ベアトリスが指に力を込めようとした、その瞬間だった。


——スゥッ。


「…………え?」

ベアトリスは、自分の手の感覚を疑った。

抵抗が、全くなかったのだ。

箸の先は、まるで焼きたての柔らかなスフレか、極上の絹ごし豆腐に触れたかのように、三センチ以上ある分厚い大根を、いとも容易く、一切の引っ掛かりもなくスッと真下まで切り裂いたのである。

「嘘……? 根菜が、こんなに柔らかいなんて……」

驚愕に目を見張りながら、ベアトリスは切り分けた大根に黄金色の柚子味噌を少しだけ絡め、湯気を立てるそれを静かに口へと運んだ。

熱い。火傷しないように、ハフッ、と息を吐きながら咀嚼する。


「…………ぁ」


次の瞬間、ベアトリスの脳内で、すべての常識が音を立てて崩れ去った。

舌の上に触れた大根は、噛む必要すらなかった。口の中でホロリとほどけ、限界まで吸い込んでいた『昆布出汁』が、熱い奔流となって口内へ爆発的に溢れ出したのだ。

大根自身が持つ、大地の限りない優しさと甘み。

昆布出汁がもたらす、海のように深く、どこまでも透き通った圧倒的な『旨味』。

それらが一体となって、疲労でボロボロになっていたベアトリスの胃の粘膜を、まるで聖女の回復魔法のように優しく、温かく包み込んでいく。

油を一滴も使っていない。肉の気配も全くない。ただひたすらに、純粋な水分と旨味の結晶。

そして、その圧倒的な優しさを引き締めるのが、上に乗った『柚子味噌』の存在だった。

白味噌のまろやかな塩気とコク、みりんの甘みが、淡白な大根の味に鮮やかな輪郭を与え、最後に鼻を抜ける柚子の清涼感が、口の中をどこまでも爽やかにリセットしてくれる。


「な、なんてこと……」

ベアトリスの瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。

「ただの根菜が、お肉の塊よりも……王城のどんな高級なスープよりも、深い味がする……。それに、この黄色いソース……甘くてしょっぱくて、この素晴らしい柑橘の香りが、いくらでも食欲を湧き立たせてくれる……!」


ベアトリスの箸は、もう止まらなかった。

あれほど食事が喉を通らなかったというのに、二口目、三口目と、熱々のふろふき大根を夢中で口に運ぶ。

ハフハフと熱がりながら、大根から溢れ出す出汁を啜り、柚子味噌の香りに酔いしれる。

胃が、腸が、細胞のすべてが、この清らかで力強い『和食の旨味』を歓喜と共に吸収していくのがわかった。

派閥争いの重圧。貴族としての仮面。他者を蹴落とすための冷徹な思考。

そういったドロドロとした精神の疲労が、温かい昆布出汁と柚子の香りの前に、嘘のようにスゥーッと溶けて消えていく。


「ふぅ……ふぅっ……」

あっという間に、分厚い大根を最後の一切れまで平らげてしまったベアトリスは、皿に残った柚子味噌を一滴残らず舐め取りたい衝動を、貴族としてのギリギリの理性で抑え込んだ。

しかし、その顔に浮かんでいた疲労の影は完全に払拭され、代わりに、血色の良い、心から安堵したような少女のような笑みが咲き誇っていた。


「……信じられないわ。こんなに心が満たされる食事が、この世にあったなんて」

ベアトリスは深く息を吐き、栞に向かって深々と頭を下げた。

「店主。私の無礼を許してちょうだい。見た目の華やかさだけで料理を判断し、あなたの腕を疑ってしまった。……この料理は、まさに至高の芸術よ。私の張り詰めていた心の糸を、見事に解きほぐしてくれたわ」

「お粗末様でした。お口に合ったようで何よりです」

栞はふきんで手を拭きながら、ニコリと微笑んだ。

「お野菜とお出汁は、疲れた身体にとって最高のお薬ですから。いつでもまた、息抜きにいらしてくださいね」


ベアトリスは、隣で得意げな顔をしているファリスを見て、クスクスと上品に笑った。

「ええ、必ず来るわ。……ファリス。貴女がこんな素晴らしい隠れ家を一人占めしていたなんて、主君として少し嫉妬してしまうわね。明日から、私の夜の警護はこの店での食事を兼ねることにするわ」

「はっ! 喜んでお供いたします、奥様!」


王都の社交界を牛耳る美食の公爵夫人。

彼女が、日本の素朴な家庭料理である『ふろふき大根』の前に完全に陥落し、小料理屋『結』の常連客のリストにその名を連ねた瞬間であった。

華やかなソースも、希少な魔物の肉もいらない。必要なのは、極限まで研ぎ澄まされた出汁と、食べる人を思いやる板前の『心』だけ。

深夜の路地裏。

柚子の爽やかな香りが漂う店内で、ベアトリスとファリスの静かで楽しげな笑い声が、夜風に溶けていつまでも響いていた。

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