第七章 眠っている名前 ⑥ 二つの帰る場所
白い手を見た翌日。
朔は、旧観測区画へ行かなかった。
会議にも出ない。
記録の整理も。
白い表示の比較も。
マレアが止めたからではない。
頭痛が残っていた。
吐き気は消えたが、食事の匂いを強く感じる。
右手の震えは、朝には見えなくなった。
だからといって。
考えるための身体に戻ったとは書かなかった。
***
「今日は何をしますか」
トエが尋ねた。
「休みます」
「何もしない?」
朔は考える。
「市場まで歩きたいです」
「理由」
「外の空気を吸いたい」
「ほかには?」
「白い手のことを考え続けたくない」
「歩けば考えない?」
「分かりません」
「一人で?」
「リオさんに聞きます」
***
身体確認。
頭痛。
軽い。
吐き気。
なし。
視覚。
白い奥行きなし。
文字なし。
手。
右も左も動く。
名前。
聞いてよいか確認された後。
「今は、サクと呼んでください」
黒川朔も。
自分が使う名前として答えられる。
K.K.は。
使わない。
***
「市場までなら」
マレアが言った。
「疲れた時点で戻ってください」
「予定した場所まで行ってからではなく?」
「はい」
「記録は?」
「今日は、歩いた距離を調査記録にはしません」
「身体所見だけ?」
「必要なら」
「白いものが見えたら」
「その場で止まり、今いる場所と人を確認してください」
「戻る?」
「身体と知覚を確認して決めます」
何か見えたら。
必ず治療室へ運ぶ。
とも決めない。
***
リオは、旧紙市場の入口にいた。
ミエルと、紙束を運ぶ順番を話している。
「この棚は午後」
ミエルが言う。
「雨が来る前に、厚い紙を奥へ」
「雲は薄いぞ」
「薄いうちにやるの」
「降らんかったら」
「棚が移るだけ」
「戻すんか」
「その時決める」
朔が近づくと、リオが話を止めた。
「歩けるんか」
「はい」
「どこまで」
「市場の外を少し」
「目的は」
「休むためです」
「歩くんやろ」
「歩くことを、調査にしないためです」
「面倒やな」
「はい」
「行くか」
***
リオは、朔の名前を書いた紙を胸元に持っている。
ミナトの短刀も。
今日。
それを確認する必要はない。
「紙はありますか」
朔は聞かなかった。
あると知っている。
今、目で見ていない。
それで歩けないわけではない。
***
旧紙市場を出る。
白い塔の影。
石畳。
荷車。
水売りの声。
道端で、靴底を直す者。
紙袋を抱えた子ども。
昨日までと同じように見える。
同じ日ではない。
朔が白い手を見た後の街だった。
だが。
街は、朔の発見に合わせて姿を変えない。
***
「どこへ行く」
リオが尋ねた。
「決めていません」
「東門は向こうや」
「はい」
「塔へ戻る道は後ろ」
「はい」
「決めてへん奴が歩くと、道が勝手に決めるぞ」
朔は足を止める。
前。
東門。
後ろ。
旧紙市場と治療区画。
「川の方へ行きます」
「何で」
「門でも塔でもないから」
「避けたな」
「はい」
「それも理由や」
二人は川沿いへ向かった。
***
王都の川は、城壁の内側を細く流れている。
水は浅い。
洗った布。
小さな木片。
葉。
流れの速い場所と。
ほとんど止まって見える場所がある。
朔は、低い石壁へ座らない。
まだ歩ける。
リオも、止まれとは言わない。
***
「向こうの手」
リオが言った。
「はい」
「今も見えるか」
「見えません」
「思い出せる」
「はい」
「顔は」
「見ていません」
「でも、お前やと思った」
「大人だった時の俺の手に」
「帰りたいか」
朔の足が止まる。
***
「どこへですか」
「その手がある場所や」
「見たいです」
「顔を?」
「はい」
「身体を?」
「はい」
「帰りたいか」
同じ問い。
朔は川を見る。
「分かりません」
「戻れそうやったら?」
「分かりません」
「元の身体やったら?」
「元という言葉を、まだ使いたくありません」
「何で」
「今の身体が、後から来た偽物みたいになるからです」
***
リオは川へ落ちた枝を見る。
「帰るって、どっちへや」
水が枝を運ぶ。
石へ引っかかる。
止まり。
また流れる。
「白い手のある場所」
朔が言う。
「そこへ行ったことあるんか」
「元の世界にいた時の身体なら」
「身体やなく、場所や」
「病院か。会社の施設か。分かりません」
「家は?」
朔は答えようとして。
白い布の下に。
自分の部屋を置こうとしたことに気づく。
「手がある場所は、家ではないと思います」
「ほな、起きたら」
「家へ戻れるかもしれません」
「どこや」
***
朔は、元の世界の部屋を思い出す。
狭い玄関。
脱いだ靴。
壁に掛けた鍵。
流し台。
一人分の皿。
冷蔵庫の上に置いた薬。
洗って干したバンテージ。
床へ置いたままの練習鞄。
机。
会社から持ち帰った書類。
充電器。
カーテンを閉めても入る、道路の光。
「小さな部屋です」
「誰がおる」
「一人で住んでいました」
「なら、帰ったら一人か」
「そうだと思います」
「今も部屋があるか」
朔は答えられない。
***
どれだけ時間が経ったのか。
元の世界と。
こちらの世界。
同じ速さか。
十二年前のK.K.
朔が来たのは最近。
時期の意味が分からない。
家賃。
契約。
郵便。
会社。
誰かが部屋へ入ったかもしれない。
荷物は片づけられているかもしれない。
朔自身が。
行方不明。
入院。
死亡。
どのように扱われているかも分からない。
「帰る部屋が、もうない可能性があります」
「ある可能性も」
「はい」
***
「会社は」
リオが尋ねた。
「ありました」
「帰りたいか」
「分かりません」
「嫌いやったんやろ」
「はい」
「なら、帰りたくない?」
「会社へは」
「元の世界へ聞いとる」
朔は黙る。
会社。
白い蛍光灯。
机。
端末。
未処理の数字。
夜。
終電。
栄養飲料。
名前ではなく社員番号で呼ばれた時間。
それだけではない。
***
駅前の道場。
古いミット。
汗の匂い。
床の傷。
使い込んだ縄。
久しぶりに来ても。
何も聞かず、バンテージを投げてきた者。
試合前。
背中を一度叩いた手。
勝っても負けても。
片づけを先にさせた声。
名前は。
思い出せる。
だが。
朔は、ここで一度も口にしていなかった。
***
「会いたい人はいます」
朔が言った。
「誰や」
名前を言うことが。
急に重くなる。
この世界へ。
元の世界の人を持ち込むように感じる。
「道場の人たち」
「名前は」
「言えます」
「言いたくない?」
「今は」
「何で」
「帰れるかも分からないのに。待っている人みたいにしたくありません」
「待ってへんかもしれん?」
「はい」
「忘れとるかも」
「はい」
「死んどるかも」
「はい」
「生きて、探しとるかも」
朔の呼吸が止まりかける。
「はい」
***
「それも残せ」
リオが言った。
「何を」
「待ってへん可能性だけ出して、帰らん理由にすんな」
「でも」
「探しとると決めるな。忘れとるとも決めるな」
「はい」
「向こうを空にしたら」
リオは朔を見る。
「こっちを選びやすいやろ」
***
元の世界。
会社だけではない。
狭い部屋だけでも。
成人の身体だけでもない。
練習場。
駅。
よく寄った店。
雨の日に滑る歩道。
壊れた傘を捨てた場所。
朝まで話したことのある者。
試合後に無言で水を渡した者。
もう会わなくなった者。
謝れなかった者。
名前を。
今すべて並べる必要はない。
だが。
いなかったことにはしない。
***
「今の世界は」
リオが尋ねる。
「ここです」
「帰る場所か」
朔は、川の向こうを見る。
ツヅリ村。
もう遠い。
白い塔。
旧紙市場。
治療室。
どこが家か。
「分かりません」
「お前、ここへ来てから、どこに帰った」
「ツヅリ村」
「今は」
「白い塔へ戻っています」
「帰っとるんか」
「戻ってはいます」
「違うんか」
「帰るというと、住む場所や。待っている人がいる場所に感じます」
「塔には」
「リオさんたちがいます」
「俺は市場や」
「はい」
「ユイは治療区画」
「はい」
「一か所ちゃうな」
***
帰る場所。
建物ではない。
一つの部屋でも。
誰か一人でもない。
それでも。
人がいれば、必ず帰る場所になるわけではない。
「元って、誰が決めた」
リオが尋ねた。
「生まれた場所?」
「お前、元の部屋で生まれたんか」
「違います」
「会社は」
「違います」
「大人の身体は」
「生まれた時から大人ではありません」
「なら」
朔は答える。
「長く生きた場所や身体を、元と呼びたくなっています」
「今の身体で生きた時間が長くなったら」
「分かりません」
「長さで決める?」
「それも違うと思います」
***
「今のお前を途中扱いすんな」
リオが言った。
声は強くない。
「はい」
「大人の身体が起きるまでの」
「待ち時間にしない」
「ここで会った奴を」
「夢の中の人にしない」
「今の手を」
「借り物にしない」
「でも」
リオが続ける。
「向こうの手も、捨てるな」
「はい」
「できるか」
「分かりません」
「ほな、今日決めんな」
***
二人は再び歩き始める。
川沿い。
帰り道。
塔へ戻るとは言わない。
旧紙市場へ向かう。
今夜。
朔が眠る治療室へ戻るため。
***
途中。
ミウが荷車の前で立ち止まっていた。
車輪が、石の隙間へ落ちている。
紙束は軽い。
だが。
荷車を斜めに引けば、束が崩れる。
「手伝う?」
リオが尋ねる。
「右を持って」
ミウが言う。
朔ではない。
リオへ。
朔を見る。
「サクは、紙を押さえて」
「はい」
***
朔は荷車を持ち上げない。
今の身体では。
リオほど力がない。
紙束の上へ手を置く。
滑らないように。
右手。
子どもの手。
指。
紙の端。
重み。
触れられる。
「上げるぞ」
リオ。
車輪が、石の隙間から出る。
荷車が揺れる。
朔は紙を押さえる。
一枚も落ちない。
***
「大人の手なら、一人で上げられたかもしれません」
朔が言う。
「今は、紙を押さえた」
ミウが答えた。
「はい」
「必要だったよ」
それだけ言って。
荷車を押していく。
朔の手を。
弱い代わりの手とは呼ばない。
***
旧紙市場へ戻る。
ミエルが棚を移している。
厚い紙は、奥。
薄い紙は、入口側。
「雨は?」
リオが尋ねる。
「降らなかった」
「戻すか」
「戻さない」
「何で」
「こっちの方が運びやすいって分かった」
「元の場所は」
「空いた」
「間違いやった?」
「朝には、雨を避けるために動かした」
「降らんかった」
「でも、動かして分かったことがある」
ミエルは棚板を叩く。
「戻せるからって、戻す必要はない」
***
朔は、灰色板を思い出す。
閉じても。
元の位置へは戻らなかった。
棚も。
今は別の場所にある。
だからといって。
前の位置が偽物だったわけではない。
今の位置だけが正解でも。
***
治療室へ戻る前。
ユイが、旧紙市場へ来た。
イナと一緒。
胸元に、紙はない。
今日は部屋へ置いている。
「歩いた?」
ユイが尋ねる。
「はい」
「どこまで?」
「川」
「帰ってきた?」
朔は、旧紙市場を見る。
「市場へ戻りました」
「ここが帰る場所?」
「今日は」
「明日は?」
「分かりません」
***
「白い手のところも?」
「帰る場所かもしれません」
「二つ?」
「二つ以上かもしれません」
「いっぱい帰ったら、サクがいっぱいになる?」
「分かりません」
「一つに帰ったら、ほかはなくなる?」
「その可能性が怖いです」
「白いところへ帰ったら、こっちは?」
「分かりません」
「ここにいたら、向こうは?」
「眠ったままかもしれません」
「かわいそう?」
朔はすぐに答えない。
「そう感じます」
「サクなのに?」
「俺かもしれないから」
***
「今のサクも、かわいそう?」
ユイが尋ねた。
「なぜ?」
「向こうを起こすために、ここを終わりにしたら」
朔の胸が痛む。
「はい」
「じゃあ、どっちを助ける?」
「まだ決められません」
「二人だったら?」
「二人へ聞きます」
「同じサクだったら?」
「聞けないかもしれません」
「じゃあ」
ユイは考える。
「今、話せるサクには聞ける」
「はい」
「向こうは?」
「まだ、手しか見ていません」
***
「今のサクは、起こしたい?」
ユイが尋ねる。
「見たいです」
「起こしたい?」
「分かりません」
「眠らせたい?」
「それも、分かりません」
「決めない?」
「今は」
ユイは頷く。
「今のサクが、決められないって言ったことは残る?」
「はい」
「向こうが起きたら?」
「その時の俺が、今の言葉を覚えているか分かりません」
「じゃあ、書く?」
***
治療室。
朔は新しい紙を一枚取る。
帰る場所を選ぶ紙ではない。
起こすことへの同意書でも。
拒否書でもない。
今の朔が。
今、考えていることを残す紙。
***
最初。
白い手のある場所を、見たい。
次。
成人の身体が自分のものか、確かめたい。
その下。
起こしたいかは、まだ分からない。
さらに。
起きた時、今の身体、記憶、この世界の人々との関係がどうなるか分からない。
***
元の世界。
朔は筆を止める。
こちらより。
書けることが少ない。
少ないから。
大切なものが少なかったとは限らない。
名前を。
今ここへ書くか。
迷う。
***
元の世界にも、会いたい人がいる。
それだけ書く。
誰かが待っている。
とは書かない。
忘れているとも。
死んでいるとも。
生きて探しているとも。
まだ分からない。
***
住んでいた部屋が、今もあるか分からない。
会社や道場が、今も同じ状態か分からない。
時間が、同じように進んでいるか分からない。
白い手が。
元の生活へ直結するとは限らない。
身体が目覚めても。
戻る部屋がないかもしれない。
会いたい者が、いないかもしれない。
それでも。
その世界を空欄にしない。
***
現在の世界。
ツヅリ村へ帰りたい。
書いてから。
朔の手が止まる。
村は。
出てきた場所。
ハルはいない。
ミナトも。
戻れば。
同じ村ではない。
それでも。
帰りたい。
***
白い塔で、まだ確かめたいことがある。
リオ、ユイ、ほかの人々と、今後も話したい。
全員の名前は書かない。
書かなかった者が大切でないことにはしない。
今。
この紙へ必要な範囲。
***
最後。
どちらかを偽物にしてから、選びたくない。
その文を見て。
朔は、まだ早いと思う。
今は。
選択を求められていない。
白い表示は、WAKE:HOLD。
そう見えただけ。
誰が保留しているかも分からない。
それでも。
先に書いておきたい。
***
リオが治療室へ来る。
紙は、机に伏せてある。
「何を書いた」
「帰りたい場所について」
「決めたか」
「いいえ」
「なら、何で書く」
「決めていないことを、後から同意にされないためです」
「誰に」
「王都にも。白い表示にも。未来の俺にも」
「未来のお前は、敵か」
「違います」
「なら」
「今の俺と、同じとは限りません」
***
「読むか」
リオが尋ねる。
「読んでください」
朔が紙を渡す。
名前を書いた紙とは違う。
リオの胸元へ預けるものでも。
まだ決めていない。
リオは、一行ずつ読む。
声には出さない。
***
「会いたい人」
リオが言う。
「はい」
「名前は書かんかった」
「まだ、ここへ持ってくる準備ができていません」
「名前を言うたら、こっちのもんになるんか」
「違います」
「なら」
「俺が、そう感じています」
「ほな、今はそれでええ」
***
「ツヅリへ帰りたい」
「はい」
「戻ったら、前と同じか」
「違います」
「それでも帰る?」
「はい」
「元へ戻るんやないな」
「はい」
「白い手の場所へ行くのも」
「元へ戻るとは限りません」
「なら」
リオは紙を机へ戻す。
「二つとも、帰るって言うてええんか」
朔は考える。
「今は、帰る場所になり得る場所です」
「長いな」
「はい」
「でも、その方がええ」
***
「この紙、誰が持つ」
リオが尋ねた。
「今日は、俺が持ちます」
「名前の紙は」
「リオさんに」
「違う持ち方やな」
「はい」
「失くしたら」
「また書くか決めます」
「明日、考えが変わったら」
「日付を付けて、次を書きます」
「書き換えへん?」
「今の紙は残します」
今の迷いを。
後の決断で消さない。
***
夜。
朔は眠る前に。
自分の右手を見る。
子どもの手。
紙を持つ。
新しい紙。
帰る場所を決めていないという記録。
リオの胸元には、古い紙。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
***
白い空間の向こう。
成人の手。
今も眠っているのか。
表示が今も続いているのか。
分からない。
朔が見ていない間に。
指が動いたのか。
目覚めに近づいたのか。
何も変わっていないのか。
確認できない。
***
元の世界には。
朔が暮らした部屋があった。
働いた場所が。
身体を鍛えた場所が。
名前を呼んだ者がいた。
今もあるか。
待っているか。
分からない。
分からないから。
なかったことにはしない。
***
こちらの世界には。
朔が目を覚ました村がある。
名前を呼ばれた火のそば。
守れなかった者。
連れて帰れなかった者。
今、紙を持って待つ者。
自分で名前を持つ者。
まだ話したい者がいる。
だからといって。
ここだけを本物にはしない。
***
帰る場所が、二つある。
そう書けば。
既に二つの場所が。
朔を待っているように聞こえる。
だが。
白い手の場所が。
朔を帰すつもりかは分からない。
元の世界に。
帰る生活が残っているかも。
こちらの世界が。
朔を永遠に置く場所かも。
決まっていない。
***
ただ。
どちらへ進んでも。
失うものがある可能性があった。
成人の身体を起こさなければ。
向こうに残した時間。
人。
身体。
名前へ応答する機会を失うかもしれない。
起こせば。
今の身体。
この世界で得た記憶。
今ここで結んだ関係。
それらが失われるかもしれない。
***
どちらも。
まだ、失うとは決まっていない。
二つが繋がる可能性も。
どちらも残る可能性もある。
だが。
分からないことを。
何も失わないという約束にはしない。
***
朔は。
白い手を見たいと思った。
顔を確かめたい。
起こしてみたいという気持ちも。
少し。
あった。
同時に。
今の自分が消えることを恐れた。
この世界を夢と呼ばれることを。
ここで会った者が。
目覚めるまでの途中にされることを恐れた。
***
そのどちらも。
帰る先を決めるには足りなかった。
だが。
どちらかを消して決めるよりは。
今の朔に近かった。
***
眠る前。
リオが椅子から尋ねる。
「今夜、どこへ帰った」
朔は、白い天井を見る。
「この治療室です」
「明日は」
「分かりません」
「白い手のとこは」
「まだ、帰るとは決めていません」
「元の世界は」
「なくなったとは決めません」
「ここは」
「途中とは決めません」
***
リオは目を閉じる。
「ほな、寝ろ」
「はい」
「起きたら」
「今いる場所を確認します」
「名前は」
「聞いてから答えます」
「帰る場所は」
「起きてから、また考えます」
***
灯りが消される。
市場の音。
遠い荷車。
紙の匂い。
子どもの身体の呼吸。
白い手は見えない。
***
朔には。
二つの帰る場所があったのではない。
まだ。
帰る場所になり得るものが。
二つ以上。
見え始めていた。
***
そのどれにも。
朔を待つ義務はなかった。
朔にも。
すぐ一つを選ぶ義務はない。
ただ。
選ばない間を。
今の自分が生きている時間として扱う必要があった。
***
目覚めるまでの待ち時間ではなく。
元へ戻る前の仮の身体でもなく。
朔は。
その夜。
今ここへ帰り。
まだ選んでいない者として。
自分の手で、目を閉じた。




