第5話(1)
夢だとわかった。
今立っているこの場所が、一番最初に世話になった組織のアジトであること。目線が低く、周りの建物すべてが大きく見えること。鼻先を擽る、優しい石鹸の匂い。
何より、彼女が笑いかけてくれていたこと。
「こんにちは僕。いい天気ね」
凛とした声音は不思議と心地よかった。
彼女は長い髪を高い位置で結び、黄みがかった双眸を細める。悪戯っぽく笑うのが懐かしい。
風竜は明晰夢だと認識していたからこそ、何も答えなかった。此処で話をしたとしても現実は変わらないと分かっていた。
「新しいお家はどう? 可愛い子に拾われたのね」
少女は構わず言う。少年は黙りこくった。
「グローブ、大切にしてくれてるんだ。お姉さん嬉しい」
彼女は白い制服をはためかせ歩き出す。
黒髪の少女は、一度振り返り手を振った。頑張ってねという台詞を言い残して去っていく。
風竜は意識が浮上するのを感じ、瞼を持ち上げた。
✶
綿菓子に似た香りで目を覚ます。
全身がふわふわとした温かいものに包まれていた。布団で朝を迎えるなど久しく、少年は暫し丸まる。
カーテンの隙間から差す日光に目を凝らした。隣に横たわるベッドに誰もいないことが分かると、のっそりと起き上がる。
(詩歌、もう起きてんだ)
畳まれた掛け布団やシーツは、ホテルのものと思うほど皺一つなかった。
風竜は盛大な欠伸を漏らして立ち上がる。まだ寒さが居座る季節だが体に堪えることはなかった。
借りた霞人の部屋着は少し大きい。それが癪に触るようで、彼は頑なに長い袖を捲くることはなかった。
寝室を出るとすぐ、リビングからテレビの音が聴こえる。
日当たりのよい居間は眩しく、目が冴えるようだ。
少年は台所で作業していた長髪の青年に声を掛ける。彼は昨夜と同じエプロンを身に着けていた。
「おはよう、よく眠れたみたいだな。顔洗ってきなさい」
相変わらず糸目はどこを見ているのか分からないが、風竜は気に留めずに踵を返す。よたよたとした足取りで狭苦しい洗面所に立った。
冷たい水が顔面を打つ。眉を顰め、彼は鏡を見上げた。
(なんか、すげー変。この街にこういう家あったんだ)
以前なら泊めてくれたアニキに叩き起こされるか、夜中に争いが始まった逃げ出すか、または眠れずに太陽が昇るのを眺めているかだった。
雫が顎を滴る。睫毛についた水が震える。
だから目前に映る自分が、嘘のように見えた。
ふと、壁越しに詩歌の呼ぶ声が鼓膜を擽る。彼は顔を思い切り左右に振って水気を払い、残りは服で拭った。
リビングに戻ると、昨晩鍋を広げていたテーブルに朝食が湯気を立てていた。白米に味噌汁、焼き鮭、漬物。手本のように日本的な食卓だ。
飛び跳ねながら席に着くと、向かい側に茶髪の青年が座る。彼は少年の服を見て叱り口調で言った。
「こら風竜、タオルで拭けと言っただろう。風呂の時といい、なぜ服をタオル代わりにするんだ」
「あれ使っていいの」
「勿論だ。今日は出かけるんだから着替えなさい」
落ち着いた声は言い終えると、両手を合わせる。黒髪の少年は唇を尖らせつつも共に食事の挨拶をした。
相変わらず彼の箸の持ち方は悪いが、どうやら本人も使いにくいようで時折、視線を前方の手元に向ける。懸命に真似をしているらしい。
気づいた詩歌は丁寧に教えてくれた。昨日の夕食も食べづらかっただろうと言うと、風竜は鍋の美味しさで気にならなかったと答える。
「なー、なんで詩歌ってそんなに優しいの。オレ、急に来たやつなのに」
いくらかマシになった箸で、鮭の骨を摘み出す。糸目の彼はお椀を手にしながら、当たり前のことだと返した。風竜には到底理解できない返答だった。
彼は頬いっぱいに詰め込んだ白米を噛み、ニュース番組を一瞥する。No.17でLead Letterと民間組織が衝突し、何十人と死傷者を出したそうだ。
興味なさげに少年は目を逸らす。飲み込むと、詩歌にもう一人の住人の所在を尋ねた。
「霞人ならそろそろ戻るよ。毎朝パトロールをしているんだ」
ガチャリと玄関が開く音がした。噂をすれば何とやら、霞人が帰ってきたのだ。
彼は切れ長の目をちらりと遣ったが、無駄に口を開くことなく席に着く。用意されていた朝食を黙々と食べ始めた。
隣の風竜は露骨に渋い顔をしていると、年長者の彼が言う。
「風竜は霞人と一緒に響を学校まで送ってやってくれ。七時二十分頃に来るから。そのあとは私と買い出しに行こう」
詩歌は一足早く、茶碗を重ねて席を立つ。少年は素直に了承するとテレビ画面の時計を見た。あと十分もないではないか。
慌てて味噌汁で流し込んで立ち上がる。同時に隣の青年も食べ終えたらしい。思わず早、と声を上げたが彼は答えることなくシンクへ箸を下げる。態度の悪さは慣れないようで早速少年は苛立ったのだった。
霞人の服を借りて着替えているとチャイムが鳴る。
響だ。
扉を開けた先、白いランドセルを背負った主がいた。
「おはよ、カイ、フリュー」
彼女は据わった目で二匹の犬を見上げた。




