第六章 名を預ける道 ⑬ 名前を持ち帰る
次の調査は、黒い人影へ会うためのものではなかった。
問いも。
伝える言葉も。
持ち出す物もない。
目的は、
旧搬入口分岐右側通路について、石枠手前までの往復に要する時間、帰路上の身体負荷および既存の目印を確認し、現段階の調査を継続するか判断する。
だった。
「同じ場所へ行くだけですか」
グラドが尋ねた。
「はい」
「人影が現れるかも確認できる」
「現れた場合は記録します」
「現れなければ、不在を?」
「確認した時間に、姿を見なかったと書きます」
「前回の一文への反応を待たない?」
「待ちません」
朔が答えた。
「今回は、道を往復して戻ります」
***
「行かない、という選択は?」
ミエル・サドが尋ねた。
旧紙市場の倉。
三枚の仮板を背にしている。
「あります」
イサラが答えた。
「なら、どうして入る」
「これまでの調査では、人影、声、灯りの消失によって、予定した帰路時間を測れていません」
「測ってどうする」
「次に誰かが入るため?」
ミエルの声が少し強くなる。
「それだけではありません」
マレアが答えた。
「今の経路で、身体にどれほど負荷があるか。どの位置で帰路判断が遅れやすいか。それを確認して、通路調査を一度止める判断にも使います」
「止めるために入る?」
「今まで進んだ場所を、進んだままにしないためです」
ミエルは納得した顔をしなかった。
「開ける時刻と、閉じる時刻は変えないよ」
「はい」
「人影が出ても、話を続けない」
「はい」
「戻った後、またすぐ次を決めない」
イサラが答える。
「少なくとも、全記録と身体状態を確認するまで決めません」
***
参加者は四人。
黒川朔。
ノエ・ハーラ。
マレア・ソン。
セオ・ラグナ。
前回と同じだった。
「朔さんが必要ですか」
グラドが尋ねた。
「必要でないなら外すべきでは?」
朔自身が言った。
「道の形を知っている者は、ほかにもいます」
イサラは答えを急がなかった。
「今回、初めて入る者を加えれば、その人の身体負荷を増やします」
「同じ四人なら比較しやすい?」
「比較のために入れるのではありません」
マレアが止める。
「四人とも、右側通路から予定通り帰還した経験があります。新しい者を危険へ加えないためです」
「朔さんには、前回、頭痛と白い表示がありました」
「はい」
「現在の身体は?」
マレアが朔を見る。
「頭痛なし。視界異常なし。呼吸、歩行、手の震えも出発基準内です」
「再発した場合は?」
「その時点で戻ります」
***
朔の出発時記録。
今日使用する呼び名。
黒川朔。ツヅリ村ではサク。
今日の目的。
石枠手前まで、既存の経路を往復する。人影、声、表示がなくても、予定した停止位置を越えない。
怖いこと。
筆が止まる。
「人影が出ることですか」
セオが尋ねた。
「それもあります」
「ほかには?」
「何も起きなかった時、もう一度待てば答えが出ると思うこと」
朔は書いた。
人影が現れないことを、次の接触を求める理由にすること。
続けて。
帰還後、前回と同じ名前を言えたことを、安全の証明にすること。
「名前を言えない可能性を考えていますか」
グラドが尋ねた。
「前回、表示に名前のようなものが出ました」
「NAME HOLDER」
「はい」
「今回は表示を求めない」
「はい」
「それでも?」
「名前について何も起きないとは決めません」
***
帰還時に確認してほしいこと。
停止位置を越えたか。人影や表示を待つために滞在を延ばしたか。帰路で今いる三人を確認したか。今、自分を何と呼ぶか。
出発前から知っていることを伝える者。
リオ。
伝えてよい内容。
前回と同じ。
名前の紙。
ミナトの短刀。
青い布。
恐れていること。
誰かを置いたか。
問いを増やしたか。
帰還した本人が読み上げを拒んだ場合、無理に読まない。
***
「今日は紙を見るか」
リオが尋ねた。
「はい」
机の上。
リオが、自分の手で紙を開く。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
元の折り目。
薄い汚れ。
新しい変化はない。
「今、何て呼ばれたい」
「サクで」
「黒川朔は」
「俺の名前です」
「紙と同じやからか」
「違います」
「なら、聞いた」
リオは紙を折る。
「今日、向こうで名前を聞かれたら」
「答えません」
「自分の中で分からんくなったら」
朔は少し考えた。
「今いる人を確認します」
「それで名前が戻るか」
「分かりません」
「戻らんかったら」
「身体を先に見てもらいます」
「俺は?」
「待っていてください」
「何を持って」
「俺が話してよいと決めたことを」
リオは紙を胸元へ戻す。
「名前は、お前が持って行け」
「はい」
***
仮板が開かれる。
三枚。
二つの錠。
確認孔。
湿った石。
入口の黒い木片。
細い水音。
声なし。
人影なし。
白い表示。
朔には見えない。
四人が通路へ入る。
***
マレア。
朔。
ノエ。
セオ。
入口を越えた後、朔が前へ出る。
通路へ置く灯りはない。
ノエの携帯火。
マレアの袋に予備火。
「帰路の形」
セオが言う。
「黒い木片」
朔。
「手と火」
ノエ。
「低い天井」
マレア。
順番を確認する。
***
手と火の印。
変化なしとは書かない。
見える範囲で、大きな差を確認できない。
低い天井。
右壁の擦れ。
半分埋まった鉄輪。
ジェンはいない。
見えない荷車を持つ手も。
傾く肩もない。
だからといって。
六年前の記憶が道から消えたわけではない。
***
最初の曲がり角。
黒い金属の窪み。
長い剣状物。
四角い枠。
輪。
釘。
「位置変化」
ノエが尋ねる。
「見える範囲では確認できません」
朔。
「金属音」
なし。
「声」
なし。
止まらない。
***
黒い記録板があった位置。
黒い紐。
湿りは、さらに薄くなっているように見える。
「板を戻せという変化」
セオが自分で口にして、止める。
「今のは推測です」
「はい」
朔が答える。
言った推測も消さない。
行動には使わない。
***
分岐。
左側の布。
白灰色。
青い縁。
赤茶色の糸。
位置に大きな変化は確認できない。
右側。
二本の車輪溝。
薄い水。
今日の道。
***
石枠までの歩数を、全員が別々に数える。
朔。
七歩。
ノエ。
八歩。
マレア。
七歩半に近い。
セオ。
八歩。
「歩幅が違います」
マレアが言う。
「正しい数は?」
「一つにしません」
セオ。
距離を、人数の一致へ変えない。
***
白い石粉のような線。
停止位置。
白い木片を置く。
石枠の手前。
「人影」
確認できない。
「表示」
朔には見えない。
「声」
なし。
「身体」
マレアが一人ずつ見る。
呼吸。
歩行。
手。
異常なし。
***
前回、人影は呼吸十回の途中で現れた。
今日は待たない。
到着時刻。
経路。
身体。
確認した。
「目的は終わっています」
朔が言う。
「戻ります」
マレア。
セオが記録板を閉じる。
ノエが火を持ち直す。
朔が白い木片を拾う。
***
石枠の先には、何も現れない。
声もない。
サクと呼ぶ者も。
ハルの合図に見える手も。
黒い掌も。
朔は、もう一度見たいと思った。
あと一呼吸。
暗い形が、人になるまで。
「サクさん」
ノエが言う。
「帰路へ向いていますか」
朔は自分の足を見る。
身体はまだ石枠へ正面を向いていた。
「まだです」
「向けますか」
「はい」
背を向ける。
人影がいない時にも。
戻る条件は必要だった。
***
分岐。
右側から出る。
左の布。
見ない。
黒い記録板があった位置。
黒い紐。
声なし。
白い表示なし。
***
黒い金属の窪み。
長い剣。
朔には、柄が少し浮いて見えた。
立ち止まらない。
「剣状物が浮いて見えました。確認しません」
「ほかの人は?」
ノエ。
「位置変化を確認できません」
マレア。
「見ていません」
セオ。
「帰還後に、朔さんの知覚として記録します」
記録板は開かない。
***
曲がり角を越える。
低い天井。
朔の肩が、無意識に左へ傾いた。
ジェンの動き。
何度も見た。
「荷車はありません」
ノエが言う。
朔は姿勢を戻す。
「はい」
自分の身体が。
自分の記憶だけで動いているとは限らない。
他人の動きを見て。
覚え。
自分の癖のように使うこともある。
***
手と火の印。
携帯火が、細くなる。
消えない。
「火」
「保持」
ノエ。
「前」
朔。
「中央」
ノエ。
「横」
マレア。
「後ろ」
セオ。
「全員」
「確認」
***
入口の黒い木片。
外の光。
予定した時刻より早い。
帰還側から、声はない。
名前も。
道は空いているという案内もない。
必要な条件に達していない。
それでも、仮板の外には人がいる。
見える。
ミエル。
ファナ。
エリオ。
その向こう。
帰還側の机。
リオ。
***
四人が仮板を越える。
マレア。
朔。
ノエ。
セオ。
「人数」
ミエルが言う。
四人。
「持ち込んだ物」
携帯火。
予備火。
治療袋。
封をした木箱。
記録板。
炭筆。
青い布。
すべてある。
「向こうから持ち出した物」
「ありません」
朔が答える。
「向こうへ残した物」
「ありません」
ノエ。
***
仮板は、身体確認が始まる前に閉じられた。
三枚。
二つの錠。
確認孔。
人影は現れなかった。
声も。
表示も。
それが安全を意味するとは書かない。
***
トエが四人を見る。
呼吸。
歩行。
手。
視線。
朔の脈は、少し速い。
「頭痛」
「ありません」
「白い文字」
「見ていません」
「人影」
「見ていません」
「今いる場所」
「旧紙市場の倉です」
「一緒に入った人」
「ノエさん。マレアさん。セオさん」
「目的」
「右側通路を、石枠の手前まで往復しました」
「越えましたか」
「越えていません」
「何か話しましたか」
「話していません」
「何と呼ばれたいですか」
朔は、答えようとした。
***
言葉がなかった。
声が出ないわけではない。
喉も。
舌も動く。
何と呼ばれたいか。
意味も分かる。
答えがあることも知っている。
だが、その形だけが出てこない。
「もう一度、お願いします」
朔が言った。
「今、何と呼ばれたいですか」
トエが繰り返す。
白い欄。
そこに、文字がない。
黒川。
朔。
サク。
どれも、音になる直前で消える。
「分かりません」
朔は答えた。
***
部屋が静かになる。
「分からない、とは」
グラドが口を開く。
「名前を忘れた?」
「まだ聞きません」
トエが止める。
「身体を見ます」
***
瞳。
左右差なし。
腕。
両方上がる。
指。
一本ずつ動く。
顔。
左右差なし。
痛み。
なし。
吐き気。
少し。
頭痛。
今、わずかにある。
「これは何ですか」
トエが灯りを示す。
「灯り」
「これは」
「机」
「この人は」
「マレアさん」
「この人」
「ノエさん」
「この人」
「セオさん」
「私は」
「トエさん」
「外にいる人」
朔は倉の外を見る。
「エリオさん。ミエルさん。ファナさん」
「場所」
「旧紙市場」
「今日、何をした?」
「石枠まで行って、戻りました」
「自分の名前」
トエはすぐには尋ねない。
***
「言葉は出ています」
マレアが言う。
「物、人、場所、目的は答えられる」
「自分の名前だけ?」
イサラが尋ねる。
朔は答える。
「そう思います」
「名前がない?」
グラド。
「違います」
朔はすぐに言った。
「何が違う?」
「ないとは思いません」
「では」
「言えません」
言えないことと。
持っていないことを、一つにしない。
***
「紙を見せますか」
イサラがリオへ尋ねた。
「まだや」
リオが答える。
「なぜ?」
「身体を見とる途中や」
「名前の紙が役立つ可能性」
「ある」
「なら」
「役立つからって、最初に押しつけるな」
***
「朔さん」
マレアが呼びかけ、止まる。
「今の呼び方を使っていいですか」
本人が答えられない名前。
既知の名だからと、先に使い続けない。
朔は、自分が呼ばれた音を聞いた。
知っているような気がする。
だが、自分のものだと即座には言えない。
「今は、名前で呼ばないでください」
「分かりました」
***
トエは、
「あなた」
とも呼ばなかった。
「今、話している人」
必要な時だけ、そう言う。
「座れますか」
「はい」
「横になりますか」
「まだ」
「水」
「飲みます」
「触れていいですか」
「はい」
手首。
脈。
名前を待つ間も。
身体は、今ここにある。
***
帰還側の確認は、順番を変えた。
名前を後へ回す。
誰と入ったか。
誰が戻ると言ったか。
道の中で、誰を見たか。
誰かを置いたか。
予定より先へ進んだか。
声へ答えたか。
人影を待つために止まったか。
「ノエさんが、帰路へ向いているか聞きました」
朔が答える。
「マレアさんが戻ると言いました」
「セオさんは記録板を閉じました」
「誰かを置いていません」
「石枠を越えていません」
「人影を待ちたくなりました」
「実際に待った?」
「決めた確認の後、少しだけ正面を向いたままでした」
「戻れた理由」
「ノエさんに聞かれて、身体を帰路へ向けました」
行動は言える。
名前だけが出ない。
***
ノエが、朔の前へ座った。
「通路で、私が何を持っていましたか」
「火」
「火を見ていましたか」
「足元と、前の人を」
「前にいた人は?」
朔は答えかけて止まる。
「俺です」
「名前ではなく?」
「はい」
「後ろ」
「セオさん」
「横」
「マレアさん」
「今、私を何と呼びますか」
「ノエさん」
「私が、あなたを何と呼んでいたか、言っていいですか」
朔は考える。
「まだ、待ってください」
「分かりました」
ノエは言わない。
***
セオは記録板を開かなかった。
「記録しないんですか」
グラドが尋ねる。
「本人の身体確認と、共有範囲の確認が先です」
「重要な異常です」
「はい」
「時刻だけでも」
「別の記録担当が、発生時刻と身体所見を記しています」
「あなたの記録は?」
「今は、帰還者として座っています」
セオ自身も。
記録する役だけにはならない。
***
「外の人へ移しますか」
トエが尋ねる。
「誰に?」
「帰還後に、出発前から知っていることを伝える者」
リオ。
朔は市場側の机を見る。
胸元に紙を持つ男。
リオという名は出てくる。
その人の名前は言える。
自分の名前だけが言えない。
「話せます」
朔が答えた。
***
リオは近づいた。
紙を出さない。
ミナトの短刀も。
手は空いている。
「俺が誰か分かるか」
「リオさん」
「何を持っとる」
「俺が書いた名前の紙。ミナトさんの短刀」
「青い布は」
「俺が持っています」
「どこに」
「服の内側」
「触るか」
朔は首を横に振る。
「今は」
「紙を見るか」
「分かりません」
「なら、見せへん」
***
「俺が、お前を何て呼んどったか言うてええか」
朔は答えようとする。
聞けば。
正しい名前が戻るかもしれない。
聞いた音に従うだけになるかもしれない。
だが、聞かないことも。
今の自分を一人で探すことへ変わる。
「少し待ってください」
「分かった」
リオは隣に座った。
何も言わない。
***
砂時計の砂が、少し落ちる。
朔は水を飲む。
吐き気は弱くなる。
頭痛は残る。
自分の名前を探す。
白い欄。
文字はない。
代わりに、ほかの名前がある。
ハル。
ミナト。
リーネ。
トウマ。
ユイ。
リオ。
自分だけが空白。
「怖いですか」
マレアが尋ねる。
「はい」
「何が?」
「戻らないこと」
「名前が?」
「俺が」
「今、誰と話していますか」
「マレアさん」
「誰が答えていますか」
朔は止まる。
「名前が言えない人です」
「ほかには?」
「旧紙市場から戻った人」
「ほかには?」
「ハルを、まだハルと呼ばなかった人」
「ほかには?」
「リオさんに紙を渡した人」
「名前がなくても、行動は残っています」
「はい」
「名前がない、と決めますか」
「決めません」
***
マレアは、原因を一つにしなかった。
疲労。
緊張。
前回の白い表示。
通路の影響。
吐き気と頭痛を伴う一時的な言葉の取り出しづらさ。
自分の名前に関する心理的な抵抗。
「どれですか」
グラドが尋ねる。
「現時点では分かりません」
「道が名前を奪った可能性」
「否定できません」
「なら」
「奪われた、と書きません」
「名前が戻れば?」
「何が原因だったかは、それだけでは分かりません」
***
朔は、リオを見る。
「今、言ってください」
「何を」
「ツヅリ村で、俺を何と呼んでいたか」
「それだけでええか」
「はい」
「紙は」
「まだ見ません」
リオは頷いた。
「ツヅリでは、サクや」
短い音。
聞いたことがある。
何度も。
村の火。
ミナトの家。
ハルの声。
リーネの手。
ダン。
トウマ。
リオ。
さまざまな口から呼ばれた音。
***
「分かりますか」
トエが尋ねる。
「知っています」
「自分の名前?」
朔は、すぐには答えなかった。
「俺が、そう呼ばれていた名前です」
「今、そう呼ばれたい?」
朔は音を自分の中へ置く。
サク。
正しいかどうかではない。
出発前と同じかも。
紙と一致するかも。
先に考えない。
「はい」
「今は?」
「今は、サクと呼んでください」
***
誰も、
戻った。
とは言わなかった。
名前が回復した。
とも。
トエは記録する。
帰還後、自身の呼び名を即時に答えられず。身体、他者名、場所、目的、行動について応答可能。本人の許可後、リオがツヅリ村で使用されていた呼び名「サク」を伝えた。本人は、その名を知っていると答え、現時点で「サク」と呼ばれることを選択。
***
「黒川朔は?」
グラドが尋ねた。
「今は聞きません」
トエが答えた。
「登録名です」
「本人が、今はサクを選びました」
「忘れている可能性」
「あります」
「確認しない?」
「今、必要ですか」
「同一人物の照合に」
リオが言った。
「同一やと決めるために、次の名前を言わせるな」
***
「紙を見ますか」
リオが尋ねる。
サクは、胸元の紙を思い出す。
「まだ」
「何で」
「今は、サクと呼ばれたいと決めました」
「紙に黒川朔って書いてある」
「はい」
「見たら変わるか」
「分かりません」
「なら」
「少し休んでから」
「分かった」
紙を見ない選択も。
永久にはしない。
***
サクは、治療室へ移った。
歩ける。
それでも、一人では行かない。
マレア。
トエ。
リオ。
三人が近くにいる。
誰も腕を引かない。
必要な時だけ、進む方向を言う。
***
眠る前。
ユイが来た。
「名前、言えないの?」
「今は、サクと呼ばれたいと言えました」
「前の名前は?」
「まだ、言えません」
「なくなった?」
「そうとは決めていません」
「誰が持ってる?」
サクは、少し笑いそうになった。
笑えなかった。
「分かりません」
「リオ?」
「紙を持っています」
「サクは?」
「今、サクを使っています」
「じゃあ、持ってる?」
「名前を物みたいには持っていません」
「でも、言えた」
「選べました」
***
「リオが返した?」
「違います」
「教えた?」
「ツヅリで呼んでいた名前を、俺が聞いていいと言った後に話してくれました」
「それで戻った?」
「名前が?」
「サクが」
サクは、身体を見る。
手。
足。
呼吸。
青い布。
「まだ確認している途中です」
ユイは頷く。
「じゃあ、帰ってきた人に、名前を押さなかった?」
「はい」
「待った?」
「はい」
「サクも?」
「はい」
***
夜の途中。
サクは一度目を覚ました。
白い天井。
一瞬。
白い部屋に見えた。
身体が固まる。
だが、窓から市場の灯りが入っている。
紙の匂い。
遠くの荷車。
隣の椅子で、リオが眠っている。
胸元に手を置いたまま。
「リオさん」
声をかける。
リオが目を開ける。
「どこや」
「治療室」
「お前は」
名前を聞かない。
「起きました」
「気分」
「少し良いです」
「紙を見るか」
サクは考える。
「はい」
***
リオが紙を出す。
灯りの下で広げる。
自分の手から離さない。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
文字。
形。
自分が書いたように見える。
だが、それだけで自分のものとは決めない。
「読めるか」
「黒川朔」
音が出た。
「ほかは」
「ツヅリ村では、サク」
「何やと思う」
「俺が書いた名前」
「今、何て呼ばれたい」
「サクで」
「黒川朔は」
サクは少し考える。
「俺の名前だと思います」
「思う?」
「思い出したようにも感じます」
「同じか」
「分かりません」
「なら」
リオは紙を折ろうとする。
「待ってください」
***
「返してほしいか」
「いいえ」
「何で」
「帰った時に話すためです」
「今日、話した」
「次も」
「次に道へ行くと決めたんか」
「決めていません」
「なら」
「道へ行かなくても、俺が分からなくなることはあるかもしれません」
リオは紙を見る。
「怖なったから、持たせるんか」
サクは答える。
「少しは」
「ほかは」
「俺が渡した時の理由が、まだ残っています」
「表示やない?」
「違います」
「道の言葉でも」
「違います」
リオは元の折り目で紙を畳む。
「なら、持っとく」
***
翌朝。
身体確認。
頭痛。
ほとんどない。
吐き気。
なし。
歩行。
異常なし。
物。
人。
場所。
答えられる。
「今、何と呼ばれたいですか」
トエが尋ねる。
「サクで」
「ほかの名前は?」
サクは、自分から答えた。
「黒川朔」
「どちらが正しい?」
グラドが尋ねる。
「どちらも、俺が使っています」
「帰還前と一致」
「一致したから、戻ったとは書かないでください」
「では」
「今の俺が、そう答えたと」
***
記録には、
翌朝、本人は「黒川朔」を自身が使用する名として発話可能。現在呼ばれたい名として「サク」を選択。発話可能となった原因、経過、通路との関係は未確認。
と書かれた。
回復。
返還。
奪取解除。
その言葉は使わない。
***
「道が名前を返した可能性は?」
グラドが尋ねた。
「通路の外で、時間が経過した後に言えるようになりました」
マレアが答える。
「リオさんが名前を伝えた」
「本人の許可後に、呼び名を一つ伝えました」
「紙も見た」
「さらに後です」
「順番には意味が?」
「経過として残します」
「原因は?」
「決めません」
***
「リオさんがNAME HOLDERだったから、名前を戻せた?」
グラドが尋ねる。
リオが答える。
「戻してへん」
「サクと伝えた」
「ツヅリでそう呼んどったと言うた」
「結果として」
「こいつが、その名で呼ばれたいと選んだ」
「あなたの言葉がなければ」
「分からん」
「紙がなければ」
「分からん」
「では、有効だった可能性」
「あるかもしれん」
「なら」
「有効やったことにして、次の奴に同じことすんな」
***
アナが言った。
「帰還者が名前を言えない場合の手順は、更新できます」
「名前を伝える?」
グラドが尋ねる。
「最初にはしません」
「では」
「身体。場所。同行者。行動。現在話してよい内容。名前を聞いてよいか。本人が望むなら、出発前に許可された者が、許可された事実を伝える」
「登録名は?」
「本人が望んだ時」
「最後まで望まなければ?」
「その時に使う呼び方を本人と確認します」
「何も選べなければ?」
「名前を言えないことだけで、別人や名のない者にはしません」
***
新しい欄は作られなかった。
名前喪失者。
名返還対象。
NAME HOLDER確認。
どれも。
既存の出発時記録と帰還側の紙に、今回の経過を追記する。
「同じことが起きた時、検索しにくい」
グラドが言った。
「症状として検索語を付けます」
セオが答える。
「一時的自己名発話困難」
「長い」
「名前を失った、と短くしません」
***
街では、その日のうちに別の話になった。
黒い道が殻の子の名前を奪った。
名守りリオが紙から名前を返した。
道から帰るには、外で名前を呼んでもらわなければならない。
紙へ本名を書けば、記憶を失っても戻せる。
「本名って、どれ」
ロウが尋ねた。
「俺には、黒川朔とサクがあります」
「二つ?」
「はい」
「紙には?」
「二つとも」
「リオが読んだ?」
「最初は、サクと呼んでいた事実だけを話しました」
「それで思い出した?」
「知っている名前だと感じました」
「戻った?」
「今、使うと決めました」
***
「紙を見たら、黒川朔も戻った」
「後から言えるようになりました」
「じゃあ紙が返した」
「そうとは決まりません」
「でも」
「時間。休んだこと。話したこと。紙を見たこと。全部、同じ夜にありました」
「どれ?」
「分かりません」
「また?」
「はい」
ロウは地面へ、
サク。
黒川朔。
二つを書く。
「同じ人?」
「今は、俺が両方使っています」
「どっちが帰ってきた?」
サクは答える。
「名前だけが帰ってきたわけではありません」
***
ユイは、帰還側の紙を見た。
「リオが、サクって言った」
「はい」
「でも、最初じゃない」
「はい」
「身体を見て。誰と行ったか聞いて。何したか聞いて。それから」
「はい」
「名前を言えば、すぐ戻れたかもしれないのに」
「可能性はあります」
「どうして待ったの」
「名前を、正しい答えとして押し込まないためです」
「でも、忘れたら怖い」
「怖かったです」
「サクも?」
「はい」
「リオも?」
「たぶん」
リオは近くにいる。
「たぶんやなく、怖かった」
自分で答えた。
***
「それでも言わなかった?」
「こいつが聞くまでな」
「どうして?」
「俺が知っとるサクと、帰ってきたこいつが同じか決めるためやない」
「じゃあ」
「帰ってきたこいつが、俺の話を聞くか決めるためや」
ユイは考える。
「名前を持って待つ人は、名前を言う人じゃない?」
「言うこともある」
「いつ?」
「帰った人と話して決めた時や」
***
ジェンは、帰還記録を読んだ。
「名前が言えんかったんか」
「はい」
「怖かったか」
「はい」
「俺も、六年前の道で、自分が何者か分からんくなった時があった」
「名前が?」
「名前は言えた」
「では」
「言えたから、今におったわけやない」
荷車。
ペル。
三人。
逃げた者。
生還者。
運搬補助。
周囲が付ける名はあった。
「車輪を直しとる時の方が、今の俺に近いこともある」
「名前より?」
「どっちもや」
ジェンは答えた。
「名前だけ持って帰っても、俺は足りん」
***
サナは右腕の包帯を巻き直しながら言った。
「外套の布を見た時、フィオナの名前は言えました」
「はい」
「自分の名前も」
「はい」
「でも、六年前の自分と今の自分が同じだとは、あの場では分からなかった」
「名前が同じでも?」
「痛みの感じ方も。戻る判断も違いました」
「では」
「名前は必要です。でも、名前だけで人を持ち帰れません」
***
黒い記録板の裏には、七人の名前がある。
ラグ。
フィオナ。
ミト。
サナ。
ペル。
ガウ。
ジェン。
名前だけ。
その板が、七人を王都へ返したわけではない。
それでも。
誰が道へ入ったかを、今へ残した。
***
朔の紙には、二つの名がある。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
紙が、朔を道から運んだとは決められない。
リオが名前を言ったから戻ったとも。
だが、朔が自分の名を口にできなかった時。
外には。
その紙を持ち。
紙に書かれた答えより先に、帰ってきた本人を見ようとする者がいた。
***
名前を持ち帰ることは。
出発前と同じ音を答えることではなかった。
登録された名を、間違えずに言うことでも。
紙に書かれた文字と一致することでもない。
***
身体を持ち帰る。
今いる同行者を持ち帰る。
何を見たか。
何をしなかったか。
誰の声を聞いたか。
誰を置かなかったか。
怖かったこと。
選べなかったこと。
帰ってから選び直したこと。
その中に、名前もある。
***
名前は、道を開ける鍵ではなかった。
少なくとも、まだそうとは分からなかった。
ただ、道の向こうで自分を見失った時。
帰る場所で、誰かが名前を書いた紙を持っている。
すぐに読み上げず。
正解として押しつけず。
帰ってきた本人と、もう一度話す時まで。
そのことが、帰路の一部になる可能性だけは残った。
***
名を持つ者だけ来い。
朔には今、その言葉が、進む者だけへ向けられたものには聞こえなかった。
自分の名を言える者だけでも。
紙へ正しい名を書ける者だけでもない。
名を呼ばずに待つ者。
言えなくなった者へ、先に身体を返す者。
過去の名前を、未来の本人への命令にしない者。
名前を持って待つ者もまた。
道の外に立っていた。
***
その夜。
リオは紙を胸元へ戻した。
黒川朔。
ツヅリ村ではサク。
朔は返してほしいと言わなかった。
リオも、預かったとは言わなかった。
次の調査は、まだ決まっていない。
道へ入らない日にも。
二人が話すために、紙はそこにある。
名前そのものではなく。
帰ってきた朔が。
その時の自分を、もう一度選び直すための言葉として。




