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第一章 祈りの殻の子 ⑪ 見られた村



 ミナトが見張り台に着いた時、森はもう沈黙していた。


 白い目は消えている。


 ただ、黒い木々が重なり合い、その奥に何かを隠しているだけだった。


 朔は見張り台の下で、まだ森を見ていた。

 上にいた見張りの男は、槍を握ったまま降りてこない。


 顔色が悪い。


 月明かりのせいだけではなかった。


「どこや」


 ミナトが短く聞いた。


 朔は森の端を指さした。


「柵の向こう、あの曲がった木の横です」


「近いな」


「はい」


「襲ってこんかったんやな」


「ただ、見てました」


 ミナトは眉を寄せた。


「それが一番嫌やな」


 見張りの男が、上から小さく言った。


「村長……あれ、何やったんですか」


「分からん」


 ミナトは即答した。


 分からない、と言われた男の肩が、目に見えて強張る。


「魔物ですか」


「その可能性はある」


「でも、動かんかった。

 こっち見て、ただ……じっと」


 男は唾を飲み込んだ。


「ワンアイでも、ツノオオカミでもなかった。

 腹減った獣の目やない。

 あれは……人を見る目やった」


 人を見る目。


 朔の背中に、冷たいものが走った。


 自分も同じように感じていた。

 獲物を見つけた目ではない。

 場所を覚える目。

 数を数える目。

 逃げ道を測る目。


 だが、それを今口に出せば、見張りの男の恐怖をさらに形にしてしまう。


 朔は黙っていた。


 ミナトはしばらく森を見つめてから、言った。


「今夜は見張りを増やす。

 ただし、騒ぐな。

 “森の端に魔物らしきものが出た”。村にはそう伝える」


「白い目のことは?」


 朔が聞いた。


 ミナトは森から目を離さないまま答えた。


「まだ言わん」


「なぜですか」


「言えば、皆が目を探す」


 ミナトの声は低かった。


「森を見る時間が増える。

 森に心を持っていかれる」


 朔は何も言えなかった。


 見ることは、ただ情報を得ることではない。

 見るほどに、意識がそこへ引かれていく。


 白い目が村を見た。

 そして今、村もまた森を見始めている。


 それ自体が、もう何かの罠なのかもしれない。


「サク」


「はい」


「お前も、見すぎるな」


 ミナトはそう言った。


 叱る声ではなかった。

 警告だった。


 朔は小さく頷く。


「分かりました」


 けれど、森から完全に目を離すことはできなかった。


***


 その夜、朔は眠れなかった。


 白い目が頭の奥に残っている。


 目を閉じると、森の黒の中に、それだけが浮かぶ。


 白く、濁った目。


 瞬きしない目。


 人を見ているのではなく、記録しているような目。


 ——ざざっ。


 耳の奥で、小さなノイズが鳴った。


 いつもの祠のノイズに似ていた。

 だが、少し違う。


 その奥に、別の音が混じっていた。


 かすかな電子音。

 規則的な、短い信号音。


 ピッ。


 ピッ。


 ピッ。


 どこかで聞いたことがある。


 白い天井。

 消毒液の匂い。

 薄いカーテン。

 腕に貼られた冷たい何か。


 そして、誰かの声。


 ——適合……


 音はそこで途切れた。


 朔は寝床の上で目を開いた。


 暗い天井がある。

 村長の家の木の梁。

 藁と土の匂い。


 ここはツヅリ村だ。


 現代ではない。


 だが、一瞬だけ、白い部屋の気配が重なった。


「……なんなんだよ」


 朔は小さく呟いた。


 祠の黒い点。

 祈りが沈んだこと。

 見張り台の黒い焦げ跡。

 北の声。

 まだ、いる。

 白い目。

 そして今の、電子音のようなもの。


 ひとつひとつは分からない。


 でも、分からないまま積み上がっている。


 保留にした言葉が、村の周りに杭のように打たれていく。


 その杭の内側で、村人たちは眠っている。

 何も知らないわけではない。

 でも、全部は知らない。


 朔も、全部は知らない。


 知らないまま、守らなければならない。


 それが、こんなにも重いものだとは思わなかった。


***


 翌朝、村の犬が吠えなかった。


 いつもなら、夜明け前に鶏より早く騒ぎ出す犬がいる。

 見知らぬ足音にも、風で揺れる桶にも、いちいち反応する小さな犬だ。


 その犬が、森側の柵の方を向いたまま、尻尾を丸めていた。


 喉の奥で、くうん、と小さく鳴くだけ。


 吠えない。


 近づこうとした子どもが、母親に引き戻された。


「触らんとき。今日は様子がおかしい」


 それだけではない。


 家畜小屋の羊も、朝の餌にすぐ寄ってこなかった。

 森側の壁に体を寄せるように固まり、顔だけを柵の外へ向けている。


 鳴き声が少ない。


 村は静かだった。


 静かすぎた。


 ハルが、朔の隣に立った。


「昨日、何かあったやろ」


 朔は少しだけ目を細めた。


「なんでそう思う」


「大人らが森を見る回数が増えた」


 ハルは広場の方を見ながら言った。


「水汲みに行くおばちゃんも、薪割ってるおっちゃんも、子どもに怒る時も、みんな一回森見る。

 でも、見たって言わへん。

 見てないふりしてる」


 朔は黙った。


 ハルは、もうただ前に飛び出すだけの子どもではない。


 人の表情だけではなく、村全体の動きを見ている。


 それは頼もしくもあり、少し怖くもあった。


「サク」


「なんだ」


「森、見たんやろ」


 朔はしばらく黙った。


 隠せるとは思わなかった。


「ああ」


「目?」


 朔は思わずハルを見る。


「なんで分かった」


「昨日の夜、見張り台の人が目ぇこすってた。

 それから、朝からみんな森を見てる。

 何かが襲ってきたなら、柵を見るはずや。

 でも、みんな森の奥を見る。

 じゃあ、向こうから見られたんかなって思った」


 朔は息を吐いた。


「お前、ほんとに成長早いな」


「弟子やからな」


 ハルは少しだけ笑った。


 でもすぐに、その笑みは消える。


「怖いやつ?」


「分からない」


「分からないばっかや」


「本当に分からないんだ」


 朔は森を見る。


 昨日見た白い目は、今はない。

 朝の光の中では、ただの木々にしか見えない。


 だが、その奥に何かがいるかもしれないと思うだけで、森の形が違って見える。


「あれは、腹を空かせた獣の目じゃなかった」


 朔は言った。


「じゃあ、何の目?」


「それが分からない」


 ハルは唇を噛んだ。


「俺、今日の訓練、子どもらちゃんと見とく」


「ああ」


「あと、森見るなって言っとく」


「言い方に気をつけろ。

 見るなって言うと、見たくなる」


「じゃあ、何て言うん」


 朔は少し考えた。


「前を見る練習だ。

 逃げる時に、行く先を見る。

 森じゃなくて、足元と前の人を見る」


 ハルは頷いた。


「分かった。そう言う」


 そう言って走っていくハルの背中は、昨日より少しだけ大人びて見えた。


***


 ミナトは村人たちに、簡潔に説明した。


 昨夜、森の端に魔物らしき影が出た。

 襲撃はなかった。

 だが、警戒を強める。


 それだけだった。


 白い目のことは言わない。

 ただ、見張りを一人増やし、子どもの避難訓練の回数を増やす。


 大人たちは不安そうに頷いた。


 誰も大きな声では騒がなかった。


 けれど、森を見る回数は確実に増えた。


 畑へ向かう途中。

 井戸から帰る途中。

 家畜小屋の戸を閉める時。


 視線が、森へ吸われていく。


 そのたびに、朔はミナトの言葉を思い出した。


 森に心を持っていかれる。


 白い目は、村を襲わなかった。


 ただ、村人の視線を奪った。


 それだけで、村の足元は少しずつ崩れているのかもしれない。


***


 昼過ぎ、最初の騒ぎが起きた。


 小さな男の子が、森側の柵の近くで立ち尽くしていた。


 名前はトウマ。

 まだ五つか六つくらいの、よく泣く子だ。


 ハルが真っ先に気づいた。


「トウマ! そこ行ったらあかん!」


 トウマは返事をしない。


 柵の向こう、森の方をじっと見ている。


 朔も走った。

 脇腹が痛んだが、構っていられなかった。


 トウマの肩を掴む。


「おい、大丈夫か」


 トウマはびくりと震えた。


 それから、ゆっくり朔を見上げる。


「……お母ちゃんが呼んだ」


 朔の背筋が冷えた。


 ハルの顔から血の気が引く。


「何て?」


「こっちおいでって。

 森の方から、お母ちゃんが呼んだ」


「トウマのお母さんは?」


 ハルが振り返って叫ぶ。


「トウマのお母さん、どこ!?」


 広場の方から、女が慌てて走ってきた。


「ここにおる! トウマ!」


 女はトウマを抱きしめた。


 トウマは母親の顔を見て、ようやく現実に戻ったように泣き出した。


「お母ちゃん、森におった……」


「おらへん! お母ちゃんはここにおる!」


 女の声が震えている。


 朔は森を見た。


 木々の間には何も見えない。


 白い目もない。


 ただ、風が葉を揺らしているだけだ。


 なのに、耳の奥でかすかなノイズが鳴った。


 ——ざざっ。


 声。


 声が人を引く。


 リーネの言葉が蘇る。


 声を聞いた者が、必ず声の場所へ行かなければならないわけではない。


 だが、幼い子どもなら。


 母親の声で呼ばれたら。


 朔は拳を握った。


 間に合った。


 今回は、間に合った。


 それが分かった瞬間、膝から力が抜けそうになる。


「サク」


 ハルが小さく呼んだ。


「これ、森が呼んだんか」


 朔は答えられなかった。


 答えたくなかった。


 でも、答えはもう、ほとんどそこにあった。


***


 トウマは母親と一緒に村長の家へ連れていかれた。


 リーネが水を飲ませ、簡単な祈りをかける。


 体に異常はない。

 熱もない。

 ただ、ひどく怯えていた。


「声は、はっきり聞こえたんか」


 ミナトが聞く。


 トウマは母親の膝の上で、こくりと頷いた。


「お母ちゃんの声やった」


「どこから聞こえた」


「森」


「姿は見たか」


 トウマは首を横に振る。


「声だけ。

 こっちおいでって。

 寒いから、来てって」


 寒い。


 朔はリーネを見た。


 リーネも、わずかに目を伏せる。


 彼女が昔聞いた声。


 寒い。

 暗い。

 助けて。


 同じ系統の言葉だ。


 ミナトはしばらく考え込んだ後、言った。


「今日から、子どもは一人で森側に近づくな。

 大人も二人組で動く。

 声が聞こえても返事をするな」


「返事をしたら?」


 朔が聞く。


「分からん」


 ミナトは正直に答えた。


「せやけど、分からんものには、まず返さん方がええ」


 それはこの世界の祈りとは逆の言葉だった。


 祈りは、声を届けるもの。

 返事を待つもの。


 だが今は、返事をしてはいけない。


 祈りと罠の境目が、少しずつ曖昧になっている。


***


 夕方の避難訓練は、いつもより静かだった。


 子どもたちは文句を言わなかった。

 トウマが母親の手を離さなかったからだ。


 ハルは、先頭ではなく真ん中を走った。

 前と後ろの両方を見るためだ。


 朔はそれに気づき、何も言わなかった。


 ハルはもう、自分で考えて動き始めている。


 それが嬉しく、同時に怖かった。


 強くなるということは、危険に近づくということでもある。


 見張り台まで走り終えると、子どもたちは丘の上で息を整えた。


 トウマはまだ泣きそうな顔をしている。


 ハルがしゃがみ込んで、トウマに言った。


「森から声がしても、行ったらあかん」


「でも、お母ちゃんやった」


「お母ちゃんの声でもや。

 本物のお母ちゃんは、ちゃんと村におる。

 分からん声には返事せん」


「返事したらあかんの?」


「うん。

 返事したくなったら、俺かサクか、近くの大人呼べ」


 ハルの声は優しかった。


 それでも、芯があった。


 朔はその横顔を見ていた。


 ハルは守られる側から、少しずつ守る側に移っている。


 その成長が、この村を救うのか。

 それとも、いつかハル自身を傷つけるのか。


 まだ分からない。


***


 夜。


 村は早く戸を閉めた。


 いつもなら少し遅くまで続く広場の話し声も、今日はない。


 犬はまだ吠えない。

 羊も静かだ。


 静かすぎる村の中で、見張りの足音だけが聞こえる。


 朔は村長の家の戸口に座り、森を見ていた。


 見すぎるな、とミナトは言った。


 それでも、見ずにはいられなかった。


 森の奥は暗い。


 白い目は見えない。


 だが、何もいないとは思えなかった。


 しばらくして、隣にハルが座った。


「寝ろって言われたやろ」


 朔が言う。


「サクもやん」


「俺は大人だから」


「見た目子ども」


「便利な反論だな」


 ハルは膝を抱えた。


「トウマ、怖がってた」


「ああ」


「俺も、もし母さんの声がしたら、行ってまうかもしれん」


 朔は何も言えなかった。


 ハルの親は、もういない。

 魔物に奪われたと聞いている。


 その声で呼ばれたら。


 行くなと言えるだろうか。


 言わなければならない。


 でも、それがどれほど残酷な言葉か、朔にも分かった。


「その時は、俺が止める」


 朔は言った。


「俺がサクの声聞こえたら?」


「俺はここにいる」


「でも、森から聞こえたら?」


「それは俺じゃない」


 ハルは少し黙った。


「じゃあ、サクの声でも行かへん」


「ああ。そうしろ」


「サクもやで」


「俺も?」


「俺の声が森からしても、来たらあかん」


 朔はハルを見る。


 ハルは笑っていなかった。


「約束や」


 朔は、小さく息を吐いた。


「分かった」


「ちゃんと言って」


「ハルの声が森からしても、俺は行かない」


 ハルは頷いた。


「その代わり、本物の俺が呼んだら来てな」


「ややこしいな」


「大事やろ」


 朔は少しだけ笑った。


「ああ。大事だ」


 その時だった。


 森の奥から、かすかな音がした。


 風ではない。


 獣の鳴き声でもない。


 言葉になる少し手前の、声のようなもの。


 村の誰かの名前を呼んでいるような。


 泣いているような。


 笑っているような。


 朔とハルは、同時に口を閉じた。


 白い目は見えない。


 何も見えない。


 ただ、森の奥から、声だけが届いていた。


 森は、もう見るだけではなかった。


 呼び始めていた。

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