第七章 眠っている名前 ⑬ 眠っている名前
旧観測室の灰色板は。
閉じたまま。
前の位置から。
わずかにずれていた。
そのずれを。
白い手の現象とは。
繋げなかった。
板を閉じた日。
木枠が歪んだ可能性。
湿気。
固定具。
人が動かした力。
どれも残っている。
***
確認の目的は。
旧観測室側室の灰色板および固定具について、閉鎖状態と周辺構造を確認する。白色表示、K.K.、Y.I.その他の現象を再現する操作は行わない。
だった。
板を開かない。
透明板へ触れない。
光を当てない。
人の立つ位置を。
十二年前へ合わせない。
***
最初に入るのは。
ファナ。
ネラ。
マレア。
構造。
記録位置。
身体の安全。
それぞれを見る。
朔とユイは。
その後。
入るかを決める。
***
「入らないこともできます」
マレアが言った。
「はい」
朔。
「今日の目的に、朔さんの知覚は必要ありません」
「分かっています」
「それでも入りたい?」
「閉じた状態を、自分で見たいです」
「白い文字を見たい?」
朔は少し黙る。
「見たくないとは言えません」
「成人の手は」
「見たいです」
「K.K.」
「確認したいです」
「では」
「その三つは。入る理由にはしません」
***
ユイは。
自分の紙を持ってこなかった。
ユイ。
Y.I.
二つを。
線で結ばずに書いた紙。
今日は。
部屋へ置いてきた。
「どうして?」
朔が尋ねた。
「持ってたら」
ユイは言った。
「白い壁に見せるために持ってきたみたいになるから」
「見せたくない?」
「見せたいかもしれない」
「でも」
「今日は、板が閉まってるか見る日」
***
リオは。
側室の外。
旧観測室との間の廊下へ残る。
「中に入らないんですか」
グラドが尋ねた。
「俺が見ても、板の直し方は分からん」
「朔さんの名前の紙を持っている」
「持っとる」
「なら、近くに」
「ここで近い」
***
胸元。
紙。
出さない。
名前を。
白い壁へ見せるための物にはしない。
朔が。
以前。
自分で書いた名前。
今。
リオが持つことを選んでいる紙。
それ以上の役目を。
先に与えない。
***
ファナが。
灰色板の四隅を見る。
上。
右。
下。
左。
固定具。
木片。
金属輪。
亀裂。
「外れてはいない」
「ずれは」
ネラ。
「前回閉鎖時の記録から、指の幅より小さい」
「動き続けている?」
「今日だけでは分からない」
「開く危険」
「すぐにはないと思う」
「思う?」
「構造上、上の固定具が残っている。下も噛んでいる。確実とは言わない」
***
「手で押しますか」
マレア。
「押さない」
ファナ。
「理由」
「閉じている物へ、動くか確かめるために力をかければ。確認で動かしたのか、前から緩んでいたのか分からなくなる」
「では」
「見える範囲。細い木片で隙間の深さだけ測る」
「透明板へ」
「届かせない」
***
細い木片。
灰色板と枠の間。
上。
入らない。
右。
浅く入る。
前回記録と。
大きな差なし。
下。
入らない。
左。
紙一枚分。
空いているように見える。
木片は。
通らない。
***
「閉鎖状態」
ファナ。
「維持」
「元の位置」
「戻ってはいない」
「危険」
「今すぐ開く兆候は確認できない」
「今後」
「同じ位置から測る」
***
構造確認は。
そこで終わった。
板を。
開かない。
白い壁を。
見ようとしない。
***
「朔さん」
マレアが廊下へ出る。
「入りますか」
「はい」
「ユイさん」
「入る」
「理由を聞いていい?」
「板が閉じてるのを、自分で見る」
「Y.I.を探す?」
「探したい」
「今日の目的には」
「入れない」
***
二人が入る。
マレア。
ネラ。
ファナ。
合わせて五人。
狭い。
だから。
ファナは確認を終えた後。
入口近くへ下がる。
朔とユイは。
灰色板から。
二歩以上離れる。
***
板。
閉じている。
細い隙間。
白い壁は。
見えない。
透明板も。
見えない。
木。
灰色。
傷。
固定具。
ただの。
閉じた板に見える。
***
「見えますか」
マレアが尋ねる。
「板です」
朔。
「白い奥行き」
「ありません」
「表示」
「ありません」
「成人の手」
「ありません」
***
「ユイさん」
「板」
「Y.I.」
「ない」
「見られている感じ」
ユイは。
灰色板を見たまま。
「少しある」
「どこから」
「板の向こう」
「今日、初めて?」
「前も」
「強さ」
「前より弱い」
「身体」
「頭は痛くない」
***
ネラは。
十二年前の位置へ。
立たない。
壁際。
入口から。
灰色板を見る。
「私は、文字も光も見えません」
「身体は」
「大丈夫です」
「記憶」
「この部屋へ入ると、最初の日を思い出します」
「今の壁へ重なりますか」
「重ねたくなります」
***
朔は。
板の右下を見る。
そこに。
小さな白い点がある。
最初は。
木の削れ。
朝の光。
そう見える。
「白い点があります」
朔が言った。
***
「位置」
マレア。
「灰色板の右下」
「板の表面?」
「そう見えます」
「ほかの人」
ファナが見る。
「木の傷はある」
ネラ。
「白い光は見えません」
ユイ。
「白い線がある」
***
「点ではなく?」
マレアがユイへ尋ねる。
「長い」
「どの方向」
「横」
「板の右下?」
「もっと真ん中まで」
***
朔には。
点だった白が。
ゆっくり伸びる。
右から左へ。
細い線。
板の表面ではない。
板を透かして。
その向こうへ。
白い面があるように見える。
***
「変化」
朔。
「白い点が横へ伸びています」
「私には見えません」
マレア。
「ユイさん」
「長い白」
「ネラさん」
「見えません」
「ファナさん」
「木の板だけ」
***
「身体」
「頭痛なし」
「吐き気」
「なし」
「右手」
「動かせます」
「現在の呼び名を聞いていいですか」
「はい」
「何と呼ばれたい?」
「サクで」
***
白い線。
増える。
上。
下。
文字の枠。
そう見える。
旧観測室で見た。
境界のない白い奥行きではない。
白い手も。
布も。
ない。
黒い人影も。
いない。
ただ。
灰色板の向こうへ。
白い線が並ぶ。
***
最初の行。
SUBJECT:K.K.
朔には。
そう読める。
***
「文字様知覚」
「内容」
「SUBJECT。K.K.」
「位置」
「灰色板の中央より上」
「同じ表示を以前に?」
「近いものを見ました」
「同じ?」
「同じに見えます」
「確定」
「しません」
***
「ユイさん」
マレア。
「何が見える?」
「長い白い線」
「文字」
「一つだけ、曲がってる」
「何に見える」
ユイは。
目を細める。
「Sみたい」
「ほかは」
「分からない」
***
ネラが。
息を止める。
「見えましたか」
マレア。
「二つ」
「何が」
「白い形」
「K.K.?」
「そう見えます」
「位置」
「灰色板の中央より、少し右」
「朔さんの示した位置と」
「近いと思います」
「十二年前と」
ネラは。
すぐには答えない。
「近いように感じます」
***
「同じ形?」
「十二年前の記憶は、今まで読んだ記録と分けられません」
「今、見えるもの」
「二つの短い白い形。間に小さな切れ目か点」
「文字?」
「K.K.に見えます」
「確信」
「ありません」
***
十二年前。
一人は。
K.K.に見える二文字様表示。
もう一人は。
光の変化だけ。
身体。
確認できず。
呼名。
実施せず。
今。
ネラは。
同じ場所で。
再び。
二つの白い形を見る。
同じものかは。
分からない。
***
朔の表示。
二行目。
白い線が現れる。
最初。
NAME:
その後。
空白。
少し遅れて。
文字。
***
KUROKAWA SAKU
***
朔の呼吸が。
止まりかける。
「身体」
マレア。
「呼吸。止めました」
「吐いてください」
朔は。
息を吐く。
吸う。
「続けられますか」
「はい」
「内容」
「NAME。KUROKAWA SAKU」
***
「英字?」
「以前の世界の文字です」
「読める」
「はい」
「音」
「黒川朔」
「現在のあなたの名前?」
「俺が使う名前です」
「表示が、あなたを指している?」
朔は。
白い線を見る。
「そう読みたくなります」
「事実としては」
「K.K.と黒川朔が。同じ表示の中にあるように見えます」
***
「同じ欄?」
ネラ。
「別の行です」
「線で繋がっている?」
「見えません」
「K.K.が対象。黒川朔が名前?」
「欄の言葉からは、そう読めます」
「ほかの読み方」
「K.K.という対象に。黒川朔という名前が記録されている」
「それは同じ文です」
「はい」
***
朔は。
自分が作った文を。
聞く。
K.K.は。
黒川朔。
そう。
読める。
これまでで。
最も強く。
***
だが。
その表示を見ているのは。
今。
朔だけ。
ネラには。
二つの白い形。
ユイには。
長い線と。
Sに近い一文字。
マレアとファナには。
何も見えない。
***
「表示を見続けたいですか」
マレア。
「はい」
「理由」
「次の行が出るかもしれない」
「目的」
「板の閉鎖確認には含まれません」
「身体」
「頭痛なし。呼吸は速い」
「戻りますか」
朔は。
白い線を見る。
黒川朔。
自分の名前。
K.K.
同じ白の中。
「あと、一度だけ。今の位置で待ちたいです」
***
「何を待つ?」
マレア。
「表示の変化」
「時間」
「五呼吸」
「近づく?」
「しません」
「呼びかける?」
「しません」
「手を伸ばす?」
「しません」
「五呼吸で終わり」
「はい」
***
一。
息を吸う。
吐く。
二。
灰色板。
白い線。
三。
K.K.
KUROKAWA SAKU。
四。
子どもの右手。
身体の横。
五。
新しい行。
***
STATUS:SLEEP
***
眠っている。
そう読める。
***
朔の頭の中で。
三つの行が。
一つの文になる。
SUBJECT:K.K.
NAME:KUROKAWA SAKU。
STATUS:SLEEP。
***
黒川朔は。
眠っている。
***
「内容」
マレアの声。
近い。
はっきり聞こえる。
「STATUS。SLEEP」
「意味」
「状態。眠っている」
「誰が?」
朔は。
答えようとする。
K.K.。
黒川朔。
成人の身体。
自分。
「表示の並びからは。K.K.。名前、黒川朔。状態、睡眠と読めます」
「あなたが眠っている?」
「そういう文にできます」
「今の身体は?」
朔は。
自分の足を見る。
床。
子どもの靴。
右手。
指。
「立っています」
***
「終了します」
マレア。
「はい」
「表示から目を外せますか」
朔は。
灰色板を見る。
名前。
眠り。
K.K.
あと少し見れば。
顔。
身体。
場所。
時刻。
何かが。
続くかもしれない。
***
「サクさん」
ユイが言う。
「こっち見て」
朔は。
ユイを見る。
白い髪。
小さな顔。
不安。
窓のない側室。
「見えます」
「私の名前」
「ユイ」
「ネラさん」
「ネラ・ヴォス」
「マレアさん」
「マレア・ソン」
「ファナさん」
「ファナ・リト」
***
入口。
廊下。
リオ。
見えない。
「リオさん」
朔が呼ぶ。
「おる」
廊下から。
声。
「見えません」
「ここや」
「名前の紙」
「ここにある」
「出さないでください」
「出さん」
***
「場所」
マレア。
「旧観測室の側室」
「目的」
「灰色板と固定具の閉鎖状態を確認する」
「完了」
「しています」
「戻ります」
「はい」
***
朔は。
灰色板へ背を向ける。
白い表示は。
視界から外れる。
消えたか。
残っているか。
確認しない。
***
一歩。
入口。
二歩。
廊下。
リオ。
胸元。
紙。
手。
顔。
***
「身体」
マレア。
「頭痛。少し」
「吐き気」
「なし」
「右手」
「動きます」
「名前について聞いていいですか」
「はい」
「今、何と呼ばれたい?」
「サクで」
「黒川朔」
「俺が使う名前です」
「K.K.」
朔は。
灰色板の向こうを思う。
「表示の中で。黒川朔と関係する符号に見えました」
「あなたの呼び名としては」
「今は使いません」
***
ユイ。
頭痛。
なし。
白い線。
廊下では見えない。
Sに近い形。
今は見えない。
見られている感じ。
側室を出ると。
消えた。
***
ネラ。
軽い動悸。
呼吸。
安定。
二文字様の光。
廊下では。
見えない。
「十二年前と同じでしたか」
グラドが後に尋ねる。
「同じだと思いたくなります」
「では」
「今見たものは。二つの白い形でした」
「K.K.」
「K.K.に見えました」
「十二年前の再現」
「そうは書きません」
***
ファナ。
文字。
光。
確認せず。
灰色板。
調査前後で。
位置変化。
測定範囲では。
確認できず。
固定具。
保持。
***
マレア。
表示。
確認せず。
朔の身体。
表示申告後。
呼吸一時停止。
その後。
自発呼吸。
脈。
保持。
随意運動。
歩行。
会話。
人物名。
場所。
目的。
応答。
***
「同時刻」
セオが記録を分ける。
一枚。
旧観測室側室における黒川朔名および睡眠状態様表示の知覚
もう一枚。
同時刻における黒川朔現在身体の状態および応答
***
「同じ記録にしない?」
グラド。
「時刻で相互参照します」
セオ。
「なぜ」
「表示内容と。現在身体の観察を。矛盾する二つの候補として扱わないためです」
「同じ人物なら、一枚で」
「同じ人物である可能性があります」
「なら」
「一方の記録から、他方の状態を決めません」
***
表示知覚。
朔。
灰色板様面の向こうに、以下の白色文字列を知覚した。
SUBJECT:K.K.
NAME:KUROKAWA SAKU
STATUS:SLEEP
***
各行は同一の表示枠内にあるように見えた。行間の接続線は確認せず。
朔は、これを「K.K.と符号化された対象の名が黒川朔であり、状態は睡眠である」に近い意味として受け取った。
表示の発生源、対象位置、時刻、身体との対応、表示内容の正確性は未確認。
***
ネラ。
灰色板中央右寄りに、K.K.に見える二つの白色形状および小さな切れ目または点を知覚。ほかの文字列は確認せず。十二年前の知覚との同一性は未確認。
***
ユイ。
灰色板様面に、長い白色線およびSに近い一形状を知覚。K.K.、KUROKAWA SAKU、SLEEPの各文字列は確認せず。
***
マレア。
文字および光を確認せず。
ファナ。
文字および光を確認せず。灰色板の構造上の位置変化を調査前後で確認せず。
***
現在身体の記録。
同時刻、朔の現在身体は立位を保持。自発呼吸、脈、随意運動あり。
表示知覚申告後、一時的に呼吸を止め、その後、声かけにより自発的に呼吸を再開。
人物名、場所、調査目的、現在希望する呼び名へ応答。自力歩行により側室を退出。
***
「黒川朔は眠っている」
グラドが言った。
「朔さんが、そう読みました」
セオ。
「表示には」
「三行」
「意味は同じ」
「そう読めます」
「では」
グラドは。
現在身体の記録を見る。
「ここにいる者は。何ですか」
***
マレアが。
先に答える。
「一方の状態表示から。もう一方の身体を分類しないでください」
「しかし」
「表示には。現在身体の記述はありません」
「黒川朔という名前は」
「朔さんが今も使っています」
「同じ名前が二つに」
「二つの身体へ確認されたとは限りません」
「では」
「一つの表示と。一つの現在身体です」
***
「表示が正しければ」
グラド。
「黒川朔は眠っている」
「可能性はあります」
ネラ。
「今ここで答えている者も」
「黒川朔を使っています」
「二人?」
「決めません」
「一人が二か所?」
「決めません」
「片方が記憶」
「決めません」
「なら」
「表示が増えたことで。関係が強まったことは書けます」
***
「K.K.と黒川朔」
グラド。
「これで同一でしょう」
朔は。
三行を思い出す。
「以前より。強く関係すると思います」
「同一」
「表示の上では。K.K.のNAME欄に、KUROKAWA SAKUがあったように見えました」
「それが」
「俺の知覚です」
「あなたは、黒川朔」
「はい」
「なら、あなたはK.K.」
朔は。
すぐに答えない。
***
「K.K.が」
朔は言う。
「黒川朔という名前と関係している可能性は。高くなりました」
「同じでは」
「K.K.が対象符号なら。俺に関係する符号かもしれません」
「あなたの」
「向こうにある身体の。状態の。記録の。あるいは、俺自身の」
「どれでも、あなたに関係する」
「はい」
「なら使う?」
「呼び名としては。今は使いません」
***
「表示が」
ネラが言った。
「本人の名前を決めるとは限りません」
「NAME欄です」
「誰が入力した欄ですか」
「未確認」
「本人が名乗った?」
「未確認」
「呼名して応答した?」
「未確認」
「十二年前のK.K.は」
「呼名未実施」
***
K.K.。
壁面に見えた二文字。
三年後。
対象符号へ移された。
今。
朔には。
NAME:KUROKAWA SAKUと。
同じ表示へ現れた。
関係は。
強くなった。
だが。
誰が。
どの時点で。
どの身体へ。
その名前を置いたのか。
分からない。
***
「黒川朔は、眠っている」
グラドが。
もう一度言う。
「そう表示されたなら」
朔は答える。
「否定しません」
「では、あなたは」
「今。ここで話しています」
「眠っていない?」
「今の身体は。起きています」
「黒川朔は?」
「向こうに。黒川朔と表示された、眠っている何かがある可能性があります」
「あなたも黒川朔」
「はい」
「矛盾する」
「両方が同じ意味で、一人だけを指すなら」
***
「一人だけではない?」
グラド。
「決めません」
「二人?」
「決めません」
「名前が共有されている?」
「可能性があります」
「同じ人が、違う状態で」
「可能性があります」
「現在身体が夢」
「可能性は残ります」
「成人身体が過去の記録」
「それも」
***
「では」
グラドは尋ねる。
「今ここにいる者を。どう記録しますか」
朔は。
自分の右手を見る。
子どもの手。
指。
掌。
温度。
紙。
***
右手を開く。
閉じる。
もう一度。
開く。
***
「黒川朔」
自分で言う。
次。
「サク」
今。
呼ばれたい名。
***
周囲を見る。
「ネラ・ヴォス」
ネラ。
「マレア・ソン」
マレア。
「セオ・ラグナ」
セオ。
「グラド・ウェン」
グラド。
廊下。
「リオ」
「おる」
***
ユイは。
隣。
「ユイ」
朔が言う。
「うん」
***
場所。
「白い塔の街。旧観測室に近い記録室」
時刻。
「昼前。側室の確認後」
身体。
「子どもの身体。右手が動く。頭痛は少し」
目的。
「見えたことと。今の身体を。片方から消さずに残す」
***
朔は。
紙へ触れる。
「俺は、ここにいます」
***
部屋が。
静かになる。
***
「本物だという意味ですか」
グラドが尋ねた。
「違います」
「眠っている黒川朔は、偽物?」
「違います」
「では」
「現在位置です」
***
「ここにいる」
マレア。
「はい」
「どこへ帰るか」
「決めていません」
「成人身体を起こすか」
「決めていません」
「接触」
「その時に聞いてください」
「K.K.」
「関係する可能性が高い符号として残します」
「呼び名」
「今は、サクで」
***
グラドは。
現在身体記録へ。
新しい欄を足そうとする。
本人確認:済
手を止める。
「済ではない」
自分で言った。
***
代わりに。
本人による現在位置および現在呼称の申告あり。
と書く。
「本人と書く?」
ネラ。
「申告した者」
グラドは書き直す。
現在身体の朔による、現在位置および現在呼称の申告あり。
***
「長いですね」
セオ。
「はい」
「ですが」
グラドは。
帰還対象選定票の不使用記録を見る。
「表示だけで。ここにいる者を、別の分類へ入れないために必要です」
***
公示は。
出さない。
黒川朔。
K.K.
睡眠。
この三つを。
街へ。
一文として流さない。
関係者の記録。
閲覧条件。
朔の同意。
更新時。
再確認。
***
「隠す?」
イサラが尋ねた。
「個人の名前と状態に関わる記録です」
セオ。
「街では、ヴァルハとの関係を言われる」
「可能性があります」
「情報がないから、噂が増える」
「はい」
「では」
「表示の詳細を公開することが。噂を減らすとも限りません」
***
公開する範囲。
旧観測室側室において複数者間で一致しない白色表示様知覚が確認された。構造上の変化および危険は確認されていない。側室は引き続き閉鎖状態を維持する。
名前。
K.K.
睡眠。
含めない。
***
「王都が隠している」
グラド。
「そう言われます」
「実際、隠している?」
朔が尋ねる。
「公開しない判断をしています」
セオ。
「理由」
「本人に関係する可能性が高い情報だからです」
「都合の悪い情報だからでは」
「それも疑われます」
「では」
「非公開の理由と。閲覧できる者。再確認日を残します」
***
隠すことと。
守ることは。
同じ動作に見えることがある。
だから。
誰が。
何を。
なぜ見せないかを。
残す。
***
午後。
ユイは。
朔の向かいへ座る。
机。
二枚の紙。
表示の記録。
現在身体の記録。
重ねない。
***
「眠ってる黒川朔と」
ユイが言う。
「ここにいるサクは。名前を取り合う?」
「取り合うものにはしません」
「同じ名前?」
「かもしれません」
「一つしかない名前を、二人で使う?」
「二人かは、分かりません」
「じゃあ」
「同じ人が。違う場所や状態で。使っているかもしれない」
「違う人が?」
「同じ名前を持っている可能性もあります」
***
「どっちが先?」
「成人の身体の方が。長く生きた俺と関係する可能性は高いです」
「じゃあ、向こうの名前?」
「先に使っていた可能性があります」
「こっちのサクは、借りてる?」
朔は。
自分の名を。
口の中で確かめる。
「借りているとは決めません」
「どうして?」
「今の俺も。その名前で呼ばれ。答え。選び直しました」
「向こうが起きたら」
「向こうも。黒川朔と答えるかもしれません」
「二人とも?」
「その時に。聞きます」
***
「一つの名前を」
ユイ。
「半分ずつ?」
「量ではないと思います」
「一人分と同じ?」
「似ています」
「名前も、一人分じゃない?」
「一人に一つとは限りません」
「でも」
「誰かに使われているから。ほかの者から奪うものにはしません」
***
「Y.I.も?」
ユイが尋ねる。
「はい」
「向こうにY.I.がいたら」
「ユイから。ユイを奪いません」
「Y.I.も取らない?」
「本人がいるなら。本人へ聞きます」
「同じだったら?」
「同じでも。今のユイが使うかは。ユイが決めます」
***
ユイは。
自分の名前を書く。
ユイ
その下へ。
今日は。
Y.I.を書かない。
「書かない?」
朔。
「今日は、ユイの話してるから」
「捨てた?」
「捨ててない」
「はい」
***
夜。
リオが。
朔の紙を読む。
表示。
現在身体。
別々。
「黒川朔は眠っとる」
「そう読めました」
「お前は」
「ここにいます」
「どっちもほんまか」
「両方が。何かの意味で正しい可能性があります」
「向こうがほんまなら」
「こっちが嘘とは限りません」
「こっちがほんまなら」
「向こうが偽物とも限りません」
***
「名前の紙」
リオが胸元から取り出す。
朔が以前書いた。
黒川朔。
その下。
サク。
今。
呼ばれたい名。
「見るか」
「はい」
***
紙。
変化なし。
白い文字。
なし。
K.K.
なし。
眠り。
なし。
朔が。
自分で書いた線だけ。
***
「向こうの表示と」
リオ。
「同じ名前やな」
「はい」
「こっちは、お前が書いた」
「はい」
「向こうは」
「誰が書いたか分かりません」
「なら」
「同じ名前でも。持ち方が違います」
***
「この紙は」
リオ。
「向こうの黒川朔のもんか」
「俺が書いた時の。俺の紙です」
「今のお前は」
「今も、持っていてほしいです」
「向こうが起きて」
「返してほしいと言ったら」
「その時に考えます」
「一枚しかない」
「名前は。紙一枚ではありません」
***
「黒川朔は眠っとる」
リオが。
もう一度言う。
「お前も夜は寝る」
「はい」
「朝、起きる」
「はい」
「向こうは」
「起きていない可能性があります」
「起きたら帰ってくる?」
「分かりません」
「目覚めることは」
「帰ることではありません」
***
成人の身体が。
目を開けても。
元の部屋へ。
会社へ。
道場へ。
戻れるとは限らない。
今の朔が。
そこへ移るとも。
二つの身体が。
一つになるとも。
分からない。
***
現在の朔が。
朝。
目を開けることも。
白い側から見れば。
覚醒ではないかもしれない。
夢の続き。
観測中。
別の状態。
そう表示されるかもしれない。
***
だが。
表示が。
今の朔の呼吸を。
消すわけではない。
今の朔の呼吸が。
向こうの睡眠を。
偽物にするわけでもない。
***
朔は。
自分の記録を書く。
最初。
見えた三行。
そのまま。
***
SUBJECT:K.K.
NAME:KUROKAWA SAKU
STATUS:SLEEP
***
次。
俺は、この表示を「K.K.と符号化された対象の名前が黒川朔で、状態が睡眠である」に近いものとして読んだ。
表示が、どの身体、場所、時刻、存在を指すかは確認できない。
***
次。
同時刻、俺は現在の子どもの身体で立ち、呼吸し、周囲の人物と場所へ応答した。
黒川朔とサクを、自分が現在使う名前として答えた。
***
筆が止まる。
最後。
表示を否定しない。
成人の身体。
眠っている名前。
K.K.
その可能性を。
消さない。
***
続ける。
表示によって、今ここにいる俺を空白にもしない。
***
その下。
日付。
場所。
自分の手で。
署名。
黒川朔
さらに。
現在は、サクと呼ばれたい。
***
紙を。
表示記録とも。
現在身体記録とも。
綴じない。
朔自身の。
現在の申告。
別の紙。
***
三枚。
表示。
身体。
本人の言葉。
相互に。
参照する。
代わりには。
しない。
***
黒川朔は。
眠っている。
そう表示された。
***
朔は。
その文字を。
間違いだとは言わなかった。
向こうの身体を。
過去の抜け殻にも。
使われなくなった器にも。
しなかった。
***
同時に。
今の身体を。
眠りの中だけにある仮の姿にも。
目覚めるまでの待ち時間にも。
しなかった。
***
子どもの右手を。
開く。
閉じる。
紙へ触れる。
木の机。
傷。
温度。
今。
感じる。
***
目の前にいる者を見る。
ユイ。
マレア。
ネラ。
セオ。
グラド。
廊下にいる。
リオ。
***
「俺は、ここにいます」
***
それは。
俺だけが本物だ。
という宣言ではなかった。
向こうに眠る者を。
消す言葉でも。
***
どこへ帰るか。
どの身体を起こすか。
どの手へ触れるか。
まだ。
決めていない。
***
それでも。
決めていない間も。
朔は。
誰かが決めるまでの空欄ではなかった。
***
眠っている名前が。
向こうにあるかもしれない。
同じ名前を。
今ここで使う者がいる。
***
どちらか一つへ。
先に名前を閉じ込めない。
片方から。
奪わない。
***
目覚めることは。
帰ることではない。
眠っていることも。
いないことではない。
***
白い表示は。
黒川朔を。
眠っていると記した。
***
朔は。
今ここで呼ばれる名前を。
空白にはしなかった。
眠っている名前を。
起こす前に奪わず。
起きている自分を。
誰かの夢にもせず。
***
黒川朔は、眠っている。
そう表示された。
***
朔は。
子どもの右手を。
紙の上へ置く。
自分で。
息を吸う。
***
「俺は、ここにいます」
***
その二つを。
矛盾として。
片方から消さないまま。
第七章の記録は。
そこで。
一度、閉じられた。




