第七章 眠っている名前 ⑤ 眠っている手
灰色の板を動かす作業は、翌日には行われなかった。
ユイの頭痛は、その日の夜には弱くなった。
翌朝には消えた。
だからといって。
すぐ、同じ場所へ戻す理由にはしなかった。
旧観測室。
側室。
白い文字。
見られている感覚。
それぞれの記録を分ける。
灰色板の錆びた金具を調べる。
十二年前の構造図を探す。
先にできることがあった。
***
二日後。
ファナ・リトが、灰色板の下側金具について報告した。
「開けられます」
「壊さずに?」
イサラが尋ねる。
「全部は開けない」
「なぜ?」
「下の軸が痩せてる。大きく動かせば、戻せなくなるかもしれない」
「どの程度なら」
「手の幅くらい」
灰色板を横へずらす。
旧観測窓の中央を、縦に細く開ける。
側室から旧観測室の中を確認できる幅。
人は通れない。
手も、伸ばさないと決めれば通さずに済む。
「戻せますか」
「今の状態なら」
「実際に戻せなかった場合は?」
「開けた幅のまま、別の板で塞ぐ」
元へ戻せると思って。
代わりを準備しないことはしない。
***
調査目的は、
第三区旧観測室側室の灰色板を限定的に移動し、旧観測窓の構造および側室から旧観測室への視線範囲を確認する。
となった。
K.K.を探す。
Y.I.を再確認する。
白い空間を見る。
そのどれも、目的には入れない。
「朔さんが旧観測室に立つ必要は?」
グラドが尋ねた。
「構造確認だけなら必要ありません」
ファナが答えた。
「では、板を開いて終わる?」
「最初は」
マレアが言った。
「開いた後の状態を確認してから、旧観測室側に人が立つかを別に決めます」
「誰も立たなければ、視線範囲を確認できない」
「壁と床は確認できます」
「人の見え方は?」
「必要なら、その時に本人へ聞きます」
***
ユイは参加しなかった。
「頭痛があったからですか」
グラドが尋ねる。
「それもある」
ユイが自分で答えた。
「ほかには?」
「今日は、Y.I.を見に行きたくなるから」
「前回も、見たいと言って参加した」
「うん」
「今回は違う?」
「前は、側室が本当に部屋か見たかった」
「今日は?」
「Y.I.が、もう一回見えるか確かめたい」
「それを目的にすれば」
「しない」
ユイは首を横に振った。
「見たいから、今日は行かない」
***
「怖いから?」
朔が尋ねた。
「怖いのもある」
「見たいのも」
「ある」
「両方?」
「うん」
ユイは胸元から、自分で書いた紙を出した。
ユイ。
その下に。
Y.I.
線はない。
「これは持っていく?」
「今日は持っていかない」
「なぜ?」
「私が行かないから」
「誰かに預ける?」
「しない」
紙はユイ自身の部屋へ置く。
隠さない。
管理局へ渡さない。
今日、持ち歩かない。
それも。
自分で持つことの一つだった。
***
最初に側室へ入るのは、
ファナ。
マレア。
ネラ。
セオ。
管理担当者。
朔は廊下。
リオも。
グラドは少し離れた記録机。
「紙は」
リオが尋ねた。
「持っていてください」
「板を開けた時に、何か出るか確かめるためやないな」
「違います」
「白い手が出てきたら」
朔はリオを見る。
「手?」
「板の隙間やろ」
「人の手が出るとは考えていませんでした」
「今、考えたな」
「はい」
「ほな、それも持っとけ」
「何を?」
「考えたことをや。向こうに最初からあったみたいにすんな」
***
側室の扉が開く。
乾いた空気。
古い油。
灰色板。
前回と大きな変化は確認できない。
ファナが、下側金具へ木の楔を入れる。
金属の軸へ、直接鉄を当てない。
板を支える木枠。
二人で持つ。
「動かします」
少し。
灰色板が横へずれる。
低い擦過音。
止める。
「金具」
「保持」
「亀裂」
「なし」
「もう少し」
再び。
手の幅。
そこで止める。
***
灰色板の向こうに、透明な板があった。
透明。
とは言い切れない。
曇っている。
薄い灰。
表面に細かな傷。
縁には黒ずんだ固定材。
「窓板」
セオが言う。
「材質」
ファナが近づかずに見る。
「硝子に近い。でも、厚い」
「触れますか」
「今日は、灰色板の移動まで」
透明板へ手を触れない。
拭かない。
曇りを取らない。
見えにくさも、現在の構造の一部として残す。
***
側室から。
透明板越しに、旧観測室が見える。
正面。
旧観測室の白い壁。
床の円。
古い椅子。
入口。
誰もいない。
「人」
マレアが言う。
「確認できません」
「身体」
「同じです」
いない、とはしない。
見える範囲に。
確認できない。
***
「十二年前も、この透明板はありましたか」
ネラが尋ねた。
管理担当者が構造図を確認する。
「記載があります」
「同じ物?」
「交換記録は確認できません」
「では」
「同じ可能性はあります」
「汚れは?」
「記録なし」
十二年前。
透明だったか。
今と同じように曇っていたか。
分からない。
***
ネラが、透明板の正面に立つ。
旧観測室。
十二年前の自分が立っていた位置が見える。
床の円の縁。
観測窓からは。
その位置に立つ者の背中と、右半身が見える角度だった。
「顔は?」
セオが尋ねる。
「振り返らなければ見えません」
「右手」
「身体の横なら見えます」
「左手」
「身体に隠れます」
「壁」
「本人の向こうに見えます」
***
観測室。
見る側。
見られる側。
名前は、先にそう決めている。
だが。
透明板の向こうに立つ者も。
白い壁を見ている。
側室に立つ者を、見ることができるかもしれない。
「向こうから、こちらは見えますか」
ネラが尋ねた。
「現在の光では」
セオが旧観測室側へ回らず、側室内の反射だけを見る。
透明板には。
ネラの顔が薄く映る。
その向こう。
旧観測室。
二つが重なる。
「側室側の方が明るければ、反射が強くなります」
「今は?」
「旧観測室側の方が明るい」
「では、向こうから側室が見える?」
「実際に立って確認しないと分かりません」
***
構造確認は終わった。
灰色板。
手の幅だけ移動。
透明板。
破損なし。
旧観測室への視線。
床の円と正面壁を確認できる。
人が立った場合。
背中。
右半身。
右手。
確認できる可能性。
「戻しますか」
ファナが尋ねる。
「人を立たせずに終える選択もあります」
マレアが言った。
「はい」
「朔さんへ聞きます」
***
側室から五人が出る。
ファナと管理担当者は、扉の近くへ残る。
ネラ。
マレア。
セオ。
廊下。
朔。
リオ。
「中は?」
朔が尋ねる。
「灰色板の向こうに、曇った透明板があります」
ネラが答えた。
「旧観測室は見えますか」
「見えます」
「俺が立った位置も?」
「はい」
「右手も?」
「身体の横にあれば」
リオが朔を見る。
「さっきの手やな」
「はい」
***
「立ちたいですか」
マレアが尋ねる。
「はい」
「理由」
「側室から、どう見えるか確認したい」
「ほかには?」
「前に見えた白い空間が、窓を開けた状態でも見えるか知りたい」
「二つ」
「はい」
「K.K.を見たい?」
「見たいです」
「身体が見えると思う?」
朔は、廊下でリオに言われた手を思い出す。
「今は、考えています」
「見る前から?」
「はい」
「そのことを、記録に残しますか」
「残してください」
***
出発前の追記。
灰色板の隙間から手が現れる可能性を、リオの発言後に想像した。
白い空間に、自身の成人した身体またはその一部が見える可能性を考えている。
起きる前に。
考えていたことを残す。
後から。
予感が当たった話にしない。
***
「立つ時間」
長くしない。
旧観測室へ入り。
ネラの十二年前の位置へ立つ。
側室から、ネラとセオが見る。
マレアは朔と同じ部屋。
ファナは灰色板と金具。
リオは廊下。
「窓越しに名前を呼びますか」
グラドが尋ねた。
「呼びません」
マレア。
「位置確認に必要では」
「合図は、木片で行います」
側室から一度。
旧観測室から一度。
聞こえるか。
見る側と見られる側が、互いの声を使わずに確認する。
***
「俺の紙は」
朔がリオへ尋ねる。
「ここや」
「手に持ちますか」
「持たん」
「なぜ?」
「お前が手を見るかもしれんからや」
「関係があると思いますか」
「思いたくなるやろ」
「はい」
「なら、胸に入れとく」
見えない位置。
だが。
ある。
***
旧観測室の扉を開く。
持ち上げながら。
床。
壁。
椅子。
大きな変化なし。
正面の白い壁。
文字なし。
光の揺れなし。
朔には。
白い奥行きも、まだない。
***
マレア。
朔。
二人が入る。
セオとネラは側室。
透明板を挟む。
ファナは側室の扉。
リオは旧観測室の廊下。
誰も。
一人にはならない。
***
側室から。
木片を一度叩く。
小さな音。
旧観測室へ届く。
朔が、一度返す。
声を使わない。
「音は届きます」
マレアが言う。
「言葉は?」
「試しません」
***
朔は、ネラの位置へ立つ。
左肩。
背後の観測窓に近い。
右足。
円の外。
左足。
磨耗した縁。
正面。
白い壁。
「身体」
マレア。
「異常なし」
「頭痛」
「なし」
「吐き気」
「なし」
「右手」
「身体の横」
***
側室。
透明板越し。
ネラには。
朔の背中。
右肩。
子どもの右腕。
手。
見える。
「旧観測室側に、一名確認」
セオが言う。
「身体の大きさ」
「現在の朔さんとして見える範囲と一致」
「顔」
「見えません」
「右手」
「見えます」
「形」
「身体の横。指は開いている」
***
透明板には。
朔の輪郭が、少し二重に見える。
曇り。
傷。
側室の薄い反射。
「大人に見えますか」
ネラが尋ねた。
「いいえ」
セオ。
「私にも、子どもの身体です」
「手は?」
「子どもの手」
側室から見えるものを。
先に残す。
***
旧観測室。
朔は白い壁を見る。
ひび。
粉。
塗り跡。
壁。
一呼吸。
二呼吸。
見えない。
もう一度見たいと思う。
そのことは。
既に書いてある。
三呼吸。
壁の中央が。
奥へ沈む。
***
「変化」
朔が言う。
「何が見えますか」
マレア。
「白い壁が、遠くなりました」
「近い壁も?」
「見えています」
「文字」
「まだ、ありません」
「人」
「見えません」
「身体」
「見えません」
***
側室。
ネラとセオには。
朔が白い壁を見ている姿だけ。
壁の変化。
確認できない。
透明板の光。
大きな変化なし。
「朔さんの右手」
ネラが言う。
「少し上がりました」
***
旧観測室。
朔の右手が。
身体の横から離れている。
本人は、壁を見たまま。
「右手」
マレアが言う。
朔は止める。
「上がっています」
「何をしようとしましたか」
「距離を」
「壁の?」
「向こうの」
「触れられますか」
「分かりません」
「目的に含まれますか」
「含まれません」
手を下ろす。
***
白い奥行き。
昨日より。
少し明るい。
床は見えない。
天井も。
部屋と呼べる境界もない。
白い面。
その手前に。
白い布の端が現れた。
***
「新しい知覚」
朔が言う。
「形」
マレア。
「白い布」
「位置」
「奥の下側」
「大きさ」
「分かりません」
「動き」
「確認できません」
「人の身体?」
朔は言いかける。
「まだ、布です」
***
白い布。
平らではない。
中央が少し盛り上がっている。
その下に。
何かがあるように見える。
寝台。
身体。
荷物。
どれにも決めない。
布の右端。
白とは違う色。
肌に近い。
朔の呼吸が浅くなる。
「身体」
マレアが言う。
「呼吸が速くなっています」
「はい」
「何が見えましたか」
「布の外に」
言葉が止まる。
「手に見えるものがあります」
***
右手。
そう見えた。
白い布から。
手首より先が出ている。
掌は下。
手の甲が上。
指は、わずかに曲がっている。
大きい。
今の朔の手より。
明らかに。
「成人の手に見えます」
「性別」
「分かりません」
「左右」
「右手に見えます」
「根拠」
「親指の位置」
「距離」
「分かりません」
「触れられる?」
「いいえ」
触れていない。
近づいてもいない。
***
側室。
ネラには。
朔の子どもの右手が見える。
身体の横。
今は下がっている。
「旧観測室側の右手」
セオ。
「現在の朔さんの手のみ確認」
「白い布」
「見えません」
「成人の手」
「確認できません」
***
朔は。
白い手を見る。
爪。
短い。
指の関節。
少し太い。
人差し指と中指の付け根。
皮膚が厚く見える。
拳を握り。
何かを打ってきた手。
そう思った。
「格闘家の手に見えます」
朔が言う。
「何を根拠に?」
マレア。
「拳の付け根」
「ほかの仕事では?」
「同じ変化がある可能性があります」
「あなたの手?」
朔の胸が強く動く。
「そう見えます」
「今の?」
「違います」
「では」
「大人だった時の、俺の手」
***
言った後。
朔は自分の右手を見る。
子どもの手。
身体の横。
白い空間の手。
成人の手。
二つ。
「同じですか」
マレアが尋ねる。
「分かりません」
「傷」
「あります」
「どこに?」
白い手。
親指の付け根。
細い線。
古い傷に見える。
「親指の付け根に、傷のような線」
「あなたにもあった?」
朔は記憶を探す。
拳。
グローブ。
サンドバッグ。
道場。
試合。
自分の手。
何度も見たはず。
「あったと思います」
「記録や写真は?」
「ありません」
「形を、前から覚えていましたか」
「今、見て。あったと思いました」
「では」
「一致とはしません」
***
思い出したのか。
見た線に合わせて。
記憶を作ったのか。
分からない。
拳の付け根も。
格闘家だけのものではない。
爪の短さも。
成人男性とも限らない。
大きさも。
距離が分からなければ。
比較できない。
それでも。
朔には。
自分の手に見えた。
***
白い線が現れる。
手の上。
布の横。
空間へ重なる。
文字。
「表示」
朔が言う。
「内容を、見えた順で」
マレア。
最初。
SUBJECT:K.K.
「一行目。SUBJECT。K.K.」
「次」
STATUS:SLEEP
「STATUS。SLEEP」
「次」
NAME RESPONSE:UNSTABLE
朔の声が止まりかける。
「呼吸」
マレア。
「できます」
「内容」
「NAME RESPONSE。UNSTABLE」
「次」
下。
少し離れて。
WAKE:HOLD
「WAKE。HOLD」
「ほかには」
「ありません」
***
SUBJECT。
対象。
被験者。
主語。
題。
K.K.
STATUS。
状態。
SLEEP。
眠り。
停止。
休止。
NAME RESPONSE。
名前への応答。
名前を答えること。
名前が応じること。
UNSTABLE。
不安定。
揺れている。
WAKE。
目覚め。
起こす。
動作。
HOLD。
待つ。
保留。
保持。
止める。
意味は。
朔の記憶が読んでいる。
***
「文字は、手を説明していますか」
マレアが尋ねる。
「近くにあります」
「同じ対象?」
「分かりません」
「K.K.は」
「表示されています」
「あなた?」
「分かりません」
「手は?」
「俺の大人の手に見えます」
「同じだと?」
「決めません」
***
側室。
ネラ。
セオ。
白い文字。
確認できない。
旧観測室の壁。
変化なし。
透明板には。
朔の背中。
子どもの右手。
それだけ。
「朔さんの身体」
ネラが言う。
「右肩が上がっています」
緊張。
呼吸。
側室からも分かる。
セオが木片を一度鳴らす。
声を使わず。
外から。
今いる者がいることを伝える。
***
旧観測室。
音。
一度。
朔には届く。
「側室からの合図」
朔が言う。
「今いる人」
マレア。
「ネラさん。セオさん」
「外」
「ファナさん。管理担当者。リオさん」
「ここ」
「旧観測室」
「あなたの身体」
「子どもの身体」
「手」
朔は右手を見る。
「ここにあります」
「向こうの手」
「見えています」
「同じ?」
「分かりません」
***
白い手の指が。
動いたように見えた。
人差し指。
わずかに。
曲がる。
「動き」
朔が言う。
「どこ」
「白い手の人差し指」
「一度?」
「そう見えました」
「ほかの指」
「確認できません」
「現在のあなたの手」
朔は見る。
人差し指が。
少し曲がっている。
いつ動かしたか。
分からない。
***
「右手を開けますか」
マレアが尋ねる。
朔は指を開く。
子どもの手。
白い手。
向こうの人差し指は、曲がったままに見える。
「同じ動きではありません」
「はい」
「あなたが先?」
「分かりません」
「向こうが先?」
「分かりません」
「連動?」
「決めません」
***
朔は。
白い手へ。
自分の手を重ねたくなる。
壁へ伸ばし。
大きさを比べる。
指の位置。
傷。
関節。
自分だった証拠。
「近づきたいです」
朔が言う。
「理由」
「手を比べたい」
「ほかには」
「触れたい」
「触れられると確認していますか」
「いいえ」
「今日の目的」
「視線範囲の確認」
「白い知覚が出た場合の接触は?」
「含まれていません」
「戻ります」
マレアが言った。
***
「もう少し」
朔の口から出る。
「目的を増やしますか」
「いいえ」
「身体」
「頭が痛いです」
「程度」
「少し」
「白い手」
「まだ見えます」
「表示」
「残っています」
「それでも」
朔は、向こうの手を見る。
眠っている。
そう書かれている。
起こすことが。
保留されている。
今、離れれば。
また見えないかもしれない。
「戻ります」
朔が言った。
***
位置を外れる。
右へ一歩。
白い布。
薄くなる。
手。
残る。
二歩。
文字。
SUBJECT。
消える。
STATUS。
消える。
NAME RESPONSE。
最後まで残る。
UNSTABLEの文字が揺れる。
三歩。
白い手も。
壁の中へ戻る。
***
「知覚」
マレアが尋ねる。
「消えました」
「頭痛」
「残っています」
「吐き気」
「少し」
「歩けますか」
「はい」
「名前について聞いていいですか」
朔は息を整える。
「はい」
「今、何と呼ばれたいですか」
「サクで」
「ほかに使う名前」
「黒川朔」
「K.K.は」
「今は、使いません」
***
側室。
ネラとセオが退出する。
灰色板。
まだ開いたまま。
ファナが透明板と金具を確認する。
「動かせます」
「戻してください」
マレア。
「白い表示の追加確認は?」
グラドが廊下から尋ねる。
「行いません」
「板を閉じれば条件が変わる」
「はい」
「開いた今しか」
「朔さんに頭痛と吐き気があります」
「ほかの者を立たせる?」
「今日の目的にはありません」
***
灰色板を戻す。
一度。
止める。
透明板の隙間が細くなる。
二度。
灰色。
閉じる。
下側金具。
保持。
完全に元と同じ位置か。
測定する。
上端。
前回より、指の幅より小さくずれている。
「同じ場所へ戻せませんでした」
ファナが言う。
「閉じられた?」
「はい」
「では」
「元通りとは書かない」
灰色板を閉鎖。開放前位置より上端がわずかに側室奥側へずれた。透明板は覆われている。
開いたものを閉じても。
同じ状態へ戻ったとは限らない。
***
旧観測室の扉も閉じる。
全員。
廊下へ。
朔。
マレア。
ネラ。
セオ。
ファナ。
管理担当者。
リオ。
グラド。
「向こうから持ち出した物」
「ありません」
朔。
「向こうへ残した物」
「ありません」
セオ。
白い布。
成人の手。
文字。
それらを。
物として持ち帰ったとはしない。
***
身体確認。
朔。
頭痛。
中程度へ上がっている。
吐き気。
軽い。
視界。
白い表示なし。
手。
右手に小さな震え。
指。
一本ずつ動く。
感覚。
ある。
「自分の手ですか」
トエが尋ねた。
朔は、子どもの右手を見る。
「今の俺の手です」
「白い手は?」
「見えません」
「今も、自分の手だと思いますか」
「大人だった時の俺の手かもしれないと思っています」
「確定?」
「していません」
***
リオは、紙を出さなかった。
短刀も。
手を空けたまま。
朔の前へ座る。
「何を見た」
「白い布。そこから出た、大人の右手」
「顔」
「見ていません」
「身体」
「布の下に何かあるように見えました」
「人やったか」
「分かりません」
「手は」
「人の手に見えました」
「お前の?」
「そう見えました」
***
「何が同じや」
「拳の付け根。親指の近くの傷」
「覚えとったか」
「見てから、あったと思いました」
「ほな」
「一致とは言えません」
「大人の手やった」
「はい」
「男か」
「分かりません」
「格闘家か」
「そう見えました」
「ほかの仕事は」
「同じ手になる可能性があります」
***
「文字」
「SUBJECT、K.K.。STATUS、SLEEP。NAME RESPONSE、UNSTABLE。WAKE、HOLD」
「全部、お前だけか」
「はい」
「眠っとるのは」
「K.K.だと読めます」
「読める?」
「そういう配置でした」
「手が?」
「分かりません」
「お前が?」
「分かりません」
「向こうの身体が?」
「身体かも分かりません」
***
「起こすのを止めとる?」
「そう読めます」
「誰が」
「分かりません」
「何で」
「分かりません」
「お前が名前を言えんかったから?」
朔の胸が強く動く。
「そう繋げたくなります」
「NAME RESPONSEが不安定」
「はい」
「昨日のお前も」
「自分の名前を言えませんでした」
「同じか」
「決めません」
「でも、似とる」
「はい」
***
リオは、朔の右手を見る。
「この手は」
「今の俺の手です」
「向こうのは」
「昔の俺の手かもしれない」
「昔のお前が眠っとる?」
「そう思いました」
「今のお前は」
「起きています」
「ほんまに?」
朔は答えられない。
「少なくとも、今ここで話しています」
「向こうも話せるか」
「分かりません」
「名前に答えられるか」
「UNSTABLEと出ました」
「表示が正しいなら」
「はい」
***
「元の身体やと思ったか」
「はい」
「元って何や」
リオの問い。
まだ。
答えられない。
「大人だった時の身体」
「今の身体は」
「子どもの身体です」
「どっちがお前や」
「今は、こっちにいます」
「向こうがほんまもんやったら」
朔は右手を握る。
子どもの拳。
小さい。
それでも。
傷がある。
握ることができる。
「こっちが偽物になるとは、まだ決めません」
***
リオは頷く。
「紙を見るか」
朔は胸元を見る。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
向こうの表示。
SUBJECT:K.K.
「見たいです」
「何で」
「K.K.が増えていないか」
「何もなかったら」
「安心すると思います」
「何かあったら」
「向こうの手と繋げます」
「今、頭痛いな」
「はい」
「吐き気も」
「はい」
「なら、後や」
紙は出さない。
***
帰還後の記録は。
朔の手から始めた。
旧観測室側。
朔の現在の身体。
子どもの右手。
側室のネラおよびセオが透明板越しに確認。
指。
開いた状態。
後に、朔の報告時と近い時刻に右腕の上昇あり。
成人の手は確認せず。
***
次。
朔の知覚。
ネラの十二年前の位置に立った際、白色壁面の向こうに白色空間様の奥行きを知覚。
白色布様の形状、および布外に出た成人の右手様形状を知覚。
手背を上にし、指は軽く屈曲。人差し指および中指の付け根に皮膚の厚み様の形状。親指付け根に細い線状部を知覚。
朔は、自身の成人時の右手に近いと認識。事前に当該手を想像していたこと、傷の詳細を表示前に記録していなかったことを併記。
***
「成人男性の手」
グラドが提案する。
「性別は確認していません」
マレア。
「格闘家の手」
「朔さんの推測です」
「本人の過去の身体」
朔が答える。
「そう見えた、とだけにしてください」
***
表示。
別紙。
見えた文字を、そのまま。
SUBJECT:K.K.
STATUS:SLEEP
NAME RESPONSE:UNSTABLE
WAKE:HOLD
知覚者。
黒川朔。
ほかの参加者。
確認せず。
表示位置。
白色布および右手様形状に近いが、対象関係は未確認。
表示主体。
未確認。
外部事実との関係。
未確認。
***
「翻訳を付けますか」
グラドが尋ねた。
「朔さんの受け取り方として」
セオが答える。
SUBJECT。
対象。
被験者。
主題。
K.K.
STATUS。
状態。
SLEEP。
眠り。
休止。
NAME RESPONSE。
名前への応答。
自己名発話。
名前側の反応。
UNSTABLE。
不安定。
変動。
WAKE。
目覚め。
起動。
覚醒。
HOLD。
保留。
保持。
停止。
「一つに訳せない?」
グラド。
「朔さんは、現代の言葉として読んでいます」
ネラ。
「なら、最も自然な」
「自然に感じることが、表示した側の意味とは限りません」
***
「K.K.は眠っている」
グラドが言った。
「そう読めます」
朔。
「名前への反応が不安定」
「はい」
「目覚めが保留」
「はい」
「そして、成人の右手」
「はい」
「朔さんは、元の世界で成人だった」
「はい」
「なら」
ネラが止める。
「一つずつは、朔さんの報告にあります」
「全部を繋げれば」
「グラドさんの文です」
***
「それでも、仮説として」
「残せます」
セオが言う。
仮説。
朔が知覚した成人右手様形状が、本人の記憶する成人時身体の一部であり、表示上のK.K.と関係する可能性。
対立する可能性。
朔の記憶および事前予測が、白色空間様知覚の形状に影響した可能性。
成人右手様形状が、朔以外の人物または人物以外の形状である可能性。
表示と手様形状が、同一対象を示さない可能性。
NAME RESPONSE:UNSTABLEが、前日の一時的自己名発話困難とは別の状態を示す可能性。
***
「全部残せば、何も決まらない」
グラドが言った。
「決まったことがあります」
マレアが答える。
「朔さんが、成人の右手に見える形を知覚した」
「はい」
「K.K.を含む四行を見た」
「はい」
「身体反応として頭痛、吐き気、右手の震えが出た」
「はい」
「停止位置を離れると、知覚は消えた」
「はい」
「それ以上は」
「次の問いです」
***
「次に、名前を呼びますか」
グラドが尋ねる。
「誰の?」
朔。
「K.K.」
「呼びません」
「手があなたの身体なら」
「確認されていません」
「眠っているなら」
「起こしたいかも、まだ決めていません」
「自分の身体でも?」
朔は言葉を失う。
自分の身体。
その言い方が。
子どもの身体を。
借り物へ変えそうになる。
「向こうが俺の身体だったとしても」
朔は、自分の右手を見る。
「今の身体を、先に違うものにはしません」
***
「目覚めを保留されているなら、本人の意思確認が必要です」
グラドが言う。
「はい」
「では、向こうへ問いかける」
「今ここにいる本人の意思も、まだ決まっていません」
「朔さんは起きたくない?」
「何から起きるのか、分かりません」
「眠っているのは向こう」
「表示では」
「なら」
「向こうが起きた時、今の俺がどうなるか分かりません」
部屋が静かになる。
***
ネラは、十二年前の原記録を思い出す。
「呼ばなかったことが、正しかったとは言いません」
「はい」
「ですが」
朔を見る。
「何を起こすか分からないまま、呼ぶことも、慎重とは限りません」
***
その日の公示は。
旧観測室に成人の身体がある。
とは書かなかった。
K.K.が眠っているとも。
朔の元の身体が見つかったとも。
閉鎖区画での個人的な知覚。
本人の名前。
白い表示。
公にする範囲ではない。
「噂は出ます」
グラドが言った。
「出ても、王都が『元の身体発見』と見出しを付けないでください」
朔。
「事実なら」
「まだ、事実ではありません」
***
ユイには。
朔自身が話した。
白い布。
大人の右手。
K.K.
SLEEP。
UNSTABLE。
HOLD。
「手だけ?」
「見えたのは」
「顔は?」
「見ていません」
「サクの手?」
「そう見えました」
「本当に?」
「分かりません」
***
ユイは、朔の右手を見る。
「今の手は?」
「俺の手です」
「向こうの手も?」
「俺の手かもしれません」
「二つ?」
「はい」
「どっちが、サクの手?」
朔は答えられない。
「今、触れられるのは、こっちです」
「じゃあ、こっちだけ?」
「そうとは決めません」
***
ユイは、自分の手を。
朔の右手の横へ置いた。
触れない。
大きさ。
近い。
子どもの手。
「向こうの手は、これより大きい?」
「はい」
「昔のサク?」
「そう思いました」
「昔のサクが、まだ眠ってる?」
「分かりません」
「今のサクは、昔のサクの夢?」
朔の胸が痛む。
「そうかもしれないと、考えました」
「じゃあ、私たちは?」
「分かりません」
「夢?」
「そうとは決めません」
***
「向こうが本当なら」
ユイが言う。
「こっちは嘘?」
「違います」
朔は、すぐに答えた。
強い声。
ユイが少し目を開く。
「すみません」
「どうして違うって分かるの」
朔は。
自分の手を見る。
傷。
温度。
青い布を結べる指。
人を支え。
止まり。
戻ることを選んだ手。
「嘘ではないと、俺が思いたいからです」
「証拠は?」
「今、話していること」
「夢でも話すよ」
「はい」
「じゃあ」
「分かりません」
***
ユイは、自分の紙へ触れる。
ユイ。
Y.I.
「向こうにY.I.の私が寝てたら」
「はい」
「今の私は、その夢?」
「そう見える可能性はあります」
「サクは、どうする?」
「先に、どちらかを消しません」
「起こさない?」
「起こすことが、何をすることか確認します」
「確認できなかったら?」
「決められないかもしれません」
「ずっと?」
「その可能性もあります」
***
夜。
頭痛が弱くなった後。
リオが紙を机へ置く。
「今なら見るか」
「はい」
元の折り目。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
新しい線。
なし。
K.K.
なし。
SLEEP。
なし。
「変わってへん」
「はい」
「安心したか」
「少し」
「向こうの手と関係ない?」
「そうとは決まりません」
「紙に出んだけ?」
「はい」
「お前は」
リオが尋ねる。
「今、何て呼ばれたい」
「サクで」
「黒川朔は」
「俺が使う名前です」
「K.K.は」
「今は使いません」
***
「眠っとる身体を起こしたいか」
朔は、白い手を思い出す。
指。
傷。
拳。
自分かもしれない手。
「見たいです」
「何を」
「顔。身体。俺かどうか」
「起こしたいか聞いとる」
「分かりません」
「元へ帰れるかもしれんぞ」
「元って、どこですか」
リオは答えない。
「大人の身体」
「そこへ戻ったら、今の手はどうなる」
「分かりません」
「今の身体は」
「分かりません」
「ここで会った奴らは」
朔は答えられない。
***
「向こうの身体が、お前でも」
リオは紙を折る。
「今のお前を、向こうが起きるまでの待ち時間にすんな」
朔は右手を開く。
「はい」
「でも、向こうも捨てるな」
「はい」
「できるか」
「分かりません」
「なら、分からんまま持っとけ」
***
朔は、自分の記録へ書く。
白い布の外に、成人の右手に見える形を知覚した。
次。
自身の成人時の手に近いと感じた。
その下。
傷の一致は確認できない。見た後に、同じ傷が自分にもあったと思った。
さらに。
格闘家の手に見えたが、他の労働や負傷による可能性を除けない。
***
表示。
四行。
そのまま書く。
SUBJECT:K.K.
STATUS:SLEEP
NAME RESPONSE:UNSTABLE
WAKE:HOLD
訳を書こうとして。
止める。
眠っているK.K.
名前へ答えられない。
目覚めを止められている。
そう読める。
だが。
まだ、朔の文だった。
***
代わりに。
俺は、この表示を、K.K.が眠っており、名前への反応が不安定で、目覚めが保留されている状態に近いと受け取った。
と書く。
表示そのものと。
自分の受け取り方を分ける。
***
白い手が。
K.K.のものか。
朔のものか。
別の誰かのものか。
身体から出た手なのか。
朔の記憶が作った形なのか。
まだ分からない。
***
ただ。
手は、眠っているように見えた。
動かず。
布の外に置かれ。
名前を呼ばれず。
こちらへ伸びてもいない。
それでも。
一度だけ。
指が動いたように見えた。
***
同じ時。
朔の子どもの指も。
曲がっていた。
どちらが先か。
同じ動きか。
繋がっているか。
分からない。
***
成人の手。
子どもの手。
二つを比べれば。
一方を元。
一方を後。
そう並べたくなる。
だが。
今の朔が、触れられるのは子どもの手だった。
紙を書き。
青い布を結び。
リオの問いに答え。
ユイの手の横へ置くことのできる手。
***
白い手を。
偽物とは決めない。
過去の殻とも。
捨てた身体とも。
今の朔を。
眠る身体が見る途中の夢とも決めない。
***
目覚めれば。
どちらかが消えるかもしれない。
二つが繋がるかもしれない。
何も変わらないかもしれない。
起こされるのが。
誰なのかも。
まだ分からない。
***
その夜。
朔は自分の右手を胸の上へ置いた。
成人の手と。
同じ場所ではない。
同じ形でも。
同じ傷でもない。
それでも。
自分で動かした。
誰かに置かれた手ではない。
***
白い空間の向こうには。
眠っている手があった。
そう見えた。
朔の手かもしれない。
K.K.の手かもしれない。
誰かの手かもしれない。
***
朔は。
そのどれにも名前を付けなかった。
ただ。
今ここにある子どもの手を。
向こうが目覚めるまでの仮の手にはしなかった。
そして。
白い布の外に残された手も。
元へ帰るためだけの扉にはしなかった。




