第1話(1)
こんにちは僕。今日もお手伝い? あ、違うんだ。
あたしはね、お仕事中。でも言影使いすぎちゃってさ、疲れちゃった。
ねぇ僕、一つ頼み事を聞いてほしいんだ。このグローブ、貰ってくれない?
お姉さんからのプレゼントってことで。
え、中古品はいらないって? そんなこと言わないでよ、ほらどうぞ。
それ、何があっても手放しちゃだめだからね。絶対。お姉さんとの約束。
じゃ、そろそろ戻るよ。またね、ばいばい。
✶
「西に逃げたわよ!」「おい待て!!」
知らない大人たちの切羽詰まった声が、埃臭い廃ビル内に谺する。階上から響いてくる、急いた足音には焦燥が滲んでいた。
うるさ、と少年は脳内で吐き捨てる。年の頃は十六、七あたりだろう。
彼はどこか蚊帳の外な顔をして非常階段を駆け下りた。蛍光灯が弱々しく点滅して、Pタイルの敷き詰められた地面は暗い。
春先の冷えた廊下に出る。
ひび割れた打ちっ放しコンクリートに、衣服や空き缶が散らかっている。天井からは剥き出しになった配線が垂れ下がっていた。
手袋の革が汗で張り付く。必死で足を振り出し、出口へと向かうがまだ遠い。
巨大な破壊音が轟く。
建物全体を震わせ、足裏がぐらりと揺れた気がした。
追ってくる男は白と黒の制服である。あれを見かけたら逃げろとアニキたちから言われていたのを思い出した。“言影狩り”だと冗談めかして。
少年は短く息をし、今度は慣れたように階段を飛び降りる。
古いスプレーの落書きを一瞥した。四階。
少年は日だまりを選んで跳躍する。太陽が傾く時間のせいで、影が色濃く床に広がっていた。
「いたぞ、こっちだ!」
「うっわ〜先回りかよ」
廊下の先に制服の壁が見えた。彼はあからさまに嫌そうな顔をして笑う。
近くの窓を開け放った。目を遣る。隣は人気のない雑居ビルの屋上。距離は三メートル弱。高さもある。
だが彼は怖気づくことなく、思い切りサッシを蹴った。
予想していたよりも勢いが有り余り、屋上に転がるも同然で着地する。砂が口に入り、咄嗟に唾を吐き出した。
初春の夕暮れは冷える。風が強く、右から思い切り突き飛ばされそうになった。
少年は振り返ることなく駆け出す。後頭部に投げつけられる、呪文に似た文言に反吐が出る思いをしながら、彼は淵を目指した。雨樋を伝って降りるつもりだったのだ。
しかし寸前で、あの厨二じみた台詞が再び聞こえた。
ずぷりと足が沈む。
目線が下がった、途端、視界が転倒する。
「こんっのクソ言影がよォッ」
足元に落ちる自分の影が、まるで沼のように泥濘む。全速力で走っていたこともありバランスを崩してしまった。
安全柵のない屋上、彼は高所から落下した。
胃の浮く感覚に彼は奥歯を噛み締める。転落死が脳裏を掠めたが、幸い、放置されていたゴミ捨て場に着地した。
体の沈むゴミ袋の山からは腐臭が吹き出す。盛大な音とともに青いペールが横倒しになった。
とは言え衝撃は大きい。指先までもが痺れるようだ。
視野は回っているが、追手が近いかもしれない。彼は無理やり立とうとした。
不意、人の気配を察する。
狭い路地裏、半壊の室外機。その後ろに一人の小柄な少女がこちらを見ていた。
「びくった、なんだ子どもか……」
黒髪の彼女は白いランドセルを背負い、しゃがみ込んでいる。その近くには猫がいたが、少年に驚いたのか走り去っていった。
彼女の視線は猫の尾を追い、彼へと戻される。
円な瞳は不思議にも据わっており、まるで人形のようだった。
「逃げてるの?」
「はァ?」
小学生は傷だらけの少年に臆せず話しかける。黒目がちな双眼に見つめられ、気味悪く思った彼は立ち上がった。
息抜きも束の間、近くから怒声が響いてくる。
背後には不気味で巨大な壁画。両側にはクローズドの英単語が落ちている、荒れた無人の酒場。この先のT字路しか道はないらしい。
ここでは袋の鼠だ、早急に立ち去るのが吉だろう。
少年は満身創痍の体を引き摺るように、開けた場所へ向かった。だが、幼気な声がその背を引き止める。苛立った彼は少女に向かって怒鳴りをあげようとした。
が、それよりも先に大人の声が響く。
「逃走者発見。隣のは、小学生? 人質のつもりか?」
見る限り四人、同じ制服を身に纏っている。インカムに手を当て、一人がこちらに来いと手招きした。
言わずもがな少年は乗らない。両手の指抜き手袋をきつく握りしめた。
傍らの女児がおもむろに立ち上がる。
「あなた、悪いことした言影持ち?」
「ちげーよ、急に襲ってきたんだコイツら。あと言影なんて持ってない!」
黒髪の彼は腰を落とし、すぐにでも動ける体勢になったが痛むようだ。顔色は芳しくなかった。
苦しげな返答を耳にした少女は、そう、と淡泊な相槌を打つ。
白の服が迫りくる。横に広がられたせいで逃げ道が塞がれてしまった。
無理に突破するのは良くない。分かってはいるがそれ以外の手段がない。彼の眼光が鋭利になった。
ふと少女が問う、助かりたいかと。少年は怒りに染まった口調で当たり前だと答えた。
敵との距離は三メートルを切る。
彼女は続けて尋ねた。
「じゃあ、あなたの名前を教えて」
何を言っているんだと彼は一瞬目を逸らす。変わらず少女は真っ直ぐに目を向けるばかりだ。
こんな非力な女児に何かできるとは到底思えない。しかし今は藁にも縋る思いで、間合いを詰めてくる大人たちに抵抗したかった。
この際、どうにでもなれ。
少年は投げやりに叫ぶ。
「風竜!!」
「フリューだね、わかった」
今にも相手が飛びかかろうとしている。彼は拳を握りしめた。
すると唐突に、固めた右手に少女が触れる。狭い路地に風が吹き付け、黒髪が舞い上がった。彼女は目を伏せ確かにこう言う。
「《|人はそれを家族と呼ばない《アイ・チェリッシュ・ユー》》」
それは紛うことなき“言影”だった。




