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第一章 祈りの殻の子 ⑱ 指一本分



「サク」


 ハルは言った。


「先に、その子」


 朔の腕の中で、小さな男の子が震えていた。


 ハルの足首には、黒いものが絡んでいる。

 見張り台の柱から滲み出した黒。

 声を吸い、火を弱らせ、泣き声まで呑み込むもの。


 それが今、ハルの足を掴んでいる。


 朔は、手を伸ばしていた。


 あと少し。


 あと、指一本分。


 届く。


 届くはずだった。


 けれど、腕の中の子どもが震えている。


 この子を離せば、ハルに届くかもしれない。

 でも、離した瞬間、この子は黒の方へ倒れるかもしれない。


 ほんの一瞬、朔の中で時間が止まった。


 全員で止まるな。


 助ける役と、逃げる役を決めろ。


 怖い時に初めて考えたら、間に合わない。


 それを教えたのは、朔だった。


 そして今、ハルは助ける役をしている。


 なら、朔は逃がす役をしなければならない。


 正しい。


 それは、正しい。


 正しいのに、体が動かなかった。


「サク!」


 ハルが叫ぶ。


 その声で、時間が戻った。


 朔は歯を食いしばり、腕の中の男の子を坂の下へ押し出した。


「走れ!」


 年上の子が、男の子を受け止める。


 火皿の明かりが揺れる。


 子どもたちが泣きながら坂を下りていく。


 助かった。


 たぶん、助かった。


 その一瞬で、ハルの体がさらに後ろへ引かれた。


 正しいことをした。


 だから、間に合わなかった。


 朔は地面を蹴った。


「ハル!」


 手を伸ばす。


 ハルも手を伸ばす。


 黒が足元で泡立つ。


 ぷつ。


 ぷつ。


 ぷつ。


 世界が、その音だけになる。


 朔の指先が、ハルの指先に触れた。


 温度があった。


 冷えきった黒の中で、ハルの指だけが熱かった。


 本物だった。


 声ではない。

 幻ではない。

 森が真似たものでもない。


 確かに、ハルがそこにいた。


 だからこそ。


 離れた瞬間が、分かった。


 ぬるり、と黒が間に入る。


 ハルの指が滑る。


 朔は掴もうとした。


 爪を立てるように、必死に。


 けれど、子どもの手は小さく、力も足りなかった。


 黒が、ハルの足元を大きく開く。


 穴ではない。


 水でもない。


 そこだけ夜が深くなり、世界の底が抜けたように沈んでいく。


 ハルの体が、そこへ引かれる。


「サク!」


 今度は、朔が叫んだ。


 声を出すなとか、森が覚えるとか、そんなことはもう考えられなかった。


 ハルの顔が、火の明かりに照らされる。


 笑っていない。

 泣いてもいない。


 ただ、悔しそうだった。


 もっと走れたのに。

 もっと守れたのに。

 まだ、逃げられたのに。


 そんな顔だった。


「サク」


 ハルの声が、少し遠くなる。


「逃げろ」


 その言葉が、本物だったのか。


 森が真似たのか。


 朔には分からなかった。


 でも、その声には温度があった気がした。


 ハルの指が、完全に離れた。


 黒が、ハルの膝まで呑み込む。


 朔はそのまま飛び込もうとした。


 考えなかった。


 飛び込めば助けられるかもしれない。

 届くかもしれない。

 今度こそ、掴めるかもしれない。


 その体を、後ろから強い腕が掴んだ。


「離せ!」


 朔は叫んだ。


「ハルが!」


 ミナトだった。


 いつの間に来たのか分からなかった。


 息は荒く、肩は上下している。

 槍の柄には黒い血のようなものがついていた。


 それでも、ミナトの腕は強かった。


 朔の体を後ろから抱え込み、黒から引き離す。


「離せ! まだ届く!」


「見るな!」


 ミナトの声が、耳元で響いた。


「今は、走れ!」


「ハルが!」


「分かっとる!」


 その声は、初めて割れていた。


 村長の声ではなかった。


 祖父の声だった。


 ミナトの腕が一瞬だけ震える。


 その視線の先には、黒に呑まれていくハルがいる。


 孫。


 たった一人の孫。


 それでも、ミナトは朔を離さなかった。


「分かっとる……!」


 もう一度、ミナトは言った。


 自分に言い聞かせるように。


 黒が、ハルの胸まで上がる。


 火皿の明かりが消えかける。


 ハルの姿が、黒の向こうで揺らぐ。


 朔は暴れた。


 ミナトの腕をほどこうとした。

 地面を蹴った。

 腕を伸ばした。


 でも、届かない。


 指一本分どころではない。


 もう、届かない。


 ハルの口が動いた。


 声は聞こえなかった。


 ただ、何を言ったのかは分かった気がした。


 ——二人で逃げる。


 次の瞬間、黒が閉じた。


 ハルの姿が、消えた。


 そこにあったのは、湿った黒焦げの柱と、消えかけた火皿だけだった。


 朔は息ができなかった。


 何かが胸の中で壊れた。


 叫ぼうとしても、声が出ない。


 喉の奥に、熱いものだけが詰まる。


 ハルがいた場所を見る。


 見ても、何もない。


 手には、まだ温度が残っている。


 触れた指先が、まだ熱い。


 それなのに、そこにはもう誰もいなかった。


***


 見張り台の柱が、低い音を立てて裂けた。


 ばき、と木が割れる音。


 その内側から、黒い液が滲み出す。


 泡が潰れる。


 ぷつ。


 ぷつ。


 ぷつ。


 火皿が消えた。


 子どもたちの泣き声が遠くなる。


 ミナトは朔を無理やり引きずるようにして、坂の下へ向かわせた。


「走れ」


「嫌だ」


「走れ!」


 朔は足がもつれた。


 ハルの方へ戻ろうとする。


 だが、ミナトが離さない。


 その時、森側から白い目の影が一体、坂を駆け上がってきた。


 火が消えた見張り台へ向かっているのではない。


 朔へ向かっていた。


 黒に引かれ、動けない朔へ。


 ミナトが朔を後ろへ突き飛ばした。


 朔は地面に転がる。


 顔を上げた時、ミナトはすでに槍を構えていた。


 槍先が走る。


 白い目の影を貫く。


 だが、遅れてもう一体が横から跳んでいた。


 ミナトは反応した。


 反応はした。


 けれど、ほんの少しだけ遅れた。


 第十五話で見た、あの半呼吸。


 疲労。

 判断。

 眠れない夜。

 村の重さ。

 ハルを呑まれた直後の揺らぎ。


 その全部が、ほんの少しだけ、ミナトの体を遅らせた。


 白い目の影の爪が、ミナトの脇腹を裂いた。


 鈍い音がした。


 ミナトの体が揺れる。


「ミナトさん!」


 朔は叫んだ。


 ミナトは倒れなかった。


 槍の柄を地面に突き、踏みとどまる。


 そして、横から来た影の首筋に、短く槍を突き込んだ。


 白い目が消える。


 影が地面へ崩れ落ちる。


 ミナトの脇腹から、血が流れていた。


 暗い赤。


 黒ではない。


 人間の血だった。


「見るな」


 ミナトは言った。


 声はかすれていた。


「今は……走れ」


「でも」


「子どもらを……下へ」


 ミナトは朔の肩を掴んだ。


 その手は強かった。


 まだ、強かった。


 でも、熱が違う。


 血が、朔の肩に染みる。


「ハルを……無駄にするな」


 その言葉で、朔の体が止まった。


 無駄にするな。


 ハルが先に逃がした子ども。

 ハルが守った列。

 ハルが振り返らずに進ませた命。


 それを、今ここで止めるわけにはいかない。


 朔は唇を噛んだ。


 血の味がした。


「……はい」


 声が震えた。


 ミナトは頷いた。


「行け」


 朔は立ち上がった。


 足が震えている。


 手には、まだハルの温度が残っている。


 でも、その手で、逃げ遅れた子どもの手を掴まなければならない。


 朔は坂の下へ向かって走った。


 後ろで、見張り台の柱がさらに裂ける音がした。


 振り返らない。


 振り返れば、また止まる。


 見るな。


 今は、走れ。


 ミナトの言葉だけを、胸の中で繰り返す。


***


 坂の下には、子どもたちがいた。


 泣きながら、火の近くへ集められている。


 年上の子が、必死に小さい子たちを押さえている。


「ハル兄ちゃんは?」


 トウマが聞いた。


 朔は答えられなかった。


 答えれば、何かが終わる気がした。


「サク?」


 トウマがもう一度呼ぶ。


 朔は膝をつき、トウマの肩を掴んだ。


「火のそばにいろ」


「ハル兄ちゃんは?」


「火のそばにいろ!」


 声が強くなった。


 トウマがびくりと震える。


 朔はすぐに、自分の声に気づいた。


 違う。


 これは違う。


 怖さを押しつける声だ。


 朔は息を吸った。


 震える手で、トウマの肩をもう一度掴む。


「……ごめん」


 声を落とす。


「今は、火のそばにいてくれ。

 手を離すな。

 お願いだ」


 トウマは泣きながら頷いた。


 朔は立ち上がる。


 北の見張り台を見る。


 火はもうない。


 黒が、柱の根元で湿っている。


 ハルの姿はない。


 ミナトが坂を下りてくる。


 槍を杖のようにして。


 脇腹から血を流しながら。


 それでも、まだ歩いている。


 朔は走り寄ろうとした。


 ミナトは首を横に振った。


「子どもを見ろ」


 それだけ言った。


 朔は足を止めた。


 見たい。


 ミナトに駆け寄りたい。


 ハルが消えた場所へ戻りたい。


 でも、今見なければならないのは、ここにいる子どもたちだった。


 泣いている。

 震えている。

 生きている。


 ハルが先に逃がした子どもたち。


 朔は、火のそばへ戻った。


 手を伸ばす。


 子どもたちの手を掴む。


 ひとつずつ。


 冷たい手。

 震える手。

 小さな手。


 そのどれもが、本物だった。


 朔の手には、まだハルの温度が残っていた。


 それなのに、そこにはもう誰もいなかった。

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