第5話(2)
彼女は据わった目で二匹の犬を見上げた。
主からの挨拶に風竜も返すと、外気の肌寒さに一瞬身震いする。上着に腕を通しながら靴を履いた。
朝日が眩しい。冴え渡る空気が肺に入っていく。
ここからでは見えないが、大通りは既に通勤する車が走っているのだろう。エンジン音が絶え間なく通過していった。
霞人も準備を終えて玄関を出る。
洗い物の途中だった詩歌が手を拭いて見送りに出てきた。少女は幼気な声で、いってきますと言うと彼は微笑んで、いってらっしゃいと返す。
通学路は相も変わらず排気が飽和していた。酔っ払いが捨て置いたゴミが散乱し、烏が突いて回る。
遠方からは言い争うような声が響いてきたが、雑踏に掻き消された。歩いている人は少ない。響以外に登校している子どもは見かけなかった。
「キョウさん、学校ってほんとに安全なんですか?」
ポケットに両手を突っ込みながら風竜が尋ねる。男二人の間を歩く少女は頷いた。
「大丈夫、先生がいるから」
低俗な人間が溢れかえるこの街で、力の弱い子どもは格好の餌食である。加えて子どもの数が減っていることによって希少性は高まり、事件の発生件数も右肩上がりだ。
それでも対策を講じない国家は、張りぼての飯事だと非難されている。だから皆、自己防衛を図ろうと一致団結を図っているのだ。
響に至っては一組織のトップ。狙われても当然の立場である。
校舎が見えた。付近ではランドセルが散見されたが、やはり少ない。人数の割に立派な建物だと、風竜は他人事のように見ていた。
狭い歩道に入ると、顔に入墨の入った男女が歩いてくる。少年はぶつからないように避けたが、何故か女の方に肩が接触した。
向こうから衝突してきたのである。少年は驚いて振り返った。すると彼女はわざとらしく痛がり、それに男が過剰に反応する。弾丸のようなスピードで彼を怒鳴りつけてきた。
聞き慣れない、異国の言葉で。
藪から棒に突きつけられる理不尽に、単細胞な風竜は大声で返す。あまりにも低い沸点である。
「フリュー、相手しない方がいいよ。面倒くさそう」
「だってあっちが悪いんですよ!?」
「お嬢が言ってるんだ、従え馬鹿ガキ」
霞人の氷の一言に、彼は犬歯を剥き出しにしたが渋々言う事を聞く。何より主の冷ややかな視線が痛かった。
しかし、並進しようとした足は引き止められる。入墨の男が黒髪の少年に後ろから掴みかかったのだ。
「なッにすんだクソ野郎ッ!」
振り払えたが体幹を崩す。彼に拳が牙を剥いた。
対応できない、肝が冷える。
その刹那、男の体が反対側の歩道に吹き飛んだ。
何事かと視線をずらすと、固く握った右手を突き出す青いメッシュが見えた。
「トラブルを起こすな。お嬢が遅刻するだろ」
地を這う低音はそう言い残し、汚物に向ける眼差しで男女と少年を見た。用が済むと何事もなかったかのように、響の隣を歩き始める。
風竜は呆気にとられたが気を取り直して、転がる異国の男に舌を出して去って行った。
喧嘩に発展しかけたが、無事、飼い主を学校に送り届けることができた。帰路は二人きりだったため、空気が死んでいたことは言うまでもない。
家に辿り着く寸前、青年が体の向きを変えた。どこへ行くのかと問うたが案の定、答えてくれることはなかった。
どうせパトロールだろうと考えていると、駐車場から名を呼ばれた。詩歌だ。
彼に白の軽自動車から手招きされ、風竜はさながら犬のように駆けつける。助手席に座るとシートベルトを締めるように言われた。
「ご苦労さま、すぐ出るようですまない」
「全然いいぜ。なに買うの」
「君の服とスマホだ。霞人のスマホも直したいがアイツ、街に行ったろう」
エンジンをかけ、車が前進する。少年は首肯した。
車内にノイズの多いラジオが流れている。電波が悪い云々ではなく、この自動車が古いのが原因らしい。
無心で耳を傾けていると、運転席から問いを差し出された。
「千万路組を気に入ってくれるか」
質問の意図はわからなかった。だが風竜は深く考えずに、勿論だと返す。どこかに拠点を置いたことがなかったから新鮮だとも。
「あ、でもカイのやつは嫌いだ」
「はは、やはり駄目か。私の予想通りだ」
ハンドルを右に切る。廃屋に並ぶ建設中の高層ビルが顔を覗かせた。荒れた街路樹の下にゴミが眠る。夜職の看板に走るスプレーの落書きを一瞥した。
駅に程近い立体駐車場に車を留守番させ、二人は降りる。
まずは服を買おうと人の賑わう商業施設へと入って行った。店内は風竜の見たことのない物が陳列されており、もし彼に尾があったなら千切れるほど振っていただろう。
青年御用達のアパレルテナントに着く。質素な色合いにビビッドカラーが映える服が多いようだ。
彼に何度か服を体に押し当てられ、好みを尋ねられる。ファッションの良し悪しは分からないが、少年は一先ず何でもいいと言った。
三十分ほど掛けて数着選ぶと、ようやく会計に向かう。早くも風竜は疲れてしまったようだ。
だが、似つかわしくない銃声が空気を裂く。
「大人しくしろッ 今からお前ら全員人質だッ」
支離滅裂な状況に、二人は啞然とした顔を見合わせるのだった。




