第一章 祈りの殻の子 ⑫ 呼ぶ森
森から声がしても、返事をしてはいけない。
その決まりができた朝、ツヅリ村はいつもより静かだった。
誰かが大声でそう宣言したわけではない。
紙に書いて、広場に貼り出したわけでもない。
けれど、村の空気は確かに変わっていた。
母親たちは、子どもを送り出す前にいつもより長く肩を掴む。
「森の方で誰かに呼ばれても、返事したらあかんよ」
「お母ちゃんの声でも?」
「お母ちゃんは、ちゃんと家におる。森から呼ばん」
「でも、聞こえたら?」
「近くの大人を呼びなさい。絶対に一人で行かんこと」
井戸へ向かう女たちは二人組になった。
薪を取りに行く男たちも、森側へ近づく時は互いの名前を呼び合う。
見張りは、森を見る時間を決められた。
見続けるな。
目を離すな。
その矛盾した命令を、村人たちはぎこちなく守ろうとしていた。
祈りの村が、声に返事をしてはいけない村になっていく。
朔は、その変化を広場の端で見ていた。
胸の奥に、昨日の音がまだ残っている。
ピッ。
ピッ。
白い天井。
消毒液の匂い。
途切れた声。
——適合……。
考えようとすると、頭の奥がざらつく。
今は、そちらを見る時ではない。
目の前には、森がある。
声がある。
村がある。
朔は小さく息を吐き、北の丘へ続く坂道を見た。
今日も、子どもたちは走る。
***
午前の避難訓練は、昨日より静かに始まった。
子どもたちは文句を言わなかった。
トウマが母親のそばを離れようとしなかったからだ。
ハルは、いつものように先頭に立たなかった。
列の真ん中あたりにいる。
小さい子どもたちを前後に置き、時々後ろを振り返る。
朔はその動きに気づいた。
前を見る。
後ろも見る。
でも、森は見ない。
ハルなりに考えた配置だった。
「行くぞ!」
ミナトの合図で、子どもたちは走り始める。
広場から井戸横を通り、家の間を抜け、北の丘へ向かう。
坂道に入ると、いつもなら誰かが「しんどい」と言う。
今日は誰も言わなかった。
その沈黙が、逆に重い。
トウマは母親ではなく、ハルの手を握って走っていた。
何度も後ろを見ようとする。
そのたびにハルが言う。
「前や。足元と、前の人を見る」
「でも……」
「森は見んでええ。俺がおる」
トウマは泣きそうな顔で頷いた。
朔は少し後ろから、それを見ていた。
守られる側だったハルが、守る側へ回っている。
それが嬉しい。
けれど、そのぶん、ハルの背中が森に近づいているように見えて、怖くもあった。
***
昼前、若い男が朔のところへ来た。
第十話で、広場で朔を疑う言葉を口にした男だった。
名前を、朔はまだ覚えきれていなかった。
確か、ダンと言ったはずだ。
ダンは、いつものような気まずそうな顔ではなかった。
もっと青ざめていた。
「サク」
「はい」
「ちょっと、ええか」
朔は頷き、広場の端へ移動した。
ダンは森を見ないようにしている。
意識して、視線を地面に落としている。
「聞こえた」
小さな声だった。
「森からですか」
ダンは頷いた。
「兄ちゃん、って」
その一言だけで、ダンの喉が詰まった。
朔は黙って待った。
「弟の声やった」
「弟さんは……」
「十年前に死んだ。森でな」
ダンは拳を握る。
「ワンアイが出始めた頃や。
俺と弟で山菜取りに行って、俺だけ逃げた。
弟は……戻らんかった」
朔は言葉を選べなかった。
何を言っても軽くなる気がした。
「今朝、柵の近く通った時に聞こえた。
兄ちゃん、寒い。
迎えに来て。
って」
ダンの肩が震えている。
「足が動きかけた。
ほんまに、一歩だけやけど。
行きそうになった」
「返事は?」
「してへん」
ダンは唇を噛んだ。
「でも、したかった」
その言葉は、責めるためのものではなかった。
告白だった。
朔は、トウマの母親の声を思い出す。
リーネの「まだ、泣いている」。
ハルの失われた親。
森は、弱いところを知っている。
いや、知っているように振る舞っている。
「怖いですね」
朔が言うと、ダンは驚いたように顔を上げた。
「……ああ」
「俺も怖いです」
「サクもか」
「はい」
朔は森を見ないようにしながら答えた。
「あれは、たぶん強い人ほど危ない。
助けなきゃと思う人ほど、引っ張られる」
ダンは何かを飲み込むように喉を動かした。
「この前は、悪かった」
唐突に言った。
「殻の子が来たからやないんか、って」
「怖かったんですよね」
「怖かった。
今も怖い。
でも……俺も行きそうになった。
サクだけが変なんやないって、分かった」
朔は少しだけ目を伏せた。
それは慰めなのかもしれない。
でも同時に、恐ろしい事実でもあった。
森は、朔だけを呼んでいるのではない。
村全体を呼び始めている。
「ミナトさんに話しましょう」
「ああ」
ダンは頷いた。
「俺から言う。
隠したら、また誰かに押しつけることになる」
その言葉に、朔は少しだけ胸が熱くなった。
怖さを誰かに押しつけない。
ミナトの言葉は、少しずつ村の中に根を張っている。
***
その日の午後、ハルにも声が届いた。
避難訓練の帰り道だった。
北の丘から村へ戻る途中、坂の途中でハルの足が止まった。
朔はすぐに気づいた。
「ハル?」
ハルは返事をしない。
目は森の方を向いていない。
前を見たままだ。
だが、体が固まっている。
小さな子どもたちが不安そうに振り返る。
「ハル兄ちゃん?」
ハルの唇が、かすかに震えた。
朔は近づこうとして、足を止める。
下手に名前を呼びすぎると、森の声と混ざるかもしれない。
ハルは奥歯を噛みしめていた。
拳を握り、肩を震わせている。
そして、絞り出すように言った。
「返事……してへん」
朔の胸が詰まった。
聞こえたのだ。
誰かの声が。
「ハル」
「してへん」
ハルはもう一度言った。
今度は、少し強く。
「俺、返事してへん」
朔はゆっくり近づき、ハルの前に立った。
「よくやった」
その言葉を聞いた瞬間、ハルの顔が歪んだ。
「母さんの声やった」
声が震える。
「覚えてるはずないのに。
小さかったから、ほとんど覚えてへんはずやのに。
でも、分かった。
母さんやって」
ハルは森を見なかった。
必死に、前を向いたままだった。
「ハル、って。
こっち来てって。
寒いって」
寒い。
また、その言葉。
朔は拳を握った。
森は、同じ形の言葉を使っている。
その人が一番動いてしまう声で。
「行きたかったか」
朔が聞くと、ハルは泣きそうな顔で笑った。
「行きたかったに決まってるやん」
「ああ」
「でも、行かへんかった」
「ああ」
「返事も、してへん」
「よくやった」
朔はもう一度言った。
ハルは唇を噛み、何度も頷いた。
後ろで見ていた子どもたちは、何も言わなかった。
ただ、ハルが振り返らなかったことを見ていた。
そのこと自体が、訓練よりもずっと大きな教えになった。
***
夕方、村には新しい緊張が広がった。
トウマだけではない。
ダンにも、ハルにも声が届いた。
もう「子どもの聞き間違い」では済まない。
ミナトは村人を集め、大声ではなく、低い声で言った。
「声が聞こえても、返事をするな。
一人で確かめに行くな。
誰の声でもや」
広場に重い沈黙が落ちる。
「死んだ者の声でも。
行方知れずの者の声でも。
親の声でも、子の声でも。
森から聞こえたなら、返事をするな」
誰かが小さくすすり泣いた。
それは、ただ怖いからではない。
返事をするな、ということは、もう一度見捨てろと言われているようなものだからだ。
ミナトはその痛みを分かった上で、言っている。
「返事をしたくなったら、近くの者の手を掴め。
一人で耐えるな。
声を聞いたら、恥と思わず言え。
黙って一人で行かれる方が困る」
朔は広場の端で聞いていた。
祈りの村が、声に返事をしてはいけない村になった。
でも、完全に声を拒むわけではない。
森の声には返事をしない。
代わりに、人の声を人へ届ける。
怖い。
助けて。
行きそうになった。
そう言える村でなければ、きっと森に負ける。
***
夜、村は静かだった。
静かすぎるほどだった。
戸は早く閉められ、灯りはいつもより小さくされた。
見張りは二人ずつ。
森側へ近い家には、大人が集まっている。
朔は村長の家の裏手で、空を見ていた。
森からは、時々声のようなものが漏れてくる。
はっきりした言葉ではない。
誰かの名前を呼ぶような、泣き声のような、笑い声のような音。
聞こうとすると、意味を持ちそうになる。
聞くまいとすると、余計に耳に残る。
ミナトは、見すぎるなと言った。
今は、聞きすぎるな、でもあるのだろう。
朔は耳を塞ぎたい衝動をこらえた。
その時だった。
「サク」
声がした。
朔は振り返りかけて、止まった。
ハルの声だった。
背中に冷たい汗が浮かぶ。
「サク、助けて」
森の方から聞こえた。
間違いなく、ハルの声で。
朔の足が、一歩動きかけた。
体が先に反応していた。
ハルが呼んでいる。
助けてと言っている。
行かなければ。
そう思った瞬間、昨夜の約束が胸を叩いた。
——ハルの声が森からしても、俺は行かない。
朔は奥歯を噛んだ。
足を止める。
「サク」
また聞こえる。
今度は少し弱々しい。
「痛い。こっち来て」
声だけなら、本物だった。
普段のハルとは違う。
泣くのをこらえる時の、あの声。
朔は拳を握りしめる。
「……違う」
声に出して言った。
「お前は、ハルじゃない」
森は答えない。
ただ、同じ声がまた呼んだ。
「サク」
その時、背後で小さな足音がした。
ほぼ同時だった。
森からの声が、もう一度言う。
「サク」
そして、背後からも。
「サク」
朔は、今度こそ凍りついた。
本物か。
森か。
振り返っていいのか。
見て確かめるべきか。
それとも、振り返った時点で負けなのか。
「……合言葉」
朔は前を向いたまま言った。
背後の声が止まる。
森の声も止まる。
短い沈黙。
朔は、ゆっくりと言った。
「逃げる時は」
背後のハルが、息を呑む気配がした。
そして答えた。
「二人で逃げる」
朔はようやく振り返った。
そこにはハルがいた。
寝巻きの上に上着を羽織っただけの格好で、顔色を悪くして立っている。
本物だ。
そう思った瞬間、森の奥から声がした。
「二人で逃げる」
ハルと同じ声だった。
朔も、ハルも、動けなかった。
今までの声は、失われた誰かの声だった。
母親。
弟。
もう戻らないはずの人。
けれど、今の声は違う。
ついさっき、ここで交わされた言葉。
森は、記憶を掘っているだけではない。
今、聞いている。
今、覚えている。
森の奥から、もう一度声が返る。
「二人で逃げる」
同じ声。
同じ調子。
けれど、そこにはハルの温度だけがなかった。
二人はしばらく、その場に立ち尽くした。
何も言えなかった。
言えば、また覚えられる気がした。
夜の森は、白い目を見せなかった。
ただ、二人の約束を、二人ではない声で繰り返していた。




