第9話(1)
二十三時のニュースが始まる。
音の小さいテレビを、幼い組長は虚ろな目で眺めていた。膝の上の両手は握り締められ、小刻みに震えている。
「もう寝た方がいいんじゃないか」
濡れた髪をタオルで拭きながら、詩歌がやって来た。
深夜に差し掛かるというのに、小学生の少女は風呂にも入らずにいる。円で大きな瞳を瞬かせ、彼女は静かに首を横に振った。
糸目の青年は小さく溜息を吐くと、彼女の近くに腰を下ろす。心配なのかと問うと、少女は再び否を示した。
「でもなんか、止まらない」
響は怯える両手を見下ろす。その声色からは、怯えなのか疲労なのか判別がつかない。
詩歌は俯く彼女の頭をそっと撫でた。手触りのよいサラサラとした黒髪が指の間を通り抜ける。
彼は落ち着き払った声で言った。
「私は君が、組長に就く必要はなかったと思っている。君はまだ子どもでいいんだ」
優しい台詞が頬を滑る。言葉の先にいた響の鼻腔に、爽やかなシャンプーの匂いが染み込んだ。
頭を擡げた彼女は、真っ直ぐな瞳を向け答える。その視線は、恐ろしいほど濁りなく潔白で。
「だめ。わたしは千条家の子だから」
纏う気迫は、上に立つ者が持つそれだった。
長髪の青年は口を噤む。幼い上司を真っ向から否定するほどの言葉は持ち合わせておらず、控えめな同意しか吐き出せなかった。
だから漠然と、自分がいなくてはいけないのだと感じていた。
テレビは報道を読み上げ続ける。無機質なアナウンサーの声が淡々と流れた。
明日は土曜日。
多少の夜更かしは看過できるが、流石にいつ自室に帰らせるかと迷った。
「深麗先輩は最近、どうしている?」
茶髪に滴る水気を拭いながら問う。響は見ていないと返した。
詩歌一行が暮らす隣部屋には、少女と深麗が生活している。親のいない少女の世話を、数少ない女性構成員である彼女が代わって行っているが、私用で顔を合わせない日が多いらしい。
響のために朝食は温められる作り置きを、夕食は隣人と食べるというシステムで生活を回し、自分は家に寝に帰るだけの日々。少女が起きるよりも早く家を出、少女が寝るよりも遅く帰宅する。見かける日が少ないのも当然だ。
彼女は千万路組としての仕事よりも、自分の用事を優先している。だが組長はそれを容認していた。
「ちゃんと眠れてるかは心配だけど、レイのことだから大丈夫だと思う」
睡魔が襲ってきているのか、響は目を擦りながら言う。詩歌は不安げに視線を逸らした。
不意、外階段を上る音が響いてくる。
少女がぱっと顔を上げると、玄関の扉が開く気配がした。間もなく騒がしい人影が居間へとやって来る。
「キョウさ〜ん、つっかれたァ」
「おい、汚れた服で寝るな」
風竜が雪崩込むようにフローリングに転がり、霞人はアタッシュケースを担いでいる。言葉通り、制服には砂や血が付着して汗臭かった。
帰宅して早々言い争いを始めかけた番犬たちの名を、飼い主は呼ぶ。黙る二匹に仕事の出来を尋ねると、片方は目を逸らし、もう片方は口をへの字に曲げた。
プロセスはともかく結果は徴収できたのだ、及第点だろう。響は並ぶ男たちの頭を撫でてやった。
戸惑う彼らの後方、もう一人の影が現れる。
「あらあらぁ、仲良しだことぉ。二人とも頑張ったもんねぇ」
垂れ目を細める女に、小さな組長はすぐさま反応する。一緒だったのかと尋ねると、現場を偶然通りかかったのだと深麗は答えた。
同居人との久しい会話に、少女は心做しか嬉しそうな面持ちだ。それを見てか詩歌は両者に帰宅を促す。睡眠不足は不健康の元だと諭すと、彼女たちは揃って頷いた。
一方、番犬たちは風呂の順番を競ってじゃんけん大会を繰り広げている。戦いを吹っ掛けた風竜は見事に負けたのだった。
「三分で上がれよ!!」
「人をカップ麺にするな馬鹿」
主らが去った後、霞人が洗面所へと向かうとリビングは静まり返る。テーブルにて、詩歌がアタッシュケースを開き札束を数えていた。
カップ麺が伸びるほどの時間が経った頃。
風竜は膝を抱えたまま、黒革グローブに包まれた手で痛む体を擦る。強打した肩、蹴られた腹、踏まれた腕。鈍痛は静かに居座っていた。
「なー詩歌。どうしたら強くなれっと思う」
問われた青年は金額をノートに書き込む。再び札束を手にし、一枚一枚丁寧に捲った。
穏やかな口調で、長髪の彼は反省かと問う。少年は間髪入れずに噛み付いたが、すぐに失速した。違うとは言い切れないらしく、困惑したような表情を浮かべている。
「カイに助けられたのがムカつく。でも、あいつがいなかったら無理だったから、余計ムカつくんだ」
黒い前髪の隙間、シトリンの瞳が揺れる。青年は作業の手を止めずに相槌を打った。
今回の初仕事で思うことがあったのは間違いなさそうだ。怪我をしている辺り、手強い相手だったと察せる。
詩歌は金をしまいながら言った。
「明日の朝、霞人に付いて行くといい。試しに一週間見習いに出たらどうだ」
彼の提案に、子は反論しかけた。だが抵抗する前に低い声が遮る。
顔を上げると、風呂から出た霞人が半裸でこちらを見下ろしていた。
「弱い奴にお嬢は任せられない。いいな駄犬」
どうやら、風竜には拒否権など初めからなかったようだった。




