第1話(2)
「《|人はそれを家族と呼ばない《アイ・チェリッシュ・ユー》》」
それは紛うことなき“言影”だった。
驚く周囲に構わず、少女の足元の影から鎖が伸びる。先端は少年――風竜の喉に巻きつき、やがて首輪のような影を落とす。
制服の大人たちは、その様子に動揺した言葉を零した。一瞬ばかり皆が体を硬直させたが、長身の女が即座に指示を出す。小学生ともども捕まえろと。
何が起きているのか理解できないまま、風竜は少女を凝視する。彼女は手を離すと、据わった眼差しで言った。
「フリュー、Go」
彼女の言葉を合図に身体の痛みが和らぐ。足の疲労も、重力の重さも薄くなった。
同時、二人の大人がこちらに飛び掛かってくる。彼は理解するよりも早く、事態が好転する予感を嗅ぎ取った。
まずは正面の男をしゃがんで躱す。そして下半身に突進し、相手の腹に右肩をめり込ませた。勢いを殺さず、そのまま思い切り押し倒す。
流れるように両手をつき、逆立ちする要領で両足を空へ蹴り上げる。もう一人の顎を強打すると、彼は腕の力で飛び下がった。
信じられないほど体が軽い。おまけに相手の動きが妙に遅く見えた。
明らかに調子がいい時の動きができている。風竜はそう思って、感動を覚えていた。
彼は室外機の後ろに隠れる少女へ笑顔を向ける。
「すげーなあんた! 自分の体じゃないみてーだ!」
「まだ残ってる、集中して」
年下からの冷たい返答も気にならないほど、彼の気分は上擦っている。次に後攻の二人に目を付けた。
一気に踏み込み、左の女の腹に拳を叩き込む。相手が防御のためか言影を唱えかけるが、子どもの方が速かった。呻く彼女には追い討ちで、もう片方の拳で頬を殴打する。
背後、最後の一人が警棒らしきものを振り被った。凄まじい力で振り下ろされ、少年の左腕を掠める。しかしダメージになることはなく、彼は振り向きざまに右足の蹴りをお見舞いした。
彼の繰り出す攻撃は、少年の体から放たれるパワーを遥かに上回っている。呆気なく制服の四人は地に伏せたのだった。
「やば、オレもすげー……」
転がる戦績を見下ろし、風竜は高揚した顔を隠せずにいる。
他方、喜ぶ彼を眺めていた少女はランドセルを背負い直した。相変わらずの無表情で、短髪の少年の傍を通り過ぎる。
「じゃあフリュー、House」
「は、え? ちょ、待っ、なにこれ!?」
彼女の台詞に呼応して、彼の首がぎりりと絞まる。正確にいうのなら、リードに繋がれた犬を引き摺るようだった。
騒ぐ彼の声など聞くつもりはないのか、小学生は黙々と少年を連れて歩く。
三月の冷えたビル風が吹き抜けていった。
✶
最近できたばかりの高層ビルよりも、落魄れ外壁が剥がれた廃ビルが林立する街――No.09。
ここの人口は小規模ながら、凶賊と化した者たちが徘徊する無法地帯へと堕ちかけていた。治安など高が知れている。
路地裏を歩けば喧嘩に絡まれ、奥の店に入れば警察沙汰。絵に描いたような、暴力に支配された街である。
「なぁ、なーって。コレあんたの言影?」
「……」
春の陽気が鼻腔を擽る。
風竜は、女児に続いてしばらく歩いていた。駅前大通りの坂道に連なる店はシャッターを硬く閉ざしている。
少女は振り返ることも答えることもなく、規則正しく歩を進めるばかりだ。
ふと坂の途中で足が止まった。少年は視界の上部を塞ぐ看板を見上げる。
“ナインショット”
文字の背景にギターの写真が貼られている辺り、ライブハウスだろう。
雑居ビル同士の間、地下にある会場だがそこへは行かない。その入り口の脇、狭い通路を行くと雨晒しになった非常階段が出迎えた。
されるがままに彼は彼女の後ろを行く。
かん、かん、と鉄の硬い音が一歩踏み出す度に鳴った。何度か錆びた扉を無視して、三階のドアに辿り着く。
少女は鍵を開けると、無機質に帰宅の挨拶を口にした。
彼女はそこで始めて目を遣る。入れとでも言っているようで、風竜はおずおずと玄関に足を踏み入れた。
だが、歓迎されている筈もなく。
「《私が雨となろう》っ」
聞こえたのは渋い声で唱えられた呪文。咄嗟に腰を落とす。ほぼ同じタイミングで頭上に影の矢が出現した。
反射的に後ろへ下がろうとする。が、鏃が体に触れる方が先だった。
矢は実体がなく、皮膚を切り裂くことはなかった。しかしそれと同等の痛みが、全身の神経を引き千切る。唐突に襲ってきた鋭痛に風竜は絶叫した。彼は耐えられずに膝をつく。
「やめて、シイカ」
凛とした声が制止する。
途端、激痛が消えた。
「虚を突く真似をしてすまない。知らない人間が侵入してくると思ってな」
死を想起した心臓がばくばくと鼓動し、肌という肌から汗が噴き出た。少年は大きく呼吸しながら顔を上げる。
視線の先には、糸目の大男がこちらを見下ろしていた。




