第7話(1)
風竜は、なぜ詩歌が怒ったのか分からなかった。
少年にとって“殺す”という台詞は、幼い頃から耳にしていた武器である。
数多の組織を転々とし、都合のよい人員として生きていた彼には珍しいものではなく、訪れる組織内でそのような発言を聞いて育った。本気の罵倒も、戯れ合いの暴言も身近にあった。
だから、青年があれほど過剰に反応したことが衝撃的だったのだ。
「あっちはマジで殺しにきてんのに、オレは殺しちゃだめなのかよ」
子犬は疼く左腕を掴む。治療の手つきは優しかったことを思い出した。
へそを曲げる少年に、飼い主はじっと見つめるばかりで相槌すら打たない。揺れる黄の虹彩から目を離さなかった。
校門から低学年の児童が駆け出す。楽しげな声で笑いながら、走って家へ帰っていった。
遠ざかる喧騒に沈黙していると、飼い主がやっと口を開く。言いたいことは終わったかと問われ、風竜はたっぷり数秒経ってから小さく頷いた。
少女は立ち上がり、彼に手を差し伸べる。歩きながら話そうと提案され、子犬は浮かない顔のままその手に応えた。
エンジン音のうるさい車が通過する。穏やかな日の光に照らされる、廃れた高層マンションは遺骸と化していた。
帰路の途中、しばらく口を噤んでいた響が切り出す。
「わたしも、シイカの気持ちはわからない」
淡々と彼女は呟く。感情がまるで無いかのような口調であることに変わりはなかった。
「でも、それがシイカの大事にしたいものなのはわかるよ」
彼女の台詞に風竜は尋ね返す。幼い組長は一つ首肯し、続けて自分は彼について詳しくは知らないと言った。ただ、殺生に関しては人一倍抵抗するような様子だったことを付け加える。
響の顔は下校の道に真っ直ぐ向けられていた。そのあどけのない面はぽつりと、怖いものを見てきたからなのではないかと言う。
荒れた寺の前を通り過ぎ、落書きに塗れた歩道橋に差し掛かる。もうすぐで目的地だ。
「フリューは人が死ぬ瞬間、見たことある?」
「いや、ない、です」
「そう。わたしはある。すごく怖いんだよ」
録音されたビデオテープを再生しているだけかのように、声が滞ることはない。
彼女は円な瞳を僅かに伏せて続けた。詩歌は千万路組の中でも一番“人間”なのだと。ちゃんと命の重みを知っているのだと。
少年はキッと唇を噛む。
主が言っていることは分かったが、理解はできなかった。否、理解したくなかった。
彼にとって死は毎日隣にあるものだったから。怖いと思ったことは一度もない。そうなってしまったら仕方ないと、受け入れていた。
しかし、どうしてか胸が苦しくて仕方がなかった。
わからないを理由にしたくなかった。
✶
「詩歌、あの馬鹿はどこ行った」
「バカって。風竜なら響を迎えに行ったぞ」
ニュースキャスターの声が静かに流れるリビング。霞人はパトロールから帰宅してすぐに青年に尋ねた。
彼は返答を聞いて顔色一つ変えずに、そうかと返す。どうやら迎えを忘れているものだと想定していたらしい。
では自分も向かおうと踵を返したが、ふと、和室に広げられた見慣れない服に視線が行く。
サイズは自分のものより小さいため、新入りのものだという判断に難なく至る。真新しい布はタグがついた状態で丁寧に折りたたまれていた。
指先に触れた違和感に、霞人は長髪の彼へ何かあったかと訊く。彼は糸目を逸らし、困り笑いを浮かべる。
「少し喧嘩を、してしまってな」
「喧嘩? アイツここ来てまだ二日目だろ」
「それほど心を許してくれている証拠じゃないか。だから私も距離感を間違えたみたいだな」
後悔を誤魔化している時の笑い方だ。メッシュの青年は気づき、体を詩歌へ向ける。
彼の硬い面から感情を読み取るのは難しいが、詩歌には分かっているようで溜息を吐いた。年下に気を遣われていることが恥ずかしいらしい。
彼は事の顛末を簡単に話し、自分が悪かったのだと笑った。したがって霞人が心配する必要はないと言う。
だが青年は、否定の言葉を口にした。
「あの駄犬は躾がなってない。今までどう生きていたかなんてどうでもいい、既に千万路組の一員だからな」
灰色の眼差しは濁りなく、低音には芯があった。
彼の言いたいことを察した詩歌は、笑みを消して声を飲み込む。一理あると思ったのだ。
すると玄関の扉が開く音がした。追って組長の抑揚のない調子で、ただいまという声が聞こえる。響たちが帰ってきた。
慌てて詩歌は腰を上げ、出迎える。平生通りを装うとしたが、少女の後ろに立つ少年が視界に入った。僅かに顔が軋んだ気がしたが、青年はゆるりと息を吐く。
雰囲気を察した響は、一足早く部屋に入って霞人を洗面所に連れ込む。主の行動に疑問符を浮かべていた彼だったが、理由は間もなく明かされる。
風竜は視線を落としていたが、意を決したのちに顔を上げ、詩歌に言う。
「ヤな気持ちにさせちまって、ごめん。でもオレ、また言うかもしんないし、あんたのことそんなに知らないから、その」
酷く言いづらそうに、つっかえながら彼は謝罪した。
十七歳の詫言にしては随分と拙い。だが詩歌は緩く口角を上げ、一つしっかりと頷いた。
「私も突然大声を出してしまって悪かった。さぁ、仲直りしよう」
彼は右手を差し出す。少年は目を丸くし、躊躇いがちに伸ばす。微かに頬を赤らめて握手を交わしたのだった。




