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第一章 祈りの殻の子 ⑩ 黒い点



 分かりました。


 昨日、朔はミナトにそう答えた。


 北へは行かない。

 今は、ツヅリ村を守る。

 目の前にいる者を置いて、遠くの声だけを追わない。


 それが正しい。


 分かっている。


 でも、納得したわけではなかった。


 正しい言葉ほど、逃げ道を塞ぐことがある。


 ミナトの言葉は正しかった。

 だからこそ、朔は何も言えなかった。


 全部は助けられない。

 誰から守るかを決める。


 それは、現代で聞いてきた言葉に少し似ていた。


 優先順位。

 効率。

 リソース配分。

 切るべきものを切る判断。


 ミカド社長は、それを数字で言った。

 使えない者から切り捨てろ、と。


 ミナトは、それを命で言った。

 今ここにいる者から守れ、と。


 似ている。


 でも、違う。


 違うはずなのに、胸の奥で一瞬だけ重なった。


 だから苦しかった。


「サク」


 ハルの声で、朔は顔を上げた。


 朝の広場。

 子どもたちは今日も坂道の避難訓練をするために集められている。


 ハルは小さな子の手を引きながら、朔を見ていた。


「また考え込んどる」


「元からだ」


「それ禁止」


「なんでだよ」


「最近そればっかりやから」


 ハルが真面目な顔で言った。


 朔は少しだけ笑った。


「じゃあ、考え事してた」


「何を?」


「どうやったら全員逃げられるか」


「……それは俺も考える」


 ハルはそう言って、小さな子どもに向き直った。


「今日は転んでも泣かん練習や!」


「泣いたらあかんの?」


「泣いてもええけど、泣きながら走る!」


「難しい!」


「勇者見習いの練習やからな!」


 子どもたちが文句を言いながらも笑う。


 その笑い声を聞いていると、北の声を追いたい自分が、少しだけ責められている気がした。


 ここにも、まだいる。


 守らなければならない者たちが。


***


 その日の朝、リーネがミナトを呼んだ。


 祠の中に入ると、朔にもすぐ分かった。


 黒い点が、広がっている。


 昨日までは針の先ほどだった。

 今は、小さな豆粒ほどの大きさになっている。


 大きな変化ではない。

 何も知らない者なら、石の染みだと思うかもしれない。


 だが、一度それが何かを知ってしまえば、もうただの汚れには見えなかった。


 白い円の中に浮かぶ、黒。


 まるで、目を閉じていた何かが、少しだけ瞼を開いたようだった。


「朝の祈りをした」


 リーネが言った。


「昨日と同じように、水を撒き、祈りを置いた。

 でも、今日は返らなかった」


「返らない?」


 朔が聞く。


「いつもなら、祠の奥で小さく響く。

 言葉ではない。

 でも、こちらの祈りが触れた感覚がある」


 リーネは黒い点を見つめた。


「今日は、沈んだ」


「沈んだ……」


「祈りが、底に落ちる。

 返ってこない」


 ミナトが腕を組んだ。


「悪い兆しか」


「良い兆しではない」


「お前がそう言う時は、だいたい悪い」


「なら、悪い」


 リーネは淡々と答えた。


 ミナトは深く息を吐いた。


「隠しきれるか」


「今日中なら。

 でも、明日には誰かが気づく」


「なら、先に言うしかないな」


 ミナトの声に迷いはなかった。


 朔は黒い点を見る。


「村の人たちに、全部話すんですか」


「全部は話さん。

 でも、殻に小さな異変があることは言う」


「混乱しませんか」


「するやろな」


 ミナトはあっさり言った。


「でも、見つかってから黙っとったと知られる方が悪い。

 怖さは、隠すと腐る」


 その言葉に、朔は黙った。


 ミナトは、怖さを否定しない。

 村人の不安も、朔の迷いも、リーネの沈黙も。


 ただ、それを腐らせないように順番を考えている。


 それが、村長なのだろう。


***


 昼前、村人たちは広場に集められた。


 畑仕事の手を止めた男たち。

 洗濯途中の女たち。

 子どもたち。

 老人たち。


 みんなが、ミナトの前に集まる。


 朔は広場の端に立っていた。

 隣にはハルがいる。


 ハルは何も言わず、朔の袖を軽く掴んでいた。


 ミナトは、ゆっくりと口を開いた。


「昨日から、祠に小さな変化が出とる」


 広場がざわめいた。


 リーネが一歩前に出る。


「白い円の中に、黒い点がある。

 今はまだ小さい。

 ただ、朝の祈りが返りにくくなっている」


「それは、北の村と同じなんか」


 誰かが言った。


 声の主は、年配の男だった。

 恐怖を隠そうとして、隠しきれていない声。


 リーネは少しだけ間を置いた。


「分からない」


「分からないって……」


「同じかもしれない。違うかもしれない。

 だから、備える」


 ミナトが引き取った。


「今日から見張りを増やす。

 避難場所は北の見張り台に変える。

 水と食料は二か所に分ける。

 子どもらには、毎日走らせる」


「毎日!?」


 子どもたちの中から不満の声が出た。


 だが、大人たちは笑わなかった。


「念のためや。

 何もなければ、それでええ。

 ただの練習で終われば、それが一番ええ」


 ミナトの言葉に、何人かが頷く。


 それでも、不安は消えない。


 やがて、別の声が上がった。


「殻の子が出たからやないんか」


 広場が静まり返った。


 朔は、自分の体が少し冷えるのを感じた。


 声の主は、若い男だった。

 柵の補強を手伝っていた一人だ。


 彼はすぐに目をそらした。


「いや……別に、責めてるわけやない。

 でも、サクが来てから、ワンアイも出た。

 ツノオオカミも来た。

 今度は祠が黒くなった。

 誰も、何も思ってへんわけやないやろ」


「やめろ」


 近くの男が低く言った。


「でも——」


「サクのせいやない!」


 ハルが叫んだ。


 袖を掴んでいた手を離し、前へ出る。


「サクは俺を助けた!

 村のために逃げ道も考えた!

 毎日、子どもらにも教えてくれてる!

 それを、なんで——」


「ハル」


 ミナトの声が飛んだ。


 怒鳴り声ではない。

 けれど、ハルの足を止めるには十分だった。


「怒鳴ったら、相手の怖さは消えるんか」


 ハルは口を開いたまま、言葉を失った。


 ミナトは若い男を見た。


「怖いんは分かる」


 若い男の肩が、少しだけ揺れた。


「殻が黒くなった。

 魔物も増えとる。

 噂では、北の村も焼けた。

 その上、殻から子どもが出てきた。

 繋げて考えるなと言う方が無理や」


 朔は、ミナトの言葉を黙って聞いていた。


 庇われているのに、胸が痛かった。


 なぜなら、自分でも同じことを考えているからだ。


 自分が来たから。

 自分の中にある得体の知れない何かが、祠を変えているのではないか。

 魔物を呼んでいるのではないか。


 完全には否定できない。


「せやけどな」


 ミナトの声が、少しだけ強くなる。


「分からん怖さを、誰か一人に背負わせたら楽になる。

 でも、それは備えやない。

 ただの逃げや」


 広場に沈黙が落ちる。


「サクが原因かどうか、今は誰にも分からん。

 殻の異変が何かも、誰にも分からん。

 せやから、決めつける前にやることをやる」


 ミナトは村人たちを見渡した。


「柵を直す。

 見張りを増やす。

 水を運ぶ。

 子どもらを走らせる。

 リーネは祠を見る。

 サクは、逃げ道を考える」


 そして、最後に言った。


「怖い者は、怖いと言え。

 ただし、怖いから誰かを捨てる村にはせん」


 その言葉は、静かに広場へ落ちた。


 若い男は、うつむいたままだった。


「……悪かった」


 小さな声で、そう言った。


 朔に向けてか。

 ミナトに向けてか。

 村全体に向けてか。


 分からない。


 朔は少しだけ頭を下げた。


「俺も、分からないことが多いです」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「俺が原因じゃないとは、言い切れません。

 でも、逃げません。

 今できることをします」


 ハルが隣で、ぐっと拳を握ったのが見えた。


 村人たちは、完全に安心したわけではない。


 それでも、誰かを追い出す空気にはならなかった。


 ミナトが、それをぎりぎりで止めたのだ。


***


 午後、見張り台の補強作業が続いた。


 朔は重い木材を持つことは禁じられていたので、柱や足場の位置を確認する役をしていた。


 階段の角度。

 手すりの高さ。

 子どもが滑りやすい場所。

 夜でも分かる目印。


 地味な作業だ。


 でも、これが命に関わる。


「ここ、布を巻いた方がいいです。

 夜だと角にぶつかる」


「布なんぞ巻いても、雨で腐るぞ」


「じゃあ縄で。触った時に分かるように」


「なるほどな」


 男たちが頷き、縄を巻いていく。


 朔はふと、昨日見つけた黒い焦げ跡の柱に目を向けた。


 そこだけ、どうしても気になる。


 近づいて、指で触れようとして——止めた。


 祠でのことを思い出したからだ。


 触れれば、また何かを見るかもしれない。


「気になるか」


 ミナトの声がした。


 朔は振り返る。


「この焦げ跡、火事の跡じゃないですよね」


「そう見えるか」


「はい」


 朔は黒い部分を見つめた。


「焦げたというより、染み出してるみたいです。

 内側から、黒が浮いてきたように見える」


 ミナトの顔が少し険しくなる。


「祠の黒い点と同じか」


「似てます」


 リーネは、祠の黒い点を「石の奥から浮いてきている」と言った。


 この柱の黒も、同じように見える。


 表面についた汚れではない。

 木の中から、黒が染み出した跡。


「ここで消えた見張りの人は、祠と関係があったんですか」


「分からん」


 ミナトは答えた。


「ただ、その男は最後の夜、変なことを言うとった」


「変なこと?」


「森から声がする、と」


 朔の背筋が冷えた。


「どんな声ですか」


「そこまでは聞けんかった。

 ただ、朝になったら消えとった」


 ミナトは柱に触れず、少し離れたところから黒い跡を見た。


「ワシはその時、まだ村長ではなかった。

 何も分からんまま、皆で森を探した。

 見つからんかった」


 まただ、と朔は思った。


 リーネの「まだ、泣いている」。

 ミナトの「消えた見張り」。

 北の村の「まだ、いる」。


 この世界には、助けられなかった声がいくつも残っている。


 そして今、その声が朔のところに届き始めている。


「触るなよ」


 ミナトが言った。


「分かってます」


「分かってる顔をしとらん」


 朔は言い返そうとして、やめた。


 また“顔”の話になるのが嫌だったからだ。


 代わりに、手を引っ込めた。


「今は触りません」


「今は、か」


「はい」


 ミナトは苦笑した。


「正直でよろしい」


***


 夕方、避難訓練は北の見張り台まで行われた。


 子どもたちは文句を言いながらも、昨日より早く坂を上れるようになっていた。


 ハルは小さい子の手を引き、途中で転びかけた子を支え、それでも最後まで走った。


 見張り台に着いた時、子どもたちは息を切らしながら地面に座り込む。


「しんどい!」


「毎日は嫌や!」


「でも昨日より速かったで!」


 ハルが得意げに言う。


「俺ら、生き残る勇者団やな!」


「勝手に団にするな」


 朔が言うと、子どもたちは笑った。


 その笑いを聞きながら、朔は祠の方を見る。


 村の中央にある白い点。


 その中の黒は、ここからは見えない。


 見えないだけで、確かにそこにある。


 それは、人の不安に似ていると思った。


 見えないうちは平気なふりができる。

 けれど、一度見えてしまえば、もう無かったことにはできない。


***


 夜。


 朔は見張り台の下にいた。


 本来なら子どもは寝ている時間だ。

 だが、ミナトに頼み込んで、短い時間だけ見張りに同行する許可をもらった。


 理由は、避難経路の確認。

 建前としてはそうだった。


 本当は、森が気になっていた。


 森は口だ。


 その言葉が、頭から離れない。


 見張り台の上には、村の男が一人立っている。

 朔は下で、階段と坂道の位置を確認していた。


 月は雲に隠れている。

 風が強い。


 森は、昼間よりずっと近くに見えた。


 黒い木々が重なり合い、その奥は何も見えない。

 ただ、暗い。


 暗いだけなのに、そこに何かが詰まっているように見える。


「サク」


 上から小さな声がした。


 見張りの男だ。


「今、森の端で何か動かんかったか」


 朔は息を止めた。


 森を見る。


 何もいない。


 そう思った瞬間。


 木々の間に、白い点が浮かんだ。


 一つ。


 目だ。


 朔は直感した。


 月明かりの反射ではない。

 獣の目とも違う。


 白い。


 濁ったような、乾いたような白。


 それが、森の端からこちらを見ていた。


「……見えます」


 朔は小さく答えた。


「魔物か」


「分かりません」


 白い目は、瞬きしなかった。


 動かない。

 近づいてこない。

 逃げもしない。


 ただ、見ている。


 森は口だ。


 なら、あの目は何だ。


 口の中から、こちらを見ているのか。


 朔の耳の奥で、かすかにノイズが鳴る。


 ——ざざっ。


 その瞬間、白い目がすっと消えた。


 森はまた、ただの黒に戻った。


 見張りの男が息を呑む音が聞こえた。


「……今の、見たよな」


「はい」


「村長呼ぶか」


「呼びましょう」


 朔は森から目を離さずに答えた。


 襲ってはこなかった。


 ただ見ていた。


 それが、何より不気味だった。


***


 その夜、森は村を襲わなかった。


 柵が壊されることもなかった。

 家畜が叫ぶこともなかった。

 祠の黒い点が急に広がることもなかった。


 何も起きなかった。


 ただ、見られた。


 森の奥から。

 白い目で。

 じっと。


 朔は村長の家の寝床に戻っても、なかなか眠れなかった。


 あの目が、頭の奥に残っている。


 獲物を見つけた目ではなかった。

 襲う前の目でもなかった。


 もっと別のもの。


 場所を覚える目。


 数を数える目。


 逃げ道を測る目。


 そう思った瞬間、背中が冷えた。


 森はまだ襲ってこなかった。


 ただ、村を覚えた。

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