第七章 眠っている名前 ② K.K.の空欄
ネラ・ヴォスが持ってきた記録は、一枚ではなかった。
十二年前の観測記録。
その翌日に作られた確認記録。
三年後、アデル・ロウが新しい書式へ移した転記。
さらに後。
塔内の事案を検索するために作られた索引。
同じ出来事について書かれた、四つの紙。
重ねれば、一つの記録に見える。
だが、最初から同じ形ではなかった。
***
「今日は、どこまで見ますか」
ネラが尋ねた。
旧記録補修室。
低い机。
窓から入る朝の光。
紙を乾かすための細い紐。
壁際には、綴じ直す前の紙束が、浅い箱へ分けて置かれている。
「十二年前の原記録と、その翌日の確認記録まで」
朔が答えた。
「転記は?」
「原記録を見た後で」
「索引は?」
「最後に」
「なぜ?」
「後の紙から読めば、最初からK.K.が対象者だったように見えるかもしれません」
ネラは頷いた。
「では、書かれた順に見ます」
***
参加したのは、朔。
ネラ。
セオ。
マレア。
グラド。
五人。
リオは、補修室の外にいる。
朔の名前を書いた紙を持っているからではない。
古い紙を扱う室内に、必要のない者を増やさないためだった。
「俺は、外で何をする」
リオが尋ねた。
「待っていてください」
「紙を持って?」
朔は少し考える。
「持っていてもらいたいです」
「K.K.と比べるためか」
「違います」
「なら」
リオは胸元を押さえる。
「ここにおる」
***
最初の記録は、薄い灰色の紙だった。
角が欠けている。
右端には水の跡。
上部には、当時の観測室番号。
今の番号とは違う。
その下。
観測日時。
担当者。
室内設備の状態。
最初に書かれていたのは、人の名前ではなかった。
第三区旧観測室。設備停止中。
「設備停止中」
朔が読む。
「使われていなかった?」
「正式には」
ネラが答える。
「ただ、扉は閉鎖されていませんでした」
「なぜ?」
「倉として使う予定がありました。中に残った机や壁板を確認していた時期です」
「観測をしていたのではない?」
「はい」
「では、この紙は」
「異常があったため、観測記録の書式を使いました」
起きたことに合う紙がなかった。
だから、近い書式を使った。
その選択が。
後の分類へ繋がっている。
***
室内設備。
動作確認なし。
床面。
異常なし。
壁面。
光の揺れ。
室内身体。
確認なし。
「身体確認なし」
グラドが言った。
「誰もいなかった?」
ネラは首を横に振る。
「見える範囲に、身体はありませんでした」
「隠れていた可能性」
「あります」
「では、空室とは」
「当時も、空室と断定していません」
紙には、
室内身体:確認できず。
とある。
なし、ではない。
確認できず。
朔は、指で文字を追わない。
紙から少し離れた位置で読む。
***
次の欄。
壁面表示。
そこに、K.K.があった。
ただし。
後の紙とは、同じではなかった。
K.K.に見える二文字様表示。
末尾。
小さな曲線。
問いの印。
「疑問符」
朔が言った。
「はい」
ネラが答える。
「後の記録には、ありませんでした」
セオが転記前の位置だけ確認する。
「原記録では、K.K.と確定していない」
「私にはそう見えた、と書きました」
「文字ですか」
「文字に見えました」
「読めた?」
「Kと同じ形が二つ」
「間の点は?」
ネラは紙へ顔を近づける。
「一つ目と二つ目の間に、小さな光の切れ目がありました」
「点として見えた?」
「そう記録しました」
「今も、そう覚えていますか」
ネラは少し黙る。
「紙を読まずに答えれば、二つの記号が並んでいたことを覚えています。間に点があったかは、この記録を何度も読んだ記憶と分けられません」
***
十二年前のネラが見たもの。
二つのKに近い形。
その間の切れ目。
文字だったか。
記号だったか。
表示だったか。
光が偶然そう見えたのか。
原記録には、決めずに残っている。
「K.K.という名前を見た、ではない」
朔が言った。
「はい」
「対象符号でも?」
「当時は、そう書いていません」
***
「ほかの人は?」
マレアが尋ねた。
同じ室内にいた者。
当時の設備確認担当。
名前は記録にある。
現在は王都を離れている。
ネラと同じ時間。
同じ部屋。
ただし、立っていた場所が違う。
ネラは、古い観測窓の近く。
もう一人は、入口側。
その者の欄。
壁面に光の変化を確認。文字または記号の形状は確認できず。
「K.K.を見たのは、ネラさんだけ」
朔が言った。
「はい」
「光を見たのは二人」
「はい」
「同じ光?」
「同じ壁面、近い時刻です」
「同じものを見た?」
「決まりません」
同じ場所にいた。
同じ時刻に近い。
だが。
一人は文字に近い形を見た。
もう一人は、光の揺れだけ。
***
「位置の違いは記録されていますか」
セオが尋ねた。
ネラは紙の裏を見る。
簡単な室内図。
机。
壁。
入口。
古い観測窓。
ネラの位置には、丸。
もう一人には、三角。
「私が描きました」
「翌日?」
「当日です」
「K.K.が見えた壁面」
「ここ」
正面の白い壁。
「もう一人からは、斜め?」
「はい」
「観測窓との位置関係」
「私の後ろです」
「窓に反射した可能性」
「当時も確認しました」
「結果は?」
ネラは次の欄を示す。
窓面、光源、廊下側反射。原因特定できず。
反射ではない、と書いていない。
反射であるとも。
***
呼名の欄。
実施せず。
「なぜ呼ばなかったんですか」
朔が尋ねた。
「何を呼べばよいか分からなかったからです」
「K.K.を?」
「人名か分かりませんでした」
「部屋の中へ、誰かいますか、と聞くことは」
「しませんでした」
「どうして?」
ネラは、十二年前の自分を思い出すように紙を見る。
「音を出すことで変化が起きる可能性を恐れました」
「手順にあった?」
「ありません」
「では」
「私が怖くて、呼ばなかった」
理由を、後の安全判断へ変えない。
***
「呼ばなかったことを、今はどう思いますか」
グラドが尋ねた。
「分かりません」
「呼んでいれば応答が」
「確認できた可能性はあります」
「本人の名前かも」
「あります」
「では、判断を誤った?」
「そうかもしれません」
「逆に、危険を避けた」
「そうかもしれません」
「どちらを記録しますか」
ネラは答える。
「当時、私は、文字か人名か判断できず、変化を恐れて呼名しなかった」
「評価は?」
「今の私が、当時の結果を知った後で付けますか」
グラドは黙る。
***
応答の欄。
空欄。
線も。
なし。
実施せず、とも書いていない。
「ここは、なぜ空いているんですか」
朔が尋ねる。
「呼名を実施しなかったので、書く内容がありませんでした」
「応答なしではない」
「はい」
「応答不能でも」
「はい」
「応答を確かめていない」
「そうです」
誰も、呼ばなかった。
だから。
答えがなかったとは書けない。
***
その下。
対象者名。
空欄。
対象符号。
空欄。
身体特徴。
空欄。
声。
空欄。
「K.K.は、対象者名の欄に入っていない」
朔が言った。
「はい」
「対象符号にも」
「はい」
「壁面表示にだけ」
「はい」
「では、最初の紙では、K.K.は人ではない」
ネラがすぐに止める。
「人ではない、とも書いていません」
「すみません」
「壁に見えたものです」
「人を示すかは」
「未確認です」
***
翌日の確認記録。
紙の色が違う。
書いた者も。
ネラではなく、当時の主任。
前日の原記録を参照し。
同じ室内を確認している。
設備停止。
身体なし。
壁面表示なし。
光の揺れなし。
声なし。
床面変化なし。
「翌日は、何も見えなかった」
朔が言う。
「はい」
「K.K.も」
「はい」
「呼名は?」
欄には、
対象不在のため実施せず。
とある。
「対象不在」
セオが読む。
「原記録では、身体を確認できず」
「意味が強くなっています」
ネラが言った。
「なぜ止めなかったんですか」
グラドが尋ねる。
「当時は、同じ意味だと思いました」
「今は?」
「違います」
***
確認できなかった。
いなかった。
似ている。
だが。
同じではない。
「主任は、部屋が空だったと判断した」
「はい」
「前日も空だったと?」
「そう読んだ可能性があります」
「悪意は?」
「ありません」
ネラは答えた。
「異常が続いていないことを確認し、部屋を閉鎖するための紙でした」
「では」
「短くする必要があったのだと思います」
「必要なら、意味が変わっても?」
ネラはすぐに答えない。
「当時の私は、変わったことに気づきませんでした」
***
翌日記録の見出し。
無人旧観測室における一時的光学異常。
「無人」
朔が言った。
「最初の原記録にはない言葉です」
「はい」
「光学異常」
「それも」
「文字様表示は?」
「本文の備考にあります」
見出しから消えている。
K.K.に見える二文字様表示。
備考の三行目。
検索をすれば。
見出ししか見ない者には届かない。
***
「この時点では、K.K.はまだ壁面表示」
セオが言う。
「対象符号にはなっていません」
「はい」
「では、三年後」
ネラが、三枚目の紙を出す。
***
新しい書式。
白い紙。
欄が整っている。
左上。
事案番号。
観測区画。
発生日。
対象符号。
そこに。
K.K.
とある。
問いの印はない。
壁面表示とも。
二文字様とも書かれていない。
「ここで、対象になった」
朔が言った。
「書式上は」
ネラが答える。
「アデル・ロウが?」
「はい」
***
アデルの筆跡。
細い。
整っている。
欄を空けない。
不明な場所には、不明と書く。
対象符号。
K.K.
対象種別。
分類不能。
身体確認。
なし。
応答。
なし。
「応答なし」
朔の声が止まる。
「原記録では、実施せずです」
「はい」
「これは」
ネラが紙の右端を示す。
小さな注記。
原記録上、呼名実施なし。応答記録なし。新形式に該当欄がないため、応答なしへ仮置き。
「理由は書いてある」
セオが言う。
「はい」
「隠してはいない」
「はい」
「でも、表だけなら」
「応答しなかった対象に見えます」
***
「なぜ、K.K.を対象符号へ入れたんですか」
朔が尋ねた。
「新形式では、何についての記録かを示す欄が必須でした」
「部屋では駄目?」
「観測区画は別欄にあります」
「光では?」
「対象符号は、検索に使うため、固有の記号が必要でした」
「K.K.が一番固有だった」
「そう考えたのだと思います」
「本人の名前だからではなく」
「はい」
検索できるように。
失わないために。
壁に見えた記号を。
対象へ移した。
***
「アデルは、分類不能と書いている」
グラドが言った。
「はい」
「仮置きとも」
「はい」
「なら、慎重です」
「慎重でした」
ネラが答える。
「それでも意味は変わりました」
「保存するための変化です」
「はい」
「では、必要な変化だった?」
「必要だった可能性があります」
「なら」
「必要だったことと、変わらなかったことは同じではありません」
***
原記録。
壁面にK.K.に見える表示。
問いの印。
対象者名は空欄。
呼名実施せず。
三年後。
対象符号K.K.
問いの印なし。
応答なし。
注記に、実施なし。
紙全体を読めば違いは残っている。
欄だけを見れば。
一人の対象がいて。
呼びかけに答えなかった記録になる。
***
「アデルさんは、原記録を読んでいましたか」
朔が尋ねる。
「はい」
ネラ。
「本人へ聞けますか」
「居場所が分かりません」
「退職後の記録は」
「三年前から途切れています」
「亡くなった?」
「確認されていません」
「では、今は」
「転記した本人の理由を、紙だけから全て決められません」
***
四枚目。
索引。
さらに簡潔だった。
K.K./旧観測室/身体なし/応答なし/再発なし。
それだけ。
問いの印。
なし。
ネラ一人の知覚。
なし。
もう一人は文字を見ていないこと。
なし。
呼名を実施していないこと。
なし。
アデルの仮置き。
なし。
「検索のための紙」
セオが言う。
「はい」
「これを入口に、詳しい記録へ行く」
「本来は」
「本来は?」
「索引だけが写され、原記録が別庫へ移った時期があります」
「では、索引だけ読んだ者も」
「いたと思います」
***
グラドは四枚を並べた。
「それでも、K.K.は共通しています」
「はい」
「十二年前の壁面表示」
「はい」
「朔さんが、白い表示として何度も見た符号」
「はい」
「朔さんは、旧搬入口で、自身の名を一時的に発話できなくなった」
「はい」
「十二年前のK.K.は、対象名が空欄」
「原記録では」
「似ています」
グラドは言った。
「黒川朔とK.K.が同じ対象である可能性は、高いのではありませんか」
***
「何が同じですか」
ネラが尋ねた。
「白い文字」
「朔さんの表示は、旧搬入口。十二年前は旧観測室」
「塔に関係する場所」
「範囲が広いです」
「K.K.という符号」
「朔さんの表示にK.K.が現れています」
「はい」
「身体が確認できない」
「朔さんの身体は、確認できます」
「現実側の身体が別にある可能性」
部屋が静かになる。
朔は、自分の子どもの手を見る。
***
「それは、まだ朔さんが見ていない情報です」
マレアが言った。
「白い部屋の断片は」
「身体の存在を確認していません」
「朔さん自身が、元の世界から来たと」
「本人の記憶です」
「では、無関係とは」
「言っていません」
ネラが答える。
「同じだと決める材料が足りないと言っています」
***
「十二年前という時期は、矛盾します」
セオが言う。
「朔さんがこちらへ来たのは、本人の認識では最近です」
「道の時間が同じとは確認されていません」
グラド。
「では、矛盾ではない」
「矛盾でない可能性があることは、同一の証拠ではありません」
ネラが止める。
「時期が合わなくても説明できる。場所が違っても説明できる。身体がなくても説明できる。知覚者が一人でも説明できる」
「はい」
「説明できるものを全部同じ人へ入れれば、空欄はすぐ埋まります」
***
「ですが、仮説は必要です」
グラドが言った。
「必要です」
「なら」
「仮説として書いてください」
「K.K.=黒川朔の可能性」
「等号を使わないでください」
「同一可能性」
「何を根拠に?」
「白色文字様知覚。K.K.符号。自己名の一時的不安定」
「十二年前のK.K.に、自己名の不安定は確認されていません」
「対象名が空欄」
「名前を言えなかったのではありません」
「呼んでいないから」
「はい」
***
ネラは、四枚のうち最初の紙を持ち上げる。
「ここには、名前が答えられなかった者はいません」
「身体がいない」
「身体を確認できなかった」
「同じでは?」
「違います」
ネラの声は強くない。
「朔さんは、名前を尋ねられ、答えられなかった」
「はい」
「十二年前は、誰も尋ねていない」
「はい」
「答えられなかった空欄と、尋ねなかった空欄を、同じ人で埋めないでください」
***
グラドは黙る。
机の上。
空欄が二つある。
一つ。
対象者名。
誰も分からず。
一つ。
応答。
誰も呼ばず。
空白の形は似ている。
理由は違う。
***
朔が尋ねる。
「では、仮説をどう残しますか」
ネラは紙を置く。
「まず、K.K.が何だったかを分けます」
一。
ネラが壁面に見た二文字様の光。
二。
三年後、アデルが新形式へ移す際に作った対象符号。
三。
後の索引で、対象そのものとして読まれたK.K.
「同じ文字です」
グラド。
「役割が違います」
ネラ。
「では、朔さんが見たK.K.は?」
「朔さんの白色文字様知覚」
「同じ字」
「はい」
「関係は?」
「未確認」
***
セオが、新しい紙へ見出しを書く。
K.K.記録における記号位置の変化。
原記録。
壁面表示欄。
K.K.に見える。
問いの印あり。
対象者名、対象符号は空欄。
呼名実施せず。
三年後転記。
対象符号欄。
K.K.
問いの印なし。
応答なしへ仮置き。
注記に呼名未実施。
索引。
K.K.を事案名称および対象名に近い形で使用。
***
「これで、意味の変化を追えます」
セオが言う。
「誰かが誤魔化したわけではない」
ネラ。
「はい」
「一枚ずつでは、理由がある」
「はい」
「重なると?」
朔が答える。
「壁の文字が、呼びかけに答えなかった対象になります」
***
「現在の仮説」
グラドが言う。
「K.K.は、朔さんと関係する可能性がある」
「はい」
朔。
「同一人物である可能性」
「あります」
「朔さんとは別の対象である可能性」
「あります」
「符号が複数の対象に使われている可能性」
「あります」
「人ではない可能性」
「あります」
「朔さんの記憶が、知っているK.K.を過去の紙と結びつけている可能性」
「あります」
「では、何も絞れない」
マレアが答える。
「絞れたことがあります」
***
「何ですか」
「原記録のK.K.は、本人が名乗った名前ではない」
「はい」
「誰かが呼んで確認した名前でもない」
「はい」
「身体へ付けられた符号でもなかった」
「当初は」
「はい」
「それだけ?」
「重要です」
朔が言った。
「俺がK.K.と関係していても。K.K.と呼ばれることへ、俺が同意した記録はない」
***
グラドは、朔を見る。
「符号に本人の同意が必要ですか」
「記録上の検索符号には、必ずしも」
「では」
「検索のための符号と、本人の名前を分けてください」
「K.K.が本人の本来名である可能性」
「あります」
「なら」
「本人に聞けていません」
「朔さんへ聞く」
「俺は、K.K.を自分の名前として選んでいません」
「知らないから?」
「それもあります」
「今後、選ぶ可能性」
「分かりません」
***
「今、K.K.と呼んでいいですか」
グラドが尋ねた。
朔はすぐに答える。
「いいえ」
「なぜ?」
「俺が使う名前だと決めていないからです」
「記録上の対象として」
「記録を読む時は、K.K.について話せます」
「朔さんを指して?」
「それは、まだしないでください」
***
ネラは、原記録の問いの印を写す。
小さい。
薄い。
後の紙から消えた線。
「問いの印を戻しますか」
セオが尋ねる。
「転記を書き換える?」
「いいえ」
ネラ。
「アデルが作った紙は、そのまま残します」
「では」
「注記を加えます」
原記録では、K.K.は壁面に見えた二文字様表示として記載され、問いの印を伴う。対象名および対象符号としての記載ではない。
「応答なしも」
朔が言う。
「はい」
原記録上、呼名は実施されていない。応答の有無は確認されていない。
***
「アデルさんの判断を、誤りとしますか」
グラドが尋ねた。
「しません」
ネラが答える。
「では、なぜ注記を?」
「今の書式だけでは、原記録との違いを失うからです」
「判断を否定せず、意味を戻す?」
「意味を一つにしないためです」
***
昼前。
五人は、最初の紙をもう一度見る。
設備停止中。
身体確認できず。
壁面。
K.K.に見える二文字様表示。
問いの印。
もう一人は、光の変化のみ。
呼名。
実施せず。
応答。
空欄。
対象者名。
空欄。
***
「K.K.が、誰かの名前だった可能性は残ります」
朔が言う。
「はい」
ネラ。
「対象符号だった可能性も」
「はい」
「場所や状態を示した可能性」
「あります」
「俺に関係する可能性」
「あります」
「俺そのもの」
「まだ、決まりません」
***
「いつなら決まりますか」
グラドが尋ねる。
ネラは答えない。
朔も。
K.K.と名乗る者が現れれば。
それだけで本人とは限らない。
身体が見つかれば。
符号と身体の関係は別に確かめる必要がある。
朔の白い表示に意味が増えれば。
それが外の事実とは限らない。
「決まらない可能性もあります」
朔が答えた。
「それでも調べる?」
「はい」
「なぜ?」
「決めるためだけではありません」
「では」
「どこで意味が変わったかを知るためです」
***
補修室を出る。
リオは廊下の長椅子に座っていた。
目を閉じている。
眠ってはいない。
「終わったか」
「今日は」
「何が分かった」
「最初の記録では、K.K.は名前でも対象符号でもありませんでした」
「何やった」
「壁にそう見えた文字か記号です」
「誰が見た」
「ネラさん」
「ほかは」
「光だけ」
「呼んだか」
「呼んでいません」
「答えたか」
「確認していません」
***
「ほな、応答なしは何や」
「三年後の書式で、入れる欄がなくて仮に置かれました」
「誰が」
「アデル・ロウさん」
「悪い奴か」
「そうは思いません」
「なら」
「残すために形を変えた。その形が、後で対象そのものに見えるようになりました」
リオは胸元へ手を入れない。
「お前も、K.K.にされたか」
「まだ」
「されそうか」
「可能性はあります」
「自分で使うか」
「今は使いません」
「ほな、俺も呼ばん」
***
「問いの印がありました」
朔が言う。
「後で消えた?」
「転記にはありません」
「戻すんか」
「元の転記を変えず、原記録では問いだったと注記します」
「同じ場所へ書き足さん?」
「はい」
「何で」
「アデルさんが作った記録も、起きたことだからです」
「間違いにして消さん」
「はい」
「でも、最初から答えやったことにもしない」
「はい」
***
リオは立ち上がる。
「昼、食うか」
「はい」
「名前は」
朔は、問いの意味を確認する。
「今、何と呼ばれたいか?」
「そうや」
「サクで」
「K.K.は」
「記録の話をする時だけ」
「お前を呼ぶ時は」
「使わないでください」
「分かった」
***
午後。
ユイは、黒い記録板の写しを見ていた。
七人の名前。
その横へ、朔が持ってきたK.K.の原記録の写しは置かない。
別の机。
「K.K.は、サクじゃなかった?」
「そうとは決まりません」
「サクだった?」
「それも、決まりません」
「何だった?」
「ネラさんが、壁に見た二つの文字か記号です」
「名前じゃない?」
「名前かもしれません」
「誰も呼ばなかった?」
「はい」
「だから、返事がない?」
「返事がなかったとは分かりません」
「呼ばなかったから?」
「はい」
***
ユイは考える。
「Y.I.も、誰も呼ばなかった?」
「最初は、表示として記録されています」
「名前って決めた?」
「後から、ユイさんと関係する可能性を考えました」
「私がユイって言ったから?」
「それもあります」
「Y.I.って呼ばれたら」
「どうしますか」
ユイは、白い髪へ触れる。
「今は、返事しない」
「なぜ?」
「私の名前か分からないから」
「はい」
「でも、誰も呼ばなかったら、ずっと分からない?」
朔は答えられない。
***
「呼ぶことが必要な時もあると思います」
「じゃあ呼ぶ?」
「本人へ聞ける場所なら」
「K.K.に?」
「誰がK.K.なのか、まだ分かりません」
「空の部屋に呼ぶ?」
「それをするか、先に考えます」
「怖い?」
「はい」
「返事が来るのが?」
「来ないことも」
呼んでも答えない。
呼ばなかったから答えない。
呼ばれた名前が本人のものではない。
答えたものが本人ではない。
どれも。
まだ分からない。
***
夕方。
セオが、新しい索引を作った。
短くする必要がある。
だが、以前と同じ一行にはしない。
K.K.様表示/旧観測室/十二年前。原記録では壁面表示欄。身体確認できず。呼名未実施。対象符号化は三年後の転記時。詳細参照。
「長い」
グラドが言った。
「はい」
「索引として使いにくい」
「それでも、応答なしとは書きません」
「対象名も?」
「書きません」
「検索語はK.K.?」
「はい」
「対象ではなく?」
「見つけるための語です」
***
原記録。
転記。
索引。
新しい注記。
四つは、同じ出来事を別の形で持つ。
どれか一つを正しい紙にして。
ほかを消さない。
原記録だけでは、後にどう使われたか分からない。
転記だけでは、問いの印が見えない。
索引だけでは、誰も呼ばなかったことが消える。
注記だけでは、当時の迷いそのものにならない。
***
夜。
朔は治療室で、自分の紙へ一行を加えた。
K.K.は、十二年前の原記録では、壁に見えた二文字様表示だった。
次。
対象者名ではなかった。
少し考え。
書き足す。
対象者名ではないと確認されたのでもない。
***
さらに。
呼名は実施されていない。
その下。
応答がなかったとは確認されていない。
空欄を。
答えへ変えないための言葉。
***
K.K.。
問いの印があった。
三年後。
印は消えた。
悪意で消されたのではない。
新しい紙へ置く場所がなかった。
残すために選ばれた欄が。
後から、意味を変えた。
***
黒川朔。
サク。
K.K.
三つを並べれば。
一人の過去と現在と符号に見える。
だが。
今、その文を作る者は朔だった。
十二年前の壁ではない。
ネラでも。
アデルでも。
K.K.自身でもない。
***
似た白い文字。
似た空欄。
名前に近い符号。
それらが、朔へ向かっているように見える。
だからこそ。
同じ人で埋めない。
***
十二年前。
誰も、まだ呼ばなかった。
昨日。
朔は呼ばれた名前を、すぐには選ばなかった。
二つの空欄は。
どちらも名前に関係している。
だが、同じ空欄ではなかった。
***
K.K.が朔である可能性は残った。
朔ではない可能性も。
名前ではない可能性も。
誰かの名前だった可能性も。
そのどれも。
一つの問いの印の中へ戻された。
***
朔は紙を閉じる。
答えを減らしたわけではない。
むしろ、増えた。
それでも。
壁に見えた二文字を。
呼びかけに答えなかった一人へ戻さずに済んだ。
K.K.の空欄を。
黒川朔という、今ここにいる名前だけで埋めないまま。




