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第一章 祈りの殻の子 ⑦ にげろ




 その夜、朔はほとんど眠れなかった。


 目を閉じるたびに、白い円が浮かぶ。


 祠の中心。

 黒い点。

 燃える家。

 灰の降る空。

 そして、白い服を着た誰かの唇。


 ——にげろ。


 音はなかった。

 それなのに、その言葉だけが耳の奥に残っている。


 逃げろ。


 誰に。

 どこから。

 いつ。


 それが分からない。


 分からないからこそ、余計に眠れなかった。


***


「サク、顔色悪いで」


 朝飯の席で、ハルが心配そうに覗き込んできた。


「元からだ」


「いや、今日はいつもの三割増しで悪い」


「その計算、どこで覚えた」


「サクが前に言うてた。数字で見ると分かりやすいって」


 余計なことを教えたな、と朔は粥をかき混ぜながら思った。


 土間には、いつも通りの朝があった。


 鍋から上がる湯気。

 薪のはぜる音。

 ミナトが皿を並べる手つき。

 外では鶏が鳴き、遠くで誰かが井戸の桶を落として怒られている。


 普通の朝だ。


 だからこそ、昨夜見たものが余計に浮いて感じられる。


「……サク?」


 ハルが、さっきより少しだけ真面目な声で呼んだ。


「ほんまに大丈夫か?」


「ああ」


「嘘ついてない?」


「半分くらい」


「半分は嘘なんや」


 ハルが眉を寄せる。


 朔は小さく息を吐いた。


「眠れなかっただけだ」


「傷、痛いん?」


「それもある」


「それも?」


 ハルは食い下がる。


 昔の朔なら、こういうとき適当にごまかしていた。

 会社では、悪い報告を上げればまず責められた。

 体調不良を言えば「管理不足」だと言われた。

 だから、言わない方が楽だった。


 でも、ここは会社じゃない。


 分かっている。

 分かっているのに、口が重い。


(報告するには、根拠が弱い)


 黒い点を見た。

 祠に触れたら、断片を見た。

 白い服の誰かが「逃げろ」と言った。


 そんなもの、どう説明すればいい。


 見間違いかもしれない。

 寝不足と傷の痛みが見せた幻かもしれない。


 けれど、もし本当なら。


 黙っていて何かが起きれば、それは隠したのと同じだ。


「……あとで、リーネさんに話す」


 朔がそう言うと、ハルは目を丸くした。


「リーネに?」


「ああ。祠のことで、少し」


「祠……」


 ハルの顔から、食事中の緩さが消えた。


「黒い点、か?」


 朔は匙を止めた。


「……見たのか」


「昨日の夜、サクが祠行ったあと、俺も少しだけ見た」


「寝てろよ」


「起きてもうたんやもん」


 ハルは口を尖らせたが、すぐに声を落とした。


「小さかったけど、なんか……嫌な感じやった」


「ミナトさんには?」


「言ってない。サクが言うかなと思って」


 それはつまり、ハルも不安を抱えたまま黙っていたということだ。


 朔は、自分だけが抱え込んでいるつもりになっていたことに気づいて、少しだけ胸が痛んだ。


「悪い」


「なんでサクが謝るん?」


「いや……なんとなく」


 ハルは不満そうに朔を見たあと、急に真面目な顔になった。


「サク。もしなんか危ないことなら、俺にも言ってな」


「子どもに言うことじゃない」


「サクも子どもやん」


「中身は違う」


「それでも、今は一緒に村で生きてるやん」


 その言葉に、朔は返せなかった。


 ハルは粥の椀を両手で持ったまま続ける。


「俺、もう知らんままで飛び出すの嫌や。

 あの夜みたいに、何も分からんまま走って、サクに怪我させるの、もう嫌や」


 朔はしばらく黙っていた。


 そして、頷いた。


「分かった。あとで話す」


「絶対やで」


「ああ」


 ハルはようやく少しだけ安心したように粥を食べ始めた。


 朔も匙を動かす。


 温かい粥の味が、今日は少しだけ薄く感じた。


***


 リーネは、朝の祈りを終えたあと、祠の前で薬草を選り分けていた。


 薄灰色の衣。

 静かな目。

 淡々とした手つき。


 彼女の周りだけ、朝のざわめきから少し切り離されているように見える。


「リーネさん」


 朔が声をかけると、リーネは顔を上げた。


「傷?」


「傷もまだ痛いですけど、今日は別件です」


「悪い顔をしている」


「よく言われます」


「今日は特に」


 ハルと同じことを言われて、朔は少しだけ苦笑した。


 祠の中に入ると、空気が少しひんやりしていた。

 昨日と同じ、白く摩耗した円形の中心。


 その中心から少し外れた場所に、針の先ほどの黒い点がある。


 昼の光の下で見ても、それは消えていなかった。


 リーネは、その点を見た瞬間、表情を変えた。


 ほんのわずかに。

 だが、確かに。


「これは、汚れではない」


 リーネが言った。


「分かるんですか」


「祠の石は、火でも水でも簡単には変わらない。

 汚れなら、朝の祈りで落ちる」


「朝の祈りで……」


「少なくとも、薄くはなる」


 リーネは膝をつき、黒い点に指を近づけた。

 触れはしない。

 指先を数センチ浮かせたまま、じっと見ている。


「でも、これは沈んでいる」


「沈んでいる?」


「表面についたものではない。

 石の奥から、浮いてきている」


 朔の喉が小さく鳴った。


 北の殻が黒く染まった。

 リオの話が、急に近くなる。


「それと、もう一つあります」


 朔は、自分が見たものを話した。


 黒い染み。

 燃える家。

 灰の空。

 白い服の誰か。

 音のない口の動き。


 にげろ。


 全部を話し終えても、リーネはしばらく何も言わなかった。


 祠の中に沈黙が落ちる。


「それは、祈りの返事かもしれない」


「返事?」


「祈りは、いつも願う側から出るもの。

 でも、ごくまれに、殻の奥から返ってくることがある」


「じゃあ、誰かが俺に警告したってことですか」


「かもしれない。

 あるいは、ただ残っていた声が、あなたに触れただけかもしれない」


「残っていた声……」


「祈りの殻には、古い願いが溜まる。

 喜びも、悲しみも、恐れも。

 強いものほど、長く残る」


 朔は祠の中心を見た。


 そこにあるのは、石だ。

 古い遺跡だ。


 でも、本当にただの石なら、なぜ自分はあの映像を見たのか。


「もう一度、触ってもいいですか」


 朔が言うと、リーネは首を横に振った。


「勧めない」


「でも、見ないと分からない」


「分からないものに触れる時は、代償がいる」


「もう、触れない代償の方が大きい気がします」


 リーネはじっと朔を見た。


「あなたは、自分の命を軽く見る癖がある」


「最近よく言われます」


「なら、直すといい」


「努力します」


「今すぐ」


「それは難しいです」


 リーネは、小さくため息をついた。


「触れるなら、わたしがここにいる時だけ」


「ありがとうございます」


「礼を言うのは、見た後でも遅くない」


 リーネは祠の入口に立ち、両手を胸の前で組んだ。

 淡い光が、指の間に集まる。


「何かあれば、すぐ手を離すこと」


「分かりました」


 朔は黒い点から少し離れた、白い円の中心へ指を伸ばした。


 触れる。


 ——ざざっ。


 今度のノイズは、耳だけではなかった。


 足元から、背骨を通って頭の奥まで、冷たいものが駆け上がる。


 視界が白く弾けた。


***


 火の匂い。


 誰かが泣いている。


 灰が降っている。


 夜なのに、空が赤い。


 視界が揺れる。

 これは朔の目ではない。

 もっと低い。

 もっと震えている。


 子どもの視界だ。


 誰かの手が、こちらを引っ張っている。


「走れ!」


 声は聞こえない。

 だが、口の動きと顔の歪みで分かる。


 走れ。

 逃げろ。


 白い服の人物が、背後を振り返る。


 その顔は、やはりぼやけている。

 ただ、胸元に黒い染みが広がっているのが見えた。


 血ではない。


 墨のように黒く、光を吸い込むような染み。


 地面にも、同じ黒が広がっている。

 祠の白い円を中心に、じわじわと。


 そこから、何かが這い出てくる。


 獣ではない。

 人でもない。


 細い枝のような腕。

 濡れた布のような皮膚。

 目だけが、やけに白い。


 白い服の人物が、こちらを押した。


 ——にげろ。


 今度は、声が聞こえた気がした。


 いや、声ではない。


 頭の中に、直接、意味だけが叩き込まれる。


 ——ここは、もう祈りの場所じゃない。


 視界が大きく揺れる。


 誰かが倒れる。

 燃える家。

 泣き叫ぶ子ども。

 黒い染み。

 白い目。


 そして、最後に。


 祠の中心に立つ、小さな影。


 子どもだ。


 こちらを向いている。

 顔は見えない。


 だが、その首筋には、朔と同じような細い痕があった。


***


「サク!」


 リーネの声で、朔は現実に引き戻された。


 床に膝をついていた。


 息が荒い。

 額から汗が落ちる。


 右脇腹の傷が、ずきずきと痛んでいた。


 リーネの手が、朔の背中に触れている。

 淡い光が、荒れた呼吸を少しだけ落ち着かせてくれた。


「何を見た」


 リーネが短く問う。


 朔は息を整えながら、答えた。


「北の村……たぶん。

 黒い染みが広がって、そこから何かが出てきてた。

 白い服の人が、逃げろって」


「他には」


「最後に、子どもがいました。

 首に、俺と似た痕があった」


 リーネの表情が、わずかに硬くなる。


「殻の子」


「たぶん」


 祠の中の空気が冷えたように感じた。


「その子は、生きてると思いますか」


「分からない」


 リーネは正直に言った。


「でも、その声がここまで届いたなら、何かは残っている」


「残っている……」


 助けを求める声なのか。

 死の記録なのか。

 それすら分からない。


 朔は拳を握った。


「ミナトさんに話します」


「そうした方がいい」


「村のみんなにも?」


「順番がいる」


 リーネは、朔の目を見た。


「恐れは、火より早く広がる。

 でも、隠された恐れは、もっと悪いものになる」


「……難しいですね」


「だから村長がいる」


 リーネはそう言って、祠の外を見た。


「ゲンザを呼ぶ。あなたは少し座っていなさい」


「俺も行きます」


「座っていなさい」


 静かな声なのに、逆らえない圧があった。


「……はい」


 朔は仕方なく、その場に腰を下ろした。


 祠の中心にある黒い点を見る。


 朝より、少しだけ大きくなっている気がした。


***


 ミナトはすぐに来た。


 走ってきたのだろう。

 額に汗がにじんでいる。


 それでも、祠の中に入った時の足取りは落ち着いていた。


「リーネから聞いた」


 ミナトは朔の隣に腰を下ろした。


「見たんやな」


「はい」


 朔は、もう一度説明した。


 北の村らしき場所。

 黒い染み。

 白い服の人物。

 にげろという警告。

 首筋に痕のある子ども。


 ミナトは最後まで黙って聞いた。


 途中で口を挟まない。

 顔色も大きく変えない。


 ただ、膝の上の手だけが、少し強く握られていた。


「分かった」


 話し終えると、ミナトは低く言った。


「村の者には、まだ全部は言わん」


「隠すんですか」


「違う。順番を間違えんだけや」


 ミナトは祠の中心を見た。


「今ここで、“殻が黒うなった、北の村は焼けた、逃げろと言われた”と全部言うたらどうなる」


「……混乱します」


「そうや。

 逃げる準備をする前に、逃げ始める。

 置いていかれる者が出る。

 荷物を取りに戻る者が出る。

 祠を壊せと言い出す者も出るかもしれん」


 朔は黙った。


 ミナトの言う通りだった。


「せやけど、黙って何もしないわけでもない」


 ミナトは立ち上がる。


「今日から見張りを倍にする。

 子どもらの避難訓練は毎日やる。

 水と食料は、村長の家と井戸横に分けて置く。

 森側の柵はもう一段増やす」


「村人には、何て言いますか」


「北の噂が気になる。念のためや。

 それで十分や」


「黒い点は?」


「祠の管理はリーネに任せる。

 見えるほど広がるまでは、少人数で確認する」


 ミナトは朔を見た。


「サク。お前は、見たものを抱え込むな」


「……はい」


「お前一人が怖がっても、村は救えん。

 怖いものは、怖いまま分けろ。

 分けた上で、何をするか考える」


 その言葉は、朔の胸に静かに落ちた。


 怖さを分ける。


 会社では、できなかったことだ。

 弱みを見せれば、責められるだけだった。


 でも、ここでは違う。


 そう信じたい。


「分かりました」


「よし」


 ミナトは頷き、祠の外へ向かう。


 出口のところで、ふと立ち止まった。


「それとな、サク」


「はい」


「もし次にその白い服の誰かが出たら、聞けるなら聞いてみろ」


「何をですか」


「どこへ逃げればええのか、や」


 朔は、思わず息を止めた。


 逃げろ。


 その言葉だけでは足りない。


 どこへ。

 誰を連れて。

 何から。


 それを知らなければ、本当に逃げることはできない。


「……分かりました」


 ミナトは短く頷いて、祠を出ていった。


***


 その日の夕方、村の空気は少し忙しくなった。


 理由は「北の噂が気になるから」。

 それだけだ。


 ミナトは嘘をつかなかった。

 ただ、全部は言わなかった。


 男たちは柵に追加の杭を打つ。

 女たちは干し肉と水袋を確認する。

 子どもたちは、また避難訓練をさせられて文句を言う。


 それでも、昨日より動きは早くなっていた。


 朔は広場の隅で、ハルと一緒に小さい子どもたちの列を見ていた。


「サク」


「ん?」


「朝の続き」


 ハルは、朔を見上げた。


「何か、あったんやろ」


 朔は少し迷った。


 全部は言えない。

 でも、何も言わないのはもう違う。


「祠で、変なものを見た」


「黒い点?」


「それもある。あと……誰かが、逃げろって言ってた」


 ハルの表情が固まる。


「誰が?」


「分からない」


「敵?」


「それも分からない」


「じゃあ、どうしたらええん」


「だから、準備してる」


 朔は避難訓練をしている子どもたちを見た。


「もし俺が逃げろって言ったら、理由を聞かずに走れ」


 ハルは即座に眉を吊り上げた。


「嫌や」


「即答かよ」


「嫌に決まってるやん」


 ハルは一歩、朔に詰め寄った。


「サクはそうやって、すぐ自分だけ残ろうとする」


「状況による」


「状況によっても嫌や」


「ハル」


「俺はもう、サクだけが血まみれになるのは嫌や」


 あの夜のことを言っているのだと、すぐに分かった。


 ツノオオカミ。

 血。

 ハルの泣き顔。


 朔は言葉を失った。


「サクが逃げろって言うなら、俺も走る。

 でも、サクも一緒や」


「俺が行けない場合もある」


「その時は引っ張る」


「お前の力じゃ無理だ」


「鍛える」


「そういう問題じゃ——」


「じゃあ、約束変更や」


 ハルは朔の言葉を遮った。


「何を?」


「逃げる時は、二人で逃げる」


 あまりにも真っ直ぐな言い方だった。


 朔は、思わず笑いそうになって、でも笑えなかった。


「……それ、守れない時もあるぞ」


「守るために練習するんやろ」


 ハルは拳を握る。


「サクが教えたんや。

 怖い時に初めて考えたら間に合わへんって。

 やから今、決めとく」


 朔は、自分の言葉がそのまま返ってきたことに少しだけ困った。


 そして、少しだけ嬉しかった。


「分かった」


「ほんまに?」


「ああ」


 朔は右手を差し出した。


「逃げる時は、二人で逃げる」


 ハルはその手を強く握った。


「約束や」


「約束だ」


 その小さな手の力は、以前より少しだけ強くなっていた。


***


 夜。


 祠の前には、リーネがいた。


 黒い点は、昼間よりわずかに濃くなっている。


 まだ、村人のほとんどは気づかないだろう。

 でも、一度気づいてしまえば、もう見落とせない。


 朔は祠の入口から、それを見つめた。


 今日は触れない。

 リーネにも、ミナトにも止められている。


 それでも、耳の奥でかすかなノイズが鳴った。


 ——ざざっ。


 にげろ。


 頭の中で、あの言葉がまた響く。


 朔は拳を握った。


(逃げる。

 でも、逃げるだけじゃない)


 誰を連れて。

 どこへ。

 何から。


 それを知るまで、ただ怯えて待つつもりはなかった。


 遠くの森で、低い鳴き声がする。


 昨日より、少し近い。


 祠の黒い点は、月明かりの下で、じっと黙ってそこにあった。


 まるで、次に染み出す時を待っているみたいに。

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