第8話(2)
老爺は腕に這う入墨を撫でた。そこには言影の“証”が紛れ込んでいる。
ここの頭だということは、新入りでもすぐに察せた。
危機を感じ取った少年は、力の限り体と床を引き剥がそうとする。変わらず微動だにしなかった。
影が濃いからだ、と風竜は壁際のパーライトを睨めつける。蠅の羽音に似た音で低く鳴くそれは、ジリジリと肌を焼くような熱も発していた。
下っ端の男の乾いた足音。銃のスライドが引かれた音がした。
項にじっとりとした汗が浮かぶ。影に縫い付けられ固定された四肢を必死に動かそうとする。
「払わないあんたが悪いんだぞ、このクソ野郎ッ」
吠えるも所詮、子犬の威嚇だ。背後からの銃口の冷たい視線を感じる。
引き金に指が沈む。避けるなど不可能。
黒革に包まれた両手をきつく握る。
が、銃声よりも先に布のはためく音が鳴った。
眩い光が和らぐ。風竜の視線の先には、厚手のカーテンがライトに覆い被さっている。隣、人影が駆け、下っ端の男を殴り飛ばした。
どよめきと鈍い音が、頬に触れている床を振動させる。奪い取った銃を構えるのは霞人だった。
「足引っ張んな馬鹿ガキ」
「あんたは先に逃げただろ!」
軽口を叩く二人に対して野郎たちが襲いかかる。青年は焦らずにトリガーを絞った。
弾頭は急所をわざと外し、肩や脛を掠めていく。残弾も考慮して近くの者は自らの手を振るった。数はあっという間に減り、痩せた組長が言影を唱えようと口を開ける。
しかし青年の方が素早い。彼は躊躇いなく老爺の顔面を殴りつけた。
倒れ込む彼を見下ろして、霞人は不機嫌そうに要件を済ませたいと言う。さながら氷の声音で鼓膜が凍ってしまいそうだ。
長は呻きながらも意識はあるようで、青いメッシュを見上げた。
「年寄りにも容赦しないその腕、天晴。どうだ、あんなお飾り組長ではなくウチに来ないか」
鼻から出血しているにもかかわらず彼は笑う。余裕のある表情に、霞人は額に青筋を薄っすらと浮かべた。
「残念だが、俺はお嬢の忠犬だ。寝言は寝て言え」
青年の靴が振り翳される。一思いに意識を手放させてやろうと頭を目掛けた。
しかし瞬きの間、再び強烈な光が照射された。
半瞬後には足元の彼が呪文を口にする。
影が背を尋常でない力で引く。上げた足をすぐさま地面に着け、踏みとどまろうとしたが丁度風竜の腕があり、バランスを崩してしまった。
少年の短い悲鳴とともに霞人は背を強打させる。反射的に起き上がろうとするが上体を影が離さない。
起死回生を期待していた風竜が青年に向かって怒鳴ると、彼も転がっているお前が悪いと言い返した。
少年はちらりと光源を見遣る。何者かが被せたカーテンをずらしたらしい。
影が濃く、輪郭を明確に持つほどだ。人の力ではどうしようもない。
彼は黄の虹彩を歪める。
(オレ死ぬの? ここで?)
床に縛られた番犬二匹に男たちが近づく。凶器は舌舐めずりをし、今か今かとその時を待ち望んでいた。
鼻血を拭う長が立ち上がり、断頭の命を下そうとする。死の宣告に対して風竜は全身の毛を逆立てた。
鳴り渡るは銃声――ではなく、言影を唱える声だった。
「《終焉までの数を数えて》」
柔らかな女の声が谺すると、落ちる影から手が伸びる。色のないそれは老爺と野郎たちの四肢を掴み、動きを封じた。
他方、地面にへばりついていた青年たちに手が現れることはなかった。驚いて瞬くだけだ。
混乱の中、必死に脱出しようとする男どもの前へ、一人の靭やかな人影が躍り出る。
「大丈夫よぉ、痛いのは一瞬なんだからぁ」
ヒールの音が近づく。
暗い赤褐色の髪がふわりと揺れると、不気味で細かな破裂音が鳴った。バチバチ、と空気を焦がすような音は小さくも激しい光を放つ。
風竜が目を凝らすと、女が片手にスタンガンを鳴らしているのが見えた。彼女は迷いなく男らの首に電気を押し当て、次々に意識を剥奪していく。
踊り出してしまいそうなほど軽い足取りは、さながら悪魔のようで。
「あらぁ、君が組長サン? お金はどこかしらぁ」
「た、棚の上だ、だからそれを早く下ろ」
「はぁいありがとうねぇ」
話している途中にもかかわらず、女は電撃銃を怯える喉に当てる。抵抗しかけた老爺はあえなく気を失った。
同時に、風竜と霞人は全身にかかる力が消えたのを感じた。咄嗟に起き上がった少年は、すぐさま腰を落とす。棚に向かう女は見知らぬ人間だった。
疲労が溜まっている筈だのに、風竜は早速誰だと騒ぎ立てる。だが青いメッシュの彼が、額の汗を拭いながら台詞を遮った。
「挨拶もなしか、ミレイ」
女は両手にアタッシュケースを抱え、振り返る。垂れ目を細める面影には既視感があった。
彼女は間延びした口調で霞人を労い、視線をずらす。目が合った風竜に犬歯を剥き出しにされたが、砕けた話口は変わらない。
「まぁ、新しい子かしらぁ。はじめましてぇ、わたしは 深麗。弟がお世話になってまぁす」
弟。
少年は怪訝な顔をし、眉間に皺を寄せた。分かっていない様子の彼に、霞人は呆れつつも低い声で言う。彼女は深雲の姉であると。
数秒後、思考がやっと回ったらしい彼は、間抜けな驚きの声を上げたのだった。




