第一章 祈りの殻の子 ⑨ まだ、いる
——まだ、いる。
その言葉を、朔は誰にも言っていなかった。
逃げ道のことは話した。
森へ逃げるな。
低いところへ行くな。
水の音を追うな。
上へ行け。
それは、ミナトにもリーネにも伝えた。
だから避難場所は、村の中央にある井戸横から、北の丘にある古い見張り台へ変わった。
子どもたちは坂道を走らされ、大人たちは腐りかけた柱を打ち直し、村は少しずつ“逃げる形”を覚え始めている。
なのに、一番引っかかっている言葉だけを、朔はまだ口にしていなかった。
——まだ、いる。
誰が。
何が。
どこに。
それが分からない。
分からないから言えなかった。
そう自分に言い聞かせていた。
だが、本当は違う。
言ってしまえば、認めることになる。
北の村に、まだ誰かがいるかもしれない。
あの首筋に痕のある子どもが、生きているかもしれない。
そして自分は、助けに行きたいと思ってしまうかもしれない。
「目の前におる者を置いて、遠くの声だけ追うな」
ミナトの言葉が、胸の奥に残っている。
その通りだと思う。
今の朔に守れるのは、ツヅリ村だ。
ハルだ。
目の前で飯を食い、笑い、走り、怖がっている人たちだ。
けれど。
もし、あの声が本当に助けを求めているのなら。
その声を聞いてしまった自分は、ただ聞かなかったふりをしていいのか。
朝の光が、村長の家の床を薄く照らしている。
朔はまだ痛む脇腹を押さえながら、静かに立ち上がった。
まずは、リーネに話すべきだと思った。
***
リーネは、祠の前で水を汲んでいた。
小さな桶に入った水を、白い円の周囲に少しずつ撒いている。
水は石の上を滑るように流れ、黒い点の手前で止まった。
まるで、そこだけ水が避けているように見えた。
「おはようございます」
朔が声をかけると、リーネは振り返らずに言った。
「眠れていない」
「顔に出てますか」
「出ている」
「便利ですね、俺の顔」
「隠すのが下手なだけ」
リーネは桶を置き、ようやく朔を見た。
「何か言い忘れた顔をしている」
朔は、少しだけ息を詰まらせた。
「……分かるんですか」
「声を聞いた後の人は、言葉を一つ残すことがある」
「言葉を?」
「喉に刺さった棘みたいに」
リーネはそう言って、祠の中心を見る。
「刺さったまま放っておくと、熱を持つ」
朔は黙っていた。
見透かされている気がした。
いや、実際に見透かされているのかもしれない。
リーネは祠の声を聞く者を、朔よりずっと前から見てきたのだろう。
「幻視の最後に、もう一つ言葉がありました」
「なに」
「まだ、いる」
リーネの表情が、わずかに変わった。
昨日、「黒い点」を見たときよりも、もっと小さな変化。
けれど、今度は朔にも分かった。
彼女は動揺した。
「それは……誰が言った」
「首筋に痕のある子どもです。たぶん。
顔は見えませんでした。でも、口が動いて……意味だけが入ってきた」
「まだ、いる」
リーネが、その言葉を低く繰り返す。
「心当たりがあるんですか」
朔が聞くと、リーネはしばらく答えなかった。
祠の中は、朝なのに薄暗い。
外では村人たちの声がしている。
でも、ここだけは別の時間の中に沈んでいるみたいだった。
「昔、似た声を聞いた」
リーネが言った。
「似た声?」
「まだ、泣いている」
朔は、何も言えなかった。
リーネは黒い点ではなく、白い円の外側を見ていた。
そこには何もない。
ただの石の床だ。
けれど彼女には、別の何かが見えているようだった。
「小さな祠が黒くなった時、私は声を聞いた。
まだ、泣いている。
助けて。
寒い。
暗い。
そういう意味が、途切れ途切れに届いた」
「助けに行ったんですか」
「行かなかった」
リーネの声は、いつも通り静かだった。
でも、そこに冷たさはなかった。
「行けなかった、の方が近い。
大人たちは、私の聞いた声を信じなかった。
私はまだ子どもで、祈りの扱いも未熟だった。
その祠は翌朝には割れて、黒いものも、声も、全部消えた」
「その声の主は……」
「分からない」
リーネは答えた。
「だから今も、分からないまま残っている」
それは、傷の話なのだと思った。
朔の脇腹に残る痛みとは違う。
治りかけては疼く、もっと古い傷。
リーネが祠に触れる朔を嫌がる理由が、少しだけ分かった気がした。
「声は、人を引く」
リーネは言った。
「助けたいと思わせる。
間に合うかもしれないと思わせる。
でも、声が届く時には、もう届きすぎていることもある」
「届きすぎている?」
「死に近いものほど、強く祈る。
壊れかけたものほど、遠くまで響く」
朔は唇を噛んだ。
それはつまり、あの子どもが生きている保証にはならないということだ。
むしろ、逆かもしれない。
「でも、“まだ、いる”なら……」
言いかけて、朔は言葉を止めた。
自分が何を言おうとしているのか、分かったからだ。
まだいるなら、助けに行けるかもしれない。
そう言いたかった。
リーネは、その続きを聞かなくても分かったようだった。
「ゲンザに話すべき」
「はい」
「でも、覚えておいて」
リーネは朔を見る。
「声を聞いた者が、必ず声の場所へ行かなければならないわけではない」
「……分かっています」
「分かっている顔ではない」
「顔、便利すぎませんか」
「とても」
リーネは淡々と言った。
少しだけ、空気が緩んだ。
だがすぐに、彼女は祠の奥へ目を戻す。
「黒い点は広がっていない。
でも、止まっているわけではない」
「待っているんですか」
「たぶん」
「何を」
「それを、私たちは知らない」
祠の中に、短い沈黙が落ちた。
朔は黒い点を見つめる。
その小さな黒は、ただそこにあるだけだった。
広がらず、消えず、まるで目を閉じている生き物のように。
***
ミナトは、村の北側で見張り台の修理を見ていた。
丘の上に立つ古い見張り台は、近くで見ると昨日よりずっと頼りなく見えた。
柱の根元は黒ずみ、階段の一部は踏めば軋む。
それでも男たちが新しい板を打ち付け、縄で補強し、少しずつ使える形に戻していた。
朔とリーネが丘を上がると、ミナトは二人の顔を見てすぐに察したようだった。
「また悪い話か」
「良い話ではないです」
「最近そればっかりやな」
ミナトは苦笑したが、目は笑っていなかった。
朔は「まだ、いる」のことを話した。
幻視の最後に見た、首筋に痕のある子ども。
その子が伝えてきた言葉。
リーネが昔聞いた「まだ、泣いている」という声。
ミナトは腕を組み、黙って聞いていた。
話し終えると、しばらく丘の北側を見た。
北の空は薄く霞んでいる。
森の向こうに何があるのか、ここからは分からない。
「サク」
「はい」
「北へは行かせんぞ」
最初に出た言葉は、それだった。
朔は拳を握った。
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
「俺の顔、そんなに便利ですか」
「便利やな」
ミナトはあっさり言った。
リーネが横で小さく頷く。
朔は反論を飲み込んだ。
「生きてるかもしれないんです」
「かもしれない、や」
「でも——」
「今のツヅリに、北へ人を出す余裕はない」
ミナトの声は低く、はっきりしていた。
「柵はまだ直りきっとらん。
見張り台も半分腐っとる。
子どもらは新しい逃げ道を覚え始めたばかりや。
森の鳴き声は近づいとる。
祠には黒い点がある」
ミナトは一つずつ指を折るように言った。
「この状態で、お前を北へ行かせる?
誰かをつける?
その間、村の守りを薄くする?
かもしれない誰かのために、ここにおる確かな命を危険に晒す?」
朔は何も言えなかった。
ミナトの言葉は正しい。
正しすぎる。
「冷たいことを言うとる自覚はある」
ミナトは続けた。
「けど、村長は冷たい順番を決めなあかん時がある」
「冷たい順番……」
「全部は助けられん。
なら、誰から守るかを決める。
それが嫌なら、村長なんぞやらん方がええ」
ミナトの横顔は、年老いた戦士のものだった。
優しいだけではない。
信じているだけでもない。
祈っているだけでもない。
それでも人を守るために、切るべきものを切ろうとする顔。
「ワシかて、北の子を見捨てたいわけやない」
その声は、少しだけかすれていた。
「でもな、まずツヅリや。
ハルや。
ここにおる子どもらや。
飯を食うて、泣いて、走って、転ぶやつらや」
ミナトは朔を見る。
「遠くの声に耳を塞げとは言わん。
ただ、足を持っていかれるな」
その言葉は、胸の奥に重く沈んだ。
朔は、北の空を見る。
声は届いている。
でも、足はここにある。
「……分かりました」
朔は言った。
納得したわけではない。
でも、今は従うべきだと思った。
「北へは行きません」
「今は、や」
ミナトが釘を刺す。
「今は、です」
朔は答えた。
ミナトは少しだけ目を細めたが、それ以上は言わなかった。
***
見張り台には、昔の傷があった。
昼過ぎ、補強作業を手伝っていた男が、古い柱の一部を削り落とした。
すると、その内側から黒く焼けたような跡が現れた。
「ここ、燃えたことあるんですか」
朔が聞くと、男は一瞬手を止めた。
「ああ。昔な」
その声に、近くで縄を結んでいたミナトが振り返った。
「話してもええですか」
男が確認するように言う。
ミナトは少し考え、頷いた。
「隠す話でもない」
男は柱を撫でた。
「この見張り台はな、昔はちゃんと使われとったんや。
今より森が近かった頃、魔物が増え始めて、村の若い衆が交代で立っとった」
「使われなくなった理由は?」
朔が聞くと、男は少し言いづらそうにした。
代わりにミナトが答えた。
「見張りが一人、消えた」
「消えた?」
「夜の番に立っとった若い男や。
朝になったら、見張り台の上には槍だけ残っとった。
血はない。足跡もない。
ただ、柱の一部が黒く焦げとった」
朔は、黒い焼け跡を見る。
火事の跡には見えない。
燃え広がったというより、そこだけ何かが染み込んだような黒さだった。
「魔物ですか」
「分からん」
ミナトは言った。
「その頃から、森の奥で変な声がするようになった。
見張り台に立つと、誰かに呼ばれる。
そう言う者もおった」
リーネが静かに目を伏せた。
朔は気づいた。
この見張り台は、ただ便利な高台ではない。
村が一度、森の異変と向き合おうとして、そして何かを失った場所なのだ。
「それで、使われなくなった」
「完全にやない。
でも、皆あまり近づかんようになった。
祠がある村やからな。
怖いものを全部魔物のせいにも、全部殻のせいにもできん」
ミナトは淡々と言った。
その言葉の意味は重かった。
ツヅリ村は、ただ無知に祈ってきたわけではない。
分からないものに傷つきながら、それでも祈るしかなかったのだ。
「それでも、ここを使うんですね」
朔が言うと、ミナトは柱を叩いた。
「怖い場所でも、役に立つなら使う。
怖くない場所が安全とは限らん」
それは、今の村に必要な考え方だった。
そしてたぶん、朔自身にも。
***
ハルは、当然のように話を聞きつけた。
夕方、子どもたちの避難訓練が終わった後、朔が丘の上で息を整えていると、ハルが隣に座った。
「北に、まだ誰かおるかもしれんのやろ」
朔は、思わずハルを見た。
「誰から聞いた」
「大人らが小声で話しとった」
「小声の意味ないな」
「俺、耳ええから」
ハルは得意げに言ったが、すぐに真面目な顔に戻った。
「生きてるん?」
「分からない」
「助けに行かへんの?」
「行けない」
「なんで」
「今、村を空けるわけにはいかない。
俺一人で行っても、たぶん死ぬ。
誰かを連れて行けば、村の守りが薄くなる」
朔は、ミナトに言われたことを自分の言葉で繰り返した。
「だから、今は行けない」
ハルは丘の下を見た。
村がある。
煙突から細く煙が上がっている。
子どもたちが広場でまだ騒いでいる。
女たちが洗濯物を取り込み、男たちが柵を確認している。
「でも、生きてるなら助けたい」
ハルが言った。
「ああ」
「サクも?」
「ああ」
「じゃあ、苦しいな」
その言い方があまりにも素直で、朔は少し驚いた。
「……そうだな」
「助けたいのに助けに行けへんの、嫌やな」
「ああ」
「勇者って、そういう時どうするんやろ」
ハルは、答えを求めるように朔を見た。
朔は少し考えた。
「知らない」
「サク、勇者やのに」
「まだ認めてない」
「じゃあ、殴る勇者見習い」
「それも微妙だな」
朔は苦笑したあと、言った。
「でも、たぶん……全部助けられると思ったら危ない」
「なんで」
「助けられなかった時、自分も周りも壊れるから」
ハルは黙った。
難しい話だと思ったのかもしれない。
けれど、朔は続けた。
「だからって、最初から諦めるのも違う。
今できることを増やす。
逃げ道を作る。
村を守る。
情報を集める。
助けに行ける形になるまで、足掻く」
ハルはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「じゃあ、強くならなあかんな」
「ああ」
「村も、俺も、サクも」
「ああ」
「そしたら、いつか助けに行けるかもしれへん」
朔は答えなかった。
約束はできない。
希望だけを渡すのも危うい。
でも、ハルのその言葉を否定することもできなかった。
「そうだな」
結局、そう答えた。
ハルは少しだけ笑った。
「俺、もっと走るわ。坂も文句言わん」
「さっき文句言ってたぞ」
「明日から」
「信用できないな」
「明日からやって!」
二人の間に、小さな笑いが生まれた。
その笑いは、風に流されて丘の下へ消えていった。
***
日が沈むころ、朔は一人で見張り台に上った。
階段はまだ軋む。
補強されたとはいえ、完全に安全とは言えない。
それでも上に立つと、村全体が見渡せた。
ツヅリ村。
祠。
森。
北へ続く道。
そして、遠くの空。
北の方角に、薄い煙のようなものが見えた。
雲かもしれない。
霧かもしれない。
山の影かもしれない。
けれど、朔にはそれが、燃え残りの煙のように見えた。
耳の奥で、ノイズが鳴る。
——ざざっ。
朔は手すりを掴んだ。
今度は幻視ではない。
映像は来ない。
ただ、遠くから意味だけが滲むように届いた。
——まだ、いる。
前より、少しだけはっきりしていた。
朔は北の空を見つめた。
「……誰がいるんだよ」
答えはない。
風だけが、古い見張り台を通り抜けていく。
助けに行けない。
それは分かっている。
今行けば、きっと何かを間違える。
でも、声はまだ届いている。
朔は拳を握った。
小さな子どもの手。
けれど、その中に宿る悔しさだけは、大人のままだった。
遠くの森が、夕闇の中で黒く沈んでいく。
その形は、まるで大きな口のようにも見えた。
飲み込むために、静かに開いている口。
朔は、丘の上で一人、北を見続けた。
まだ、いる。
その言葉が、祈りなのか、呪いなのか。
今の朔には、まだ分からなかった。




