第七章 眠っている名前 ① 名前を言えた朝
朝、目を覚ました時。
朔は、最初に自分の名前を言わなかった。
天井を見る。
白い。
一瞬だけ、壁との境が消えたように見えた。
昨日の夜と同じだった。
白い部屋。
横たわる身体。
まだ見たことのない、自分かもしれないもの。
朔は目を閉じた。
紙の匂い。
市場から聞こえる荷車の軸。
窓の隙間を通る朝の冷気。
隣の椅子。
リオが、胸元に手を置いたまま眠っている。
「治療室」
朔は声に出した。
言葉は出る。
「旧紙市場の近く」
場所も。
「朝」
時刻は、窓の明るさからの判断だった。
正確ではない。
それでも、夜ではない。
***
自分の右手を見る。
子どもの手。
指を一本ずつ動かす。
痛みなし。
震えなし。
服の内側。
青い布。
結び目は昨夜と同じ位置にある。
リオの胸元には、名前を書いた紙。
ミナトの短刀。
その二つも、見えるわけではない。
だが、そこにあると朔は知っている。
知っていることと。
今、確認したことは違う。
***
「黒川朔」
言葉は出た。
昨日の夜と同じ。
喉に引っかからない。
「サク」
こちらも。
どちらも、誰かに先に言われていない。
紙も見ていない。
目を覚ました今の朔が、自分で発した。
だからといって。
完全に戻ったとは言わなかった。
***
椅子が軋む。
リオが目を開けた。
「起きたか」
「はい」
「どこや」
「治療室です」
「気分」
「頭痛はありません。吐き気も」
「名前は」
リオは、そこで止まる。
「聞いていいですか」
朔が尋ねた。
「何を」
「今、何と呼ばれたいか」
「それ、俺が聞く方ちゃうんか」
「自分で確かめたいです」
リオは椅子へ座り直した。
「言えるんか」
「はい」
「ほな」
朔は答える。
「今は、サクと呼んでください」
「黒川朔は」
「俺が使う名前です」
「昨日の紙を見たからか」
「違います」
「夜に俺が言うたから」
「それだけとも決めません」
「なら」
リオは胸元へ手を入れない。
「聞いた」
***
「紙を見ますか」
「今は、見ません」
「何で」
「言えたから、すぐ一致を確認したくなっています」
「一致したら安心するか」
「たぶん」
「一致せんかったら」
「怖くなると思います」
「どっちにしても、紙に引っ張られとるな」
「はい」
「なら、飯の後や」
リオは立ち上がる。
紙を出さない。
言えた名前を。
すぐ、書かれた名前へ合わせなかった。
***
トエが朝の身体確認に来た。
昨日の記録を先に読まない。
机の端へ伏せて置く。
「眠れましたか」
「途中で一度起きました」
「その時、場所は分かりましたか」
「最初、白い部屋に見えました」
「どれくらい」
「一瞬です」
「その後」
「窓の灯り。紙の匂い。荷車の音。リオさんを確認しました」
「白い文字」
「見ていません」
「声」
「ありません」
「頭痛」
「今はありません」
「吐き気」
「ありません」
「手」
朔は両手を上げる。
指。
左右。
動く。
「歩けますか」
「はい」
「名前について聞いていいですか」
「はい」
***
「今、何と呼ばれたいですか」
「サクで」
「ほかに、あなたが使う名前はありますか」
「黒川朔」
「どちらが本当ですか」
扉の近くで、グラドが尋ねた。
トエは振り返る。
「質問を変えないでください」
「本人は答えられる状態です」
「だから、こちらが聞きたい問いへ変えていいとは限りません」
グラドは黙る。
トエが改めて朔を見る。
「二つとも、今のあなたが使いますか」
「はい」
「呼ばれたい方は」
「今は、サクです」
「黒川朔と呼ばれたくない?」
朔は考える。
「呼ばれても、自分の名前だとは思います」
「では、なぜサクを」
「ここで、今、一番多く使っています」
「昨日言えなかったことは?」
「消えません」
「今言えることは?」
「今朝は言えた、と残してください」
***
トエは記録する。
朝の身体確認時、本人は「サク」を現在呼ばれたい名として選択。「黒川朔」についても、自身が使用する名であると発話。前夜の一時的自己名発話困難について、本人は継続して記録することを希望。
「回復とは?」
グラドが尋ねる。
「書きません」
「現在は言える」
「はい」
「なら、症状は消失」
マレアが扉から入ってくる。
「症状が現時点で確認されないことと、経過が終わったことは別です」
「では、いつ終わる」
「決められる材料がありません」
「名前を言えるか、定期的に確認する?」
「必要な範囲で」
「毎朝?」
「回数が増えれば、それ自体が負担になります」
「重要な機能です」
朔が言った。
「名前を、検査の答えにしないでください」
***
グラドは朔を見る。
「昨日、答えられなかった」
「はい」
「今日は答えられる」
「はい」
「変化を確認するには、同じ質問が必要です」
「身体の状態として確認することは必要だと思います」
「では」
「正しい名前を答えられるか、にはしないでください」
「違いは?」
「今、何と呼ばれたいかを聞くことと。登録された答えを言えるか試すことは違います」
「本人が別の名前を答えた場合は?」
「今の本人が選んだ答えとして残してください」
「通路の影響で変わった可能性」
「あります」
「なら、以前の名前が正しいのでは」
朔は首を横に振る。
「以前の俺を、今の俺への採点表にしないでください」
***
朝食は、薄い粥だった。
塩。
細く切った根菜。
少しだけ油。
治療室で食べる。
リオは向かいに座っている。
「味は」
トエが尋ねる。
「薄いです」
「昨日と比べて?」
「昨日の朝は食べていません」
「匂い」
「根菜。油。少し紙」
「紙?」
朔は器から顔を上げる。
「市場の匂いが混じっていると思います」
「粥に紙が入っている?」
「そうは思いません」
匂いも。
感じたものと、原因を分ける。
***
粥を半分ほど食べたところで、ユイが来た。
白い髪。
両手に、小さな木の椀。
「朝の薬」
トエへ渡す。
「運んできたの?」
「ここまで」
「誰と」
扉の外に、イナがいる。
「一人じゃない」
「はい」
ユイは朔を見る。
「名前、言える?」
「今は」
「何て?」
「サク」
「ほかは?」
「黒川朔」
「二つ、一緒に戻った?」
朔の手が、粥の匙の上で止まる。
***
「一緒に戻ったかは分かりません」
「朝は、二つ言えた?」
「はい」
「夜は?」
「最初はサクだけ。後で、紙を見て黒川朔も言えました」
「じゃあ、サクが先?」
「言えた順番は」
「戻った順番?」
「そうとは決まりません」
ユイは椅子を見た。
座ってよいか、トエへ目で尋ねる。
トエが頷く。
***
「サクは、リオが言った」
「はい」
「黒川朔は、紙を見た」
「はい」
「じゃあ、リオがサクを持ってて、紙が黒川朔を持ってた?」
「そうは思いません」
「どうして?」
「リオさんは、ツヅリでそう呼んでいた事実を話しました。紙には、俺が書いた名前がありました」
「名前は?」
「俺が、使うと決めました」
「二つとも?」
「今は」
ユイは少し考える。
「一つずつ、違うところで待ってたかもしれない?」
朔はすぐには否定しなかった。
「そう感じることはできます」
「本当は?」
「分かりません」
***
「じゃあ」
ユイは自分の胸へ手を置く。
「ユイと、Y.I.も?」
治療室が静かになる。
Y.I.
白い表示。
ユイに関係する可能性がある符号。
まだ、本人の名前とは決めていない。
「Y.I.は、ユイさんと関係する可能性があります」
朔が答える。
「ユイじゃない?」
「分かりません」
「ユイだけでもない?」
「それも、分かりません」
「じゃあ、二つ言えたら?」
「二つともユイさんが使うとは限りません」
「サクは使う」
「俺は、今そう選んでいます」
「私も選ぶ?」
「選びたい時に」
「今は」
ユイは答える。
「ユイ」
「はい」
***
ユイは粥の器を見る。
「名前が言えなくても、食べられた?」
「はい」
「歩けた?」
「はい」
「人も分かった?」
「はい」
「じゃあ、名前だけ寝てた?」
朔は、匙を置く。
「そう見えることはあります」
「本当は?」
「分かりません」
「名前も眠る?」
白い部屋。
横たわる身体。
K.K.
まだ起こすな。
朔は、まだ見ていない言葉まで想像しそうになる。
「眠っている、と決めるには早いです」
「でも、起きた朝に言えた」
「はい」
「朝が起こした?」
「分かりません」
ユイは頷く。
「分からない朝だね」
「はい」
***
食後。
管理局の小会議室には、十人も集まらなかった。
イサラ。
マレア。
トエ。
セオ。
ネラ。
グラド。
アナ。
リオ。
朔。
それから、通路管理担当者が一人。
黒い道へ入る計画を立てるためではない。
昨日の一時的自己名発話困難を受けて、朔の行動範囲を決めるためだった。
***
最初に出された案は、
旧搬入口および旧観測区画への立入停止。期間未定。
だった。
「旧観測区画も?」
朔が尋ねる。
「白い表示との関連が疑われます」
グラドが答える。
「まだ入っていません」
「だからです」
「何が?」
「未知の影響がある場所へ、症状を起こした者を近づけない」
「旧搬入口は分かります」
「観測区画は?」
「同じ白い現象が起きる可能性があります」
「可能性はあります」
「なら」
ネラが紙を見る。
「この案では、旧観測区画が影響源であるように読めます」
「予防です」
「関係が未確認の場所を、同じ危険として一枚にまとめないでください」
***
「分けても、停止には変わらない」
グラドが言う。
「理由が変わります」
ネラ。
「旧搬入口については、実際に白い表示と一時的自己名発話困難を確認した」
「はい」
「旧観測区画は、十二年前のK.K.記録との類似が疑われるだけ」
「その類似を調べる必要がある」
「本人を入れずに、先に確認できることがあります」
「記録だけ?」
「構造。過去の使用状況。閉鎖理由。観測位置。立ち会った者の証言」
最初から、朔を対象にしない。
***
「私は、旧搬入口への参加停止に同意します」
朔が言った。
全員が朔を見る。
「期間は?」
イサラが尋ねる。
「身体と記録を確認するまで」
「何をもって確認したと?」
「頭痛や吐き気が再発しないこと。名前以外の言葉や記憶に変化がないか。自分が通路へ行きたい理由が、答えを急ぐことだけになっていないか」
「誰が判断する?」
「俺一人では決めません」
「管理局が?」
「それも違います」
「では」
「身体はマレアさんとトエさん。通路の条件はイサラさんたち。俺が何を望んでいるかは、俺が話します」
「一人でも反対した場合」
「その時に理由を分けます」
多数決にはしない。
だが、朔一人の希望にも。
***
「旧観測区画は?」
イサラが尋ねる。
「先に記録を見たいです」
「本人が入らず?」
「はい」
「その後、入りたい?」
「今は分かりません」
「K.K.との関係を調べたいとは」
「思います」
「症状が起きても?」
「怖いです」
「それでも?」
「怖いから、行くとも。怖いから、行かないとも決めません」
***
グラドが、別の紙を出す。
見出し。
自己名不安定者に対する調査参加制限。
「使わないでください」
朔が言った。
「今回だけの紙ではありません」
「同様の状態が起きた者へ」
「はい」
「名前を言えない者は、判断も不安定だと?」
「可能性があります」
「俺は昨日、名前以外の人や場所、行動を答えられました」
「一部の機能が損なわれた」
「はい」
「ほかも損なわれている可能性」
「あります」
「なら、制限は合理的です」
マレアが紙を取る。
「症状に応じた一時的な安全制限は必要です」
「では」
「人の分類にしないでください」
***
「違いは?」
グラドが尋ねる。
「自己名を言えなかった状態と、その人全体を一つの名で呼ぶことの違いです」
「検索のためです」
「検索語は付けられます」
セオが答えた。
「一時的自己名発話困難」
「長い」
「短くした結果、『自己名不安定者』になるなら長いままにします」
「参加制限は?」
「症状別の判断表へ入れる」
マレアが言った。
発熱。
歩行困難。
視覚異常。
呼吸異常。
位置認識の困難。
自己名発話困難。
それぞれ。
必要な確認と、一時的に避ける行動が違う。
「名前だけ特別扱いしない?」
「軽視もしません」
「では」
「言えないことを、人物の種類にしません」
***
通路管理担当者が尋ねる。
「本人が、自分の名を言えない状態で、進むか戻るかを決められるでしょうか」
朔は答える。
「昨日は、通路を出た後でした」
「中で起きる可能性」
「あります」
「その場合」
「名前以外の確認方法を使います」
「本人性が分からないのに?」
「誰の身体を連れて戻るか、分からなくなるという意味ですか」
「別の存在へ変わっている可能性も」
部屋の空気が止まる。
***
朔は、自分の手を見る。
「名前を言えない俺を、置いて戻りますか」
「そういう意味では」
「別の存在かもしれないから?」
「本人かを確認できない場合は」
リオが低い声で言う。
「名前が言えん子どもを、道に置いて帰るんか」
「危険な変化があれば」
「身体は同じ場所におる」
「身体だけでは」
「ほな、何があったら連れて帰る」
担当者は答えられない。
***
イサラが割って入る。
「問いを分けます」
声は大きくない。
「帰還中、参加者が自分の名前を言えなくなった場合」
一。
身体を連れて戻る。
二。
現在の位置、同行者、目的、痛み、視覚、音声への反応を確認する。
三。
本人性の判定を通路内で行わない。
四。
帰還後に治療と確認を行う。
「本人性を確認できなくても?」
担当者が尋ねる。
「名前を言えないことだけを理由に、その身体を置きません」
「危険行動があれば?」
「危険行動への対応をします」
「名前とは別に?」
「はい」
***
エリオは会議の後半から入った。
倉外の役目を終えてから来た。
紙を読み、朔を見る。
「名前が言えるようになったなら、通路へ戻れるのではありませんか」
「すぐには戻りません」
「なぜ?」
「言えたことが、安全の証明にはならないからです」
「では、言えなかったことは危険の証明?」
「それだけではありません」
「同じに聞こえます」
「逆です」
朔は答えた。
「名前を言えたから安全、ともしない。言えないから人ではない、ともしない」
***
「私は、勇者候補を外しても、他人から勇者と呼ばれました」
エリオが言う。
「はい」
「自分が違うと言えても」
「はい」
「では、名前を言えることは、他人の分類を止めない」
「止めません」
「言えなければ、さらに他人が決める」
「その危険があります」
エリオは、自己名不安定者という見出しを見る。
「これは、言えない間に付けられる新しい名ですか」
グラドは答えない。
「使用停止にしてください」
エリオが言った。
「代案は長い」
「長くても、本人が言えなかった名前の代わりに、こちらの名前を付けるよりはいい」
***
紙には赤い線が引かれた。
消さない。
見出し。
提案者。
使用しない理由。
残す。
自己名を一時的に発話できない状態を、人物の恒常的分類として扱うため。調査参加の可否、判断能力、本人性を一括して決定する危険がある。
代わりに。
既存の身体確認手順へ、症状の一つとして追記する。
***
休養期間も、一律の日数にはしなかった。
少なくとも、その日は旧搬入口へ入らない。
翌日も、通路調査は行わない。
三日後に自動的に参加資格が戻るわけでもない。
毎日、名前を試験しない。
頭痛。
吐き気。
視覚。
睡眠。
場所や人の認識。
行動の連続性。
必要な範囲で確認する。
「創作や市場へ出ることは?」
グラドが尋ねる。
「創作?」
「記録文作成など、集中を要する作業です」
朔は答える。
「自分で疲労を確認しながら」
「外出」
「一人では、まだ遠くへ行きません」
「管理局の許可が必要?」
「必要とは思いません」
「症状が再発した場合」
「同行者に伝えます」
休むことと。
管理されることを同じにしない。
***
会議が終わった後。
朔は、ネラに呼び止められた。
彼女は古い紙束を抱えている。
「昨日のことを聞いて、思い出した記録があります」
「K.K.ですか」
「はい」
「同じ症状?」
「分かりません」
「では」
「似た空欄があります」
***
ネラは一枚だけ机へ置いた。
十二年前。
旧観測室。
設備停止中。
室内に身体確認なし。
一名が、K.K.に近い表示または記号を見た。
別の一名は、光の揺れのみ。
呼名。
応答。
その欄。
実施せず。
「応答なし、ではない」
朔が言った。
「はい」
「名前を呼ばなかった?」
「記録上は」
「なぜ?」
「表示が人名か分からなかったからだと、当時の私は書きました」
「ネラさんが?」
「はい」
「K.K.を見たのも」
「私です」
***
「身体は?」
「見ていません」
「声」
「聞いていません」
「人影」
「確認していません」
「では、俺とは」
「白い文字様の知覚が一人だけだったこと。名前に近いものがあったこと。その程度です」
「似ています」
「はい」
「同じですか」
「いいえ」
ネラはすぐに答えた。
「十二年前です」
「俺がこの世界へ来る前」
「そう聞いています」
「なら、K.K.は俺ではない?」
「そうとも決まりません」
「なぜ?」
「時期の意味が分からないからです」
***
朔は古い紙を見る。
K.K.
黒川朔。
頭文字なら。
近い。
同じ。
そう思いたくなる。
だが。
十二年前。
空の観測室。
身体なし。
声なし。
呼名実施せず。
似た空欄。
それだけだった。
「詳しく見たいです」
「今日は?」
ネラが尋ねる。
朔は自分の頭を見ることはできない。
だが、痛みはない。
吐き気も。
それでも、朝から多くの問いを受けた。
「今日は、この一枚だけにします」
「なぜ?」
「続きを読めるからです」
「読めるなら?」
「止める理由にもなります」
ネラは頷く。
紙束を閉じた。
***
午後。
朔は旧紙市場へ出た。
一人ではない。
リオが隣を歩く。
監視ではない。
同行。
ミエルの店では、帳面紙が売られている。
色紙は午後から。
昨日までと同じ。
完全に同じかは分からない。
紙束の位置が変わっている。
棚の脚も新しい。
「顔色は」
ミエルが尋ねる。
「悪くないと思います」
「名前は」
「今は、サクです」
「聞いていいか確認せんでよかった?」
ミエルが自分で気づく。
「すみません」
「今は大丈夫です」
「次も?」
「毎回、大丈夫とは限りません」
「面倒だね」
「はい」
「でも、聞くよ」
***
ミウが紙束を運んでくる。
「これ、どこへ置く?」
元の棚ではない。
新しい脚の棚。
「今日は、ここ」
ミエルが指す。
「昨日と違う」
「棚が変わった」
「元へ戻す?」
「戻さない」
ミウは紙束を置く。
「今は、ここって決めた」
朔は、その言葉を聞く。
自分の名前も。
以前と同じ場所へ戻ったから使えるのではない。
今、使うと決めている。
それだけで、過去との繋がりが消えるわけでもない。
***
店先で、ロウが待っていた。
「名前、戻った?」
「今は言えます」
「二つとも?」
「はい」
「じゃあ、どっちが先に起きた?」
「分かりません」
「朝は二つ言えたんでしょ」
「はい」
「なら、一緒」
「同じ時に言えたことは確認しました」
「一緒に戻ったとは?」
「決まりません」
「面倒」
「はい」
ロウは地面へ二つ書く。
黒川朔。
サク。
「今、どっち」
「サクと呼ばれたいです」
「じゃあ、黒川朔は寝てる?」
朔は、K.K.の紙を思い出す。
「寝ているとは決めません」
「起きてる?」
「俺は言えます」
「じゃあ起きてるじゃん」
「名前が言えることと、全部が起きていることは違うかもしれません」
「全部って?」
「分かりません」
ロウは顔をしかめる。
「自分のことなのに?」
「はい」
***
夕方。
朔は治療室へ戻る。
朝に伏せていた昨日の記録が、机の上にある。
今は読むことを選ぶ。
一時的自己名発話困難。
場所。
人。
行動。
応答可能。
本人の許可後、リオがツヅリで使用されていた呼び名を伝えた。
本人は、現時点でサクと呼ばれることを選択。
夜。
紙を確認。
黒川朔を自身が使用する名として発話。
朝。
二つの名を、自分から言えた。
一本の「回復経過」にはしない。
その時ごとの事実。
***
「紙を見ますか」
リオが尋ねた。
「はい」
机の上。
リオの手。
元の折り目を開く。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
朔は読む。
「変化は」
「確認できません」
「朝と同じか」
「大きくは」
「お前は」
朔は考える。
「朝と同じ名前を使っています」
「同じ人か」
「昨日から続いていると思います」
「何で」
「身体。記憶。話したこと。言えなかったことも覚えています」
「名前だけやない?」
「はい」
***
「返してほしいか」
「いいえ」
「昨日より怖くないから?」
「昨日とは、怖さが違います」
「何が怖い」
「また言えなくなること」
「ほかは」
「言えることを、安全の証明にされること」
「ほな、紙は」
「帰った時に話すために、持っていてください」
「道へ行かんでも?」
「はい」
「俺が先に死んだら」
朔は言葉を止める。
「その時は?」
「紙をどうするか、今から決めますか」
「決めたいです」
「何で」
「怖いから」
「またやな」
「はい」
リオは紙を折る。
「今は、俺が生きとる」
「はい」
「お前も」
「はい」
「なら、その話は別の日や」
***
夜。
朔は新しい紙を一枚だけ取った。
名前を書き直すためではない。
朝の記録。
自分の字で。
今朝、黒川朔とサクを、自分が使用する名前として言えた。
その下。
昨日、言えなかった。
さらに。
言えたことは、言えなかったことを消さない。
筆を止める。
安全。
回復。
帰還。
その言葉は書かなかった。
***
窓の外は暗い。
治療室の天井は白い。
朝と同じ。
だが今は、市場の灯りが壁へ薄く揺れている。
完全な白ではない。
紙の匂い。
荷車。
人の声。
眠る前の街がある。
***
黒川朔。
サク。
二つの名前を言えた朝。
だからといって。
二つが同じ場所から戻ったとは分からない。
名前が眠っていたのかも。
朔自身が、どこかで眠っているのかも。
まだ分からない。
***
それでも。
名前を言えなかった者は、朝まで空白だったわけではない。
水を飲んだ。
怖いと言った。
人を見た。
話を聞く時刻を選んだ。
名前を押しつけないでほしいと伝えた。
その行動は。
名前を言えるようになった後から、作られたものではなかった。
***
名前を言えたから。
初めて本人になったのではない。
言えなかった時も。
名前を使うかどうかを決める前も。
そこにいた。
***
朔は、紙の最後に書く。
今は、サクと呼ばれたい。
正解としてではなく。
朝の自分が、今選んだ言葉として。
その横に日付を置く。
永遠の名前にはしない。
明日の自分への命令にも。
***
紙を閉じる前。
ネラから見せられた古い一行を思い出す。
K.K.
呼名。
実施せず。
応答がなかったのではない。
誰も、まだ呼ばなかった。
***
K.K.が誰なのか。
名前なのか。
符号なのか。
眠っているのか。
起きているのか。
何も分からない。
ただ。
十二年前の空欄と。
昨日、自分の中に生まれた空欄は。
同じ形に見え始めていた。
だからこそ。
まだ、同じ名前では埋めなかった。
***
朔は紙を伏せる。
リオの胸元には、別の紙がある。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
今夜も、返してもらわない。
明日も言える保証としてではなく。
言えなくなった時の正解としてでもない。
帰ってきた者と。
その時、もう一度話すために。
***
名前を言えた朝。
朔は、目覚めたとは書かなかった。
どこかから帰ったとも。
ただ。
今ここで。
二つの名前を自分の声で言い。
そのどちらにも、自分を全部閉じ込めなかった。




