第一章 祈りの殻の子 ⑬ 返事なき祈り
合言葉は、もう使えない。
その事実をミナトに報告した時、村長はしばらく何も言わなかった。
朝の祠前。
空は薄く曇り、森の方から湿った風が流れてきている。
朔とハルは、並んで立っていた。
昨夜、森はハルの声で言った。
——二人で逃げる。
それは、朔とハルだけの約束だった。
危ない時に、自分たちが本物かどうかを確かめるための言葉だった。
けれど、森はそれを真似た。
声だけではない。
言葉だけでもない。
約束の形まで、真似た。
「声だけでは、もう駄目やな」
ミナトが低く言った。
「合言葉もですか」
朔が聞くと、ミナトは頷いた。
「一度聞かれた言葉は、もう使われる。
なら、声だけで誰かを信じるな」
ハルが唇を噛む。
「じゃあ、どうしたらええん」
「近づいて見る。
火の近くで話す。
手を掴む。
息を感じる。
声だけで動くな」
ミナトは一つずつ、ゆっくりと言った。
「でもな、声を全部捨てるな」
朔は顔を上げる。
「捨てない?」
「ああ」
ミナトは村の方を見た。
「声が怖いからといって、誰も呼べん村にしたら終わりや。
助けてと言えん。怖いと言えん。返事もできん。
それでは、森に勝つ前に村が壊れる」
ハルが黙って聞いている。
「森からの声には返事をするな。
けど、人の声は、人に届けろ。
怖い時は怖いと言え。行きそうになったら行きそうやと言え。
黙って一人で耐えるな」
それは、単純な命令ではなかった。
声を信じるな。
でも、声を捨てるな。
矛盾しているようで、たぶん今の村に必要な答えだった。
朔は、昨夜の森の声を思い出した。
ハルと同じ声。
同じ調子。
けれど、温度だけがなかった声。
声だけでは、もう分からない。
それでも、人は声を使わずには生きられない。
***
その日の村は、ぎこちなかった。
誰もが声を出す前に、一拍置く。
「水、持ってきて」
そう言った母親が、すぐに子どもの肩に手を置く。
「今のは、お母ちゃんやで」
子どもは頷く。
けれど、その目は少し怯えている。
井戸のそばでは、女たちが互いの顔を見てから話すようになった。
「今日、森側には行かんとこ」
「うん」
「……今の、聞こえた?」
「いや。あんたの声だけ」
確認の言葉が増えた。
それは安心にもなったが、同時に不安を数える行為でもあった。
声を出す。
相手がこちらを見る。
本物だと分かる。
そのたびに、村人たちは小さく息をつく。
今まで当たり前だったことが、当たり前ではなくなっている。
朔は広場の端から、それを見ていた。
声は、便利だった。
呼べば振り返る。
助けてと言えば駆けつける。
名前を呼べば、相手は自分だと分かる。
その仕組みを、森は使っている。
声が信頼の道具だったからこそ、罠になる。
「サク」
背後から声がした。
朔は振り返る前に、足音を聞いた。
土を踏む軽い音。
少し速い呼吸。
それから振り返る。
ハルだった。
「……今、確認した?」
「した」
「俺、本物やで」
「見れば分かる」
「森もそのうち、見た目真似したらどうする?」
朔は答えられなかった。
ハルは冗談のように言ったのかもしれない。
けれど、それは笑えない可能性だった。
声が駄目になった。
合言葉も駄目になった。
もし、見ることまで駄目になったら。
その時、人は何を信じればいいのか。
「……手でも握るか」
朔が言うと、ハルは一瞬きょとんとして、それから手を差し出した。
「ほな、握る?」
「今じゃない」
「なんやねん」
少しだけ笑いが生まれる。
その笑いに、朔は救われた。
まだ、全部は奪われていない。
***
昼前、リーネが祠で祈った。
朔とミナト、ハルはその場に立ち会った。
祠の中心にある黒い点は、もう点ではなくなっていた。
指先ほどの大きさに広がり、白い円の中に沈む黒い染みのようになっている。
リーネはその前に膝をつき、両手を胸の前で重ねた。
いつもなら、彼女の指先に淡い光が集まる。
光は空気中の魔素を呼び、水面に波紋が広がるように、祠の奥へと触れていく。
朔にも、それは何となく見えていた。
しかし、この日は違った。
光は集まらなかった。
リーネの指先は、ただ白く冷えているように見えた。
彼女は目を閉じ、祈りの言葉を小さく口にする。
だが、その声は祠の奥へ入っていかない。
石に吸われた、というより。
底のない穴に落ちたようだった。
何も返ってこない。
沈黙すら、返ってこない。
やがて、祠の奥で小さな音がした。
ぷつ。
泡が潰れるような音。
続いて、もう一度。
ぷつ、ぷつ。
水の底で、誰かが息を吐いているような音だった。
ハルが小さく後ずさる。
「今の……祈りの返事?」
リーネは目を開けた。
その顔は、いつもの静けさを保っていた。
けれど、唇の色が少し薄い。
「違う」
短い答え。
朔の背中に冷たいものが走る。
「じゃあ、何ですか」
「分からない」
リーネは黒い染みを見つめた。
「でも、祈りではない」
ミナトが低く息を吐いた。
「今日はもうええ。リーネ、離れろ」
「まだ——」
「離れろ」
ミナトの声は静かだったが、逆らえない強さがあった。
リーネは少しだけ目を伏せ、それから立ち上がった。
その動きが、わずかにふらついた。
朔は反射的に手を伸ばしかける。
だが、リーネは自分で踏みとどまった。
「削れたか」
ミナトが聞く。
「少し」
「少しで済むうちにやめろ」
「分かっている」
リーネはそう言ったが、その目は黒い染みから離れていなかった。
祈りが返ってこない。
代わりに、何か別のものが奥で息をしている。
朔には、そう感じられた。
***
夜、見張り台の周囲に火が増やされた。
声は暗い場所から来る。
だから、ミナトは人が集まる場所には必ず火を置かせた。
火の近くで話せ。
相手の顔を見ろ。
手を掴め。
声だけで動くな。
その決まりを、村人たちは不器用に守っている。
朔は見張り台の下にいた。
ミナトと、見張りの男が二人。
少し離れたところにハルもいる。
本当なら、ハルは家に戻されるはずだった。
だが本人が強く言い張った。
「俺、声聞いても返事せんかった。
逃げ道も分かる。
子どもらが逃げる時、俺も動ける」
ミナトはしばらく黙った後、条件付きで許した。
火から離れないこと。
勝手に森側へ行かないこと。
朔かミナトの声だけで動かないこと。
必ず姿と手で確認すること。
ハルは真剣な顔で頷いた。
今も、火のそばに立っている。
森は暗い。
見張り台の上から見ても、木々の奥は黒く潰れている。
その闇の中から、声がした。
「サク」
ハルの声だった。
朔の体が、わずかに反応する。
ハルは火のそばにいる。
本物は、そこにいる。
分かっている。
それでも、声は耳の奥を掴む。
「サク、今度はこっちや」
森の中のハルが言う。
「二人で逃げるんやろ」
ハルの顔が歪んだ。
自分の声で、自分たちの約束が汚されている。
朔は森を見ないように、火を見た。
声だけで動くな。
今のはハルではない。
ハルの声を使った、別の何かだ。
見張りの男の足が、一歩だけ前に出た。
その瞬間、隣の男が手首を掴んだ。
「返事すんな」
短い声。
手首を掴まれた男は、はっと息を呑み、踏みとどまった。
「……すまん」
「ええ。掴めって言われとる」
そのやりとりを聞いて、朔は胸の奥が少し熱くなった。
怖さに負けかけても、戻ってこられる。
村の決まりは、ちゃんと機能している。
その時、森の声が止まった。
代わりに、草を擦る音がした。
ずる。
ずる。
何かが、低い姿勢で這っている。
ミナトが槍を構えた。
「来るぞ」
森の端から、それは現れた。
猿ほどの大きさ。
四つん這いに近い姿勢。
顔は、なかった。
いや、顔のあるべき場所には、白い目が一つだけ浮いていた。
鼻も口も見えない。
ただ、喉だけが異様に膨らんでいる。
薄い皮膚の下で、何かがぷくぷくと動いていた。
まるで、声を溜め込む袋。
「……ヨビモノ」
見張りの男が、震える声で呟いた。
呼ぶもの。
呼ばれるもの。
誰が決めたわけでもないのに、その名は妙にしっくりきた。
ヨビモノは火を嫌がるように、森の影と火の境目で止まった。
そして、喉を膨らませた。
「サク」
ハルの声。
次に、
「兄ちゃん」
ダンの弟の声。
さらに、
「こっちおいで」
トウマの母の声。
短く、途切れ途切れに、これまで村が聞いた声が漏れる。
ヨビモノの喉が震えるたびに、別の誰かの声になる。
朔は吐き気を覚えた。
この小さな体の中に、村の痛い場所が詰め込まれている。
ミナトが低く言った。
「火から離れるな」
ヨビモノが動いた。
速い。
這うような姿勢から、ばねのように跳ねる。
向かった先は、ハルだった。
ハルは前に出なかった。
出たかったはずなのに、出なかった。
代わりに、横へ走った。
朔が教えた通り。
真正面に立つのではなく、火と見張り台の柱を挟むように、角度を変える。
ヨビモノの白い目が、ハルを追う。
その喉が膨らむ。
「サク、助け——」
声が途中で歪んだ。
朔が石を投げたからだ。
狙ったのは胴体ではない。
頭でもない。
喉。
声が鳴る場所。
(殴る場所じゃない)
朔は、投げた瞬間に思った。
(鳴る場所だ)
石は膨れた喉の横を叩いた。
鈍い音。
ヨビモノの声が崩れる。
「たす、け、げ、げ……」
ハルの声でも、誰の声でもない。
壊れた笛のような音になった。
「今や!」
ミナトの槍が走る。
鋭く、迷いのない突き。
槍先がヨビモノの胴を貫いた。
ヨビモノは地面に叩きつけられ、喉を膨らませたまま痙攣した。
白い目が、ぐるりと朔を見る。
その目には、怒りも痛みもなかった。
ただ、まだ覚えようとしているように見えた。
朔は奥歯を噛んだ。
やがて、ヨビモノの体が動かなくなる。
膨れた喉が、ゆっくりとしぼんだ。
その裂け目から、黒い液が流れ出す。
血ではない。
墨のように黒く、光を吸い込むような液体。
それは地面に落ちても広がらず、土の上に重く溜まった。
「触るな」
ミナトが言った。
誰も動かなかった。
リーネが呼ばれた。
彼女は火のそばで膝をつき、黒い液をじっと見た。
そして、祠の方を振り返る。
月明かりの下、村の中央にある祠は遠くに白く見える。
その中心に広がる黒い染みは、ここからでは見えない。
けれど、リーネには分かったのだろう。
「同じ」
短く言った。
見張り台の柱の黒。
祠の黒点。
ヨビモノの喉から出た黒い液。
全部が、同じもの。
朔は言葉を失った。
その時、遠くの祠の方から、低い音がした。
ぷつ。
泡が潰れるような音。
リーネの顔が、かすかに強張る。
「……返ってきた」
朔はリーネを見る。
「何がですか」
リーネは黒い液と、祠の方を交互に見た。
そして、静かに言った。
「祈りではないものが」




