第一章 祈りの殻の子 ⑯ 火の輪
北の見張り台の火が消えた。
風はなかった。
雨もない。
薪も、まだ残っていたはずだった。
それでも火は、ふっと消えた。
村が作った火の輪に、穴が開いた。
その穴の向こうで、森の端に白い目が並んでいく。
一つ。
二つ。
三つ。
数えきれないほどの白い目が、黒い木々の間に浮かび上がる。
声はない。
呼ぶ声も、泣き声も、笑い声もない。
ただ、見ている。
朔は、その沈黙の意味をようやく理解した。
声が止んだのは、呼ぶ必要がなくなったからだ。
向こうはもう、来るつもりだった。
「子どもを北へ!」
ミナトの声が、村の沈黙を叩き割った。
「火を持て! 手を離すな! 森を見るな! 声を聞くな!」
その声に、村が動き出す。
広場の火から火種を取る男。
子どもたちを起こす女。
水袋を抱える老人。
槍を掴む若者。
完璧ではない。
誰かが叫び、誰かが転び、誰かが何かを探して立ち止まる。
それでも、村は動いた。
何度も繰り返した避難訓練が、恐怖の底でかろうじて形を保っていた。
「ハル!」
朔が叫ぶ。
ハルはすでに子どもたちのいる家の前にいた。
顔は青い。
手も震えている。
それでも、足は止まっていなかった。
「小さい子から! 手ぇ繋げ! 前見る! 森見るな!」
ハルの声に、子どもたちが集まる。
トウマが泣きそうな顔でハルの服を掴む。
「火は?」
「俺が持つ!」
ハルは小さな火皿を受け取る。
火は頼りない。
けれど、そこにあるだけで、子どもたちの目が少しだけ戻る。
ハルは火皿を片手に、もう片方の手でトウマを掴んだ。
「行くぞ!」
子どもたちの列が、北の丘へ動き始めた。
ハルは一瞬だけ、朔の方を見た。
戦いたい。
朔の横にいたい。
その顔が、そう言っていた。
けれど、ハルは来なかった。
火皿を掲げ、子どもたちを連れて坂道へ向かう。
今の自分の役目は、そこではない。
そう決めた背中だった。
朔は、その背中を見送る。
「頼む」
声には出さなかった。
出せば、森に覚えられる気がした。
***
森の白い目が、動き出した。
魔物は一斉には来なかった。
まず、一体。
低く、地面を這うような影が、森側の柵へ近づく。
火のある場所ではない。
広場から少し外れた、薪置き場の陰。
そこは火の明かりが届きにくい。
「左、薪置き場!」
朔が叫んだ。
男が二人、火皿を持って走る。
影は足を止める。
火が近づくと、白い目が細くなったように見えた。
引いた。
「火を前へ! 追うな、穴を埋めるだけでいい!」
朔は続けて叫ぶ。
追えば、火の輪が崩れる。
守るべきなのは、倒すことではない。
穴を塞ぐこと。
村を一つのリングとして見る。
森側の柵。
広場。
井戸。
北の坂道。
祠へ続く道。
逃げ道。
死角。
詰まる場所。
火の届かない場所。
村が一枚のリングに見えた。
そして、その縁を白い目が探っている。
殴り合いではない。
これは、距離と位置の取り合いだ。
朔は脇腹の痛みを押さえながら、火の薄い場所を見つけては声を飛ばした。
「井戸の右、火を寄せて!」
「家畜小屋の裏、誰か一人じゃ行くな!」
「そのまま追うな! 戻れ!」
村人たちは、全員がうまく動けたわけではない。
それでも、声だけで判断しなかった。
近くの者の腕を掴み、火の位置を見て、互いの顔を確認する。
恐怖に呑まれながらも、決めたことを思い出そうとしている。
それだけで、村はまだ崩れていなかった。
***
リーネは、祈らなかった。
祠の前に立つこともしなかった。
代わりに、広場の火のそばで、転んだ老人の膝に布を巻いていた。
「痛む?」
「大丈夫や」
「嘘。座って」
短く言い、布をきつく結ぶ。
次に、火皿を落としかけた女の手を取る。
「ここを持って。熱いところではなく、下」
「リーネ様、祈りは——」
「今は手を動かして」
リーネの声は静かだった。
けれど、迷いはなかった。
祈れない巫女は、祈りの代わりに手を使っていた。
黒に触れたかもしれない男を祠から遠ざける。
泣きかけた子どもの名前を呼び、火の前に座らせる。
声に反応して立ち上がりかけた女の肩を押さえる。
「ここにいる」
リーネは言った。
「声の方じゃない。ここにいる」
それは祈りの言葉ではなかった。
けれど、たぶん今の村に必要な言葉だった。
***
ミナトは森側の柵の前にいた。
槍を構え、白い目の影を近づけさせない。
一体が柵を越えようとした瞬間、ミナトの槍が走る。
迷いのない突き。
影の肩を貫き、そのまま地面へ叩き落とす。
白い目が一瞬だけぎょろりと動き、すぐに消える。
ミナトは次の影へ向き直る。
強い。
やはり、この村で一番戦いを知っているのはミナトだった。
けれど、朔は見た。
次の一体が、火の影を縫うように低く走った時。
ミナトの槍が、ほんの半拍だけ遅れた。
初めて見た遅れだった。
疲労。
連日の判断。
眠れない夜。
背負い続けた村の重さ。
その全部が、槍先にほんの少しだけ乗った。
「ミナトさん!」
朔は考えるより先に、足元の石を拾った。
狙うのは目ではない。
足。
走る線を変える場所。
石を投げる。
白い目の影の前足に当たった。
大きなダメージではない。
だが、軌道がずれた。
影の体が火のそばへ流れる。
その一瞬で、ミナトは立て直した。
槍が横から入り、影を柵へ叩きつける。
「助かった」
ミナトが短く言った。
息が荒い。
だが、目はまだ死んでいない。
「まだ動けますか」
朔が聞く。
「お前よりはな」
「なら、大丈夫ですね」
「言うようになった」
ミナトは口元だけで笑い、すぐに次の影へ向いた。
弱くなったわけではない。
疲れていても、まだ立て直せる。
それでも、完全ではない。
朔はそれを、はっきりと見た。
***
北の坂道で、子どもたちの列が乱れた。
小さな女の子が、石につまずいて転んだ。
普段の訓練なら、決めた役が助ける。
他の子は止まらない。
だが、本番の恐怖は違った。
前を走っていた子どもたちが、一斉に振り返りかける。
「止まるな!」
ハルが叫んだ。
声が裏返る。
それでも、叫んだ。
「リオ、前! トウマ、手ぇ離すな! ミナは俺が見る!」
ハルは火皿を近くの年上の子に押しつける。
「持って走れ!」
「でも——」
「前!」
その一言で、年上の子が火皿を抱えて走り出す。
ハルは転んだ女の子の元へ駆け寄った。
森は見ない。
声は聞かない。
火の位置を確認する。
女の子の膝から血が出ている。
「立てる?」
「痛い……」
「痛くても走る。泣いてもええから走る」
ハルは女の子の手を掴み、引き起こす。
その時だった。
坂の下、暗い森の方から声がした。
「ハル、こっちや」
サクの声だった。
ハルの体が、びくりと止まる。
朔の声。
危険な場所にいるはずの、サクの声。
「ハル、こっち。そっちは危ない」
声は優しかった。
落ち着いていた。
本物のサクなら、そう言いそうな声だった。
ハルの足が、半歩だけ動きかける。
だが、すぐに奥歯を噛んだ。
サクの声が森からしても、行かない。
本物は、手で確かめる。
サクは今、自分の横にはいない。
なら、声だけで動かない。
「……うるさい」
ハルは小さく呟いた。
返事ではない。
自分を止めるための声だった。
ハルは女の子の手を強く握った。
「行くで」
「でも、今の——」
「見んでええ。聞かんでええ。前や」
ハルは振り返らなかった。
女の子を引きずるようにして、坂を上がる。
背中の向こうで、サクの声がもう一度呼んだ。
「ハル」
ハルは答えなかった。
代わりに、火皿を持つ年上の子へ叫ぶ。
「火、消すな!」
子どもたちの列が、再び動いた。
***
朔は坂道の方を見たい衝動をこらえていた。
ハルが心配だった。
子どもたちが無事か、見たい。
だが今、森側の火の輪から目を離せば、穴が開く。
信じるしかない。
ハルが、訓練通りに動いていると。
その時、広場の火が大きく揺れた。
炎の先が、森ではなく、祠の方へ傾く。
朔は祠を見た。
白い円のある場所。
黒い染み。
そこから、低い音がする。
ぷつ。
泡が潰れる音。
リーネが顔を上げた。
祈ってはいけない祠が、勝手に何かを返している。
「リーネ!」
朔が叫ぶ。
「祠に近づけるな!」
リーネは頷き、近くにいた村人を下がらせる。
その瞬間、森側の影が一体、火の薄い場所へ走った。
囮。
朔は気づいた。
白い目の一体が祠へ注意を向けさせ、別の一体が火の穴を探っている。
試している。
この村の決まりを。
人の視線を。
誰がどこを見るかを。
「右! 右の火!」
朔が叫ぶ。
男が火皿を持って走る。
影は引いた。
だが、完全には逃げない。
火の届かないぎりぎりの場所で、こちらを見ている。
まるで、次の穴を覚えているように。
***
子どもたちは、北の見張り台にたどり着いた。
全員ではない。
いや、全員だ。
ハルは必死に数えた。
一人。
二人。
三人。
トウマ。
リオ。
ミナ。
転んだ女の子。
年上の子。
泣いている小さな兄妹。
いる。
全員いる。
火皿もある。
火は小さいが、消えていない。
ハルは膝に手をつき、荒い息を吐いた。
間に合った。
訓練は、無駄ではなかった。
子どもたちは、見張り台の下で身を寄せ合う。
「ハル兄ちゃん……」
トウマが泣きながらしがみつく。
「大丈夫や」
ハルはそう言った。
本当は、大丈夫かどうか分からない。
それでも、言うしかなかった。
「火、真ん中置いて。手ぇ繋げ。声聞こえても返事せん」
ハルは朔に教わった言葉を、ミナトに言われた言葉を、何度も自分の中から引っ張り出す。
その時だった。
ぷつ。
小さな音がした。
ハルは顔を上げた。
最初、火皿の薪が鳴ったのかと思った。
だが違う。
音は、見張り台の柱から聞こえた。
古い黒焦げの残る柱。
昼間は乾いていたはずのその黒が、夜の中で湿っている。
火の明かりを受けて、ぬらりと光っていた。
ぷつ。
泡が、ひとつ潰れた。
ハルは息を止めた。
その音を、誰より近くで聞いていた。




