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第一章 祈りの殻の子 ⑭ 白い部屋


 ヨビモノの死骸は、すぐには燃えなかった。


 見張り台の下、石を積んで作った小さな焼き場に、村の男たちが枝と薪を重ねる。

 その上に、ミナトが槍の穂先でヨビモノの体を押し込んだ。


 火はついた。


 乾いた枝がはぜ、煙が上がる。


 だが、ヨビモノの喉から漏れた黒い液だけは、火に触れても燃え上がらなかった。


 じゅう、と嫌な音を立てるだけで、黒い塊のように地面へ残り続ける。


「……燃えへん」


 見張りの男が呟いた。


 誰もすぐには答えなかった。


 燃えないもの。

 祈りに返らないもの。

 森の声を溜めていたもの。


 リーネは、黒い液から少し離れた場所に立っていた。

 表情はいつも通り静かに見える。

 けれど、彼女の手は胸の前で固く結ばれている。


「祠に近づけてはいけない」


 リーネが言った。


「この黒をか?」


 ミナトが聞く。


「死骸も、液も、灰も。

 祠には近づけない方がいい」


「理由は」


「同じものだから」


 短い答えだった。


 ヨビモノの黒。

 見張り台の柱に残る黒。

 祠の白い円に浮いた黒。


 全部が同じ。


 それが分かっただけで、村人たちの顔色は変わった。


 森の奥にいたものと、村の中心にある祠が繋がっている。

 その可能性を、誰も口には出さなかった。


 けれど、全員が考えていた。


「村外れの石場に隔離する」


 ミナトが言った。


「燃え残りは土に埋めるな。水にも流すな。石で囲う。

 触るな。近づく時は二人以上や」


 男たちは頷いた。


 朔は少し離れた場所から、黒い液を見ていた。


 ヨビモノの体は火で縮んでいく。

 だが、喉だけは最後まで形を残していた。


 膨れた袋のような器官。


 声帯というより、何かを溜めるための袋。


 トウマの母の声。

 ダンの弟の声。

 ハルの母の声。

 ハルの声。


 その全部が、あの小さな喉から出た。


(声を食ったのか。記録したのか。吐き出したのか)


 考えた瞬間、吐き気が込み上げた。


 分析するには、まだ生々しすぎる。


 あれはただの器官ではない。

 村の痛い場所を詰め込んだ袋だった。


 朔は視線をそらそうとした。


 その時、黒い液の表面がわずかに揺れた。


 風ではない。


 火の熱でもない。


 ぬるりと、黒の表面が波打った。


 朔は動けなかった。


 黒い液の表面に、何かが映っている。


 空ではない。

 火でもない。

 森でもない。


 白いもの。


 天井。


 四角い蛍光灯。


 薄いカーテン。


 そして、揺れる電子音。


 ピッ。


 ピッ。


 ピッ。


「サク?」


 ハルの声が遠くで聞こえた。


 けれど、朔は返事ができなかった。


 黒い液を見ている。


 ただ、見ているだけなのに。


 視界が、白に引きずり込まれていく。


***


 白い天井だった。


 目を開けているのか、閉じているのか分からない。


 眩しい。


 眩しすぎる。


 蛍光灯の光が、瞼の裏まで刺さってくる。


 鼻の奥に、消毒液の匂い。


 喉が乾いている。

 舌が動かない。

 体が重い。


 腕に、冷たいものが貼りついている。


 胸にも。

 こめかみにも。

 首筋にも。


 何本もの線が、自分の身体から伸びている。


 ベッドの横で、何かが鳴っている。


 ピッ。


 ピッ。


 ピッ。


 規則正しい音。


 その横に、モニターがあった。


 画面はぼやけている。


 だが、いくつかの文字だけが、やけにはっきり見えた。


 ORPHES


 SYNC RATE


 DEPTH


 SUBJECT:K.K.


 朔は息をしようとした。


 できない。


 自分の呼吸が、自分のものではないように感じる。


 誰かが近くで話していた。


「……反応しています」


 声は遠い。


 水の中から聞いているみたいだ。


「同期が深くなっている」


「深度、規定値を超えます」


 別の声。


 焦りがある。


「戻しますか」


 短い沈黙。


 足音が近づいた。


 革靴の音。


 会議室で聞いたことのあるような、硬い足音。


「まだ起こすな」


 その声を聞いた瞬間、朔の背中が凍った。


 プロローグの会議室。

 スクリーンに映る数字。

 営業成績。

 詰められる部下たち。

 三門社長の笑っていない目。


 記憶が、白い部屋の光に重なる。


「しかし、これ以上は危険です」


「危険なのは想定内だ」


 その声は、静かだった。


 怒鳴らない。

 焦らない。

 ただ、数字を確認するように言う。


「ORPHESは止めない」


 朔は叫ぼうとした。


 声が出ない。


 体が動かない。


 指先一本、動かない。


 自分の身体なのに、自分のものではない。


 白い天井が、遠くなる。


 モニターの文字がにじむ。


 ORPHES


 K.K.


 SYNC


 OBSERVATION


 観測。


 その単語だけが、頭の奥に焼きついた。


***


「サク!」


 今度の声は、近かった。


 だが、朔はすぐには信じられなかった。


 ハルの声。


 森が真似た声。


 何度も聞いた、本物と同じ声。


「サク! 戻れ!」


 腕を掴まれる。


 熱い。


 指が食い込むくらい強く、誰かが朔の腕を掴んでいる。


 その手の温度で、ようやく分かった。


 本物だ。


 朔は息を吸った。


 肺が痛い。


 気づくと、膝が地面についていた。

 目の前には、燃え残ったヨビモノと、黒い液。


 あと少しで、手をつきそうな距離だった。


 ハルが朔の腕を掴んでいる。


 顔が青い。


「何してんねん! 触ったらあかんって言われたやろ!」


「……触ってない」


「触りかけてた!」


 ミナトも駆け寄っていた。


 槍の柄で、朔と黒い液の間を遮るようにする。


「サク、何を見た」


 ミナトの声は低い。


 リーネも近づいてくる。


 彼女は黒い液ではなく、朔の顔を見ていた。


「祠ではないところを見た」


 リーネが言った。


 問いではなかった。


 朔は荒い息を整えながら、頷いた。


「白い部屋」


 声がかすれる。


「俺が、ここに来る前にいた場所に似てた。

 健診センターみたいな……でも、もっと機械だらけで」


 ハルが眉をひそめる。


「けんしん、せんたー?」


「俺のいた世界の……体を調べる場所だ」


 説明になっていない。


 自分でも分かる。


 だが、これ以上どう言えばいいのか分からなかった。


 朔はミナトとリーネを見た。


「そこに、俺の身体があったかもしれない」


 ハルの手が、朔の腕をさらに強く掴む。


「どういうことや」


「分からない」


「分からないって……」


「本当に分からない」


 朔は自分の手を見る。


 今の手は子どもの手だ。

 小さく、細い。

 ツヅリ村で目覚めた身体。


 でも、白い部屋で見た感覚は違った。


 重い身体。

 動かない身体。

 管に繋がれた身体。


 あれは夢ではない。


 そう思えてしまうほど、生々しかった。


「ORPHES」


 朔は呟いた。


 リーネがわずかに首をかしげる。


「オルフェ?」


「ここに来る前、俺が受けた検査の名前です。

 たぶん。

 白い部屋の画面にも、その文字があった」


 ミナトの眉間に皺が寄る。


「そのオルフェというものが、お前をここへ送ったのか」


「分かりません」


「戻れるのか」


 ハルが、思わずというように聞いた。


 その声があまりに不安そうで、朔はすぐに答えられなかった。


 戻れる。


 そう言えば、希望になる。


 戻れない。


 そう言えば、この村にいる理由になる。


 でも、どちらも分からない。


「分からない」


 それしか言えなかった。


 ハルは俯いた。


 朔は胸が痛んだ。


 今、自分はハルにとって何者なのだろう。


 殻から出てきた子ども。

 兄のような存在。

 師匠のような相手。

 それとも、いつか別の場所へ戻ってしまうかもしれない人間。


 その全部が、急に不安定になった気がした。


 ミナトが静かに言った。


「今日はこれ以上、その黒には近づくな」


「はい」


「見ても駄目や。触らんでも持っていかれるなら、なおさらや」


 朔は頷いた。


 見るだけで引かれた。


 その事実が、重かった。


 森を見るな。

 声に返事をするな。

 そして今度は、黒を見るな。


 信じられるものが、少しずつ削られていく。


***


 ヨビモノの燃え残りは、村外れの石場に運ばれた。


 黒い液には灰をかぶせ、さらに石で囲った。


 リーネが簡単な結界のような祈りを置いたが、その祈りも黒に触れる寸前で弱くなった。


 完全には届かない。


 それでも、何もしないよりはいい。


 ミナトはそう判断した。


 村人たちには、ヨビモノの死骸には近づくなと伝えられた。


 子どもたちはもちろん、大人もだ。


 朔は村長の家へ戻された。


 ハルはずっと隣にいた。


 何か言いたそうにして、何度も口を開きかける。

 けれど、そのたびに言葉を飲み込む。


 朔も、何を言えばいいのか分からなかった。


 白い部屋のこと。

 ORPHESのこと。

 自分の身体のこと。


 どれも、言葉にした瞬間、村の中に別の不安を増やしてしまう気がした。


 それでも、ミナトとリーネには隠せなかった。


 夜、朔は二人にだけ、もう少し詳しく話した。


 白い天井。

 機械音。

 身体に貼られた何か。

 モニターの文字。

 ORPHES。

 K.K.

 同期。

 観測。

 そして、声。


「まだ起こすな」


 その言葉を聞いた時、リーネの表情が少し変わった。


「起こすな」


「はい」


「つまり、あなたは眠っていると見られていた」


「たぶん」


 朔は頷いた。


「でも、俺はここで起きてる」


「こちらで目覚めている。

 向こうでは眠っている。

 その二つが同時にある」


 リーネはゆっくりと言った。


「殻の子とは違う」


 ミナトが呟く。


「少なくとも、ワシらが知る殻の子とは違うな」


「俺は、殻から出てきたんじゃないんですかね」


 朔が聞くと、ミナトはすぐには答えなかった。


 代わりにリーネが、静かに言った。


「出てきたのかもしれない。

 でも、あなたの全部が出てきたとは限らない」


 その言葉に、朔の背筋が冷えた。


 全部が出てきたとは限らない。


 なら、今ここにいる自分は何なのか。


 向こうの白い部屋にいる自分は何なのか。


 どちらが本物なのか。


 あるいは、どちらも本物なのか。


「サク」


 ミナトが低く呼んだ。


「今、答えを急ぐな」


「でも——」


「急いで答えをつけると、間違う。

 分からんもんは、分からんまま印をつけとけ」


 印。


 保留にした言葉。

 村の周りに杭のように打たれていくもの。


 それがまた一つ増えた。


 ORPHES。


 観測。


 白い部屋。


「ただし」


 ミナトは続ける。


「これだけは覚えとけ。

 今ここで、お前の手を掴んだハルの手は本物や。

 お前が守ろうとした村も本物や。

 それを疑うな」


 朔は息を止めた。


 白い部屋の現実感に、少しだけ足元を奪われていた。


 でも、ハルの手の温度は本物だった。

 ミナトの声も、リーネの沈黙も、ツヅリ村の夜の匂いも。


 ここも、本物だ。


「……はい」


 朔は頷いた。


***


 夜更け。


 朔はリーネと共に、祠の前に立っていた。


 ミナトには止められたが、リーネが「見るだけなら、少しだけ」と許した。


 もちろん、近づきすぎない。

 触れない。

 黒い染みに目を奪われすぎない。


 祠の中心には、指先ほどの黒がある。


 月明かりを受けても、そこだけ沈んでいる。


 朔は息を整えながら、それを見た。


 黒の縁が、一瞬だけ揺らいだように見えた。


 光ったわけではない。


 ただ、そこだけ妙に滑らかだった。


 白い部屋の床。

 モニターの表面。

 ORPHESの文字が浮かんだ画面。


 そういう人工的な滑らかさが、一瞬だけ黒の縁に混じった。


 朔は目を逸らした。


 心臓が早くなる。


 リーネはそれを見逃さなかった。


「今、何を見た」


「……白い部屋の表面みたいに見えました」


「祠の黒が?」


「はい」


 リーネは黒い染みを見つめた。


 長い沈黙。


 それから、彼女は初めて、朔に真正面から問いかけた。


「サク」


「はい」


「あなたは、どこから来たの」


 今までなら、リーネはそんな聞き方をしなかった。


 分からないものには名を急がない。

 無理に答えを引き出さない。

 彼女はいつも、距離を取っていた。


 そのリーネが、今は問いを投げている。


 それだけ、黒い液と祠と白い部屋の繋がりが、彼女にとっても無視できないものになったのだ。


 朔は答えようとした。


 現代から。


 会社から。


 健診センターから。


 ORPHESから。


 祈りの殻から。


 どれも正しいようで、どれも違う気がした。


「……分かりません」


 結局、そう答えるしかなかった。


 リーネは責めなかった。


 ただ、黒い染みを見つめたまま言った。


「なら、まだ祈ってはいけない」


「え?」


「どこへ届くか分からない祈りは、危ない」


 祈りの村の巫女が、祈るなと言った。


 その重さを、朔はすぐには理解できなかった。


 けれど、怖かった。


 声に返事をしてはいけない。

 黒を見すぎてはいけない。

 そして、祈ってはいけない。


 祈りの殻の前で、祈りが禁じられる。


 朔は黒い染みから目を逸らし、夜空を見上げた。


 星は、何も知らないように静かに光っている。


 自分は殻から出てきたのだと思っていた。


 けれど、そうではないのかもしれない。


 どこかから出てきたのではなく。


 どこかに繋がれたまま、ここを見ているだけなのかもしれない。


 いや。


 見ているのは、自分だけではない。


 朔は初めて思った。


 自分は、この村を見ているのではなく——


 どこかから、ずっと見られ続けているのかもしれない。

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