第七章 眠っている名前 ③ 十二年前の観測室
旧観測室へ入る目的には、K.K.を探すとは書かなかった。
十二年前の現象を再現する、とも。
目的は、
第三区旧観測室の現状を確認し、十二年前の記録に残る室内位置、視線、壁面および旧観測窓の関係を照合する。
だった。
「表示が出るかは確認しないんですか」
グラドが尋ねた。
「出た場合は記録します」
セオが答える。
「出すための行動は?」
「行いません」
「壁へ呼びかける」
「しません」
「K.K.と」
「呼びません」
「なぜ?」
朔は、十二年前の原記録を見た。
呼名。
実施せず。
応答。
空欄。
「誰を呼ぶのか、まだ分からないからです」
***
参加者は五人。
黒川朔。
ネラ・ヴォス。
マレア・ソン。
セオ・ラグナ。
ユイ。
リオは観測室の外に残る。
「ユイさんが入る理由は?」
グラドが尋ねた。
「本人が希望しました」
マレアが答える。
「Y.I.との関係を確認するため?」
「今回の目的には入れません」
「では、必要ではない」
ユイが自分で答えた。
「必要だから入るんじゃない」
「では」
「私も、白い文字を見たことがあるから。見えた時に、一人で決めないため」
「危険がある可能性」
「ある」
「それでも?」
「怖かったら、戻る」
マレアが確認する。
「誰が戻ると決めますか」
「私も言う。マレアも言う」
「ほかの人が続けたいと言っても?」
「戻る」
***
ユイの参加を、
殻の子。
Y.I.の候補。
白い表示を見る者。
そのどれにも固定しない。
今日、本人が使う名前。
ユイ。
目的。
旧観測室の中を見て、自分に見えるものを、自分に見えたものとして伝える。
怖いこと。
何か見えた時、サクと同じものだと思うこと。何も見えなかった時、自分は関係ないと思うこと。
「どちらも?」
朔が尋ねた。
「うん」
「見えても。見えなくても?」
「すぐ決めたくなる」
ユイは答えた。
「だから、書いた」
***
朔の記録。
今日の呼び名。
黒川朔。
今は、サク。
目的。
室内位置の照合。
壁を表示装置とは決めない。
旧観測窓を原因とは決めない。
白い知覚が現れても、現実側の場所とは決めない。
怖いこと。
K.K.が見えなかった時、さらに近づくこと。
何か見えた時、十二年前と同じ現象へまとめること。
ユイに表示が出た場合、Y.I.と先に呼ぶこと。
***
「俺は、何を持っとく」
リオが尋ねた。
「いつもの紙を」
「観測室と関係あるか確かめるためやないな」
「違います」
「短刀は?」
「持っていてください」
「青い布」
「俺が持っています」
「白い部屋が見えたら」
「今いる人を確認します」
「壁の向こうへ行けそうに見えたら」
「触りません」
「声がしたら」
「答えません」
「お前の名前を呼んでも」
朔は一度息を吸う。
「今日は、答えません」
リオは胸元へ手を置く。
「ほな、俺は廊下におる」
***
第三区旧観測室は、白い塔の中心から外れた場所にあった。
上でも。
地下でもない。
人が日々使う階から、横へ延びた古い区画。
廊下は少し狭い。
窓が少ない。
壁の白は、中央塔より黄ばんでいた。
左右には、使われていない小部屋。
古い札。
剥がされた番号。
新しい文字で書き直された倉庫名。
扉の下には、乾いた埃が細く溜まっている。
「十二年前も、こんな状態でしたか」
朔が尋ねた。
「もう少し物がありました」
ネラが答える。
「何が?」
「古い椅子。記録台。壁から外した枠。使わなくなった器具」
「観測室としてではなく」
「倉へ変える途中でした」
***
廊下の途中。
ネラの歩みが一度止まる。
「ここですか」
マレアが尋ねた。
「違います」
「では」
「身体が止まりました」
ネラは、自分の左手を見る。
十二年前。
この廊下を歩いた。
設備確認担当者と二人。
空いた室内を見て。
残す物と捨てる物を決めるために。
「怖いですか」
「はい」
「入りたくない?」
ネラは閉じた扉を見る。
「入りたいです」
「理由は?」
「記録を読んで、何度も入ったつもりになってきました」
「実際には?」
「十二年間、入っていません」
***
扉の前。
古い室番号。
その下に、新しい札。
使用停止。保管物なし。
「保管物なし」
セオが読む。
「確認したのはいつですか」
同行した管理担当者が記録を示す。
「七年前です」
「その後は?」
「扉外からの構造確認のみ」
「室内へ人が入った記録」
「ありません」
「なし?」
朔が尋ねる。
担当者は紙を見直す。
「確認できる記録はありません」
「では、その言葉で」
セオが記す。
入室なし。
ではなく。
入室記録、確認できず。
***
鍵を開ける。
古い金具。
一度では回らない。
担当者が力を加えようとする。
「待ってください」
マレアが止める。
「扉が歪んでいます」
上側。
枠と扉の間が狭い。
下側は広い。
「押し開ければ?」
「内側の物へ当たる可能性」
「保管物なしです」
「七年前の確認では」
まず、細い木片を隙間へ入れる。
抵抗。
上。
あり。
下。
なし。
扉の裏に物があるのではない。
枠が傾いている。
担当者とファナが、扉をわずかに持ち上げながら開く。
音。
長く。
低い。
誰の声にも似ていない。
***
扉が、肩一つ分だけ開く。
最初に空気を確認する。
乾いている。
旧搬入口のような湿りはない。
埃。
古い木。
わずかな石灰の匂い。
小さな火。
大きく傾かない。
呼吸布は必要なしと、マレアが判断する。
「先に入るのは」
「私です」
マレア。
床。
入口付近。
崩れなし。
落下物なし。
室内の奥。
人影なし。
身体。
確認できない。
「入れます」
***
マレア。
ネラ。
朔。
ユイ。
セオ。
五人が入る。
管理担当者は廊下。
リオは、さらに少し離れた長椅子。
扉は閉めない。
外からの光が、床へ細く入る。
***
部屋は、思っていたより小さかった。
横長。
天井は高くない。
正面の壁。
白い。
中央塔の白より、粉を多く含んだ鈍い色。
左壁。
古い棚の跡。
右壁。
四角い枠を外した穴。
入口の反対側。
古い観測窓。
窓と呼ばれているが、外は見えない。
厚い灰色の板で塞がれている。
周囲だけ、壁の色が違う。
***
床には、円があった。
描かれた線ではない。
石が磨耗している。
人一人が立つには広い。
寝台を置くには狭い。
中央には、二つの小さな穴。
「固定具」
セオが言う。
「何を固定していたかは?」
ネラが答える。
「分かりません」
「観測器具?」
「可能性はあります」
「椅子?」
「あります」
「人が立つ場所?」
「そう使った時期があったかは、記録を見ないと」
円を、儀式の跡にはしない。
***
部屋の中央には、古い椅子が一脚だけ残っていた。
背が低い。
脚の一本が短い。
十二年前の記録にある椅子とは、形が違う。
「七年前の確認記録では?」
「一脚あり」
「同じ物?」
「識別情報なし」
朔は椅子へ近づかない。
座らない。
人がいない部屋に。
人の形を作るために使わない。
***
「私がいたのは、ここです」
ネラが、観測窓の前へ立った。
背後に、灰色の板。
正面に、白い壁。
右足を、床の円の外へ置く。
左足は、円の縁。
「正確ですか」
セオが尋ねる。
「紙の位置図と、身体の記憶を合わせています」
「身体の記憶は?」
「窓枠が、左肩へ当たりそうだった」
ネラは左肩を少し引く。
「ここなら、近いです」
「もう一人は?」
入口の右側。
セオが三角の位置へ立つ。
「この辺り?」
「もう少し扉寄り」
ネラ。
「机がありました」
「机のどちら側」
「向こう」
床に残る擦れ。
長方形。
机の脚かもしれない。
セオが位置を修正する。
***
「K.K.に見えた場所」
朔が尋ねる。
ネラは、正面の壁を指す。
中央より少し右。
目の高さより上。
「大きさ」
「私の手の幅より少し広い」
「二文字全体で?」
「はい」
「光の色」
「白」
白い壁に。
白い光。
「見えにくい?」
「周囲より、少し冷たく見えました」
「冷たい色?」
「そう感じました」
「明るさは?」
「強くありません」
「では、なぜ気づいた?」
ネラは答えるまでに時間を置く。
「壁が、そこだけ遠くなったように見えたからです」
***
朔の視線が、指された場所へ向く。
白い壁。
細かなひび。
塗り直した跡。
Kに見える線はない。
点も。
光も。
「今、何か見えますか」
マレアが尋ねる。
「壁です」
「表示」
「ありません」
「奥行き」
「今は、壁です」
***
入口側に立つセオからは、指された場所が斜めになる。
「当時のもう一人が見た光の揺れは」
セオが尋ねる。
「この位置から?」
「はい」
「今、灯りを動かしていいですか」
「再現目的ではなく、反射確認の範囲で」
マレアが答える。
携帯灯を。
入口。
床。
観測窓側。
三つの位置へ移す。
壁の凹凸が、光を細く切る。
Kに似た線は、一瞬作れる。
だが、二つ並ばない。
「反射で再現できない」
グラドはいない。
代わりに、担当者が廊下から言いかける。
セオが止める。
「今日の灯りでは、同じ形を確認できない」
再現できないことを。
反射ではなかった証明にしない。
***
旧観測窓の灰色板。
ネラの背後。
光を返さない。
「十二年前は、塞がれていましたか」
朔が尋ねる。
「半分だけ」
「向こうは?」
「隣の観測側室です」
「外ではない」
「はい」
「誰かいた?」
「記録上はいません」
「確認は?」
「翌日に」
「当日は?」
ネラが止まる。
「確認していません」
「なぜ?」
「表示が消えた後、部屋を出ました」
「側室へは」
「行きませんでした」
十二年前。
怖くて呼ばなかった。
怖くて。
窓の向こうも確認しなかった。
***
「今、側室を確認しますか」
セオが尋ねる。
「今日の目的に含まれていますか」
マレア。
「観測窓との位置関係」
「室内側から確認できます」
「窓の向こうに光源があった可能性」
「あります」
「では」
朔が言う。
「別に決めましょう」
「今日見れば」
「見られます」
「なら」
「今、知りたいから目的を増やそうとしています」
セオは頷く。
「別の確認にします」
***
ネラは、十二年前の位置へ立ったまま。
正面の壁を見る。
「何か見えますか」
ユイが尋ねた。
「今は、壁です」
「十二年前は?」
「二つの文字みたいな光」
「怖かった?」
「はい」
「どうして?」
「誰もいないと思っていた場所に、何かがあったから」
「誰もいないって決めてた?」
ネラは、前日の記録を思い出す。
「そう思っていました」
「でも、紙には確認できずって書いた」
「はい」
「頭では、いないと思った?」
「はい」
「紙の方が慎重だった?」
ネラは少し笑う。
喜びではない。
「その時は、そうだったかもしれません」
***
ユイは、入口側。
十二年前のもう一人がいた場所へ立つ。
「ここからは?」
「壁」
「光」
「今は見えません」
「文字」
「ない」
「何か感じる?」
マレアが尋ねる。
ユイは部屋を見回す。
「静か」
「普通の静かさ?」
「分からない」
「怖い?」
「少し」
「戻りたい?」
「まだ」
まだ。
その言葉を。
人影の声へ繋げない。
***
「ネラさんの場所へ立ちますか」
朔がユイへ尋ねる。
ユイは首を横に振った。
「先にサク」
「なぜ?」
「サクが、K.K.を自分にしたくなるかもしれないから」
「ユイさんが先なら?」
「私がY.I.を探すかもしれない」
「では」
「順番で安全になるわけじゃない」
ユイは自分で言った。
「でも、今日はサクが先」
***
ネラが位置を離れる。
床には何も残らない。
朔が、同じ場所へ立つ。
観測窓の灰色板が背中側。
左肩。
枠に近い。
右足。
円の外。
左足。
磨耗した縁。
「身体」
マレアが確認する。
「異常なし」
「頭痛」
「なし」
「吐き気」
「なし」
「名前」
マレアはそこで止める。
「聞きません」
「はい」
***
朔は正面の壁を見る。
白い。
ひび。
塗り跡。
十二年前。
ネラが見た場所。
何もない。
K.K.
出ない。
表示を待たない。
「見えません」
朔が言う。
「何が?」
「文字も、光も」
「壁は?」
「壁です」
***
目的は。
位置。
視線。
壁。
観測窓。
照合すること。
K.K.を待つことではない。
朔は、位置を離れようとした。
右足が動く前。
壁の中央にあったひびが。
奥へ沈んだように見えた。
***
「変化」
朔が言う。
身体を動かさない。
「何が見えますか」
マレア。
「壁が」
言葉を探す。
「遠くなりました」
ネラの記憶と同じ言葉。
「ネラさんの表現を覚えていますか」
「はい」
「影響を受けた可能性」
「あります」
「それでも、どう見える?」
「壁の向こうに、もう一つ部屋があるように」
***
「私は見えません」
ネラが答える。
「私も」
ユイ。
「確認できません」
セオ。
マレアも。
白い壁。
そのまま。
朔一人。
***
壁が透明になったわけではない。
穴も。
扉もない。
白い面が。
壁ではなく、遠くの白い面へ変わった。
手前に、空間がある。
そう感じる。
距離は分からない。
数歩か。
部屋一つ分か。
もっと遠いか。
床は見えない。
天井も。
人影。
なし。
文字。
なし。
横たわる身体。
見えない。
ただ。
壁の向こうに、白い場所がある。
***
「今いる場所」
マレアが尋ねる。
「第三区旧観測室」
「同行者」
「ネラさん。マレアさん。セオさん。ユイ」
「外」
「リオさん」
「壁へ近づきたいですか」
「はい」
「目的に含まれますか」
「含まれません」
「では」
「動きません」
***
朔の右手が、わずかに上がる。
壁を測るように。
触れる距離ではない。
「右手」
ユイが言う。
朔は止める。
「触りません」
「何を触ろうとした?」
マレア。
「壁が本当に近いか」
「近い壁は見えますか」
「見えています」
「同時に?」
「向こうも」
近い白い壁。
遠い白い面。
二つが重なる。
どちらか一方を偽物にしない。
だが。
身体が触れられるのは、手前の壁だけかもしれない。
確かめない。
***
「位置を離れられますか」
マレアが尋ねる。
「はい」
「一歩、右へ」
朔は右足を動かす。
床の円から外れる。
壁は、近くなる。
ただの壁。
「変化」
「向こうの部屋が見えなくなりました」
「戻りますか」
ネラが尋ねた。
「位置へ?」
「はい」
朔は、すぐには答えない。
もう一度立てば。
見えるかもしれない。
見えないかもしれない。
「今日の目的に、再確認は?」
セオが尋ねる。
「一度だけ、位置による変化を確認する範囲なら」
マレアは朔を見る。
「身体は?」
「異常ありません」
「戻りたい理由は?」
「位置で見え方が変わるか確認したい」
「白い部屋をもう一度見たい?」
「はい」
「両方?」
「はい」
***
もう一度。
ネラの位置へ立つ。
右足。
円の外。
左足。
円の縁。
左肩。
窓枠に近い。
正面。
白い壁。
最初は。
壁。
数呼吸。
何も変わらない。
「見えません」
朔が言う。
その直後。
壁のひびが遠ざかる。
白い面が、奥へ移る。
「今、見えます」
「一度目と同じ?」
マレア。
「近いです」
「同じ?」
「決められません」
***
「文字」
「ありません」
「人」
「見えません」
「手」
「見えません」
「声」
「ありません」
「名前」
「表示されていません」
白い部屋。
そう呼びたくなる。
だが、部屋かどうかも確認できない。
「白い空間様知覚」
セオが、記録する言葉を口にする。
「まだ書かないでください」
マレア。
「帰還後に、朔さんの言葉を確認してから」
「はい」
記録板は閉じたまま。
***
ユイが、朔の横へ近づこうとする。
「停止」
マレアが言う。
ユイは止まる。
「同じ場所へ立ちたい?」
「うん」
「朔さんが離れてから」
「分かった」
同じ位置に二人立たない。
知覚を重ねるために。
身体を重ねない。
***
朔が位置を離れる。
白い奥行き。
消える。
壁へ戻る。
「見えなくなりました」
「頭痛」
「少し」
「吐き気」
「ありません」
「続けますか」
「ユイさんが立つところまでは」
「朔さんは入口側へ」
「はい」
***
ユイが、ネラの位置へ立つ。
身体が小さい。
目の高さが違う。
ネラと同じ場所でも。
同じ視線にはならない。
足。
円の縁。
肩。
窓枠より低い。
「台を使いますか」
セオが尋ねる。
「使いません」
マレア。
「ネラさんの目の高さを再現するなら」
「ユイさんの身体を、ネラさんの知覚へ合わせません」
今いるユイが。
今の高さで見る。
***
「何が見えますか」
マレアが尋ねる。
「壁」
「光」
「ない」
「文字」
「ない」
「奥」
ユイは、しばらく答えない。
「壁の向こうがある感じは?」
朔が尋ねかける。
「問いを足さないでください」
マレアが止める。
「すみません」
「ユイさんの言葉を待ちます」
***
ユイは白い壁を見る。
呼吸。
一。
二。
三。
手は身体の横。
動かない。
「何かありますか」
「ない」
「何も?」
「見えるものは」
「ほかには?」
ユイは首を傾ける。
「壁が、こっちを見てる感じがする」
部屋が静かになる。
「目が見えますか」
マレアが尋ねる。
「ない」
「人?」
「見えない」
「声」
「聞こえない」
「見られている?」
「そう感じる」
「怖い?」
「少し」
「離れますか」
「うん」
***
ユイが位置を離れる。
「感じは?」
「なくなった」
「壁は?」
「壁」
「文字」
「ない」
Y.I.は現れない。
K.K.も。
何も表示されない。
それを。
関係がない証明にはしない。
***
ネラが、もう一度位置へ立つことはしなかった。
「見ないんですか」
朔が尋ねる。
「今の私は、十二年前の表示を探します」
「それでも」
「見たいです」
「では」
「今日は、あなたとユイさんが立った後です」
「影響される?」
「はい」
「K.K.を見たくなる?」
「見えなかったことを、十二年前の否定にしたくもなる」
ネラは位置へ戻らない。
「今の私は、もう最初に入ったネラではありません」
***
室内の確認を続ける。
壁。
触れない。
観測窓。
開けない。
床の円。
穴の深さだけ、木片で測る。
指一本より浅い。
金属片なし。
黒い変色なし。
古い椅子。
動かさない。
右壁の外された枠。
内部は石。
通路ではない。
見える範囲。
それだけ。
***
終了時刻。
予定より少し早い。
「目的は?」
セオが確認する。
室内位置。
視線。
壁。
観測窓。
照合した。
「終了します」
マレアが言う。
「観測窓の向こうは?」
「別の確認です」
「壁への呼名」
「行いません」
「朔さんの見た空間」
「帰還後に分けて記録します」
***
五人が部屋を出る。
マレア。
ユイ。
朔。
ネラ。
セオ。
廊下。
リオ。
管理担当者。
全員。
「向こうから持ち出した物」
「ありません」
朔。
「向こうへ残した物」
「ありません」
ユイ。
扉は、また持ち上げながら閉じる。
鍵。
一度。
二度。
金具が止まる。
***
廊下で、身体確認を行う。
朔。
軽い頭痛。
吐き気なし。
視界。
通常。
白い奥行き。
今は見えない。
名前。
聞く前に、本人へ確認する。
「名前について聞いていいですか」
マレアが尋ねる。
「はい」
「今、何と呼ばれたいですか」
「サクで」
「ほかに使う名前」
「黒川朔」
「K.K.は」
「今は使いません」
***
ユイ。
身体異常なし。
頭痛なし。
見られている感覚。
室外ではなし。
「名前を聞いていい?」
マレア。
「うん」
「何と呼ばれたい?」
「ユイ」
「Y.I.は?」
「まだ、私の名前にしない」
表示されなかったからではない。
本人が。
今、そう選ぶ。
***
ネラ。
呼吸。
少し速い。
手。
冷たい。
「十二年前の表示は、今も見えますか」
「いいえ」
「記憶では?」
「はい」
「今日の壁と同じ?」
「壁の位置は」
「現象は?」
「分かりません」
「朔さんが見た奥行きと」
「同じとは言いません」
***
リオは、朔の前に立つ。
紙を出さない。
「何を見た」
「ネラさんが立っていた位置から、壁の向こうに白い空間があるように見えました」
「壁はあったか」
「見えていました」
「向こうも」
「はい」
「どっちが本物や」
「分かりません」
「触ったか」
「触っていません」
「近づいたか」
「位置からは動きませんでした」
「二回見た?」
「一度離れて、もう一度立ちました」
「何で」
「位置で変わるか確かめたかった。それと、もう一度見たかった」
「二つやな」
「はい」
***
「誰が止めた」
「マレアさんが条件を確認しました。ノエさんはいません。ユイさんが右手を言いました」
「右手」
「壁へ伸ばしかけました」
「何を取りたかった」
「触れられる壁が近いか確かめたかった」
「向こうへ行きたかったか」
朔は答えるまでに少し時間を置く。
「少し」
「何があると思った」
「分かりません」
「元の世界か」
「そう考えました」
「見えたんか」
「白い空間だけです」
「ほな、元を足したんは」
「俺です」
***
「紙を見るか」
リオが尋ねる。
「今は見ません」
「白い部屋見た後やから?」
「はい」
「何か書き足されてる気がする?」
「少し」
「見たら安心するか」
「何もなければ」
「何かあったら」
「意味を作ると思います」
「なら、後や」
リオは胸元へ手を入れない。
***
帰還後の記録は、室内図から始めた。
正面壁。
観測窓。
床の円。
椅子。
入口。
十二年前のネラ。
もう一人。
今日の五人。
位置を重ねる。
知覚は、別の紙。
***
朔。
ネラの記録位置に立った時、正面壁が遠くなり、その向こうに白い空間があるように知覚。
近い壁も同時に見えた。
文字。
人影。
身体。
手。
声。
確認せず。
位置を一歩右へ外れると、白い奥行き様知覚は消失。
同位置へ戻った後、再び近い知覚あり。
朔以外は確認せず。
***
「白い部屋と書きますか」
グラドが尋ねた。
「書きません」
朔が答える。
「本人はそう認識した」
「白い空間に見えました」
「部屋では?」
「床も天井も見ていません」
「壁の向こう」
「そう感じました」
「現実世界との関係」
「考えました」
「では」
「知覚と、そこから考えたことを分けてください」
***
知覚。
白い壁の向こうに、奥行きまたは空間があるように見えた。
推測。
朔は、自身が記憶する別世界または白い場所との関係を考えた。
関係。
未確認。
***
ユイ。
同じ位置から。
壁。
文字なし。
光なし。
空間様知覚なし。
人、目、身体を確認せず。
壁から見られているように感じた。
位置を離れた後、感覚は消失。
「観測されていた?」
グラドが尋ねた。
「そうは言っていません」
ユイが答える。
「見られている」
「感じた」
「誰に?」
「分からない」
「壁に?」
「壁から」
「同じでは」
「壁が人だとは言ってない」
***
ネラ。
十二年前と同じ位置を最初に確認。
今日、K.K.様表示なし。
光の揺れなし。
壁面変化なし。
朔の知覚後は、同位置へ再度立たず。
「なぜ立たなかったかも」
ネラが言う。
朔およびユイの報告を聞いた後であり、十二年前の表示または現在の現象を探す知覚になると本人が判断したため。
「判断が正しいか」
「決めません」
「では」
「立たなかった理由です」
***
十二年前。
ネラは、壁にK.K.に見える二文字を見た。
今日。
朔は、同じ位置から、壁の向こうに白い空間を見た。
ユイは。
壁から見られているように感じた。
三人。
同じ位置。
同じ知覚ではない。
***
「位置に何かある可能性」
グラドが言う。
「あります」
「観測窓との関係」
「あります」
「ネラさんと朔さんは、白い現象を見た」
「同じ現象とは決まりません」
「ユイさんにも感覚変化」
「はい」
「なら、場所の影響は高い」
マレアが答える。
「場所と立ち位置が、知覚へ関係する可能性は上がりました」
「では」
「何が起きる場所かは、まだ分かりません」
***
「次は観測窓の向こうを確認するべきです」
グラドが言う。
「可能性はあります」
セオ。
「朔さんを同じ位置へ置き、側室の光を」
「再現実験にしません」
マレアが止める。
「原因を特定するためです」
「朔さんの知覚を起こすために、位置と光を変えるなら実験です」
「本人が同意すれば」
朔は答える。
「今日は決めません」
「なぜ?」
「また見たいと思っています」
「それは、参加理由になる」
「今は、止める理由にもします」
***
観測窓側室の確認は。
朔を入れず。
先に構造と記録を調べる。
壁板。
光源。
出入口。
十二年前の使用状態。
それを確認してから。
誰が入るかを別に決める。
白い現象を再現する目的にはしない。
***
ユイが尋ねる。
「次は、私も入る?」
「まだ決めません」
イサラが答える。
「Y.I.を見るため?」
「その目的にはしません」
「見えたら?」
「見えたことを聞きます」
「見えなかったら?」
「見えなかったことだけを残します」
「私が行きたいって言ったら?」
「理由を聞きます」
「怖いけど、見たい」
「両方、残します」
***
午後。
ネラは一人で原記録の室内図を見ていた。
朔が近づく。
「同じ位置でしたか」
「近いです」
「十二年前の俺と?」
「あなたは、今日初めて入りました」
「すみません」
「分かっています」
ネラは図の丸を見る。
「身体の置き方は、私の記憶と近かった」
「見えたものは」
「違います」
「でも、壁が遠くなったという言葉は同じ」
「はい」
「俺が聞いたから、そう表現した可能性」
「あります」
「本当に同じ感覚だった可能性も」
「あります」
***
「ネラさんは、壁の向こうを見たんですか」
「私は、二文字の周囲が遠く見えました」
「部屋は?」
「見ていません」
「空間」
「今の記憶では、あったようにも感じます」
「記録には?」
「ありません」
「では」
「今日のあなたの言葉を聞いた後の記憶です」
ネラは、自分で線を引く。
十二年前の記憶について、朔の「壁の向こうに白い空間」という報告を聞いた後、表示周囲に奥行きがあったようにも感じる。原記録に記載なし。後の影響を分離できず。
「そこまで書きますか」
朔が尋ねる。
「書かなければ、次に話す時、自分の最初からの記憶にするかもしれません」
***
夕方。
朔はユイと、治療区画の窓辺に座った。
「壁から見られてた?」
朔が尋ねる。
「そう感じた」
「怖かった?」
「少し」
「何を見られたと思った?」
「分からない」
「名前?」
ユイは考える。
「名前だけじゃない」
「では」
「私が、そこにいること」
「誰に?」
「分からない」
「Y.I.に?」
朔は言ってから止まる。
「今の問いは」
「Y.I.へ繋げた」
「はい。すみません」
***
「でも、私も考えた」
ユイが言う。
「Y.I.が壁の向こうにいるのかなって」
「いると思いますか」
「分からない」
「ユイさんとは別に?」
「分からない」
「同じ?」
「分からない」
ユイは自分の手を見る。
「もし向こうに私がいたら、こっちの私は何?」
朔は、白い壁の奥行きを思い出す。
「今ここにいるユイさんです」
「向こうもユイだったら?」
「二人とも、そう名乗るかもしれません」
「どっちが本当?」
「先に決めません」
「会ったら?」
「本人たちに聞きます」
「同じ私だったら?」
「それも、聞けるか分かりません」
***
夜。
リオが紙を机へ置く。
「今なら見るか」
「はい」
元の折り目。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
変化なし。
白い線なし。
K.K.なし。
「何もない」
リオが言う。
「はい」
「安心したか」
「少し」
「何もないから、観測室と関係ない?」
「決めません」
「白い部屋が、お前の頭だけ?」
「決めません」
「壁の向こうに本当にある?」
「決めません」
「何も決めへんな」
「はい」
「でも、何かは見た」
「はい」
***
「向こうへ行きたいか」
リオが尋ねる。
「少し」
「帰りたい?」
朔は答えられない。
「どこへか分かりません」
「白い方が元か」
「そう思いました」
「今の方は」
「ここです」
「元ではない?」
「分かりません」
「なら」
リオは紙を折る。
「壁の向こうを、帰る場所って先に呼ぶな」
「はい」
「向こうに身体があっても」
朔はリオを見る。
「身体があると思いますか」
「お前が考えとる顔しとる」
「はい」
「見えたんか」
「いいえ」
「なら、今日は白い空間までや」
「はい」
***
朔は、自分の紙へ記す。
旧観測室。ネラが十二年前に立っていた位置。
壁の向こうに、白い空間があるように見えた。
文字、身体、手、人影、声は確認していない。
次。
位置を外れると消えた。同じ位置へ戻ると、再び見えた。
その下。
ほかの四人には見えなかった。
***
推測。
別の場所。
白い部屋。
元の世界。
K.K.
眠っている身体。
書きたくなる。
最後の一つは。
まだ見てもいない。
朔は、筆を止める。
***
代わりに。
壁の向こうを、帰る場所とは決めない。
と書く。
それは、向こうに帰る場所がないという意味ではない。
ここだけが本物だと決める言葉でも。
ただ。
白く見えたものへ。
先に「元」を与えないための言葉だった。
***
十二年前。
ネラは壁に、K.K.に見える二文字を見た。
今日。
朔は同じ壁の向こうに、名前のない白い空間を見た。
ユイは、壁から見られているように感じた。
同じ位置。
違う知覚。
どれか一つを、正しい観測にはしない。
***
旧観測室は。
K.K.の姿を返さなかった。
名前も。
身体も。
声も。
ただ。
壁が壁だけではないように見える位置を残していた。
***
それが、十二年前からあったのか。
朔が記録を読んだから見えたのか。
観測窓の向こうに光源があるのか。
白い場所が、本当に壁の向こうにあるのか。
まだ分からない。
***
扉は閉じられた。
誰も、K.K.とは呼ばなかった。
呼ばなかったから、答えなかったとも書かない。
今日、答える者がいたとも。
***
十二年前の観測室から。
五人が戻った。
持ち出した物はない。
壁の向こうから、何かを連れてきたとも決められない。
それでも。
朔の中には、白い奥行きが残った。
帰る場所とは呼ばれず。
現実とも。
夢とも。
まだ名前を与えられないまま。




