↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/145

第一章 祈りの殻の子 ⑨ まだ、いる




 ——まだ、いる。


 その言葉を、朔は誰にも言っていなかった。


 逃げ道のことは話した。

 森へ逃げるな。

 低いところへ行くな。

 水の音を追うな。

 上へ行け。


 それは、ミナトにもリーネにも伝えた。


 だから避難場所は、村の中央にある井戸横から、北の丘にある古い見張り台へ変わった。

 子どもたちは坂道を走らされ、大人たちは腐りかけた柱を打ち直し、村は少しずつ“逃げる形”を覚え始めている。


 なのに、一番引っかかっている言葉だけを、朔はまだ口にしていなかった。


 ——まだ、いる。


 誰が。


 何が。


 どこに。


 それが分からない。


 分からないから言えなかった。

 そう自分に言い聞かせていた。


 だが、本当は違う。


 言ってしまえば、認めることになる。


 北の村に、まだ誰かがいるかもしれない。


 あの首筋に痕のある子どもが、生きているかもしれない。


 そして自分は、助けに行きたいと思ってしまうかもしれない。


「目の前におる者を置いて、遠くの声だけ追うな」


 ミナトの言葉が、胸の奥に残っている。


 その通りだと思う。

 今の朔に守れるのは、ツヅリ村だ。

 ハルだ。

 目の前で飯を食い、笑い、走り、怖がっている人たちだ。


 けれど。


 もし、あの声が本当に助けを求めているのなら。


 その声を聞いてしまった自分は、ただ聞かなかったふりをしていいのか。


 朝の光が、村長の家の床を薄く照らしている。


 朔はまだ痛む脇腹を押さえながら、静かに立ち上がった。


 まずは、リーネに話すべきだと思った。


***


 リーネは、祠の前で水を汲んでいた。


 小さな桶に入った水を、白い円の周囲に少しずつ撒いている。

 水は石の上を滑るように流れ、黒い点の手前で止まった。


 まるで、そこだけ水が避けているように見えた。


「おはようございます」


 朔が声をかけると、リーネは振り返らずに言った。


「眠れていない」


「顔に出てますか」


「出ている」


「便利ですね、俺の顔」


「隠すのが下手なだけ」


 リーネは桶を置き、ようやく朔を見た。


「何か言い忘れた顔をしている」


 朔は、少しだけ息を詰まらせた。


「……分かるんですか」


「声を聞いた後の人は、言葉を一つ残すことがある」


「言葉を?」


「喉に刺さった棘みたいに」


 リーネはそう言って、祠の中心を見る。


「刺さったまま放っておくと、熱を持つ」


 朔は黙っていた。


 見透かされている気がした。


 いや、実際に見透かされているのかもしれない。

 リーネは祠の声を聞く者を、朔よりずっと前から見てきたのだろう。


「幻視の最後に、もう一つ言葉がありました」


「なに」


「まだ、いる」


 リーネの表情が、わずかに変わった。


 昨日、「黒い点」を見たときよりも、もっと小さな変化。

 けれど、今度は朔にも分かった。


 彼女は動揺した。


「それは……誰が言った」


「首筋に痕のある子どもです。たぶん。

 顔は見えませんでした。でも、口が動いて……意味だけが入ってきた」


「まだ、いる」


 リーネが、その言葉を低く繰り返す。


「心当たりがあるんですか」


 朔が聞くと、リーネはしばらく答えなかった。


 祠の中は、朝なのに薄暗い。

 外では村人たちの声がしている。

 でも、ここだけは別の時間の中に沈んでいるみたいだった。


「昔、似た声を聞いた」


 リーネが言った。


「似た声?」


「まだ、泣いている」


 朔は、何も言えなかった。


 リーネは黒い点ではなく、白い円の外側を見ていた。

 そこには何もない。

 ただの石の床だ。


 けれど彼女には、別の何かが見えているようだった。


「小さな祠が黒くなった時、私は声を聞いた。

 まだ、泣いている。

 助けて。

 寒い。

 暗い。

 そういう意味が、途切れ途切れに届いた」


「助けに行ったんですか」


「行かなかった」


 リーネの声は、いつも通り静かだった。


 でも、そこに冷たさはなかった。


「行けなかった、の方が近い。

 大人たちは、私の聞いた声を信じなかった。

 私はまだ子どもで、祈りの扱いも未熟だった。

 その祠は翌朝には割れて、黒いものも、声も、全部消えた」


「その声の主は……」


「分からない」


 リーネは答えた。


「だから今も、分からないまま残っている」


 それは、傷の話なのだと思った。


 朔の脇腹に残る痛みとは違う。

 治りかけては疼く、もっと古い傷。


 リーネが祠に触れる朔を嫌がる理由が、少しだけ分かった気がした。


「声は、人を引く」


 リーネは言った。


「助けたいと思わせる。

 間に合うかもしれないと思わせる。

 でも、声が届く時には、もう届きすぎていることもある」


「届きすぎている?」


「死に近いものほど、強く祈る。

 壊れかけたものほど、遠くまで響く」


 朔は唇を噛んだ。


 それはつまり、あの子どもが生きている保証にはならないということだ。


 むしろ、逆かもしれない。


「でも、“まだ、いる”なら……」


 言いかけて、朔は言葉を止めた。


 自分が何を言おうとしているのか、分かったからだ。


 まだいるなら、助けに行けるかもしれない。


 そう言いたかった。


 リーネは、その続きを聞かなくても分かったようだった。


「ゲンザに話すべき」


「はい」


「でも、覚えておいて」


 リーネは朔を見る。


「声を聞いた者が、必ず声の場所へ行かなければならないわけではない」


「……分かっています」


「分かっている顔ではない」


「顔、便利すぎませんか」


「とても」


 リーネは淡々と言った。


 少しだけ、空気が緩んだ。


 だがすぐに、彼女は祠の奥へ目を戻す。


「黒い点は広がっていない。

 でも、止まっているわけではない」


「待っているんですか」


「たぶん」


「何を」


「それを、私たちは知らない」


 祠の中に、短い沈黙が落ちた。


 朔は黒い点を見つめる。


 その小さな黒は、ただそこにあるだけだった。

 広がらず、消えず、まるで目を閉じている生き物のように。


***


 ミナトは、村の北側で見張り台の修理を見ていた。


 丘の上に立つ古い見張り台は、近くで見ると昨日よりずっと頼りなく見えた。

 柱の根元は黒ずみ、階段の一部は踏めば軋む。

 それでも男たちが新しい板を打ち付け、縄で補強し、少しずつ使える形に戻していた。


 朔とリーネが丘を上がると、ミナトは二人の顔を見てすぐに察したようだった。


「また悪い話か」


「良い話ではないです」


「最近そればっかりやな」


 ミナトは苦笑したが、目は笑っていなかった。


 朔は「まだ、いる」のことを話した。


 幻視の最後に見た、首筋に痕のある子ども。

 その子が伝えてきた言葉。

 リーネが昔聞いた「まだ、泣いている」という声。


 ミナトは腕を組み、黙って聞いていた。


 話し終えると、しばらく丘の北側を見た。


 北の空は薄く霞んでいる。

 森の向こうに何があるのか、ここからは分からない。


「サク」


「はい」


「北へは行かせんぞ」


 最初に出た言葉は、それだった。


 朔は拳を握った。


「まだ何も言ってません」


「顔に書いてある」


「俺の顔、そんなに便利ですか」


「便利やな」


 ミナトはあっさり言った。


 リーネが横で小さく頷く。


 朔は反論を飲み込んだ。


「生きてるかもしれないんです」


「かもしれない、や」


「でも——」


「今のツヅリに、北へ人を出す余裕はない」


 ミナトの声は低く、はっきりしていた。


「柵はまだ直りきっとらん。

 見張り台も半分腐っとる。

 子どもらは新しい逃げ道を覚え始めたばかりや。

 森の鳴き声は近づいとる。

 祠には黒い点がある」


 ミナトは一つずつ指を折るように言った。


「この状態で、お前を北へ行かせる?

 誰かをつける?

 その間、村の守りを薄くする?

 かもしれない誰かのために、ここにおる確かな命を危険に晒す?」


 朔は何も言えなかった。


 ミナトの言葉は正しい。


 正しすぎる。


「冷たいことを言うとる自覚はある」


 ミナトは続けた。


「けど、村長は冷たい順番を決めなあかん時がある」


「冷たい順番……」


「全部は助けられん。

 なら、誰から守るかを決める。

 それが嫌なら、村長なんぞやらん方がええ」


 ミナトの横顔は、年老いた戦士のものだった。


 優しいだけではない。

 信じているだけでもない。

 祈っているだけでもない。


 それでも人を守るために、切るべきものを切ろうとする顔。


「ワシかて、北の子を見捨てたいわけやない」


 その声は、少しだけかすれていた。


「でもな、まずツヅリや。

 ハルや。

 ここにおる子どもらや。

 飯を食うて、泣いて、走って、転ぶやつらや」


 ミナトは朔を見る。


「遠くの声に耳を塞げとは言わん。

 ただ、足を持っていかれるな」


 その言葉は、胸の奥に重く沈んだ。


 朔は、北の空を見る。


 声は届いている。

 でも、足はここにある。


「……分かりました」


 朔は言った。


 納得したわけではない。

 でも、今は従うべきだと思った。


「北へは行きません」


「今は、や」


 ミナトが釘を刺す。


「今は、です」


 朔は答えた。


 ミナトは少しだけ目を細めたが、それ以上は言わなかった。


***


 見張り台には、昔の傷があった。


 昼過ぎ、補強作業を手伝っていた男が、古い柱の一部を削り落とした。

 すると、その内側から黒く焼けたような跡が現れた。


「ここ、燃えたことあるんですか」


 朔が聞くと、男は一瞬手を止めた。


「ああ。昔な」


 その声に、近くで縄を結んでいたミナトが振り返った。


「話してもええですか」


 男が確認するように言う。


 ミナトは少し考え、頷いた。


「隠す話でもない」


 男は柱を撫でた。


「この見張り台はな、昔はちゃんと使われとったんや。

 今より森が近かった頃、魔物が増え始めて、村の若い衆が交代で立っとった」


「使われなくなった理由は?」


 朔が聞くと、男は少し言いづらそうにした。


 代わりにミナトが答えた。


「見張りが一人、消えた」


「消えた?」


「夜の番に立っとった若い男や。

 朝になったら、見張り台の上には槍だけ残っとった。

 血はない。足跡もない。

 ただ、柱の一部が黒く焦げとった」


 朔は、黒い焼け跡を見る。


 火事の跡には見えない。

 燃え広がったというより、そこだけ何かが染み込んだような黒さだった。


「魔物ですか」


「分からん」


 ミナトは言った。


「その頃から、森の奥で変な声がするようになった。

 見張り台に立つと、誰かに呼ばれる。

 そう言う者もおった」


 リーネが静かに目を伏せた。


 朔は気づいた。


 この見張り台は、ただ便利な高台ではない。

 村が一度、森の異変と向き合おうとして、そして何かを失った場所なのだ。


「それで、使われなくなった」


「完全にやない。

 でも、皆あまり近づかんようになった。

 祠がある村やからな。

 怖いものを全部魔物のせいにも、全部殻のせいにもできん」


 ミナトは淡々と言った。


 その言葉の意味は重かった。


 ツヅリ村は、ただ無知に祈ってきたわけではない。

 分からないものに傷つきながら、それでも祈るしかなかったのだ。


「それでも、ここを使うんですね」


 朔が言うと、ミナトは柱を叩いた。


「怖い場所でも、役に立つなら使う。

 怖くない場所が安全とは限らん」


 それは、今の村に必要な考え方だった。


 そしてたぶん、朔自身にも。


***


 ハルは、当然のように話を聞きつけた。


 夕方、子どもたちの避難訓練が終わった後、朔が丘の上で息を整えていると、ハルが隣に座った。


「北に、まだ誰かおるかもしれんのやろ」


 朔は、思わずハルを見た。


「誰から聞いた」


「大人らが小声で話しとった」


「小声の意味ないな」


「俺、耳ええから」


 ハルは得意げに言ったが、すぐに真面目な顔に戻った。


「生きてるん?」


「分からない」


「助けに行かへんの?」


「行けない」


「なんで」


「今、村を空けるわけにはいかない。

 俺一人で行っても、たぶん死ぬ。

 誰かを連れて行けば、村の守りが薄くなる」


 朔は、ミナトに言われたことを自分の言葉で繰り返した。


「だから、今は行けない」


 ハルは丘の下を見た。


 村がある。

 煙突から細く煙が上がっている。

 子どもたちが広場でまだ騒いでいる。

 女たちが洗濯物を取り込み、男たちが柵を確認している。


「でも、生きてるなら助けたい」


 ハルが言った。


「ああ」


「サクも?」


「ああ」


「じゃあ、苦しいな」


 その言い方があまりにも素直で、朔は少し驚いた。


「……そうだな」


「助けたいのに助けに行けへんの、嫌やな」


「ああ」


「勇者って、そういう時どうするんやろ」


 ハルは、答えを求めるように朔を見た。


 朔は少し考えた。


「知らない」


「サク、勇者やのに」


「まだ認めてない」


「じゃあ、殴る勇者見習い」


「それも微妙だな」


 朔は苦笑したあと、言った。


「でも、たぶん……全部助けられると思ったら危ない」


「なんで」


「助けられなかった時、自分も周りも壊れるから」


 ハルは黙った。


 難しい話だと思ったのかもしれない。


 けれど、朔は続けた。


「だからって、最初から諦めるのも違う。

 今できることを増やす。

 逃げ道を作る。

 村を守る。

 情報を集める。

 助けに行ける形になるまで、足掻く」


 ハルはしばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「じゃあ、強くならなあかんな」


「ああ」


「村も、俺も、サクも」


「ああ」


「そしたら、いつか助けに行けるかもしれへん」


 朔は答えなかった。


 約束はできない。

 希望だけを渡すのも危うい。


 でも、ハルのその言葉を否定することもできなかった。


「そうだな」


 結局、そう答えた。


 ハルは少しだけ笑った。


「俺、もっと走るわ。坂も文句言わん」


「さっき文句言ってたぞ」


「明日から」


「信用できないな」


「明日からやって!」


 二人の間に、小さな笑いが生まれた。


 その笑いは、風に流されて丘の下へ消えていった。


***


 日が沈むころ、朔は一人で見張り台に上った。


 階段はまだ軋む。

 補強されたとはいえ、完全に安全とは言えない。


 それでも上に立つと、村全体が見渡せた。


 ツヅリ村。

 祠。

 森。

 北へ続く道。


 そして、遠くの空。


 北の方角に、薄い煙のようなものが見えた。


 雲かもしれない。

 霧かもしれない。

 山の影かもしれない。


 けれど、朔にはそれが、燃え残りの煙のように見えた。


 耳の奥で、ノイズが鳴る。


 ——ざざっ。


 朔は手すりを掴んだ。


 今度は幻視ではない。


 映像は来ない。

 ただ、遠くから意味だけが滲むように届いた。


 ——まだ、いる。


 前より、少しだけはっきりしていた。


 朔は北の空を見つめた。


「……誰がいるんだよ」


 答えはない。


 風だけが、古い見張り台を通り抜けていく。


 助けに行けない。


 それは分かっている。

 今行けば、きっと何かを間違える。


 でも、声はまだ届いている。


 朔は拳を握った。


 小さな子どもの手。

 けれど、その中に宿る悔しさだけは、大人のままだった。


 遠くの森が、夕闇の中で黒く沈んでいく。


 その形は、まるで大きな口のようにも見えた。


 飲み込むために、静かに開いている口。


 朔は、丘の上で一人、北を見続けた。


 まだ、いる。


 その言葉が、祈りなのか、呪いなのか。


 今の朔には、まだ分からなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。