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第七章 眠っている名前 ② K.K.の空欄


 ネラ・ヴォスが持ってきた記録は、一枚ではなかった。


 十二年前の観測記録。


 その翌日に作られた確認記録。


 三年後、アデル・ロウが新しい書式へ移した転記。


 さらに後。


 塔内の事案を検索するために作られた索引。


 同じ出来事について書かれた、四つの紙。


 重ねれば、一つの記録に見える。


 だが、最初から同じ形ではなかった。


***


「今日は、どこまで見ますか」


 ネラが尋ねた。


 旧記録補修室。


 低い机。


 窓から入る朝の光。


 紙を乾かすための細い紐。


 壁際には、綴じ直す前の紙束が、浅い箱へ分けて置かれている。


「十二年前の原記録と、その翌日の確認記録まで」


 朔が答えた。


「転記は?」


「原記録を見た後で」


「索引は?」


「最後に」


「なぜ?」


「後の紙から読めば、最初からK.K.が対象者だったように見えるかもしれません」


 ネラは頷いた。


「では、書かれた順に見ます」


***


 参加したのは、朔。


 ネラ。


 セオ。


 マレア。


 グラド。


 五人。


 リオは、補修室の外にいる。


 朔の名前を書いた紙を持っているからではない。


 古い紙を扱う室内に、必要のない者を増やさないためだった。


「俺は、外で何をする」


 リオが尋ねた。


「待っていてください」


「紙を持って?」


 朔は少し考える。


「持っていてもらいたいです」


「K.K.と比べるためか」


「違います」


「なら」


 リオは胸元を押さえる。


「ここにおる」


***


 最初の記録は、薄い灰色の紙だった。


 角が欠けている。


 右端には水の跡。


 上部には、当時の観測室番号。


 今の番号とは違う。


 その下。


 観測日時。


 担当者。


 室内設備の状態。


 最初に書かれていたのは、人の名前ではなかった。


 第三区旧観測室。設備停止中。


「設備停止中」


 朔が読む。


「使われていなかった?」


「正式には」


 ネラが答える。


「ただ、扉は閉鎖されていませんでした」


「なぜ?」


「倉として使う予定がありました。中に残った机や壁板を確認していた時期です」


「観測をしていたのではない?」


「はい」


「では、この紙は」


「異常があったため、観測記録の書式を使いました」


 起きたことに合う紙がなかった。


 だから、近い書式を使った。


 その選択が。


 後の分類へ繋がっている。


***


 室内設備。


 動作確認なし。


 床面。


 異常なし。


 壁面。


 光の揺れ。


 室内身体。


 確認なし。


「身体確認なし」


 グラドが言った。


「誰もいなかった?」


 ネラは首を横に振る。


「見える範囲に、身体はありませんでした」


「隠れていた可能性」


「あります」


「では、空室とは」


「当時も、空室と断定していません」


 紙には、


 室内身体:確認できず。


 とある。


 なし、ではない。


 確認できず。


 朔は、指で文字を追わない。


 紙から少し離れた位置で読む。


***


 次の欄。


 壁面表示。


 そこに、K.K.があった。


 ただし。


 後の紙とは、同じではなかった。


 K.K.に見える二文字様表示。


 末尾。


 小さな曲線。


 問いの印。


「疑問符」


 朔が言った。


「はい」


 ネラが答える。


「後の記録には、ありませんでした」


 セオが転記前の位置だけ確認する。


「原記録では、K.K.と確定していない」


「私にはそう見えた、と書きました」


「文字ですか」


「文字に見えました」


「読めた?」


「Kと同じ形が二つ」


「間の点は?」


 ネラは紙へ顔を近づける。


「一つ目と二つ目の間に、小さな光の切れ目がありました」


「点として見えた?」


「そう記録しました」


「今も、そう覚えていますか」


 ネラは少し黙る。


「紙を読まずに答えれば、二つの記号が並んでいたことを覚えています。間に点があったかは、この記録を何度も読んだ記憶と分けられません」


***


 十二年前のネラが見たもの。


 二つのKに近い形。


 その間の切れ目。


 文字だったか。


 記号だったか。


 表示だったか。


 光が偶然そう見えたのか。


 原記録には、決めずに残っている。


「K.K.という名前を見た、ではない」


 朔が言った。


「はい」


「対象符号でも?」


「当時は、そう書いていません」


***


「ほかの人は?」


 マレアが尋ねた。


 同じ室内にいた者。


 当時の設備確認担当。


 名前は記録にある。


 現在は王都を離れている。


 ネラと同じ時間。


 同じ部屋。


 ただし、立っていた場所が違う。


 ネラは、古い観測窓の近く。


 もう一人は、入口側。


 その者の欄。


 壁面に光の変化を確認。文字または記号の形状は確認できず。


「K.K.を見たのは、ネラさんだけ」


 朔が言った。


「はい」


「光を見たのは二人」


「はい」


「同じ光?」


「同じ壁面、近い時刻です」


「同じものを見た?」


「決まりません」


 同じ場所にいた。


 同じ時刻に近い。


 だが。


 一人は文字に近い形を見た。


 もう一人は、光の揺れだけ。


***


「位置の違いは記録されていますか」


 セオが尋ねた。


 ネラは紙の裏を見る。


 簡単な室内図。


 机。


 壁。


 入口。


 古い観測窓。


 ネラの位置には、丸。


 もう一人には、三角。


「私が描きました」


「翌日?」


「当日です」


「K.K.が見えた壁面」


「ここ」


 正面の白い壁。


「もう一人からは、斜め?」


「はい」


「観測窓との位置関係」


「私の後ろです」


「窓に反射した可能性」


「当時も確認しました」


「結果は?」


 ネラは次の欄を示す。


 窓面、光源、廊下側反射。原因特定できず。


 反射ではない、と書いていない。


 反射であるとも。


***


 呼名の欄。


 実施せず。


「なぜ呼ばなかったんですか」


 朔が尋ねた。


「何を呼べばよいか分からなかったからです」


「K.K.を?」


「人名か分かりませんでした」


「部屋の中へ、誰かいますか、と聞くことは」


「しませんでした」


「どうして?」


 ネラは、十二年前の自分を思い出すように紙を見る。


「音を出すことで変化が起きる可能性を恐れました」


「手順にあった?」


「ありません」


「では」


「私が怖くて、呼ばなかった」


 理由を、後の安全判断へ変えない。


***


「呼ばなかったことを、今はどう思いますか」


 グラドが尋ねた。


「分かりません」


「呼んでいれば応答が」


「確認できた可能性はあります」


「本人の名前かも」


「あります」


「では、判断を誤った?」


「そうかもしれません」


「逆に、危険を避けた」


「そうかもしれません」


「どちらを記録しますか」


 ネラは答える。


「当時、私は、文字か人名か判断できず、変化を恐れて呼名しなかった」


「評価は?」


「今の私が、当時の結果を知った後で付けますか」


 グラドは黙る。


***


 応答の欄。


 空欄。


 線も。


 なし。


 実施せず、とも書いていない。


「ここは、なぜ空いているんですか」


 朔が尋ねる。


「呼名を実施しなかったので、書く内容がありませんでした」


「応答なしではない」


「はい」


「応答不能でも」


「はい」


「応答を確かめていない」


「そうです」


 誰も、呼ばなかった。


 だから。


 答えがなかったとは書けない。


***


 その下。


 対象者名。


 空欄。


 対象符号。


 空欄。


 身体特徴。


 空欄。


 声。


 空欄。


「K.K.は、対象者名の欄に入っていない」


 朔が言った。


「はい」


「対象符号にも」


「はい」


「壁面表示にだけ」


「はい」


「では、最初の紙では、K.K.は人ではない」


 ネラがすぐに止める。


「人ではない、とも書いていません」


「すみません」


「壁に見えたものです」


「人を示すかは」


「未確認です」


***


 翌日の確認記録。


 紙の色が違う。


 書いた者も。


 ネラではなく、当時の主任。


 前日の原記録を参照し。


 同じ室内を確認している。


 設備停止。


 身体なし。


 壁面表示なし。


 光の揺れなし。


 声なし。


 床面変化なし。


「翌日は、何も見えなかった」


 朔が言う。


「はい」


「K.K.も」


「はい」


「呼名は?」


 欄には、


 対象不在のため実施せず。


 とある。


「対象不在」


 セオが読む。


「原記録では、身体を確認できず」


「意味が強くなっています」


 ネラが言った。


「なぜ止めなかったんですか」


 グラドが尋ねる。


「当時は、同じ意味だと思いました」


「今は?」


「違います」


***


 確認できなかった。


 いなかった。


 似ている。


 だが。


 同じではない。


「主任は、部屋が空だったと判断した」


「はい」


「前日も空だったと?」


「そう読んだ可能性があります」


「悪意は?」


「ありません」


 ネラは答えた。


「異常が続いていないことを確認し、部屋を閉鎖するための紙でした」


「では」


「短くする必要があったのだと思います」


「必要なら、意味が変わっても?」


 ネラはすぐに答えない。


「当時の私は、変わったことに気づきませんでした」


***


 翌日記録の見出し。


 無人旧観測室における一時的光学異常。


「無人」


 朔が言った。


「最初の原記録にはない言葉です」


「はい」


「光学異常」


「それも」


「文字様表示は?」


「本文の備考にあります」


 見出しから消えている。


 K.K.に見える二文字様表示。


 備考の三行目。


 検索をすれば。


 見出ししか見ない者には届かない。


***


「この時点では、K.K.はまだ壁面表示」


 セオが言う。


「対象符号にはなっていません」


「はい」


「では、三年後」


 ネラが、三枚目の紙を出す。


***


 新しい書式。


 白い紙。


 欄が整っている。


 左上。


 事案番号。


 観測区画。


 発生日。


 対象符号。


 そこに。


 K.K.


 とある。


 問いの印はない。


 壁面表示とも。


 二文字様とも書かれていない。


「ここで、対象になった」


 朔が言った。


「書式上は」


 ネラが答える。


「アデル・ロウが?」


「はい」


***


 アデルの筆跡。


 細い。


 整っている。


 欄を空けない。


 不明な場所には、不明と書く。


 対象符号。


 K.K.


 対象種別。


 分類不能。


 身体確認。


 なし。


 応答。


 なし。


「応答なし」


 朔の声が止まる。


「原記録では、実施せずです」


「はい」


「これは」


 ネラが紙の右端を示す。


 小さな注記。


 原記録上、呼名実施なし。応答記録なし。新形式に該当欄がないため、応答なしへ仮置き。


「理由は書いてある」


 セオが言う。


「はい」


「隠してはいない」


「はい」


「でも、表だけなら」


「応答しなかった対象に見えます」


***


「なぜ、K.K.を対象符号へ入れたんですか」


 朔が尋ねた。


「新形式では、何についての記録かを示す欄が必須でした」


「部屋では駄目?」


「観測区画は別欄にあります」


「光では?」


「対象符号は、検索に使うため、固有の記号が必要でした」


「K.K.が一番固有だった」


「そう考えたのだと思います」


「本人の名前だからではなく」


「はい」


 検索できるように。


 失わないために。


 壁に見えた記号を。


 対象へ移した。


***


「アデルは、分類不能と書いている」


 グラドが言った。


「はい」


「仮置きとも」


「はい」


「なら、慎重です」


「慎重でした」


 ネラが答える。


「それでも意味は変わりました」


「保存するための変化です」


「はい」


「では、必要な変化だった?」


「必要だった可能性があります」


「なら」


「必要だったことと、変わらなかったことは同じではありません」


***


 原記録。


 壁面にK.K.に見える表示。


 問いの印。


 対象者名は空欄。


 呼名実施せず。


 三年後。


 対象符号K.K.


 問いの印なし。


 応答なし。


 注記に、実施なし。


 紙全体を読めば違いは残っている。


 欄だけを見れば。


 一人の対象がいて。


 呼びかけに答えなかった記録になる。


***


「アデルさんは、原記録を読んでいましたか」


 朔が尋ねる。


「はい」


 ネラ。


「本人へ聞けますか」


「居場所が分かりません」


「退職後の記録は」


「三年前から途切れています」


「亡くなった?」


「確認されていません」


「では、今は」


「転記した本人の理由を、紙だけから全て決められません」


***


 四枚目。


 索引。


 さらに簡潔だった。


 K.K./旧観測室/身体なし/応答なし/再発なし。


 それだけ。


 問いの印。


 なし。


 ネラ一人の知覚。


 なし。


 もう一人は文字を見ていないこと。


 なし。


 呼名を実施していないこと。


 なし。


 アデルの仮置き。


 なし。


「検索のための紙」


 セオが言う。


「はい」


「これを入口に、詳しい記録へ行く」


「本来は」


「本来は?」


「索引だけが写され、原記録が別庫へ移った時期があります」


「では、索引だけ読んだ者も」


「いたと思います」


***


 グラドは四枚を並べた。


「それでも、K.K.は共通しています」


「はい」


「十二年前の壁面表示」


「はい」


「朔さんが、白い表示として何度も見た符号」


「はい」


「朔さんは、旧搬入口で、自身の名を一時的に発話できなくなった」


「はい」


「十二年前のK.K.は、対象名が空欄」


「原記録では」


「似ています」


 グラドは言った。


「黒川朔とK.K.が同じ対象である可能性は、高いのではありませんか」


***


「何が同じですか」


 ネラが尋ねた。


「白い文字」


「朔さんの表示は、旧搬入口。十二年前は旧観測室」


「塔に関係する場所」


「範囲が広いです」


「K.K.という符号」


「朔さんの表示にK.K.が現れています」


「はい」


「身体が確認できない」


「朔さんの身体は、確認できます」


「現実側の身体が別にある可能性」


 部屋が静かになる。


 朔は、自分の子どもの手を見る。


***


「それは、まだ朔さんが見ていない情報です」


 マレアが言った。


「白い部屋の断片は」


「身体の存在を確認していません」


「朔さん自身が、元の世界から来たと」


「本人の記憶です」


「では、無関係とは」


「言っていません」


 ネラが答える。


「同じだと決める材料が足りないと言っています」


***


「十二年前という時期は、矛盾します」


 セオが言う。


「朔さんがこちらへ来たのは、本人の認識では最近です」


「道の時間が同じとは確認されていません」


 グラド。


「では、矛盾ではない」


「矛盾でない可能性があることは、同一の証拠ではありません」


 ネラが止める。


「時期が合わなくても説明できる。場所が違っても説明できる。身体がなくても説明できる。知覚者が一人でも説明できる」


「はい」


「説明できるものを全部同じ人へ入れれば、空欄はすぐ埋まります」


***


「ですが、仮説は必要です」


 グラドが言った。


「必要です」


「なら」


「仮説として書いてください」


「K.K.=黒川朔の可能性」


「等号を使わないでください」


「同一可能性」


「何を根拠に?」


「白色文字様知覚。K.K.符号。自己名の一時的不安定」


「十二年前のK.K.に、自己名の不安定は確認されていません」


「対象名が空欄」


「名前を言えなかったのではありません」


「呼んでいないから」


「はい」


***


 ネラは、四枚のうち最初の紙を持ち上げる。


「ここには、名前が答えられなかった者はいません」


「身体がいない」


「身体を確認できなかった」


「同じでは?」


「違います」


 ネラの声は強くない。


「朔さんは、名前を尋ねられ、答えられなかった」


「はい」


「十二年前は、誰も尋ねていない」


「はい」


「答えられなかった空欄と、尋ねなかった空欄を、同じ人で埋めないでください」


***


 グラドは黙る。


 机の上。


 空欄が二つある。


 一つ。


 対象者名。


 誰も分からず。


 一つ。


 応答。


 誰も呼ばず。


 空白の形は似ている。


 理由は違う。


***


 朔が尋ねる。


「では、仮説をどう残しますか」


 ネラは紙を置く。


「まず、K.K.が何だったかを分けます」


 一。


 ネラが壁面に見た二文字様の光。


 二。


 三年後、アデルが新形式へ移す際に作った対象符号。


 三。


 後の索引で、対象そのものとして読まれたK.K.


「同じ文字です」


 グラド。


「役割が違います」


 ネラ。


「では、朔さんが見たK.K.は?」


「朔さんの白色文字様知覚」


「同じ字」


「はい」


「関係は?」


「未確認」


***


 セオが、新しい紙へ見出しを書く。


 K.K.記録における記号位置の変化。


 原記録。


 壁面表示欄。


 K.K.に見える。


 問いの印あり。


 対象者名、対象符号は空欄。


 呼名実施せず。


 三年後転記。


 対象符号欄。


 K.K.


 問いの印なし。


 応答なしへ仮置き。


 注記に呼名未実施。


 索引。


 K.K.を事案名称および対象名に近い形で使用。


***


「これで、意味の変化を追えます」


 セオが言う。


「誰かが誤魔化したわけではない」


 ネラ。


「はい」


「一枚ずつでは、理由がある」


「はい」


「重なると?」


 朔が答える。


「壁の文字が、呼びかけに答えなかった対象になります」


***


「現在の仮説」


 グラドが言う。


「K.K.は、朔さんと関係する可能性がある」


「はい」


 朔。


「同一人物である可能性」


「あります」


「朔さんとは別の対象である可能性」


「あります」


「符号が複数の対象に使われている可能性」


「あります」


「人ではない可能性」


「あります」


「朔さんの記憶が、知っているK.K.を過去の紙と結びつけている可能性」


「あります」


「では、何も絞れない」


 マレアが答える。


「絞れたことがあります」


***


「何ですか」


「原記録のK.K.は、本人が名乗った名前ではない」


「はい」


「誰かが呼んで確認した名前でもない」


「はい」


「身体へ付けられた符号でもなかった」


「当初は」


「はい」


「それだけ?」


「重要です」


 朔が言った。


「俺がK.K.と関係していても。K.K.と呼ばれることへ、俺が同意した記録はない」


***


 グラドは、朔を見る。


「符号に本人の同意が必要ですか」


「記録上の検索符号には、必ずしも」


「では」


「検索のための符号と、本人の名前を分けてください」


「K.K.が本人の本来名である可能性」


「あります」


「なら」


「本人に聞けていません」


「朔さんへ聞く」


「俺は、K.K.を自分の名前として選んでいません」


「知らないから?」


「それもあります」


「今後、選ぶ可能性」


「分かりません」


***


「今、K.K.と呼んでいいですか」


 グラドが尋ねた。


 朔はすぐに答える。


「いいえ」


「なぜ?」


「俺が使う名前だと決めていないからです」


「記録上の対象として」


「記録を読む時は、K.K.について話せます」


「朔さんを指して?」


「それは、まだしないでください」


***


 ネラは、原記録の問いの印を写す。


 小さい。


 薄い。


 後の紙から消えた線。


「問いの印を戻しますか」


 セオが尋ねる。


「転記を書き換える?」


「いいえ」


 ネラ。


「アデルが作った紙は、そのまま残します」


「では」


「注記を加えます」


 原記録では、K.K.は壁面に見えた二文字様表示として記載され、問いの印を伴う。対象名および対象符号としての記載ではない。


「応答なしも」


 朔が言う。


「はい」


 原記録上、呼名は実施されていない。応答の有無は確認されていない。


***


「アデルさんの判断を、誤りとしますか」


 グラドが尋ねた。


「しません」


 ネラが答える。


「では、なぜ注記を?」


「今の書式だけでは、原記録との違いを失うからです」


「判断を否定せず、意味を戻す?」


「意味を一つにしないためです」


***


 昼前。


 五人は、最初の紙をもう一度見る。


 設備停止中。


 身体確認できず。


 壁面。


 K.K.に見える二文字様表示。


 問いの印。


 もう一人は、光の変化のみ。


 呼名。


 実施せず。


 応答。


 空欄。


 対象者名。


 空欄。


***


「K.K.が、誰かの名前だった可能性は残ります」


 朔が言う。


「はい」


 ネラ。


「対象符号だった可能性も」


「はい」


「場所や状態を示した可能性」


「あります」


「俺に関係する可能性」


「あります」


「俺そのもの」


「まだ、決まりません」


***


「いつなら決まりますか」


 グラドが尋ねる。


 ネラは答えない。


 朔も。


 K.K.と名乗る者が現れれば。


 それだけで本人とは限らない。


 身体が見つかれば。


 符号と身体の関係は別に確かめる必要がある。


 朔の白い表示に意味が増えれば。


 それが外の事実とは限らない。


「決まらない可能性もあります」


 朔が答えた。


「それでも調べる?」


「はい」


「なぜ?」


「決めるためだけではありません」


「では」


「どこで意味が変わったかを知るためです」


***


 補修室を出る。


 リオは廊下の長椅子に座っていた。


 目を閉じている。


 眠ってはいない。


「終わったか」


「今日は」


「何が分かった」


「最初の記録では、K.K.は名前でも対象符号でもありませんでした」


「何やった」


「壁にそう見えた文字か記号です」


「誰が見た」


「ネラさん」


「ほかは」


「光だけ」


「呼んだか」


「呼んでいません」


「答えたか」


「確認していません」


***


「ほな、応答なしは何や」


「三年後の書式で、入れる欄がなくて仮に置かれました」


「誰が」


「アデル・ロウさん」


「悪い奴か」


「そうは思いません」


「なら」


「残すために形を変えた。その形が、後で対象そのものに見えるようになりました」


 リオは胸元へ手を入れない。


「お前も、K.K.にされたか」


「まだ」


「されそうか」


「可能性はあります」


「自分で使うか」


「今は使いません」


「ほな、俺も呼ばん」


***


「問いの印がありました」


 朔が言う。


「後で消えた?」


「転記にはありません」


「戻すんか」


「元の転記を変えず、原記録では問いだったと注記します」


「同じ場所へ書き足さん?」


「はい」


「何で」


「アデルさんが作った記録も、起きたことだからです」


「間違いにして消さん」


「はい」


「でも、最初から答えやったことにもしない」


「はい」


***


 リオは立ち上がる。


「昼、食うか」


「はい」


「名前は」


 朔は、問いの意味を確認する。


「今、何と呼ばれたいか?」


「そうや」


「サクで」


「K.K.は」


「記録の話をする時だけ」


「お前を呼ぶ時は」


「使わないでください」


「分かった」


***


 午後。


 ユイは、黒い記録板の写しを見ていた。


 七人の名前。


 その横へ、朔が持ってきたK.K.の原記録の写しは置かない。


 別の机。


「K.K.は、サクじゃなかった?」


「そうとは決まりません」


「サクだった?」


「それも、決まりません」


「何だった?」


「ネラさんが、壁に見た二つの文字か記号です」


「名前じゃない?」


「名前かもしれません」


「誰も呼ばなかった?」


「はい」


「だから、返事がない?」


「返事がなかったとは分かりません」


「呼ばなかったから?」


「はい」


***


 ユイは考える。


「Y.I.も、誰も呼ばなかった?」


「最初は、表示として記録されています」


「名前って決めた?」


「後から、ユイさんと関係する可能性を考えました」


「私がユイって言ったから?」


「それもあります」


「Y.I.って呼ばれたら」


「どうしますか」


 ユイは、白い髪へ触れる。


「今は、返事しない」


「なぜ?」


「私の名前か分からないから」


「はい」


「でも、誰も呼ばなかったら、ずっと分からない?」


 朔は答えられない。


***


「呼ぶことが必要な時もあると思います」


「じゃあ呼ぶ?」


「本人へ聞ける場所なら」


「K.K.に?」


「誰がK.K.なのか、まだ分かりません」


「空の部屋に呼ぶ?」


「それをするか、先に考えます」


「怖い?」


「はい」


「返事が来るのが?」


「来ないことも」


 呼んでも答えない。


 呼ばなかったから答えない。


 呼ばれた名前が本人のものではない。


 答えたものが本人ではない。


 どれも。


 まだ分からない。


***


 夕方。


 セオが、新しい索引を作った。


 短くする必要がある。


 だが、以前と同じ一行にはしない。


 K.K.様表示/旧観測室/十二年前。原記録では壁面表示欄。身体確認できず。呼名未実施。対象符号化は三年後の転記時。詳細参照。


「長い」


 グラドが言った。


「はい」


「索引として使いにくい」


「それでも、応答なしとは書きません」


「対象名も?」


「書きません」


「検索語はK.K.?」


「はい」


「対象ではなく?」


「見つけるための語です」


***


 原記録。


 転記。


 索引。


 新しい注記。


 四つは、同じ出来事を別の形で持つ。


 どれか一つを正しい紙にして。


 ほかを消さない。


 原記録だけでは、後にどう使われたか分からない。


 転記だけでは、問いの印が見えない。


 索引だけでは、誰も呼ばなかったことが消える。


 注記だけでは、当時の迷いそのものにならない。


***


 夜。


 朔は治療室で、自分の紙へ一行を加えた。


 K.K.は、十二年前の原記録では、壁に見えた二文字様表示だった。


 次。


 対象者名ではなかった。


 少し考え。


 書き足す。


 対象者名ではないと確認されたのでもない。


***


 さらに。


 呼名は実施されていない。


 その下。


 応答がなかったとは確認されていない。


 空欄を。


 答えへ変えないための言葉。


***


 K.K.。


 問いの印があった。


 三年後。


 印は消えた。


 悪意で消されたのではない。


 新しい紙へ置く場所がなかった。


 残すために選ばれた欄が。


 後から、意味を変えた。


***


 黒川朔。


 サク。


 K.K.


 三つを並べれば。


 一人の過去と現在と符号に見える。


 だが。


 今、その文を作る者は朔だった。


 十二年前の壁ではない。


 ネラでも。


 アデルでも。


 K.K.自身でもない。


***


 似た白い文字。


 似た空欄。


 名前に近い符号。


 それらが、朔へ向かっているように見える。


 だからこそ。


 同じ人で埋めない。


***


 十二年前。


 誰も、まだ呼ばなかった。


 昨日。


 朔は呼ばれた名前を、すぐには選ばなかった。


 二つの空欄は。


 どちらも名前に関係している。


 だが、同じ空欄ではなかった。


***


 K.K.が朔である可能性は残った。


 朔ではない可能性も。


 名前ではない可能性も。


 誰かの名前だった可能性も。


 そのどれも。


 一つの問いの印の中へ戻された。


***


 朔は紙を閉じる。


 答えを減らしたわけではない。


 むしろ、増えた。


 それでも。


 壁に見えた二文字を。


 呼びかけに答えなかった一人へ戻さずに済んだ。


 K.K.の空欄を。


 黒川朔という、今ここにいる名前だけで埋めないまま。

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