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第一章 祈りの殻の子 ⑮ 火を絶やすな



 自分の全部が、ここにあるのかは分からない。


 朔は、朝の冷たい空気の中で目を覚ました。


 村長の家の天井。

 木の梁。

 土と藁の匂い。


 昨夜見た白い部屋とは、何もかも違う。


 白い天井。

 蛍光灯。

 消毒液。

 電子音。

 ORPHES。

 観測。

 まだ起こすな。


 それらは、夢にしては生々しすぎた。


 あの白い部屋に、自分の身体があるのかもしれない。

 ここにいる自分は、全部ではないのかもしれない。


 リーネはそう言った。


 あなたの全部が出てきたとは限らない、と。


 考えれば考えるほど、足元が薄くなる。


 けれど。


 朔は、自分の腕を見た。


 昨夜、ハルが掴んだ場所が、まだ少し痛い。


 指が食い込むほど強く掴まれた。

 あの手の温度は、確かにあった。


 ミナトの声も、重かった。

 リーネの沈黙も、冷たかった。

 ツヅリ村の朝の匂いも、確かにここにある。


 自分が何なのかは分からない。


 それでも、今ここで痛む腕がある。


 なら、今はそれを本物として扱うしかない。


 朔はゆっくり起き上がった。


 脇腹の傷は、まだ深いところで鈍く痛む。

 けれど、動けないほどではない。


 外では、もう村人たちが火の準備を始めていた。


***


 ツヅリ村は、火を増やしていた。


 広場。

 井戸のそば。

 森側の柵。

 北の見張り台。

 祠から少し離れた道。

 ヨビモノの黒い液を隔離した石場。


 人が集まる場所には、必ず火を置く。


 夜だけではない。

 昼でも、火種を絶やさない。


 森から声がする。

 声は人を引く。

 黒は見る者を引く。

 祈りは、どこへ届くか分からない。


 なら、せめて火を置く。


 目で見えるもの。

 手で管理できるもの。

 消えればすぐ分かるもの。


 それが、今の村に残された拠り所だった。


「薪、そっちへ積め。濡れたやつは後ろや」


 ミナトが男たちに指示を出している。


 声はいつも通り低く、よく通る。


 けれど、朔には分かった。


 ミナトの動きが、ほんの少しだけ遅い。


 誰かに尋ねられてから答えるまでの間が、いつもより半呼吸だけ長い。


「村長、石場の見張りは何人にします」


「……二人や。いや、三人にしろ。交代を短くする」


 その短い言い直しに、朔はミナトの疲れを見た。


 この数日、ミナトはほとんど休んでいない。


 村人の不安を受け止め、祠を見て、森を見て、声の決まりを作り、見張りを配置し、子どもたちの逃げ道を確認している。


 優しい村長ではない。

 強い村長でもない。


 疲れながら、それでも立っている村長なのだ。


「ミナトさん」


 朔が声をかけると、ミナトは振り返った。


「なんや」


「少し休んだ方がいいです」


「お前に言われるとはな」


「俺は一応、寝ました」


「倒れかけたやつがよう言う」


 ミナトは少しだけ笑った。


 だが、その笑いもすぐに消える。


「休める時に休む。分かっとる」


「分かってる顔には見えません」


 朔がそう言うと、ミナトは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、低く笑った。


「言うようになったな」


「教わりましたから」


「誰にや」


「村の人たちに」


 ミナトは少しだけ肩の力を抜いた。


「なら、昼に少し座る。

 それまでは火を回す」


 そう言って、また村人たちの方へ歩いていった。


 朔はその背中を見た。


 大きく見えていた背中が、今日は少しだけ人間に見えた。


***


 午前中、子どもたちは北の見張り台まで走った。


 もう文句を言う子は少なかった。


 トウマも、今日は泣かなかった。

 ハルが隣を走り、時々手を握ってやっている。


 坂の途中で、ハルが振り返った。


「前を見る!」


 小さな子どもたちが、ぎこちなく前を向く。


「森は見ん!」


 誰かが小さく復唱する。


「森は見ん」


 朔は後ろからそれを見ていた。


 声に返事をするな。

 森を見るな。

 黒を見るな。

 祈るな。


 してはいけないことばかりが増えていく。


 それでも、子どもたちは走る。

 転んだ子を起こす。

 手を握る。

 火の位置を覚える。


 禁止だけでは、人は生き残れない。


 何をするかを覚えるから、恐怖の中でも動ける。


 それをハルは、もう知り始めていた。


 見張り台に着くと、子どもたちは息を切らして座り込む。


 ハルは朔の隣に来た。


「サク」


「ん?」


「昨日の話」


 朔は少しだけ身構えた。


 白い部屋のことだと、すぐに分かった。


「サクは、いつか戻るん?」


 ハルは村を見下ろしながら聞いた。


 その声は、いつもより静かだった。


「分からない」


「またそれか」


「ああ。またそれだ」


「戻れるなら、戻りたい?」


 朔は答えられなかった。


 現代。


 白い部屋。

 ブラック企業。

 母親。

 弟たち。

 自分が置いてきたかもしれない人生。


 戻りたいかと聞かれれば、分からない。


 戻りたくないと言えば嘘になる。

 だが、戻りたいとだけ言うのも違う。


 朔は、丘の下の村を見た。


 煙の上がる家。

 広場に積まれた薪。

 井戸のそばで水を運ぶ女たち。

 火の周りに集まる老人たち。


「分からない」


 朔はもう一度言った。


 ハルは口を尖らせる。


「そればっか」


「でも」


 朔は続けた。


「今ここから逃げたいとは思ってない」


 ハルが、ゆっくり朔を見た。


「ほんまに?」


「ああ」


「白い部屋が本物でも?」


「ああ」


「向こうにサクの身体があっても?」


「……それでも、今ここから逃げたいとは思ってない」


 言葉にして、朔自身も少し驚いた。


 それは永遠の約束ではない。

 戻らないという誓いでもない。


 でも、今の本心だった。


 ハルはしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ笑った。


「じゃあ、今はええ」


「今は?」


「うん。今はそれでええ」


 その言い方に、朔は胸の奥が少し痛くなった。


 子どもなのに、ハルはもう“ずっと”を信じきれなくなっている。


 森が声を真似たから。

 母の声で呼ばれたから。

 朔が白い部屋を見たから。


 それでも、今を掴もうとしている。


「サク」


「なんだ」


「今日も、逃げる時は二人で逃げる?」


 朔は少しだけ間を置いた。


「声では確認しない。手で確認する」


 そう言って、手を差し出す。


 ハルはそれを握った。


「うん」


 短い返事。


 それだけで十分だった。


***


 昼過ぎ、祠の前で騒ぎが起きた。


 年配の女が一人、祠の前に膝をつこうとしていた。


 彼女の息子は、森側の柵を直している男の一人だ。

 昨夜のヨビモノを見てから、ずっと顔色が悪かった。


「祈らせてください」


 女はリーネに言った。


「息子が無事でいられるように。

 村が守られるように。

 いつも通り、少しだけでええんです」


 リーネは首を横に振った。


「今は祈ってはいけない」


「なんでですか」


 女の声が震える。


「祈りの殻でしょう。

 ここは祈る場所でしょう。

 祈るなって、どういうことですか」


 周囲にいた村人たちが、足を止める。


 リーネは答えようとして、言葉を詰まらせた。


 いつもの彼女なら、短くても迷いのない言葉を返す。

 けれど、今日は違った。


 祈るな。


 それは、リーネ自身の存在を否定する言葉でもあった。


「どこへ届くか、分からないからです」


 ようやく絞り出した声は、少しかすれていた。


「今、祈りは殻の奥へ沈む。

 返ってくるものが、祈りとは限らない」


「じゃあ、何に縋ればええんですか」


 女の目に涙が浮かぶ。


「声にも返事するな。森も見るな。祠にも祈るな。

 じゃあ、私らは何を信じればええんですか」


 リーネは答えられなかった。


 朔も、言葉が出なかった。


 その問いは正しい。


 正しすぎて、誰もすぐには答えられない。


 そこへ、ミナトが来た。


 足取りは少し重い。

 だが、声はまっすぐだった。


「今は、火を絶やすな」


 女が振り返る。


「火……?」


「ああ」


 ミナトは広場の方を指した。


「声は真似られる。祈りは沈む。森は人を呼ぶ。

 せやけど、火は今、ワシらの手で守れる」


 村人たちが黙って聞いている。


「祈りの代わりにはならん。

 殻の代わりにもならん。

 でも、火があれば顔が見える。

 手が見える。

 誰がそこにおるか分かる」


 ミナトは女の前に膝をついた。


「息子が心配なら、火を見てやれ。

 あいつが戻ってくる場所を明るくしといてやれ。

 それも祈りや」


 女の目から、涙がこぼれた。


 リーネは目を伏せる。


 その横顔は、どこか救われたようにも、さらに傷ついたようにも見えた。


 火を絶やすな。


 祈りを禁じられた村に残った、新しい祈りの形。


 朔はその言葉を、胸の奥で繰り返した。


***


 夕方になると、森の声が止んだ。


 最初に気づいたのは、朔だった。


 いつもなら、森の奥からかすかな声のようなものが漏れている。

 名前を呼ぶ手前の音。

 泣き声とも笑い声ともつかない音。

 聞こうとすると意味を持ちそうになる、あの嫌な気配。


 それが、ない。


 犬も吠えない。

 羊も鳴かない。


 ただ静かだった。


 村人の中には、少し安心したような顔をする者もいた。


「今日は静かやな」


「このまま何もなければええけど」


 そう言う声が、火のそばで聞こえる。


 朔は、逆に嫌な汗をかいた。


 静けさが、軽くない。


 声が止んだ。


 それは、諦めた静けさではなかった。


 息を吸い込む前の静けさだった。


 朔は森を見た。


 暗くなり始めた木々の奥に、白い目はない。


 声もない。


 何もない。


 何もないことが、こんなに怖いとは思わなかった。


「サク」


 ハルが近づいてくる。


 今度は、朔はすぐに振り返らなかった。


 足音。

 呼吸。

 火の明かりに映る影。


 確認してから、振り返る。


「本物やって」


 ハルが少し不満そうに言う。


「本物でも確認する」


「せやな」


 ハルは森を見ないようにしながら、朔の隣に立った。


「静かやな」


「ああ」


「静かな方が怖いな」


 朔はハルを見た。


 ハルも同じことを感じている。


 それだけで、少しだけ心強かった。


***


 夜。


 ツヅリ村は、火で輪を作っていた。


 広場の火。

 井戸の火。

 森側の柵の火。

 北の見張り台の火。

 祠へ続く道の火。

 石場の火。


 それぞれの火のそばに、人がいる。


 一人ではない。

 必ず二人以上。


 声ではなく、姿を見る。

 姿だけでなく、手を掴む。

 火のそばで確認する。


 村人たちは、不器用にその決まりを守っていた。


 ミナトは広場の中央に立ち、見張りの配置を確認している。


 リーネは祠から離れた場所に座り、祈らずに目を閉じていた。

 祈っているのではない。

 たぶん、祈らないために耐えている。


 ハルは子どもたちのいる家の近くにいた。

 いつでも北の見張り台へ誘導できる位置。


 朔は森側の柵に近い火のそばに立っていた。


 火は小さく揺れている。


 風はない。


 それなのに、炎の先だけが時々、森の方へ引かれるように傾いた。


 朔は眉をひそめる。


「火、変じゃないですか」


 隣の見張りの男が火を見る。


「風はないな」


「はい」


 男が薪を一本足す。


 炎が少し大きくなる。


 その瞬間、村の北側から声が上がった。


「火が!」


 朔は反射的に振り向いた。


 北の見張り台。


 丘の上の火が、ふっと消えていた。


 風はなかった。


 雨も降っていない。


 薪もまだ残っているはずだった。


 なのに、火だけが消えている。


 一瞬、村全体が息を止めた。


 誰も声を出さない。


 誰も動かない。


 火が消えた。


 それは、ただの明かりが一つ失われたということではなかった。


 村が作った輪に、穴が開いた。


 その穴の向こうで、森が動いた。


 暗い木々の間に、白い目が一つ開く。


 次に、二つ。


 三つ。


 四つ。


 五つ。


 数えきれないほどの白い目が、森の端に並んでいく。


 声はない。


 鳴き声もない。


 ただ、見ている。


 朔は拳を握った。


 脇腹の傷が、ずきりと痛む。


 ハルの声が遠くで聞こえた。


「子どもら、起こせ!」


 ミナトの声が重なる。


「火を戻せ! 全員、持ち場を離れるな!」


 リーネが立ち上がる。


 祠の方から、低い音がした。


 ぷつ。


 泡が潰れるような音。


 朔は森を見た。


 白い目が、一斉にこちらを見ている。


 そして、ようやく理解した。


 声が止んだのは、呼ぶ必要がなくなったからだ。


 向こうはもう、来るつもりだった。

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