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第六章 名を預ける道 ⑫ ハルと呼ばない


 次の調査案には、問いが一つも書かれていなかった。


 目的は、


 分岐右側通路の石枠手前まで進み、前回確認した黒い人影が再び現れた場合、黒川朔が事前に定めた一文を伝える。


 だった。


 人影を呼び出さない。


 名前を尋ねない。


 ヴァルハかどうかを問わない。


 ハルかどうかも。


 白い表示を求めない。


 何かを渡さない。


 人影が現れなければ、石枠と帰路の状態を確認して戻る。


「伝える一文は?」


 グラドが尋ねた。


 朔は、自分の出発時記録に書いた文を読んだ。


「あなたを、まだハルとは呼びません」


***


「『あなたはハルではない』では駄目なんですか」


 グラドが尋ねた。


「違うと確認できていません」


「では、『あなたはハルですか』」


「問いません」


「なぜ?」


「返事が正しくても、本人だとは決められないからです」


「正しい名前。正しい記憶。正しい合図。それでも?」


「はい」


「では、何のために伝える?」


 朔は、人影の黒い手を思い出す。


 持っている。


 空のように見えた掌。


 自分の胸元へ動いた右手。


「俺が、どう呼ばないかを伝えるためです」


***


 ノエ・ハーラが、紙の文を見る。


「『まだ』は必要ですか」


「必要です」


「いつかは呼ぶという意味に取られませんか」


「取られる可能性はあります」


「では」


「ハルではないと決めたわけでもありません」


「待っている、という意味?」


「分かりません」


「人影が『まだ』と返したら?」


 朔は答えに詰まる。


「その言葉だけで、意味を合わせません」


「同じ言葉でも?」


「はい」


***


「一文だけ、と決める理由は?」


 イサラが尋ねた。


「話し始めれば、答えを取りにいくからです」


「人影が質問した場合は?」


「答えません」


「助けを求めた場合」


「身体や位置を確認できなければ、その場では動きません」


「ハルしか知らない出来事を話した場合は?」


「聞こえたことを持ち帰ります」


「ハルしか知らない合図をしたら?」


 朔の手が、服の内側の青い布を意識する。


「それでも、呼びません」


「本当に?」


「分かりません」


 イサラは頷いた。


「では、止める条件に入れます」


***


 帰る条件。


 朔が予定した一文以外を人影へ伝えた場合。


 人影へ質問した場合。


 青い布を服の外へ出した場合。


 人影の方へ停止位置を越えた場合。


 人影が石枠を越えた場合。


 誰かの身体が人影へ向かい始めた場合。


 白い表示が現れ、朔の呼吸または歩行に変化があった場合。


 マレアが戻ると言った場合。


「朔さんが、ハルと呼んだ場合は?」


 セオが尋ねた。


「その場で帰ります」


 マレアが答えた。


「本人が訂正しても?」


「帰還後に確認します」


 呼んだ名前を、通路の中で取り消そうとしない。


***


「人影へ伝えること自体が、応答になります」


 グラドが言った。


「はい」


 朔は認めた。


「これまでは、応答しない条件だった」


「今回は、伝えることを目的にします」


「危険が増える」


「あります」


「それでも?」


「人影が俺をサクと呼び。俺が何と呼ぶかを、黙ったままにしてきました」


「黙ることも選択です」


「はい」


「では」


「今回は、呼ばないことを黙らずに選びます」


***


 ユイは、その文を聞いて首を傾げた。


「ハルって呼ばないの?」


「はい」


「もう?」


「もう、とは決めていません」


「まだ?」


「はい」


「『まだ』って、あとで呼ぶ約束?」


「約束ではありません」


「呼ばない約束でもない?」


「はい」


「難しい」


「俺もです」


 ユイは少し考える。


「ハルの名前を、黒い人にあげない?」


 朔は答える前に時間を置いた。


「そうかもしれません」


「ハルの名前は、サクのもの?」


「違います」


「じゃあ、あげられないね」


「はい」


「ハルが自分で、そうだって言ったら?」


「聞きます」


「信じる?」


「その時に考えます」


「黒い人が言ったら?」


「黒い人が言ったこととして聞きます」


***


 出発前、リオは机の上へ紙を出した。


 黒川朔。


 ツヅリ村ではサク。


 朔は文字を見る。


「今、何て呼ばれたい」


「サクで」


「今日、何を言う」


「あなたを、まだハルとは呼びません」


「向こうがハルや言うたら」


「その言葉だけでは呼びません」


「ツヅリのことを言うたら」


「聞いたことを持ち帰ります」


「ミナトのことを」


「同じです」


「二人しか知らんことを言うたら」


 朔は止まる。


「それでも、すぐには」


「呼ばん?」


「はい」


「何で」


「知っていることと、その人であることは同じではないからです」


***


「ハルの癖をしたら」


 リオが尋ねた。


「癖?」


「お前にしか分からん動き」


「それでも」


「ほんまに?」


「分かりません」


 朔は正直に答える。


「分からん時は?」


「ノエさんが位置を言う。マレアさんが身体を見る。セオさんが見た動きを分けて残す」


「お前は」


「今いる三人を見ます」


「ハルを見んのか」


「見ます」


「なら」


「ハルだと思いたくなる自分も見ます」


***


 リオは紙を折る。


 元の折り目。


 胸元へ戻す。


「青い布は」


「持って入ります」


「見せるんか」


「見せません」


「何で持つ」


「俺が持つと決めているからです」


「調査のためやない?」


「はい」


「向こうが返せ言うたら」


「何を返すのか分からなければ、渡しません」


「布やと思ったら」


「それでも、今日は渡しません」


「ハルの物やぞ」


「はい」


「返す相手がハルやったら」


 朔は答えられなかった。


***


「分からん顔のまま行くんやな」


「はい」


「なら、一文だけにしとけ」


「はい」


「その後は」


「戻ります」


「呼ばんまま?」


「はい」


 リオは胸元を押さえた。


「ハルの名前も、外で持っといたるとは言わんぞ」


「はい」


「俺の名前やない」


「はい」


「でも、俺も覚えとる」


「はい」


***


 参加者は四人。


 黒川朔。


 ノエ・ハーラ。


 マレア・ソン。


 セオ・ラグナ。


 前回と同じ。


 通路へ置く灯りはない。


 ノエが携帯火を持つ。


 マレアは治療袋。


 セオは記録板。


 朔は、青い布を服の内側へ結んでいる。


 ミナトの短刀は、リオ。


 名前を書いた紙も、リオ。


 石枠の先へ差し出す物はない。


***


 帰還側。


 イサラが時刻を持つ。


 エリオが倉外の道を空ける。


 ミエルとファナが仮板を管理する。


 アナ。


 トエ。


 ネラ。


 リオ。


 それぞれの場所にいる。


「今日は、人影へ話すんですね」


 エリオが朔へ言った。


「一文だけ」


「問いは?」


「しません」


「名前を知りたいとは思わない?」


「思います」


「ハルかどうか」


「はい」


「それでも、聞かない?」


「正しい答えが返っても、判断できないからです」


 エリオは暗い入口を見る。


「勇者かと問われて、違うと答えても、向こうが勇者と呼び続けたことがあります」


「はい」


「名乗ることと、呼ばれることは別ですね」


「はい」


「呼ばないことも?」


「別です」


***


 仮板が開かれる。


 三枚。


 二つの錠。


 湿った石。


 細い水音。


 入口の黒い木片。


 声なし。


 人影なし。


 白い文字。


 朔には見えない。


 四人が通路へ入る。


***


 マレア。


 朔。


 ノエ。


 セオ。


 入口を越えた後、朔が前へ出る。


「帰路の印」


 セオが言う。


「黒い木片」


 朔。


「手と火」


 ノエ。


「低い天井」


 マレア。


 置いた灯りはない。


 既にある形を、一つずつ確認する。


***


 手と火の印。


 変化は確認できない。


 低い天井。


 右壁の擦れ。


 半分埋まった鉄輪。


 最初の曲がり角。


 黒い金属の窪み。


 長い剣状物。


 測定器らしき枠。


 金属音なし。


 声なし。


 黒い人影なし。


***


 黒い記録板があった位置。


 黒い紐。


 石の突起。


 湿りは、前回より薄く見える。


 分岐。


 左。


 白灰色の布。


 青い縁。


 赤茶色の糸。


 右。


 二本の車輪溝。


 今日の道。


***


 右側の低い通路。


 壁下から流れる水。


 薄い金属片。


 三つの鉄輪。


 次の石枠。


 その手前。


 白い石粉のような線。


 前回置いた境界ではない。


 道にもともとあった線。


「停止位置」


 マレアが言う。


 白い木片を置く。


 石枠の手前。


 四人が止まる。


***


「人影」


 確認できない。


「白い表示」


 朔には見えない。


「声」


 なし。


「石枠の窪み」


 右柱。


 手の形に近い。


 前回と同じように見える。


「目的は?」


 セオが尋ねる。


 人影が現れた場合、一文を伝える。


 現れなければ、経路状態を確認して戻る。


「少し待ちますか」


 ノエが尋ねた。


「決めた時間だけ」


 マレアが答える。


 長く待って、現れることを求めない。


***


 砂時計は持ち込んでいない。


 ノエの呼吸を十回。


 その間だけ。


 一。


 二。


 三。


 携帯火が、右へ傾く。


 四。


 水音。


 五。


 石枠の奥。


 暗い床。


 六。


 朔は、自分の胸の動きを感じる。


 七。


 何もいない。


 八。


 黒い形が、奥の壁から離れる。


***


「人影」


 朔が言った。


「確認」


 ノエ。


「確認」


 マレア。


「人形状の黒色部」


 セオ。


 四人に見えている。


 石枠の先。


 前回と近い位置。


 黒い線は見えない。


 人影は、歩いてきたようには見えなかった。


 暗さの一部が、人の形として残ったように見えた。


***


「サク」


 声。


 四人とも聞いた。


 朔は応答しない。


 予定した一文を言う前に、身体を確認する。


 足。


 停止位置の手前。


 右手。


 身体の横。


 胸元へ動いていない。


 呼吸。


 できている。


 同行者。


 ノエ。


 マレア。


 セオ。


 今いる。


***


 人影の顔は見えない。


 それでも、朔の胸元へ視線が向いたように感じた。


「視線」


 朔が言う。


「私は、顔の向きを確認できません」


 マレア。


「頭部がサクさん側へ傾いたように見えます」


 ノエ。


「頭部形状の角度変化を確認」


 セオ。


 青い布は、服の内側にある。


 外からは見えないはずだった。


***


 朔は、予定した一文を言った。


「あなたを、まだハルとは呼びません」


 声は震えなかった。


 そう思った。


 通路の中へ言葉が落ちる。


 反響はない。


 人影は動かない。


***


 ノエが言う。


「一文を確認」


 マレア。


「追加しないでください」


「はい」


 朔は同行者へ答えた。


 人影へではない。


***


 黒い人影の左腕が上がった。


 前回の右腕ではない。


 左手が、首の近くへ動く。


 指が二本。


 何もない場所を、二度つまむように動いた。


 その後。


 掌が下を向く。


 短く。


 押さえるように。


***


 朔の中で、森の暗さが開いた。


 ツヅリ村の外。


 声を真似るヨビモノ。


 互いの名を呼ばずに移動するため。


 ハルが決めた合図。


 首へ巻いた青い布の端を、二度引く。


 掌を下へ向ける。


 声を追うな。戻る。


 ハルは、合図を作った日の帰りに言った。


「逃げる時は、二人で逃げるんだろ」


***


「サクさん」


 ノエの声。


「古い搬入口。右側通路。石枠の手前です」


 朔は人影を見たまま答える。


「はい」


「何が見えましたか」


「左手を首元へ。指を二度動かした。掌を下へ」


「意味は?」


「ハルと決めた合図に見えました」


「同じですか」


 マレアが尋ねる。


「俺には」


「ほかの人は?」


 ノエ。


「左手が頭部か首の近くへ上がり、二回動いたように見えました。指の数は確信できません」


 マレア。


「左腕の上昇。手部の小さな動き。回数は一回か二回か判断できません」


 セオ。


「左腕を上げ、手部を頸部付近で動かした後、掌側と思われる面を下へ向けた。指の本数は未確認」


 ハルの合図として見たのは、朔だけだった。


***


 人影が言った。


「まだ」


 朔には、そう聞こえた。


「音声」


 ノエが言う。


「私は『待て』に近く聞こえました」


 マレア。


「二音。『まだ』または『待て』。確定できません」


 セオ。


「『まだ』に近い音声」


 同じ言葉でも。


 同じ意味には聞こえていない。


***


 まだ。


 朔が使った言葉。


 人影が返したように聞こえた言葉。


 呼ぶな、まだ。


 まだハルではない。


 まだ帰れない。


 まだ返すな。


 まだ待て。


 どれでもないかもしれない。


***


 朔の口が開く。


「それは」


 言葉が出る前。


「追加です」


 マレアが言った。


 朔は止める。


「はい」


 問いを続けない。


 意味を取りにいかない。


***


 人影の左手が、首元から下がる。


 右手が上がる。


 前回と近い。


 掌のような黒い形。


 今度は、朔の胸元ではなく。


 石枠の手前に置いた白い木片へ向いているように見えた。


「右腕」


 ノエ。


「手の向き」


 朔。


「境界の木片へ向いているように見えます」


「私は、サクさん側」


 マレア。


「指し示す対象は未確認」


 セオ。


 同じ手。


 同じ対象には見えない。


***


 人影が、もう一度声を出した。


 朔には、


「返せ」


 と聞こえた。


 ノエには、


「帰れ」


 マレアには、


「かえ――」


 最後の音を判別できない。


 セオには、


「返せ、または帰れに近い音声」


 誰が。


 何を。


 どこへ。


 欠けている。


***


 朔の右手が胸元へ動く。


 前回より速い。


 青い布。


 ハルの合図。


 返せ。


 布を。


 名前を。


 ハルを。


 自分を。


 あるいは。


 帰れ。


***


「右手」


 ノエが言う。


「止めますか」


 マレアが尋ねる。


 朔の指が、服の上から青い布の結び目へ触れた。


 まだ、外へ出していない。


「自分で下ろします」


 朔が言う。


 手を離す。


 身体の横へ。


「布は出しません」


 同行者へ伝える。


「確認」


 セオ。


***


「帰路へ」


 マレアが言った。


 条件は揃っている。


 予定した一文を伝えた。


 人影が、ハルの合図に見える動きをした。


 朔の身体が二度、胸元へ動いた。


 予定外の音声。


 返せ。


 帰れ。


 意味は分からない。


 戻る。


***


 朔は白い木片を拾う。


 境界を残さない。


 人影は、石枠の先から動かない。


 黒い手は下がった。


「人影の位置」


「石枠の先」


 ノエ。


「接近なし」


 マレア。


「追跡動作確認せず」


 セオ。


 四人は身体を帰路へ向ける。


***


 後ろから声がした。


「サク」


 呼び方は同じ。


 朔は振り返らない。


「音声を確認」


 セオ。


「応答しません」


 朔は同行者へ言う。


***


 もう一つ。


 小さな音。


 布を引くような。


 乾いた指が、何かを二度つまむような。


 実際に布があるのか。


 石を擦ったのか。


 誰も見ていない。


「音」


 ノエ。


「二回」


 朔。


「私は一回」


 マレア。


「軽い接触音。回数未確認」


 セオ。


 振り返らない。


***


 分岐。


 左側の布。


 白灰色。


 青い縁。


 赤茶色の糸。


 朔は見ない。


 青い布が胸にある。


 別の布を、ハルへ繋げない。


***


 黒い記録板があった位置。


 黒い紐。


 手と火の印。


 低い天井。


 最初の曲がり角。


 黒い金属。


 長い剣。


 帰路の形を一つずつ確認する。


「前」


 朔。


「中央」


 ノエ。


「後ろ」


 セオ。


「横」


 マレア。


「全員」


「確認」


***


 ハルの合図に見えた動きが、頭から離れない。


 首元。


 二度。


 掌を下へ。


 声を追うな。


 戻る。


 逃げる時は、二人で逃げる。


 だが、今、朔の横にいるのはハルではない。


 マレア。


 中央にノエ。


 後ろにセオ。


 今いる三人と戻る。


***


 入口の黒い木片。


 ノエの携帯火。


 消えない。


 外の光。


 エリオの姿。


 今日は声を出さない。


 予定時刻内。


 帰路は空いている。


***


 仮板の外へ出る。


 マレア。


 朔。


 ノエ。


 セオ。


 四人。


「人数」


 ミエル。


 四人。


「持ち込んだ物」


 携帯火。


 予備火。


 治療袋。


 封をした木箱。


 記録板。


 炭筆。


 青い布。


 すべてある。


「向こうから持ち出した物」


「ありません」


 朔。


「向こうへ残した物」


「ありません」


 ノエ。


***


「人影」


 イサラが尋ねる。


「確認しました」


「発言」


「サク。まだ、または待て。返せ、または帰れに近い音声」


「全員同じ?」


「分けて記録します」


「朔さんの一文」


 朔は答える。


「あなたを、まだハルとは呼びません」


「追加の問い」


「言いかけました。マレアさんが止めました」


「青い布」


「服の上から二度触れかけました。外へは出していません」


「人影の動き」


 朔の呼吸が少し速くなる。


「ハルと決めた合図に見えました」


***


 仮板は閉じられる。


 三枚。


 二つの錠。


 確認孔。


 黒い人影は、倉側から見えない。


 声も届いていない。


***


 身体確認。


 トエが四人を見る。


 朔。


 呼吸。


 速い。


 右手。


 震え。


 胸元。


 服の内側の結び目は、出発前と同じ位置。


「布を見せましたか」


「いいえ」


「結び目を解いた?」


「いいえ」


「人影を、今は何と考えていますか」


 朔は答える前に時間を置いた。


「ハルかもしれないと思っています」


「出発前より?」


「強く」


「ハルだと?」


「決めていません」


「名前を聞いていいですか」


「はい」


「何と呼ばれたい?」


「サクで」


***


 アナがノエへ尋ねる。


「誰を見ていましたか」


「サクさん」


「いつ?」


「人影が左手を動かした時。『まだ』に近い声の後。サクさんが胸元へ手を動かした時」


「火は?」


「持っていました」


「人影の合図は、ハルさんのものに見えましたか」


「私はハルさんの合図を知りません」


「見えた動きは?」


「首か頭部の近くで手を二回動かしたように見えました。指の数は分かりません」


「名前を聞いていい?」


「はい」


「何と呼ばれたい?」


「ノエ・ハーラです」


***


 トエはマレアへ尋ねる。


「誰を処置しましたか」


「通路内では誰も」


「朔さんへ触れましたか」


「いいえ」


「なぜ?」


「本人が手を下ろすと言えました」


「言えなければ?」


「身体が境界を越える前に止める予定でした」


「人影の動き」


「左腕を頸部付近へ上げました。回数と指の数は確定できません」


「音声」


「『まだ』か『待て』に近い二音。後は『かえ』に続く音。返せか帰れかは決められません」


「名前は?」


「マレア・ソンです」


***


 ネラはセオの記録板を見る。


「帰路で開きましたか」


「いいえ」


「朔さんの発言」


「事前記録と一致」


「一致したから、本人?」


「判定しません」


「人影の動き」


「左腕を上げ、手部を頸部付近で動かした後、手部の面を下方向へ向けた。朔さんは、ハルと定めた合図と認識」


「あなたは?」


「合図の意味を知りません」


「後方の音」


「軽い接触音。回数未確認」


「名前は?」


「セオ・ラグナです」


 記録板が開かれる。


***


 リオは帰還側の机にいた。


 朔の紙は胸元。


 手には持っていない。


「どこまで」


「石枠手前」


「何を言うた」


「あなたを、まだハルとは呼びません」


「向こうは」


「左手を首元へ。指を二度動かして、掌を下へ向けたように見えました」


 リオが黙る。


「何の合図や」


「森で、ハルと決めたものです」


「何て」


「声を追うな。戻る」


「ほかには」


「逃げる時は、二人で逃げる」


***


「同じやったか」


 リオが尋ねる。


「俺には」


「ほかの三人は」


「腕の動きは見ています。回数や指の数は一致していません」


「ハルしか知らんか」


「俺とハルが決めました」


「誰かに見られた可能性」


「あります」


「お前の記憶から出た可能性」


「あります」


「向こうが真似た可能性」


「あります」


「ハル本人の可能性」


 朔は、人影の黒い手を思い出す。


「あります」


***


「呼んだか」


「呼んでいません」


「言いそうになったか」


「はい」


「何で止まった」


「予定した一文が終わっていた。ノエさんが位置を言った。マレアさんが追加だと止めた」


「お前は」


「今いる三人を見ました」


「一人で止まったんやないな」


「はい」


***


「向こうは何て」


「俺には、『まだ』。その後、『返せ』」


「ほかは」


「待て。帰れ。かえ、まで」


「何を返せ」


「分かりません」


「布か」


「可能性はあります」


「ハルの名前か」


「あります」


「お前か」


「あります」


「向こうが持っとる何かを返せ、かもしれん」


「はい」


 リオは胸元の紙へ触れない。


「何でも入るな」


「はい」


***


「青い布を見せてください」


 朔が言った。


「何で俺に」


「自分で確認します」


 服の内側から、結び目を解かずに端だけを見る。


 色。


 擦れ。


 トウマから渡された時のまま。


 新しい黒い変色なし。


 文字なし。


 破れ。


 以前からあるものだけ。


「返せ言われたから、返す相手を探しとるんか」


 リオが尋ねた。


「少し」


「布は何て言うとる」


「何も」


「なら」


「今日は戻します」


 朔は布を服の内側へ戻す。


 人影へではない。


 自分の胸元へ。


***


「名前の紙は?」


 朔が尋ねる。


「ここや」


「見せてください」


「布を見た後やから?」


「はい」


「何が違う」


「返せと言われたものを、全部確認したくなっています」


「全部見たら、答えが出るんか」


「出ません」


「なら」


 リオは紙を出さなかった。


「今日は見せへん」


「どうして?」


「お前が確認したいからや」


「前は見せてくれました」


「前は、表示が出た後に紙が変わったか見る目的を、お前が自分で言えた」


「今日は?」


「返せに引っ張られとる」


 朔は否定できなかった。


***


「紙を返してほしいか」


 リオが尋ねる。


「今は、分かりません」


「なら返さん」


「俺の紙です」


「そうや」


「だから、俺が返してほしいと言えば」


「聞く」


「でも今は?」


「向こうの声に急かされて言うとるかもしれん」


「リオさんが決める?」


「今のお前に、次に聞く時刻を作っとる」


「いつ?」


「身体と記録を見た後」


 紙を持つ者が。


 本人より正しい答えを決めるのではない。


 今すぐ決めない時間を、二人で作る。


***


 記録会議では、最初に人影の動きが分けられた。


 朔。


 左手を首元へ上げ、二本の指で二度、何かをつまむ動き。その後、掌を下へ向けた。ハルと過去に定めた「声を追うな。戻る」に近い合図と認識。


 ノエ。


 左手を頭部または頸部付近へ上げ、小さな動きを二回行ったように見えた。指の本数は未確認。その後、手の面を下へ向けたように見えた。


 マレア。


 左腕の上昇と、頸部付近での手部動作を確認。回数は一回または二回。掌の向きは確定できず。


 セオ。


 左腕を上げ、手部を頸部付近で動かした後、手部の一面を下方向へ向けた。回数および指の本数は未確認。


***


「朔さんの記憶と一致する可能性は?」


 グラドが尋ねた。


「朔さんの知覚では高いです」


 ネラが答える。


「なら、ハル本人の」


「可能性はあります」


「記憶を読んだ」


「あります」


「過去に見ていた」


「あります」


「偶然似た動き」


「あります」


「どれが最も?」


「比較できる資料がありません」


「朔さんの証言は?」


「意味を知っている唯一の者です」


「では、最も重要」


「重要です」


「同時に、最も意味を重ねやすい者でもあります」


 朔は否定しなかった。


***


「ハルだけが知っていた合図なら、本人確認に使えるのでは」


 グラドが続ける。


「本人確認のために作った合図ではありません」


 朔が答えた。


「秘密の共有です」


「本人以外は知れない」


「俺の記憶を知る方法がないとは確認できません」


「道が記憶を読む?」


「可能性があります」


「では、どんな証拠も」


「一つだけで本人とは決めません」


「それでは、永遠に確認できない可能性」


「あります」


***


「あなたは、ハルである可能性をどの程度」


 グラドが尋ねる。


「数字にしません」


「高まった?」


「はい」


「では、記録に」


 朔は自分で言った。


「黒い人影をハル・ミナトであると考えたい気持ちは、出発前より強くなった」


「事実ではなく?」


「俺の状態です」


「人影の正体欄には?」


「書きません」


***


 人影の音声も分けられた。


 一つ目。


 朔、セオは「まだ」に近い。


 ノエは「待て」に近い。


 マレアは二音。どちらか判定せず。


 二つ目。


 朔は「返せ」。


 ノエは「帰れ」。


 マレアは「かえ」に続く音。末尾未確認。


 セオは「返せ」または「帰れ」に近い。


「『まだハルとは呼ばない』への返答として、『まだ』と言った?」


 グラドが尋ねる。


「そう見えます」


 朔が答える。


「同意?」


「分かりません」


「否定?」


「分かりません」


「繰り返し?」


「あります」


「命令?」


「待てなら」


「では」


「文にしないでください」


***


「『返せ』は青い布を?」


「分かりません」


「ハルの物だから?」


「そう考えたくなります」


「人影が合図をした直後」


「はい」


「なら、関係は」


「同じ流れで起きたことは残します」


「因果は?」


「未確認です」


「帰れ、なら」


「帰路へ向くよう促した可能性」


「実際、戻った」


「マレアさんの判断で戻りました」


「声の命令に従った?」


 朔は考える。


「帰る条件は、声の前に満たしていました」


「では無関係?」


「声を聞いたことが、身体を帰路へ向ける理由の一部になった可能性はあります」


 従ったとも。


 無視したとも。


 一つにしない。


***


「人影がハルなら、自分でハルと名乗らないのはなぜですか」


 グラドが尋ねた。


「分かりません」


「名乗れない?」


「可能性はあります」


「名前を奪われた?」


「あります」


「朔に呼ばれるのを待っている?」


「あります」


「呼べば戻る?」


「そこまで繋げないでください」


 朔の声が、少し強くなった。


 部屋が静かになる。


「すみません」


「いいえ」


 グラドは記録へ書く。


 朔は、呼名を帰還手段として扱う推測に対し、強い拒否を示した。


「俺の拒否が正しい証拠ではありません」


「はい」


「ハルの名前を、試すために呼びたくないだけです」


***


 リオは会議へ呼ばれなかった。


 黒い人影の動きを見ていない。


 合図の当事者でもない。


 ハルと森を歩いたのは朔だった。


 だが、会議が終わる時刻に、朔は自分からリオのところへ行った。


***


 リオは旧紙市場の店先にいた。


 ミエルが紙袋を積んでいる。


「終わったか」


「はい」


「紙は返してほしいか」


 朔は、すぐには答えなかった。


「今も、少し」


「何で」


「返せという声が残っています」


「誰の声や」


「黒い人影」


「ハルか」


「分かりません」


「なら、その声で決めるな」


「はい」


「お前は、何のために俺へ渡した」


「帰った時に、話すためです」


「今、話したか」


「はい」


「次も?」


「話したいです」


***


「なら」


 リオは紙を出さない。


「持っとく」


「はい」


「返せ言われたのに?」


「表示や声に決められて返してもらいたくありません」


「前と同じやな」


「はい」


「ハルの合図を見ても?」


 朔の胸が痛む。


「はい」


「呼ばんかったな」


「はい」


「でも、『まだ』言うた」


「はい」


「いつか呼ぶかもしれん」


「あります」


「呼ばんままかもしれん」


「あります」


「どっちが怖い」


「間違えて呼ぶことも。間違えて呼ばないことも」


 リオは、紙袋の束へ手を置く。


「両方持って帰ってきたんやな」


「はい」


***


 エリオは、公示文の作成に立ち会った。


「ハルの合図という言葉を載せますか」


 ベドが尋ねる。


「載せません」


 朔が答えた。


「重要な新情報です」


「ハルさん本人に見える動きだと認識したのは俺だけです」


「では、黒い人影が過去の同行者固有の動作に近い仕草をした」


「それも、俺の認識を公の事実へ近づけます」


「何も書かない?」


「人影が左腕を頸部付近へ上げ、手部を動かしたこと。参加者四名で見え方が異なったこと。俺が過去に知る合図に近いと受け取ったこと」


「名前は?」


「ハル・ミナトの名を、見出しにしないでください」


***


 公示。


 旧搬入口右側通路において、前回と近い位置に黒色人形状部を確認しました。


 黒川朔は、事前記録に定めた一文を伝えました。問いかけ、物品提示、接触は行っていません。


 人形状部は左腕および手部を動かしました。動作の回数、指の形、意味について参加者の知覚は一致していません。黒川朔は、自身が過去に知る特定の合図に近いと認識しました。


 「まだ」または「待て」、「返せ」または「帰れ」に近い音声を確認しました。発言の対象、意味、人物同定との関係は未確認です。


 黒川朔は人形状部を特定人物の名では呼ばず、参加者四名は予定時刻内に帰還しました。


***


 街では、すぐに違う話になった。


 黒い人影は、殻の子の弟だった。


 名前を呼べば戻れるが、朔が拒んだ。


 青い布を返せば、人影は人間へ戻る。


 ヴァルハは、名前を奪われた勇者だった。


 まだ、と答えたのは、時が来ていないから。


 帰れ、と言ったのは、次に一人で来いという意味。


「一人で来いとは言っていません」


 ベドが訂正する。


 訂正の下で。


 次は殻の子一人が名を返しに行く。


 という話が増えた。


***


「ハルって呼ばなかったから、帰ってこなかったの?」


 ロウが尋ねた。


「誰が?」


「黒い人」


「黒い人が帰ろうとしていたとは確認していません」


「でも、合図した」


「俺には、そう見えました」


「ハルの合図?」


「はい」


「じゃあ、ハルじゃん」


「そう思いたくなりました」


「呼べばよかったのに」


 朔は否定しなかった。


「そう思う人もいます」


「サクは?」


「今も、少し思います」


「じゃあ、次に呼ぶ?」


「まだ決めません」


「また、まだ?」


「はい」


***


「ハルが怒らない?」


「分かりません」


「自分の名前を呼んでもらえなかったら」


 ロウは自分の胸を指す。


「俺なら嫌だ」


「はい」


「でも、違う人に呼ばれたら?」


「嫌かもしれません」


「じゃあ」


 ロウは地面へ二つの丸を書く。


 一つ。


 ハル。


 一つ。


 黒い人。


 線を引きかける。


 止める。


「同じかもしれない」


「はい」


「違うかもしれない」


「はい」


「どっちにも名前がいる?」


 朔は考える。


「黒い人にも、本人が使う名前があるかもしれません」


「ハルじゃなかったら?」


「聞きたいです」


「今日は聞かなかった」


「はい」


「どうして?」


「ハルかどうかを先に聞けば、ほかの名前を答える場所がなくなると思ったからです」


***


 ユイは、朔の一文を何度も口の中で確かめた。


「あなたを、まだハルとは呼びません」


「はい」


「黒い人、怒った?」


「分かりません」


「帰れって言った?」


「そう聞こえた人がいます」


「返せって?」


「はい」


「何を?」


「分かりません」


「青い布?」


「可能性はあります」


「ハルのもの?」


「ハルが身に着けていたものです」


「じゃあ、返す?」


「相手が誰か。返すことで何が起きるか。本人が本当に求めているか。まだ分かりません」


「ハルだったら、返していい?」


 朔は青い布の位置を意識する。


「ハル本人が、自分の意思で求めていると確認できれば、考えます」


「確認って、どうするの」


「分かりません」


***


 ユイは、首元へ手を上げた。


 指を二本。


 空中を一度つまむ。


「こう?」


「二度です」


 朔が言ってから止まる。


「教えていいんですか」


 ユイが尋ねる。


 合図は、ハルと朔のものだった。


 本人確認に使えると思えば、誰にも伝えない方がよい。


 だが、既に記録には動きが残っている。


「意味までは、公にはしません」


「私には?」


「声を追うな。戻る、という合図でした」


「二人で?」


「はい」


「黒い人も戻れって言った?」


「俺には、そう見えました」


「サクに?」


「分かりません」


「自分に?」


 朔は答えられない。


 ハルが自分へ。


 声を追うな。


 戻れ。


 そう合図した可能性。


 黒い人影が朔へ。


 帰れ。


 と伝えた可能性。


 ただ、朔の記憶が黒い腕へ意味を足した可能性。


 どれも残る。


***


「サクは戻った」


 ユイが言う。


「はい」


「黒い人は?」


「石枠の先に残りました」


「合図したのに?」


「はい」


「二人で逃げなかった」


 その言葉は、責める調子ではなかった。


 事実を置いただけだった。


「はい」


「約束、破った?」


 朔は、すぐには答えられなかった。


 ハルと交わした言葉。


 逃げる時は、二人で逃げる。


 ハルは、黒へ引かれた。


 朔は、一指届かなかった。


 今回も。


 黒い人影を残して戻った。


***


「相手がハルだと分からないまま、二人で逃げることはできませんでした」


 朔が答えた。


「分かったら?」


「一緒に戻れる方法を考えます」


「引っ張る?」


「本人が戻りたいかも聞きます」


「声が本物か分からない」


「はい」


「難しいね」


「はい」


「でも、呼ばなかった名前は?」


「消えていません」


***


 夜。


 朔は青い布を外した。


 机の上へ置く。


 リオの紙とは別の場所。


 ハルの名前を書いた紙はない。


 布の端。


 擦れ。


 小さなほつれ。


 トウマの手から受け取った時と、大きくは変わらない。


 ハルの物だった。


 今は、朔が持っている。


 だからといって。


 布が、ハルの代わりではない。


***


 首元へ二度。


 掌を下へ。


 声を追うな。


 戻る。


 その合図を、ハルと決めた。


 人影が似た動きをした。


 それは、今までで最もハルに近い痕跡だった。


 同時に。


 朔の記憶が、最も強く意味を足せる動きでもあった。


***


 あなたを、まだハルとは呼びません。


 その言葉は。


 人影を拒む言葉ではなかった。


 ハルを諦める言葉でも。


 いつか必ず呼ぶという約束でもない。


 ただ。


 ハルの名前を、答えを開ける鍵として使わないための言葉だった。


***


 名前を呼べば。


 人影が答えるかもしれない。


 近づくかもしれない。


 姿を変えるかもしれない。


 道が開くかもしれない。


 何かが戻るかもしれない。


 その可能性があっても。


 ハルの名前を、試験の言葉にはしない。


***


 人影は、まだとも。


 待てとも聞こえる声を出した。


 返せとも。


 帰れとも。


 朔は帰った。


 何も返さず。


 青い布も。


 ハルの名前も。


 黒い手へ渡さなかった。


***


 呼ばなかった名前は、道の中へ置き去りにはならなかった。


 胸元の布とともに。


 ツヅリ村の記憶とともに。


 ミナトの言葉。


 トウマの願い。


 二人で逃げるという約束。


 それらの間に残った。


***


 黒い人影がハルであるなら。


 朔は、ハルを呼ばずに帰った。


 黒い人影がハルではないなら。


 朔は、別の者へハルの名前を与えずに帰った。


 どちらであっても。


 痛みは残った。


***


 それでも、その日。


 朔は答えを得るために、ハルの名前を使わなかった。


 似た合図を見ても。


 帰れと聞こえる声を聞いても。


 黒い影へ向かって、まだハルとは呼ばなかった。


 そして。


 呼ばなかったことを、正しかったとは書かなかった。


 間違いだったとも。


 ただ、その時の朔が。


 今いる三人の声を聞き。


 空の手で帰路を選んだことを残した。


 ハルの名前を、まだ誰の答えにもせずに。

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