第七章 眠っている名前 ④ Y.I.とユイ
旧観測室の隣にある側室は、正面の扉からは入れなかった。
廊下を一度戻る。
角を曲がる。
使われていない小部屋を二つ越えた先。
壁と同じ色に塗られた細い扉がある。
札はない。
鍵穴も、表からは見えなかった。
「十二年前も、ここから入れましたか」
朔が尋ねた。
「入れたはずです」
ネラ・ヴォスが答える。
「はず?」
「私は入りませんでした」
「記録では?」
「翌日の確認担当者が、側室から観測窓の裏を確認しています」
「本人の報告?」
「はい」
「ネラさんは、その記録を読んだ」
「何度も」
「扉を開けたところは?」
「見ていません」
知っている構造。
見た構造。
同じにはしない。
***
その日は、旧観測室へは入らない予定だった。
目的は、
第三区旧観測室側室の構造、旧観測窓背面および十二年前に使用可能だった光源の位置を確認する。
白い表示を起こす。
K.K.を再現する。
Y.I.を探す。
そのどれも書かれていない。
「朔さんとユイさんは必要ですか」
グラドが尋ねた。
「最初の構造確認には必要ありません」
マレアが答えた。
「では、外す?」
「最初は、廊下で待ちます」
「その後」
「構造と安全を確認してから、入るかを本人たちと改めて決めます」
「当日の途中で?」
「最初から入ることを決定しません」
入れる状態であることと。
入る必要があることを分ける。
***
最初に側室へ入るのは、
ファナ・リト。
ネラ。
マレア。
セオ。
管理担当者。
五人。
朔とユイ。
リオ。
グラド。
廊下で待つ。
「俺も外か」
リオが尋ねる。
「構造確認には必要ありません」
朔が答えた。
「紙を持っとるから?」
「違います」
「なら、ええ」
リオは壁際へ立つ。
朔の名前を書いた紙は、胸元。
それを理由に、扉の近くへは行かない。
***
扉の鍵は、廊下側になかった。
壁に埋め込まれた小さな金具へ、細い棒を差す。
中で何かが外れる。
ファナが扉の下へ木片を入れる。
「開けます」
扉を手前へ引く。
音は小さい。
旧観測室の扉ほど歪んでいない。
内側。
暗い。
埃。
古い油。
乾いた布の匂い。
「空気」
マレアが小さな火を見る。
「大きな変化なし」
「床」
ファナが棒で確認する。
入口。
硬い。
沈みなし。
「物」
狭い範囲に、壁へ立てかけた板が二枚。
床に細い木枠。
奥に、低い台。
「人」
「確認できません」
マレアが答える。
いない。
とは言わない。
***
五人が側室へ入る。
扉は開けたまま。
廊下から見えるのは、ネラの背中と、ファナが持つ火だけだった。
朔は、呼吸の数を数えない。
中で何が起きているかを、決めた時間より先に想像しない。
ユイは、壁へ背を付けずに立っている。
両手。
身体の前。
「怖いですか」
朔が尋ねた。
「少し」
「入りたい?」
「まだ分からない」
「見たい?」
「うん」
「何を?」
ユイは、細い扉を見る。
「向こうが、本当に部屋か」
***
側室から、セオの声がする。
「構造確認」
壁。
床。
天井。
大きな損傷なし。
奥行き。
人二人が並べない幅。
長さは旧観測室の半分ほど。
旧観測窓の背面。
灰色の板。
現在は全面が閉じられている。
板の左右に、古い溝。
「開閉できますか」
グラドが廊下から尋ねる。
「今は動かしません」
ファナが答えた。
「なぜ?」
「下側の金具が錆びています。力をかければ板か枠が割れる可能性があります」
「窓の向こうを確認する目的では」
「構造を壊すことまでは含まれていません」
***
古い光源。
側室の右壁に、三つ。
円い金具。
上。
中央。
下。
現在、灯りは付いていない。
「十二年前、使われていた?」
ネラが尋ねる。
管理担当者が古い台帳を読む。
「中央だけ、油交換記録があります」
「いつまで?」
「十三年前まで」
「現象の一年前」
「はい」
「十二年前は?」
「設備停止後。使用記録なし」
「使われなかった?」
セオが止める。
「使用記録を確認できません」
***
低い台。
上面に、浅い窪み。
灯りを置く場所にも見える。
器具を支える場所にも。
木枠。
細い板が二枚。
灰色板を動かすための道具か。
倉へ移す途中の廃材か。
判断できない。
「観測する人がいた位置は?」
ネラが室内図を見る。
翌日の確認記録。
側室へ一人。
旧観測窓の中央。
立ち位置は書かれていない。
「床の摩耗」
セオが見る。
灰色板の正面。
足二つ分の浅い擦れ。
「人が立った?」
「可能性はあります」
「何度も?」
「摩耗の時期は分かりません」
そこを、観測者の場所とは決めない。
***
安全確認が終わる。
ファナ。
管理担当者。
側室から出る。
ネラ。
マレア。
セオは残る。
「朔さん、ユイさん」
マレアが扉から顔を出す。
「中を見ますか」
先に朔を見るのではない。
二人へ同時に尋ねる。
「入りたいです」
朔が答える。
「ユイさんは?」
ユイは、扉の暗さを見る。
「入る」
「今の目的は?」
「部屋を見る」
「文字を探す?」
「探したくなる」
「それでも?」
「見えたら言う。見えなくても、関係ないって決めない」
「戻る条件」
「怖くて続けたくなくなったら言う。マレアが戻るって言ったら戻る」
***
リオが朔へ尋ねる。
「お前は」
「構造と、観測窓の裏側を見ます」
「白い部屋を見たいか」
「はい」
「Y.I.が出てほしいか」
朔はユイを見る。
「出てほしいとは言えません」
「出るか確かめたい?」
「少し」
「それを忘れんな」
「はい」
「ユイの名前を先に呼ぶなよ」
「はい」
「Y.I.も」
「はい」
***
朔とユイが側室へ入る。
扉は開いたまま。
リオの姿は、入口から見える。
胸元の紙は見えない。
短刀も。
ただ、そこにいる。
***
側室は、旧観測室より暗かった。
正面。
灰色の板。
その向こうに、昨日の白い壁がある。
板の端から、細く白い光が漏れている。
旧観測室の扉を開けているため。
隙間から入った廊下の光が、二つの部屋を横切っている。
「昨日、ここは暗かった?」
朔が尋ねる。
「確認していません」
ネラが答える。
「十二年前は?」
「分かりません」
「中央の灯りが使われていなかったとしても」
「廊下や旧観測室の灯りが入った可能性はあります」
***
灰色板へ近づかない。
まず、室内の端を一周する。
右壁。
三つの灯り金具。
左壁。
細い棚跡。
床。
低い台。
木枠。
灰色板の前の摩耗。
「何か見えますか」
マレアが尋ねる。
朔。
「部屋です」
ユイ。
「暗い」
「文字」
どちらにも。
見えない。
「見られている感じ」
ユイは考える。
「今は、ない」
***
「灰色板を開けないまま、位置だけ確認します」
セオが言う。
板の中央。
高さ。
ネラの目の位置。
朔の目。
ユイの目。
それぞれ違う。
板の右端には、縦に細い隙間がある。
向こうの白い壁が見える。
幅は指一本より狭い。
「覗きますか」
グラドが廊下から尋ねる。
「目的に含まれます」
セオ。
「誰から?」
ユイが尋ねた。
順番。
また、それだけでは安全にならない。
「まず、誰も覗かず、光だけ確認します」
マレアが答えた。
***
携帯火を。
側室の入口。
中央。
旧光源の下。
三つの位置へ移す。
灰色板の隙間。
光が通る。
向こうの白い壁へ、細い線。
Kにはならない。
Yにも。
Iにも。
「現在の火では、文字様の形を確認できません」
セオが言う。
「再現できない」
グラド。
「今日の条件では」
ネラが直す。
***
「覗きたいですか」
マレアがユイへ尋ねる。
「うん」
「何を見る?」
「向こうの壁」
「Y.I.を?」
「見えたら」
「探す?」
ユイは少し黙る。
「探すと思う」
「それでも覗く?」
「うん」
「見えなかった時は?」
「なかったって決めない」
「見えた時は?」
「私の名前って決めない」
***
ユイが、灰色板の隙間へ近づく。
触れない。
目を付けない。
指二本分ほど離れる。
高さが合わない。
隙間は、ユイの額より上。
「台を使いますか」
セオが尋ねた。
マレアはユイを見る。
「高くして見たい?」
「見たい」
「ネラさんの高さに合わせるため?」
「違う。隙間が見えないから」
低い木台を使う。
昨日は使わなかった。
目的が違う。
ネラの知覚を再現するためではなく。
今のユイが、実際の隙間を見るため。
***
台の脚を確認する。
ぐらつき。
なし。
床。
平ら。
マレアが横へ立つ。
触れない。
ユイが自分で一段上がる。
「支えが必要?」
「今は、いらない」
「怖くなったら」
「言う」
***
ユイが隙間を見る。
「何が見えますか」
マレアが尋ねる。
「白い壁」
「昨日と同じ?」
「こっちからだから、違う」
「ほかには?」
「ひび」
「光」
「細い」
「文字」
「ない」
数呼吸。
ユイの右手が、台の端を握る。
「身体」
マレア。
「大丈夫」
「見られている感じ」
ユイは答えない。
「ユイさん?」
「今、少し」
「どこから?」
「向こう」
「壁?」
「壁の向こう」
***
朔は、昨日見た白い奥行きを思い出す。
問いを足さない。
Y.I.か。
人か。
自分か。
尋ねない。
「続けますか」
マレアが尋ねる。
「もう少し」
「何を待つ?」
ユイは、隙間を見たまま答える。
「分からない」
「待ちたい?」
「うん」
「決めた時間は?」
呼吸五回。
長く待って、現象を求めない。
一。
二。
三。
ユイの肩が動く。
四。
「光」
ユイが言った。
五。
「文字」
***
「何が見えますか」
マレア。
ユイは、すぐに意味を言わない。
「白い線」
「数」
「二つ」
「形」
「一つ目は、上が二つに分かれて、下で一つ」
Y。
「二つ目」
「まっすぐ」
I。
「間」
「小さい点」
「ほかに?」
「ない」
***
ユイは呼吸する。
「何に見えますか」
マレアが尋ねる。
「Y.I.」
「知っている表示?」
「聞いたことがある」
「今、自分の名前だと思いますか」
ユイは、隙間の向こうを見る。
「分からない」
「台から降りられますか」
「まだ見える」
「離れたい?」
「見ていたい」
「理由」
「消えたら、もう見えないかもしれない」
***
昨日の朔と同じ。
もう一度見たい。
消える前に。
意味を取る前に。
存在だけでも。
「身体は」
「大丈夫」
「怖い?」
「怖い」
「続けたい?」
「うん」
両方を残す。
***
「私は見えません」
ネラが、ユイの横から隙間を見る。
位置が違う。
高さも。
「白い線は?」
「確認できません」
セオ。
板の左側。
「見えません」
朔。
ユイの後ろ。
隙間そのものは見える。
白い壁。
細い光。
文字。
見えない。
「ユイさんだけ」
朔が言う。
「今は」
マレアが直す。
***
「名前を呼びますか」
グラドの声が、廊下から届く。
「呼びません」
朔が答える。
「表示が出た本人へ」
「本人か決まっていません」
「ユイさん自身が見ている」
「それでも」
「Y.I.と呼びかければ、反応を確認できる」
ユイが、隙間から目を離さずに言った。
「今は、返事しない」
「なぜ?」
「私の名前か分からないから」
***
「でも」
グラドが続ける。
「表示は、あなたにだけ見えている」
「うん」
「YとIは、ユイの音に近い」
「うん」
「以前の記録でも」
「今はユイ」
ユイが言った。
壁へ向けてではない。
廊下のグラドへ。
今いる者たちへ。
「今、私はユイって呼ばれたい」
***
Y.I.に見える白い線は。
変わらない。
強くも。
薄くも。
ユイの言葉に反応したとは見えない。
だから。
反応しなかったとも書かない。
誰かが表示を見ているだけかもしれない。
言葉が向こうへ届いたかも。
分からない。
***
「台から降りますか」
マレアが尋ねる。
「うん」
ユイは自分で一段下がる。
マレアの手は。
支えられる位置にある。
触れない。
ユイの両足が床へ着く。
「文字」
マレア。
ユイは灰色板を見上げる。
「見えない」
「隙間から離れたから?」
「そうかもしれない」
「目を閉じると?」
ユイは目を閉じる。
しばらく。
「ない」
「残像」
「分からない」
「頭痛」
「少し」
「吐き気」
「ない」
「戻りますか」
ユイは灰色板を見る。
「もう一回、台に乗ったら?」
問い。
自分から出た。
***
「乗りたい?」
「見えるか確かめたい」
「Y.I.をもう一度見たい?」
「うん」
「二つ?」
「うん」
ユイは正直に答える。
「今日は、一度だけ位置を外した後の確認をしますか」
マレアが尋ねた。
朔の時と同じ。
ただし。
同じ手順だから安全とはしない。
「身体は?」
「頭が少し痛い」
「では」
ユイが自分で言った。
「今日はやめる」
***
見たい。
確かめたい。
それでも。
身体の状態を理由に、止める。
表示が消えたことを。
追いかけない。
「戻ります」
マレアが言う。
側室の確認は終わった。
灰色板。
開けない。
光源。
点けない。
Y.I.と呼びかけない。
壁へ触れない。
***
朔が側室を出る前。
灰色板の隙間を見る。
白い壁。
細い光。
文字。
見えない。
「何かありますか」
セオが尋ねる。
「俺には、ありません」
「ユイさんが見た場所」
「はい」
「同じ位置へ立ちますか」
朔は少し考える。
「立ちません」
「なぜ?」
「Y.I.を見たいからです」
「それだけ?」
「ユイさんと同じものが見えるか、確かめたい気持ちもあります」
「では」
「今は、止める理由にします」
***
五人が側室を出る。
ネラ。
ユイ。
朔。
マレア。
セオ。
廊下。
リオ。
グラド。
管理担当者。
ファナ。
全員。
「向こうから持ち出した物」
「ありません」
ユイ。
「向こうへ残した物」
「ありません」
朔。
扉。
閉じる。
内側の金具が、細い音を立てる。
***
身体確認。
ユイ。
頭痛。
軽い。
吐き気なし。
視界。
通常。
文字。
現在は見えない。
人影。
なし。
声。
なし。
「名前について聞いていい?」
マレア。
「うん」
「今、何と呼ばれたい?」
「ユイ」
「Y.I.は?」
「見えた」
「名前として?」
「まだ決めない」
「関係があると思う?」
「あるかもしれない」
「自分とは別?」
「分からない」
***
朔。
身体異常なし。
白い奥行き。
見えず。
Y.I.
見えず。
頭痛なし。
「名前を聞いていいですか」
「はい」
「今、何と呼ばれたい?」
「サクで」
「K.K.は?」
「今は使いません」
「Y.I.とユイについて」
「関係がある可能性は高まったと感じます」
「事実として?」
「ユイさんが、Y.I.に見える表示を見たこと。ほかの者には見えなかったことです」
***
ネラ。
灰色板。
白い線。
確認できず。
十二年前。
自分がK.K.に見える表示を見た位置とは違う。
今日のユイ。
側室から、観測窓の隙間越し。
「同じ現象ですか」
グラドが尋ねる。
「分かりません」
「二文字。点。白い表示」
「似ています」
「では」
「十二年前の私は旧観測室側。ユイさんは側室側」
「向きが違う」
「はい」
「対象が違う?」
「分かりません」
***
帰還後の記録は、最初に室内図から作った。
旧観測室。
正面の白い壁。
観測窓。
側室。
灰色板。
隙間。
旧光源。
ユイの立ち位置。
目の高さを補う台。
白い線が見えたと本人が報告した方向。
位置だけ。
***
知覚。
ユイは、側室内の灰色板右端の隙間から旧観測室の白色壁面を見た際、YおよびIに近い二文字と、その間の点に見える白色線を知覚。
本人はY.I.と認識。
同室の朔、ネラ、マレア、セオは同表示を確認せず。
ユイが台を降り、隙間から離れた後、表示様知覚は消失。
再確認は、本人に軽い頭痛があったため実施せず。
***
「Y.I.はユイを示す可能性」
グラドが言う。
「別欄です」
セオが答える。
「推測として」
「誰の?」
「私の」
「ユイさんの考えは?」
ユイが、自分で答える。
「私と関係あるかもしれない」
「同じ存在?」
「分からない」
「名前?」
「まだ、私の名前にしない」
***
「YとIは、ユイの音を分けたものと考えられます」
グラドが言う。
「誰が分けたんですか」
朔が尋ねる。
「表示したもの」
「それが文字であるなら」
「ユイさん自身の記憶」
「可能性はあります」
「王都の記録」
「あります」
「以前見たY.I.を、ユイさんが知っている」
「はい」
「なら、見たものをY.I.へ整えた可能性」
「あります」
***
「それでも、以前の表示との一致は」
「似ています」
ネラが答える。
「同じと?」
「決めません」
「K.K.と同じ形式」
「点を挟む二文字である点は近いです」
「では、同じ種類の符号」
「可能性があります」
「人の識別符号?」
「可能性があります」
「なら」
「場所や状態の符号である可能性も残ります」
文字の形が似ている。
だから、役割も同じ。
とはしない。
***
「Y.I.を、ユイさんの別名として登録しますか」
グラドが尋ねた。
「しないで」
ユイがすぐに答えた。
「関連情報として」
「名前の欄には書かないで」
「では、観測記録だけ」
「うん」
「検索上、ユイさんと結びつける必要があります」
「どう書く?」
セオが尋ねる。
ユイは考える。
「ユイが見た」
「Y.I.を?」
「うん」
「Y.I.である可能性がある者?」
「違う」
「では」
ネラが言う。
「知覚者名として、ユイ。表示内容として、Y.I.様。両者の関係は未確認」
ユイは頷いた。
***
「本人が名前にしないと言っていても、記録上の符号としては」
グラドが続ける。
「検索できます」
セオ。
「Y.I.で検索すれば、この記録が出る」
「ユイで検索しても?」
「本人が表示を知覚した記録として出ます」
「では、結びついている」
「起きた出来事として」
朔が答える。
「同一の名前としてではありません」
***
記録の見出し。
グラド案。
Y.I.本人表示事案。
使用しない。
次。
ユイにおけるY.I.表示確認。
「確認したのは本人だけです」
ネラが止める。
最終的に。
第三区旧観測室側室におけるユイの白色文字様知覚。
その下。
Y.I.様。
表示主体。
未確認。
対象。
未確認。
ユイとの関係。
未確認。
***
「K.K.との比較表を作りますか」
グラドが尋ねた。
「必要です」
セオが答える。
ただし。
一枚に二人を並べるのではない。
二つの出来事を比較する。
十二年前。
ネラ。
旧観測室側。
壁面にK.K.に見える表示。
もう一人は光の変化のみ。
今日。
ユイ。
側室側。
隙間越しにY.I.に見える表示。
ほかの四人は確認せず。
位置。
向き。
光。
身体状態。
別々に。
***
「二つが同じ仕組みなら」
グラドが言う。
「同じ人物識別形式の可能性が」
「同じ仕組みであることは確認されていません」
朔。
「ですが」
「比較はします」
「仮説は?」
「表示様知覚が、知覚者に関係する記号として現れる可能性」
「はい」
「表示様知覚が、知覚者の知る名前または符号を用いる可能性」
「はい」
「観測窓の両側で、異なる方向へ現れる可能性」
「はい」
「観測する者を示す?」
ユイが尋ねた。
グラドが止まる。
「どういう意味ですか」
「私が見たから、私の名前って決めた」
「まだ決めていません」
「でも、私じゃなくて。向こうで見てる人の名前かもしれない?」
部屋が静かになる。
***
「Y.I.が、向こう側の誰かを示す?」
朔が尋ねた。
「分からない」
ユイ。
「壁が、こっちを見てる感じがした」
「昨日」
「うん」
「今日、Y.I.が見えた」
「うん」
「では、見ている側の符号?」
「それも、サクが作った文」
「はい」
「でも、私の名前って決めるのも、同じ?」
「はい」
***
表示が。
見る者の名前なのか。
見られる者の名前なのか。
向こう側にいる何かの符号なのか。
場所の番号なのか。
状態なのか。
どれも、まだ分からない。
観測室。
その名が。
見る側と、見られる側を先に決めていた。
だが。
十二年前。
誰が、誰を見ていたのかも。
確認されていない。
***
「旧観測室という名称も、仮に外しますか」
グラドが尋ねた。
「外しません」
ネラが答える。
「使われていた名称です」
「意味を作る危険」
「あります」
「では」
「名称として残し。そこで実際に誰が誰を観測したかは、別に確認します」
言葉を消せば。
過去にその役目で作られたことも消える。
残す。
従わない。
***
公示は行わなかった。
旧観測区画。
現在、一般に開かれていない場所。
ユイの個人的な知覚。
本人が、Y.I.を自分の名前として公表することへ同意していない。
「重要な現象です」
グラドが言った。
「重要だから、本人の名前と結びつけて広げません」
朔が答えた。
「噂は出ます」
「出ても、王都が先に見出しを与えないでください」
***
リオは、会議には入らなかった。
終わった後。
廊下の窓辺で、朔とユイの話を聞く。
「何が見えた」
ユイが自分で答える。
「YとI。間に点」
「お前だけか」
「うん」
「自分の名前やと思うか」
「関係あるかもしれない」
「使うんか」
「今は使わない」
「何で」
「私が決めてないから」
リオは頷く。
「なら、俺も呼ばん」
***
「でも」
ユイが続ける。
「私じゃない人の名前かもしれない」
「誰や」
「分からない」
「向こうにおる?」
「分からない」
「ほな」
リオは窓の外を見る。
「知らん奴の名前を、お前に着せんでええ」
「私の昔の名前かもしれない」
「それでも?」
「今の私が使うか、決める」
「そうやな」
***
「サクは、K.K.を使わない」
ユイが言う。
「はい」
「でも、サクと関係あるかもしれない」
「はい」
「K.K.がサクでも」
ユイは言葉を探す。
「サクが、K.K.だけじゃないことはある?」
朔は、自分の手を見る。
子どもの手。
黒川朔。
サク。
K.K.
白い壁の向こう。
「あるかもしれません」
「Y.I.が私でも」
「ユイさんが、Y.I.だけではないことはあります」
「どうして?」
「今、ユイさんは自分で話しています。見たものを説明した。止めることを選んだ。Y.I.を名前にしないと決めた」
「それも私?」
「はい」
「Y.I.に書いてないこと?」
「少なくとも、表示には見えませんでした」
***
ユイは自分の手を開く。
「Y.I.より、今の私の方が多い?」
「量では分かりません」
「でも、ほかにもある」
「はい」
「K.K.より、サクも?」
「そうであってほしいと思います」
「分からない?」
「はい」
「でも」
ユイは朔を見る。
「今のサクは、K.K.って呼ばれたくない」
「はい」
「今の私は、ユイ」
「はい」
***
夕方。
ユイは、自分で記録を一枚作りたいと言った。
正式な管理局書式ではない。
薄い紙。
大きな欄も。
番号もない。
「何を書くの」
イナが尋ねる。
「今日のこと」
「字、手伝う?」
「分からないところだけ」
***
ユイは最初に、自分の名前を書く。
ユイ
その下。
少し離して。
Y.I.
二つを線で繋がない。
横へ並べない。
上下。
だが。
上が本当。
下が過去。
とは書かない。
***
ユイは続ける。
今日、側室でY.I.に見える白い文字を見た。
ほかの人は見ていない。
私の名前かは、分からない。
筆が止まる。
「次は?」
イナが尋ねる。
ユイは答える。
「今は、ユイ」
紙へ書く。
今は、ユイと呼ばれたい。
***
「Y.I.を、いつか使う?」
イナが尋ねる。
「分からない」
「じゃあ、書く?」
ユイは考え。
Y.I.を私の名前にするかは、まだ決めない。
と書いた。
まだ。
人影の声にはしない。
ただ、今のユイが。
次の自分へ残す時間。
***
朔は、その紙を読んだ。
「名前を、上に書いた理由は?」
「最初に書きたかったから」
「大事だから?」
「それもある」
「Y.I.は下」
「後で書いたから」
「昔の名前だから?」
「決めてない」
位置も。
意味にはしない。
***
「紙を誰が持ちますか」
イナが尋ねる。
「私」
ユイが答えた。
「治療記録へ入れる?」
「入れない」
「失くしたら?」
「探す」
「見つからなかったら?」
「また書くか決める」
リオと朔の紙とは違う。
ユイは。
今、自分で持つことを選んだ。
***
夜。
朔は、十二年前のK.K.の写しと。
今日のY.I.の記録を。
別の机へ置いた。
並べない。
重ねない。
それでも。
二つの文字は、頭の中で近づく。
K.K.
Y.I.
点を挟んだ二つの形。
白い壁。
見た者は一人。
ほかの者は、光か。
何も。
確認できなかった。
***
K.K.は。
最初、壁に見えたものだった。
後から、対象符号へ移された。
Y.I.は。
今日、ユイが隙間の向こうへ見たものだった。
まだ、対象名の欄には入れていない。
同じ道を。
もう一度通らないために。
***
だが。
同じ意味ではないと決まったわけでもない。
Y.I.が。
ユイに関係する可能性は残る。
ユイより前に使われた符号。
ユイを見ていたものの名。
ユイが見た向こう側の名。
場所。
状態。
誰かの頭文字。
どれも。
空欄。
***
ユイは。
その空欄へ、自分を全部入れなかった。
Y.I.を否定せず。
自分の名前にもせず。
今はユイと呼ばれたい。
その一文だけを。
自分の手で書いた。
***
K.K.が黒川朔であったとしても。
黒川朔が、K.K.だけになるとは限らない。
Y.I.がユイであったとしても。
ユイが、Y.I.だけになるとは限らない。
***
表示は。
人の全部を持っていなかった。
少なくとも。
今日のユイが怖かったこと。
見続けたかったこと。
頭痛を理由に止めたこと。
自分で台を降りたこと。
今はユイと呼ばれたいと選んだこと。
そのどれも。
白い二文字には見えなかった。
***
朔は、治療室の白い天井を見る。
壁の向こう。
白い空間。
そこに。
K.K.がいるのか。
Y.I.がいるのか。
誰かが、こちらを見ているのか。
まだ分からない。
***
ただ。
白い文字が先にあったとしても。
今ここにいる者の名前を。
後から、その文字の中へ閉じ込めなくてよい。
その可能性だけは。
ユイが、自分の手で残した。
***
紙の最初には。
ユイ。
その下に。
Y.I.
線は引かれていない。
同じものではないと決めた線も。
同じだと結ぶ線も。
ない。
***
ユイは、その紙を胸元へ入れた。
誰かへ預けず。
制度へ渡さず。
捨てもしない。
今は。
自分で持つ。
Y.I.を、自分から切り離さず。
それでも。
今の自分を、二文字だけにはしないために。




