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第一章 祈りの殻の子 ⑰ 待っていた場所



 ぷつ。


 泡が、ひとつ潰れた。


 ハルは、その音を誰より近くで聞いていた。


 最初は、火皿の薪が湿っていたのだと思った。

 火が小さくはぜただけだと。


 だが、違う。


 音は、見張り台の柱から聞こえた。


 古い黒焦げの残る柱。

 昔、見張りの男が一人消えたという、その場所。


 昼間は乾いていたはずの黒が、今は湿っていた。

 火の明かりを受けて、ぬらりと光っている。


 ぷつ。


 もう一度。


 黒い焦げ跡の奥で、小さな泡が潰れる。


 ハルは、息を止めた。


 子どもたちは気づいていない。


 トウマは泣きながら火皿のそばに座り込み、年上の子がその肩を抱いている。

 転んだ女の子は膝を押さえながら、必死に声を殺していた。


 ここは逃げ場所のはずだった。


 サクが、ミナトが、リーネが、村のみんなが決めた場所。


 森へ逃げるな。

 低いところへ行くな。

 上へ。


 だから、ここへ来た。


 なのに。


 ぷつ。


 柱の黒が、少しだけ広がった。


 ハルは叫びそうになった。


 サク。


 じいちゃん。


 そう呼びたかった。


 でも、喉の奥で声を止めた。


 声を出せば、森が聞く。


 森は覚える。

 真似る。

 使う。


 ハルは火皿を見た。


 小さな火が、弱く揺れている。


 風はない。


 それなのに、炎の先が黒焦げの柱の方へ引かれていた。


「……火、少し下げる」


 ハルは、できるだけ普通の声で言った。


 子どもたちが顔を上げる。


「みんな、こっち寄って。火、真ん中に置く」


「なんで?」


 トウマが泣き腫らした目で聞く。


「火が小さいからや。みんなで囲んだ方が明るい」


 嘘ではない。


 でも、本当のこと全部でもない。


 ハルは年上の子に目で合図した。

 相手はすぐには分からなかったが、ハルの顔を見て、何かがおかしいと気づいたらしい。


 黙って火皿を持ち上げる。


 その瞬間、柱の黒がまた泡立った。


 ぷつ、ぷつ。


 今度は、音が少し大きい。


 女の子の一人が振り返りかける。


 ハルは反射的に前へ出た。


「見るな」


 声を荒げそうになって、押さえた。


「俺を見る」


 女の子が、びくりとする。


 ハルはその子の前にしゃがみ込んだ。


「柱やない。森やない。俺を見る」


 自分の声が震えているのが分かった。


 それでも、視線だけは逸らさなかった。


 女の子は、泣きそうになりながら頷く。


 その時、トウマが小さく呟いた。


「……目ぇ、ある」


 ハルの背中に冷たいものが走る。


「トウマ」


「黒の中に、白い目ぇ……」


「見るな」


 ハルはすぐにトウマの手を掴んだ。


 トウマの手は、冷たかった。


「俺を見る。トウマ、俺を見るんや」


 トウマの視線が揺れる。


 黒焦げへ吸われかける。


 ハルは、自分の額をトウマの額に近づけた。


「俺の声、聞こえるか」


「……聞こえる」


「本物や。手、掴んでるやろ」


「うん」


「じゃあ、俺を見る」


 トウマの目が、ようやくハルに戻った。


 ハルは息を吐く。


 間に合った。


 今は、まだ。


***


 朔は、北の見張り台の火が揺れるのを見た。


 火は消えていない。


 だが、明らかに弱っている。


 さっきまで子どもたちがいる場所に、小さく灯っていたはずの火が、今は黒い何かに押し込まれるように揺れていた。


 行かなければ。


 そう思った瞬間、森側の火の輪がまた揺らいだ。


 白い目の影が、薪置き場の陰を回り込もうとしている。


 朔が抜ければ、そこに穴が開く。


 ここを離れれば、広場側が崩れるかもしれない。


 でも、あそこにはハルがいる。


 子どもたちがいる。


 信じるしかない。

 第十六話でそう思った。


 けれど、今は信じるだけでは足りない。


 見張り台の火が、また一段弱くなる。


 朔は奥歯を噛んだ。


「ミナトさん!」


 ミナトは森側の柵の前で、槍を構えていた。


 その横顔は汗に濡れている。

 息も荒い。


 けれど、朔が何を見たのか、すぐに理解したようだった。


 北を一瞥する。


 見張り台の火。

 揺れる黒。

 子どもたちの影。


 ミナトの眉間に、深い皺が刻まれた。


「行け」


 短い言葉だった。


 朔は一瞬、動けなかった。


「でも、ここが——」


「ここはワシが持つ」


 ミナトの声は低い。


 強い。


 けれど、その奥に疲労があることを、朔はもう知っている。


 今ここを任せるということは、ミナトにさらに重さを乗せるということだ。


「ミナトさん」


「目の前におる者を置いて、遠くの声だけ追うなと言うたな」


 ミナトは槍を握り直した。


「今、お前の目の前はあっちや」


 朔は息を呑んだ。


 北の村の声を追うなと言った人が、今は北の見張り台へ行けと言う。


 矛盾ではない。


 今、目の前にいるのは、あの声ではない。


 ハルだ。

 子どもたちだ。


「……はい」


 朔は頷いた。


「サク」


 ミナトが呼ぶ。


 朔が振り返ると、ミナトはわずかに笑った。


「走り方、忘れるなよ」


「子どもの足ですけどね」


「知っとる。せやから頭使え」


 その言葉を最後に、ミナトは森側へ向き直った。


 次の白い目が、柵を越えようとしていた。


 ミナトの槍が、それを迎え撃つ。


 朔は走り出した。


***


 見張り台までの坂道は、いつもより長く感じた。


 脇腹が痛む。


 呼吸が乱れる。


 子どもの身体は軽い。

 だが、力がない。


 現代の身体なら、もっと速く走れたかもしれない。

 もっと強く踏み込めたかもしれない。


 そんな考えが頭をかすめる。


 すぐに振り払った。


 今ある身体で行くしかない。


 今ある足で走るしかない。


 坂の途中、森の方から声がした。


「サク」


 ハルの声。


 朔は足を止めなかった。


「サク、こっち」


 聞くな。


 あれはハルじゃない。


 本物のハルは、見張り台にいる。


 いや、本当にいるのか。


 黒に呑まれていないのか。


 一瞬、胸が締めつけられる。


 それでも、朔は走った。


 火皿の明かりが近づいてくる。


 その周りに、小さな影がいくつも見えた。


 子どもたち。


 いる。


 まだ、いる。


***


 見張り台の柱から、黒が滲み出していた。


 液体とも煙ともつかない黒が、古い焦げ跡からゆっくりと広がる。


 それは木の表面を伝い、地面へ落ちる。


 地面に落ちた黒は、広がらない。


 代わりに、そこだけ夜が深くなる。


 火皿の明かりが弱くなる。


 子どもたちの声も、小さくなる。


 泣き声まで、黒に吸われていくようだった。


 ハルは、子どもたちを一人ずつ坂の下へ押し出した。


「先に行け。火を持って。広場の火まで戻るんや」


「ハル兄ちゃんは?」


「後から行く」


 そう言いながら、ハルはもう一人を押し出す。


 本当は、一緒に走りたかった。


 すぐにでも逃げたかった。


 でも、誰かが残らないと、子どもたちは固まる。


 誰かが「前へ行け」と言い続けなければ、全員が黒を見てしまう。


「ミナ、足見せて」


 転んだ女の子が首を振る。


「痛い……」


「知ってる。痛いまま行く」


「無理……」


「無理でも、俺が押す」


 ハルは女の子の肩を支え、坂の方へ向ける。


 その時、黒い柱の中から、音がした。


 声ではない。


 吸い込む音。


 息を吸うような、長く低い音。


 ハルの意識が、一瞬だけ遠のきかけた。


 眠い。


 いや、違う。


 これは眠気ではない。


 引かれている。


 目を閉じれば楽になりそうだった。

 そのまま座り込めば、何も考えずに済みそうだった。


 ハルは自分の頬を叩いた。


 ぱしん、と乾いた音がする。


 その音で、自分を戻す。


「寝るな」


 誰に言ったのか分からない。


 自分にだ。


 子どもたちにだ。


 この場所そのものにだ。


「寝たらあかん。前や」


 ハルは女の子を押し出した。


 そこへ、坂道の下から足音が近づいてきた。


「ハル!」


 サクの声。


 今度は、火の方から。


 森ではない。


 坂道から。


 ハルは振り返った。


 朔がいた。


 息を切らし、脇腹を押さえながら、それでも走ってきている。


 本物だ。


 見れば分かった。


 いや、見ただけでは足りない。


 でも、今はそれでも分かった。


「サク!」


 ハルは叫びそうになって、少しだけ声を抑えた。


「こっち! 子ども、先に!」


 朔は頷いた。


 坂を駆け上がり、転んだ女の子を受け止める。


「大丈夫か」


 女の子は泣きながら頷いた。


「下へ。火のあるところまで行け」


 朔はそう言い、次の子に手を伸ばす。


 子どもたちは、朔の姿を見て少しだけ動きを取り戻した。


 ハルは、最後に残っていた小さな男の子を抱えるようにして前へ出した。


 その子は足が震えていて、自分ではほとんど歩けなかった。


「サク!」


 ハルはその子を朔へ押し出す。


 朔が受け止める。


 二人の距離は、手を伸ばせば届くほど近かった。


 朔は男の子を片腕で抱え、もう片方の手をハルへ伸ばす。


「ハル、手!」


 ハルも手を伸ばした。


 逃げる時は、二人で逃げる。


 その約束が、胸の奥で燃えた。


 あと少し。


 ほんの少し。


 その時、柱の黒が大きく泡立った。


 ぷつ。


 ぷつ。


 ぷつ。


 黒いものが、ハルの足元で開く。


 地面に穴が開いたわけではない。


 けれど、そこだけ夜が深く沈んだ。


 ハルの足首に、冷たいものが絡む。


 ハルの体が、ぐらりと後ろへ引かれた。


 朔の手は、あと指一本分届かない。


 ハルは一瞬、朔の手を見た。


 次に、朔の腕の中の男の子を見た。


 その子は、朔にしがみついて震えている。


 ハルの顔に、迷いが走った。


 ほんの一瞬だけ。


 そして、その迷いは消えた。


 笑ってはいない。


 泣いてもいない。


 ただ、約束を守ろうとしている顔だった。


「サク」


 ハルは言った。


「先に、その子」

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