第9話(2)
曙の空、二羽の雀が横切る。
冷え切った空気に肺が驚いた。春先とはいえ桜の蕾も身を縮めているだろう。
制服に着替えるも肌寒さは貫通してくる。風竜は重い瞼を必死に持ち上げながら、明るくなっていく東を見つめた。
傍ら、霞人は長い前髪を片方だけヘアピンで留める。
「なにそのボロっちぃの」
「昔お嬢からもらった物だ、次悪く言ったらぶっ飛ばす」
「うわ短気」
寝起きだからか、青年の理不尽さは普段以上である。
今回は霞人のルーティンに従う予定だ。彼曰くほぼ毎日、朝に問題が発生することはないらしい。
駅の通りを外れれば住宅が並ぶ。夜職の者、深夜業の者、酔い潰れ目覚めた者、みな揃って疲れた顔をしていた。
古いアパートを横切る時、ちょうど老婆が出てくる。
彼女は草臥れたジャージ姿で、眼前を過る背の高い青年を見上げた。慣れた様子で声をかけ、挨拶を交わす。
「赫! わりいげんともゴミ出し手伝ってぐれねえがい」
「あぁ、持とう」
強い訛りで聞き取れない。風竜は二人を交互に見た。しかし青年は、さも当然のことを行うかのように、老婆の足元にあったゴミ袋を掴んで行ってしまう。
彼は追おうとするが老婦に呼び止められ、追加のゴミ袋を任されてしまった。中々の重さを投げられたせいでよろめく。
その後も住民らは、無愛想な青年だのに挨拶をしてくる。おまけに犬の散歩をやってくれと呑気な話が飛んできた。
「ただのボランティアじゃん!!」
街路樹の水遣りをしながら風竜が叫ぶ。草むしりをしていた霞人は顔色一つ変えずに手を動かした。
「言ったよな、千万路組はこの街を守る組織だ。お前が居候していた他の組とは訳が違う」
「だからってこれのドコに強くなる要素があんだよ!」
家を出てから一時間以上経つ。そこまで長距離を移動している訳ではないのに、近場でのイベントが多すぎるのだ。少年は地団駄を踏んでホースを向ける。
青いメッシュは特別に説明するでもなく、緑の詰まったポリ袋の口を結んだ。朝日で伸びた彼の影が、少年の影に重なる。
おもむろに中年の男が近づいてきた。彼は霞人に何やら耳打ちをすると踵を返す。
風竜は水を止め、知り合いかと尋ねた。
「お前には関係ない。手を動かせ」
軍手を脱ぎながら答える。彼にとっては普段通りのことらしい。気取った態度の彼に少年は噛みつこうとしたが、あっさりと躱されてしまった。
時刻は七時を過ぎる。
やっと巡回という名の奉仕作業を終え、住処へ帰ることとなった。
腹を空かせた風竜は、居間から漂ってくる朝食の香りに引き寄せられる。迎えてくれた詩歌に、あからさまに演技な半泣きをしてみせた。
澄まし顔の霞人を思い切り指さし、愚痴を垂れ流す。が、彼は冷静に返すばかりだ。
「手伝わされただけなんですけど! 行った意味ない!」
「この程度で音を上げるのか、弱者が」
「てめぇは黙ってろボケナス!!」
「ははは、朝から元気だな」
強くなるための訓練や修行を期待していた風竜は、悔しげに糸目の男を見上げる。しかし彼はとりつく島もなく食卓についた。
騒ぎ立てる彼を無視して、青いメッシュの青年も腰を下ろす。響を学校に送らなくてはいけないため遅れは取れないのだ。
黒髪の少年は納得がいかない様子だったが、胃の虚しさに負けて手を合わせる。不満げな表情だったが、腹が満たされていくうちにそれは薄れていった。
茶碗と箸のぶつかる音だけが鳴る。無駄口を叩くよりも胃に何かを詰め込むことで忙しいようである。
ふと、向かいに座る詩歌が言った。
「食事中くらいグローブ、外したらどうだ」
視線は風竜の手元に向けられる。経年劣化した黒革は、鈍く光を反射していた。
少年は咀嚼しつつ拒否する。理由を尋ねたが、彼は頑なに譲らず箸を置こうとしない。骨張った手に馴染んだそれは、まるで皮膚のようだった。
左に座っていた霞人が、味噌汁を啜りながらちらりと見遣る。よく見ると指抜き手袋は微かに赤みがかっていた。
「……血か、それ」
指摘された風竜は、左手を鼻先に引き寄せ、すんすんと匂いを嗅ぐ。鉄の匂いがした。
その時、少年の表情が翳る。
「おねーさん、元気かな」
無意識に零れた言葉だったのだろう。低く小さな独り言に、詩歌は姉がいたのかと問うた。しかし少年は首を振り、家族はいないと返す。
このグローブは幼い頃、見知らぬ女からもらったものだ。彼女が誰なのかも、名も知らないと言う。
俄に、長髪の青年が息を呑んだ。
風竜はごちそうさまと手を合わせ、茶碗を重ねて席を立つ。その後頭部を見送る詩歌は、薄い唇を噤んだ。
違和を覚えた霞人が尋ねると、彼は唸りを漏らして俯く。言いづらそうに零した。
「記憶違いかもしれないが、“カコさん”が着けていた物に似ているんだ」
短髪の青年は息を詰まらせ、僅かに瞠目する。箸の先がほんの少しだけ震えた。
風竜の琥珀色の双眸。
柔らかくも芯のある黒髪。
何より快活で明るい性格。
気づかされた既視感に、霞人は目を細めた。




