第七章 眠っている名前 ⑩ まだ起こすな
その夜。
朔は、白い場所を見るために眠るのではないと書いた。
眠れば。
旧観測室の壁が現れるかもしれない。
成人の手が。
K.K.の表示が。
黒い人影が。
声が。
現れるかもしれない。
だが。
現れるまで眠ることを。
調査にはしない。
***
「途中で起こしますか」
マレアが尋ねた。
「時間で?」
「はい」
「普段通りで」
「悪夢が続いているように見えたら」
「身体を確認してください」
「名前を呼ぶ?」
朔は少し考える。
「最初は、サクとも黒川朔とも呼ばないでください」
「では」
「ここにいる人の名前を言ってください」
「私やリオさんの?」
「はい」
「朔さん自身の名前は」
「聞いていいか、先に確認してください」
***
眠っている者を。
名前で引き戻す。
それが、必ず安全とは限らない。
呼ばれた名前へ。
自分を合わせて起きる可能性もある。
だから。
身体。
場所。
今いる人。
その後。
本人の名前。
***
リオは、治療室の椅子へ座った。
「俺は寝てもええんか」
「はい」
「お前が起きた時、俺が寝とったら」
「起こします」
「名前で?」
「リオさん、と」
「俺は答える」
「はい」
「多分な」
***
「紙は」
朔が尋ねた。
「ここや」
リオは胸元を指す。
「出さないでください」
「分かっとる」
「白い手が見えても」
「寝とるお前には見せられん」
「俺が起きて、K.K.と言ったら」
「何でそう言うたか聞く」
「サクと言ったら」
「それも」
「黒川朔」
「それもや」
名前が合ったことを。
それだけで帰還の証明にはしない。
***
灯りが落ちる。
紙の匂い。
遠い荷車。
市場の戸を閉める音。
リオの呼吸。
子どもの右手。
胸の上。
自分で置く。
***
朔は目を閉じた。
***
白い天井があった。
目を開いたのかは。
分からなかった。
瞼の感覚がない。
頭を動かせない。
首があるかも。
分からない。
白い面。
継ぎ目なし。
ひびなし。
旧観測室の壁とは違う。
そう思う。
だが。
旧観測室の壁を知った後だから。
違う白へ分けた可能性もある。
***
身体の右側。
白い布。
その外。
成人の右手。
手の甲。
短い爪。
親指の付け根の細い線。
拳の付け根。
皮膚の厚み。
前に見た手と。
同じに見える。
同じ手かは。
確認できない。
***
動かそうとする。
指。
動かない。
いや。
動かした感覚がない。
今の子どもの右手が。
どこにあるかも分からない。
白い布の外にある手を。
自分の手として感じているのか。
見えているだけなのか。
分けられない。
***
声。
左側。
近い。
「対象符号」
紙を読むような声。
女とも。
男とも。
決められない。
「K.K.」
***
白い線。
成人の手の上。
空間へ重なる。
SUBJECT:K.K.
前に見た表示と。
同じに見える。
文字の大きさ。
間隔。
位置。
正確には覚えていない。
***
別の声。
少し遠い。
「名前への反応が、安定しません」
反応。
誰の。
どの名前への。
分からない。
朔は。
黒川朔。
と答えようとする。
声が出ない。
口を動かした感覚もない。
***
表示。
NAME RESPONSE:UNSTABLE
白い線が。
わずかに揺れる。
文字が揺れたのか。
朔の視界が。
動いたのか。
分からない。
***
「再確認しますか」
近い声。
「同じ結果です」
遠い声。
「覚醒手順へ移りますか」
***
覚醒。
目覚め。
起動。
起こす。
朔の記憶が。
一つの音へ。
いくつもの意味を重ねる。
***
白い布の外の指。
人差し指。
わずかに曲がる。
そう見えた。
朔は。
自分が動かしたと思う。
だが。
命令した記憶がない。
***
低い声。
「まだ起こすな」
***
声が。
ほかの音を押し退ける。
大きくはない。
怒ってもいない。
命令。
確認。
判断。
どれにも聞こえる。
***
朔は。
その声を知っていると思った。
三門。
社長。
ミカドホールディングス。
社内の映像。
全体説明。
顔は。
思い出せない。
映っていなかったのか。
朔が見ていなかったのか。
分からない。
ただ。
声だけが。
冷たく。
迷わず。
数字の続きを読むように。
残っている。
***
「現在の深度では」
別の声。
途中が聞こえない。
「――危険が」
低い声。
「危険なのは想定内だ」
***
誰の危険か。
身体。
名前。
目覚め。
こちらの世界。
ほかの者。
分からない。
***
「ですが」
近い声。
「適合が――」
音が欠ける。
水の中。
遠い廊下。
白い壁の向こう。
どこから聞こえるか。
分からない。
***
低い声。
「ORPHESは止めない」
***
ORPHES。
白い文字。
会社。
健康診断。
飲んだ白い液体。
深い眠り。
未来の世界。
祈りの殻。
黒い人影。
石枠。
成人の手。
全部が。
一つの線へ並びそうになる。
***
朔は。
その線を止めようとする。
今。
聞こえたこと。
前から知っていたこと。
後から結びつけたこと。
分ける。
***
対象符号。
K.K.
名前への反応。
安定しない。
覚醒手順。
まだ起こすな。
危険。
想定内。
ORPHES。
止めない。
***
順番。
同じ会話か。
分からない。
声の間に。
どれほど時間があったかも。
分からない。
同じ場所で。
同じ時に。
発せられたとも。
確認できない。
***
「まだ起こすな」
もう一度。
聞こえた。
同じ声か。
記憶の反復か。
分からない。
***
成人の右手。
動かない。
白い布。
呼吸による上下。
見えない。
胸も。
顔も。
ない。
手だけ。
***
起こされるのは。
この手か。
布の下の身体か。
K.K.か。
ORPHESか。
朔か。
分からない。
***
朔は。
言おうとする。
俺は。
ここにいる。
今。
話せる。
聞ける。
決められないと。
言える。
***
声にならない。
***
白い線。
新しい表示。
WAKE:HOLD
前に見たものと。
同じ。
そう思う。
だが。
前の記憶を。
今の白い線へ重ねた可能性もある。
***
朔は。
成人の手を動かそうとする。
人差し指。
動け。
曲がれ。
開け。
何も。
起きない。
***
子どもの右手が。
どこかで。
布を握った。
***
「待ってください」
自分の声。
今度は。
聞こえた。
***
白い天井が。
紙の匂いへ変わる。
荷車。
遠い声。
椅子の軋み。
暗い治療室。
***
「サク」
リオの声。
朔の胸が強く動く。
「名前を先に呼ばないでください」
マレア。
リオが止まる。
「すまん」
***
朔は目を開ける。
白い天井。
今度は。
木の梁がある。
小さな染み。
治療室。
右手。
白い寝具を握っている。
子どもの手。
***
「ここにいる人」
マレアが言う。
「マレアです。右側にリオさんがいます」
朔は右を見る。
リオ。
椅子。
胸元の紙。
見えない。
「場所」
「旧紙市場に近い治療室です」
「身体」
朔は答える。
「子どもの身体」
「痛み」
「右手。強く握っていました」
「開けられますか」
指を。
一つずつ開く。
掌。
赤い跡。
寝具の皺。
「開けられます」
***
「名前について聞いていいですか」
マレア。
朔は息を整える。
「はい」
「今、何と呼ばれたい?」
「サクで」
「ほかに使う名前」
「黒川朔」
「K.K.」
白い天井。
成人の手。
表示。
「今は、使いません」
***
「最初に言った言葉を覚えていますか」
「待ってください」
「その前」
リオが言いかける。
マレアが確認する。
「リオさんが、サクと呼びました」
「はい」
「その時、何を感じましたか」
「戻ったと思いました」
「名前へ?」
「場所へ」
「確定?」
「そう感じました」
***
「起こさないで、と言いましたか」
リオが尋ねた。
「言っていません」
「俺には、待ってくれ、と」
「はい」
「何を待ってほしかった」
朔は。
白い声を思い出す。
「向こうで。まだ決めないでほしいと思いました」
「起こすのを?」
「はい」
「起こさないのを?」
朔は止まる。
「両方です」
***
身体確認を終える。
頭痛。
軽い。
吐き気。
なし。
右手。
握力。
今の身体の範囲で確認。
左右差。
大きくなし。
白い表示。
現在は見えない。
成人の手。
現在は見えない。
声。
現在は聞こえない。
***
最初の記録は。
会話の意味ではなく。
起きた順。
眠りに入った時刻。
身体の動き。
リオが気づいた時刻。
右手が寝具を握った。
呼吸が速くなった。
朔が。
「待ってください」
と発話。
その後。
覚醒。
***
「身体を揺らしましたか」
「いいえ」
マレア。
「名前を呼びました」
リオ。
「一度」
「はい」
「それで起きた?」
グラドが後に尋ねる。
「呼んだ後に目を開けました」
「なら、名前への反応」
ネラが止める。
「呼名と覚醒の順が近いことは確認できます」
「反応した可能性」
「あります」
「名前で起きた」
「そう決めません」
***
朝。
治療室に。
ネラ。
セオ。
グラド。
マレア。
リオ。
朔。
六人。
夢。
とは。
見出しに書かなかった。
***
「眠っていた間の知覚」
セオが言う。
「それで」
朔が答えた。
「記憶の再生。現在の出来事。白い空間との接続。どれかは」
「未確認」
***
朔は。
最初に。
見えたものだけを話す。
白い天井。
白い布。
成人の右手。
SUBJECT:K.K.
NAME RESPONSE:UNSTABLE。
WAKE:HOLD。
***
「前回と同じ表示」
グラド。
「同じに見えました」
「文字列は一致」
「記憶している範囲では」
「なら」
「前回の記憶を、今回の知覚へ使った可能性があります」
***
次。
声。
朔は。
聞こえた順に話す。
対象符号、K.K.
名前への反応が安定しません。
再確認しますか。
同じ結果です。
覚醒手順へ移りますか。
まだ起こすな。
現在の深度では。
欠け。
危険が。
欠け。
危険なのは想定内だ。
適合が。
欠け。
ORPHESは止めない。
***
「同じ会話ですか」
セオ。
「分かりません」
「声の数」
「三人以上に感じました」
「三人?」
「近い声。遠い声。低い声」
「話者が三人」
「声の質が三つに感じました」
「同一人物が位置や音量を変えた可能性」
「あります」
「過去の別会話が繋がった可能性」
「あります」
***
「低い声」
グラドが尋ねる。
「三門社長ですか」
朔は。
すぐには答えない。
「似ていました」
「どの程度」
「会社にいた時、社内の説明で聞いた声に」
「本人の顔」
「思い出せません」
「声は覚えている」
「覚えていると思います」
「確信」
「ありません」
***
「前にも、同じ言葉を聞きましたか」
ネラが尋ねた。
「白い断片の中で。近い声を聞いた気がします」
「危険なのは想定内だ」
「はい」
「ORPHESは止めない」
「はい」
「今回、初めて聞いた?」
朔は記憶を探す。
「前に聞いた記憶と。今夜聞いた記憶を分けられません」
「では」
ネラは記録する。
当該二文について、今回の新規知覚か、過去の類似知覚の再生かを本人は区別できず。
***
「三門社長が、現在も」
グラド。
「現在とは決めません」
朔。
「あなたの身体のそばで命令している」
「場所も決めません」
「しかし、成人の手が見えた」
「手と声が同じ場所にあったように感じました」
「なら」
「感じたことと。実際の位置は分けてください」
***
「まだ起こすな」
グラドは。
その一文を読む。
「対象はK.K.でしょう」
「可能性はあります」
セオ。
「直前に、覚醒手順へ移るかと尋ねている」
「はい」
「SUBJECT:K.K.もある」
「はい」
「なら」
ネラが問い返す。
「K.K.の覚醒手順だと、誰が明示しましたか」
「文脈です」
「文脈を作っているのは」
「会話の並び」
「並びは、朔さんの知覚上です」
***
起こす対象。
K.K.
成人の身体。
ORPHES。
別の誰か。
何かの手順。
分からない。
だが。
K.K.表示。
成人の手。
覚醒。
近くに現れた。
関係する可能性は。
以前より高まった。
***
「まだ起こすな、は」
マレアが言う。
「安全上の判断にも読めます」
「支配にも」
イサラが。
後から加わった。
「はい」
「本人の意思を聞かずに、覚醒を止めているなら」
「問題があります」
「名前への反応が不安定なら」
「覚醒による危険を避けた可能性があります」
「待つことで危険が増えた可能性」
「あります」
「起こすことで危険が増えた可能性」
「あります」
***
「理由は記録されていません」
イサラ。
「朔さんの知覚には」
セオ。
「危険なのは想定内だ、があります」
「それが、起こす危険か。起こさない危険か。ORPHESを続ける危険か」
「分かりません」
***
「危険なのは想定内」
グラドが言う。
「それでも止めない」
「悪意だと思いますか」
ネラが朔へ尋ねた。
朔は。
三門の声を思う。
会社。
数字。
倒れた者。
休めない時間。
健診。
白い液体。
「そう感じます」
「事実として?」
「決めません」
「なぜ、そう感じる」
「俺のいた会社では。危険を知っていても、止めない判断がありました」
「今回の声も、その記憶へ入れた?」
「可能性があります」
***
「三門さんを、善意の管理者にする必要もありません」
マレアが言う。
「はい」
「悪意と決めないことと。責任を問わないことは違います」
「はい」
「実際に、危険を承知で続けたなら」
「理由と、誰が危険を負ったかを確認する必要があります」
「起こさなかったなら」
「本人へ説明したかも」
「確認する」
***
誰かを。
悪人にしないことは。
その判断を。
無害にすることではない。
まだ起こすな。
その一文が。
安全のためでも。
本人の意思を。
置き去りにしてよいとは限らない。
***
「三つの『まだ』があります」
グラドが言った。
紙。
一。
第六章。
黒い人影。
朔には。
まだ。
あるいは。
待て。
と聞こえた。
二。
第七章⑧。
マレアには。
人影の返答が。
まだ。
と聞こえた。
三。
今夜。
朔には。
まだ起こすな。
と聞こえた。
***
「同じ言葉です」
「二文字は」
ネラ。
「同じ話者?」
「未確認」
「同じ場所」
「未確認」
「同じ意図」
「未確認」
「同じ仕組み」
「未確認」
「では」
「別の紙へ置きます」
***
三枚。
重ねない。
時系列の線で。
繋げない。
一枚目。
人影の音声様知覚。
二枚目。
別の調査での、マレアの知覚。
三枚目。
眠りの中での、朔の知覚。
「同じ語として検索は」
グラド。
「できます」
セオ。
「同一事象としては」
「まとめません」
***
「でも」
ユイが言う。
午後。
三枚の紙を見る。
「全部、まだ」
「そう読めます」
朔。
「まだって、同じ時間?」
「分かりません」
「一つは、待って」
「そう聞こえた可能性」
「一つは、役目かもしれない」
「はい」
「一つは、起こすな」
「はい」
「同じ人が言ったら?」
「繋がります」
「違う人なら?」
「同じ言葉を使っただけです」
「人じゃなかったら?」
「それも、分かりません」
***
「まだ起こすなって言った人は」
ユイが尋ねる。
「悪い人?」
朔は。
すぐに答えない。
「分かりません」
「起こさないのに?」
「起こすと危険だったかもしれません」
「サクに聞いた?」
「分かりません」
「聞いてないなら」
「問題だと思います」
「聞けなかったら?」
「今の俺には聞けます」
***
ユイは頷く。
「今のサクは、起きたい?」
前にも。
聞かれた問い。
だが。
今夜。
誰かが起こすなと言った後。
同じ答えではない。
「少し、起きたいと思いました」
「どうして?」
「誰かに止められていると知ったから」
「起きたいから?」
「自分で決めたいからかもしれません」
「同じ?」
「違うと思います」
***
「起こすなって言われたら」
ユイ。
「起きたくなる?」
「なることがあります」
「じゃあ、起きたいは、本当じゃない?」
「本当です」
「でも」
「理由が、向こうへ戻りたいからだけではありません」
「止めた人に、決められたくない」
「はい」
「それも、サクの気持ち?」
「はい」
***
外から止められたことで。
生まれた意思も。
偽物ではない。
だが。
それだけを。
以前からの望みにはしない。
***
リオは。
夜になってから。
朔の話を聞いた。
「社長の声やった」
「似ていました」
「嫌いな奴か」
「信じてはいません」
「なら、起こすなと言われて」
「起きたいと思いました」
「そいつに決められたくない?」
「はい」
「身体へ戻りたい?」
「それも、少し」
「顔を見たい」
「はい」
「今の身体が消えても」
「それは怖いです」
***
「ほな」
リオは言う。
「起きたいと。決められたくないを。混ぜんな」
「はい」
「起きたくないと。今を失いたくないも」
「はい」
「同じちゃうぞ」
「はい」
「紙に書け」
***
朔は。
新しい紙を取る。
起こすことへの同意書ではない。
白い側へ届くとも。
分からない。
今の朔が。
今。
何を望み。
何を決めていないか。
残す紙。
***
成人の身体に見えるものについて、さらに確認したい。
顔、身体、現在の状態を知りたい。
誰が、何を理由に、覚醒を保留しているのか知りたい。
***
次。
今すぐ強制的に覚醒させることには、同意しない。
筆が止まる。
強制。
誰が。
どのように。
実際にできるか。
分からない。
それでも。
意思として。
残す。
***
これは、今後の覚醒を永続的に拒否する意味ではない。
次。
覚醒しない状態を永続させることにも、同意していない。
***
起こす。
起こさない。
どちらにも。
白紙の同意を渡さない。
***
現在の身体、記憶、この世界で築いた関係に何が起きるか分からないまま、覚醒を決めたくない。
元の世界に残る身体、人、生活を確認しないまま、覚醒を拒みたくもない。
***
最後。
今の俺は、まだ決めていない。
書いてから。
朔は。
まだ。
の二文字を見る。
***
「人影と同じ言葉か」
リオが尋ねた。
「分かりません」
「社長と」
「分かりません」
「お前は、どういう意味で書いた」
「時間が必要だという意味です」
「止めろ、では」
「ありません」
「起こすな、でも」
「ありません」
「なら、それも書け」
***
朔は追記する。
ここでの「まだ」は、今の俺が判断に必要な情報と時間を求める意味で使った。ほかの「まだ」と同じ話者、意図、状態を示すとは決めない。
***
「長いな」
リオ。
「はい」
「でも、今はそれでええ」
***
「紙は誰が持つ」
「俺が持ちます」
「帰る場所の紙と一緒に?」
朔は。
二枚を見る。
帰る場所を。
まだ選んでいない紙。
起こすかを。
まだ決めていない紙。
「別に持ちます」
「何で」
「帰ることと。起きることは。同じではないからです」
リオは頷く。
***
目覚めることは。
帰ることではない。
成人の身体が起きても。
元の部屋へ帰れるとは限らない。
元の人々へ。
会えるとも。
今の身体から。
移れるとも。
今の朔が。
そのまま続くとも。
分からない。
***
逆に。
成人の身体を起こさなくても。
今の朔が。
ここで安全に生き続けられるとは。
決まっていない。
黒い人影。
石枠。
白い壁。
役目。
眠っている名前。
こちらにも。
危険はある。
***
誰かが。
何かを。
起こさないと決めている。
そう聞こえる言葉があった。
***
その何かが。
K.K.である可能性。
成人の身体である可能性。
朔自身である可能性。
以前より。
高まった。
***
だが。
まだ起こすな。
と命じた者が。
朔を守ろうとしたのか。
管理しようとしたのか。
危険を押しつけたのか。
時間を与えたのか。
分からない。
***
危険なのは想定内だ。
ORPHESは止めない。
その声が。
三門の現在の判断か。
過去の記憶か。
朔が知る三門の像へ。
別の声を入れたのか。
分からない。
***
分からないことは。
三門に責任がないことを意味しない。
同時に。
朔が聞いた一夜だけで。
全ての責任を確定できることも意味しない。
***
朔は。
今夜の記録の見出しを書く。
眠っていると表示されたK.K.に近い位置で、覚醒を保留するように聞こえる会話を知覚した。
見直す。
「近い位置」
成人の手。
表示。
声。
同じ空間に感じた。
だが。
実際の距離は分からない。
***
追記。
ここでの「近い」は、朔の知覚上、同時または連続して現れたことを示す。物理的位置および時間の一致は未確認。
***
長い。
不便。
それでも。
K.K.が眠らされている。
三門が起こさせない。
ORPHESが朔を閉じ込めている。
その一文へ。
まだしない。
***
夜。
朔は。
眠る前に。
自分の右手を見る。
子どもの手。
寝具を握った跡は。
もう薄い。
指を開く。
曲げる。
自分で。
動く。
***
白い布の外にあった成人の手は。
今も眠っているかもしれない。
誰かが。
まだ起こすな。
と決めているかもしれない。
***
だが。
その決定だけで。
今の朔が。
起きることを望むとは決まらない。
反対に。
起こすなと言われたことへ逆らうためだけに。
成人の身体を起こしてよいとも。
決まらない。
***
朔には。
今。
答えられることがあった。
知りたい。
自分で決めたい。
すぐには決めない。
どちらの身体も。
どちらの世界も。
先に捨てない。
***
それだけ。
紙へ残す。
***
灯りが落ちる前。
リオが尋ねた。
「今夜は寝るんか」
「はい」
「起こすなって聞いた後でも」
「はい」
「怖くない?」
「怖いです」
「また白いとこ見たら」
「今いる場所を確認します」
「社長の声がしたら」
「聞こえた言葉を分けます」
「起こす言われたら」
「すぐには同意しません」
「起こすな言われたら」
「それにも、すぐ従いません」
***
「今のお前は」
リオが言う。
「起きとるんか」
朔は。
自分の手を見る。
紙。
治療室。
リオ。
遠い市場の音。
「ここでは、起きています」
「向こうから見たら」
「分かりません」
「なら」
リオは椅子へ座る。
「今夜は、こっちで寝ろ」
「はい」
***
朔は目を閉じる。
目覚めるためではない。
白い場所へ行くためでも。
成人の身体へ戻るためでもない。
今の身体を休ませるために。
***
誰かが。
何かを起こさないと決めている。
その何かが。
朔かもしれない可能性は高まった。
***
だが。
起こされることを望むかどうかは。
まだ。
朔自身にも。
決められていなかった。




