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第一章 祈りの殻の子 ⑲ 足掻け



 火のそばに、子どもたちが集められていた。


 泣いている子。

 声を出せない子。

 ただ震えている子。


 誰も森を見ていない。

 誰も見張り台を見ていない。


 見れば、そこに何がないのかを知ってしまうからだ。


 朔は、子どもたちの手をひとつずつ握った。


 冷たい手。

 汗ばんだ手。

 震える手。

 土と血で汚れた手。


 一人。


 二人。


 三人。


 数える。


 数えなければならない。


 助かった子どもたちを、確認しなければならない。


 四人。


 五人。


 六人。


 数は合っている。


 ハルを数に入れなければ。


 その考えが浮かんだ瞬間、朔の胸の奥が潰れた。


 違う。


 そう思った。


 違う。


 ハルは、数から外すものではない。

 いないことにしていい存在ではない。


 でも、今ここにいる子どもたちを数えるなら、ハルはそこにいない。


 その事実だけが、火の前に置かれていた。


「ハル兄ちゃんは?」


 トウマが聞いた。


 小さな声だった。


 誰も答えなかった。


 年上の子が唇を噛む。

 転んだ女の子が膝を抱えて泣き出す。


 朔はトウマの手を握ったまま、何も言えなかった。


 ハルはどこにいる。


 生きているのか。


 黒の向こうにいるのか。


 それとも、もうどこにもいないのか。


 分からない。


 分からないという言葉は、今まで何度も使ってきた。


 答えを急がないために。

 希望を残すために。

 間違えないために。


 でも今の「分からない」は、胸の中で刃物みたいに暴れていた。


***


 ミナトは、坂を下りてきた。


 槍を杖のようにしている。


 一歩ごとに、地面に血が落ちた。


 村人たちが駆け寄ろうとする。


 ミナトは片手を上げて止めた。


「持ち場を離れるな」


 声は低かった。


 いつもの声に近づけようとしているのが分かった。


 だが、完全には戻っていない。


 息の底に、痛みが混じっている。


「村長!」


 ダンが火皿を持ったまま叫ぶ。


「傷が——」


「見張りを続けろ」


「でも!」


「続けろ」


 ミナトの声が、わずかに強くなる。


 それだけで、ダンは唇を噛んで踏みとどまった。


 ミナトは、大丈夫ではないことを分かっている。


 それでも、大丈夫であるように立っている。


 村長として。


 最後まで、村人の目の前で倒れないために。


 リーネが駆け寄った。


 その顔から血の気が引いていた。


「座って」


「あとでええ」


「今」


 リーネの声は震えていた。


 それでも、短く強かった。


 ミナトは少しだけリーネを見て、苦笑した。


「お前にそう言われたら、座るしかないな」


 火のそばに座らされる。


 その瞬間、ミナトの体がわずかに傾いた。


 朔は反射的に支えようとした。


 ミナトの体は重かった。


 今までより、ずっと重く感じた。


「傷を見せて」


 リーネが言う。


 布を裂き、ミナトの脇腹に当てる。


 血は止まらない。


 赤い。


 黒ではない。


 人間の血だ。


 そのことが、なぜか余計に痛かった。


 リーネは手をかざしかけた。


 淡い光を集めようとして。


 けれど、その手が止まった。


 祈ってはいけない。


 彼女自身がそう言った。


 祈りがどこへ届くか分からない。

 返ってくるものが、祈りとは限らない。


 それでも、目の前でミナトが血を流している。


 リーネの指が震えた。


「リーネ」


 ミナトが言った。


「祈らんでええ」


 リーネの顔が歪む。


「でも」


「手ぇ貸せ」


 短い言葉だった。


 リーネは唇を噛んだ。


 そして、かざしかけた手を下ろした。


 布を押さえる。


 血で濡れた布を替える。


 薬草を噛み潰し、傷口の周りに当てる。


 祈れない巫女は、祈りの代わりに手を使った。


 その手は、震えていた。


 でも、止まらなかった。


***


 朔は、見張り台へ戻ろうとした。


 子どもたちは火のそばにいる。

 ミナトはリーネが見ている。


 なら、自分は行ける。


 ハルを探しに行ける。


 黒がまだそこにあるなら、何か手がかりがあるかもしれない。

 ハルの声が聞こえるかもしれない。

 温度が、まだ残っているかもしれない。


 朔が立ち上がった瞬間、ミナトが声を出した。


「どこへ行く」


「見張り台です」


「行くな」


 即答だった。


 朔は振り返る。


「まだ分からないじゃないですか」


「ああ」


「ハルが、まだ——」


「分からん」


 ミナトは言った。


「分からん。せやから、今行くな」


 朔の中で、何かが切れた。


「分からないなら、行くべきでしょう!」


 声が大きくなる。


 子どもたちがびくりとする。


 それでも止まらなかった。


「今までもそうだった! 分からないから調べた! 分からないから祠に触った! 分からないから逃げ道を作った!

 なのに、なんで今だけ、分からないから行くなになるんですか!」


 ミナトは黙って聞いていた。


 リーネも、布を押さえたまま動かない。


「ハルがまだいるかもしれないんですよ!」


 朔の声は震えていた。


「まだいるって、ずっと聞いてたじゃないですか。

 北の村も、祠も、森も。

 まだいるなら、助けに行かないと——」


「サク」


 ミナトの声が低く落ちた。


「それは、希望や。

 でも今は、罠にもなる」


 朔は息を止める。


「分からない」は、足掻く理由になる。


 ずっと、そう思ってきた。


 でも今、同じ言葉が、別の意味で目の前に立っている。


 分からないから、飛び込める。


 分からないから、踏みとどまる。


 どちらも、たぶん間違いではない。


 だから苦しい。


「今行けば、お前も引かれる」


「それでも——」


「それでも行きたいのは分かっとる」


 ミナトの声が、少しだけ掠れた。


「ワシかて、行きたい」


 その一言で、朔は何も言えなくなった。


 ミナトはハルの祖父だ。


 誰よりも、行きたいはずだった。


 黒へ飛び込みたいはずだった。


 ハルの名前を叫びたいはずだった。


 それでも、ここに座っている。


 血を流しながら。


 村長として。


 祖父として壊れそうになりながら。


「ハルは……」


 ミナトは一度、言葉を切った。


 喉の奥で何かを飲み込むように。


「ハルは、役目を果たした」


 朔は目を見開いた。


「役目って……そんな言い方」


 声が冷たくなった。


 自分でも分かった。


「そんな言い方、ないでしょう」


「せや」


 ミナトは頷いた。


「そんな言い方しかできん時がある」


 火が小さく揺れる。


 誰も声を出さない。


「ハルは子どもらを逃がした。

 転んだ子を起こした。

 最後の子を、お前に渡した」


 ミナトの声は震えていた。


 それでも、ひとつずつ言った。


「逃げる役と、助ける役を決めた。

 お前が教えた通りに動いた。

 あいつは、やるべきことをやった」


「そんなの……」


 朔は拳を握った。


「そんなの、助かった人間が言う言葉じゃないですか」


「そうや」


 ミナトは目を伏せた。


「助かった者が、言わなあかん言葉や」


 朔は何も言えなかった。


 助かった者。


 その言葉が、重すぎた。


 自分は助かった。


 ハルは消えた。


 その事実を認めたくなかった。


 でも、認めなければ、ハルが守ったものまで見えなくなる。


「死んだとは言うな」


 ミナトが言った。


 朔は顔を上げる。


「まだ、言うな」


「……ミナトさん」


「分からんからな」


 ミナトは、苦しそうに息をした。


「でも、分からんからこそ、今は生きてる者を守れ」


 朔の喉が詰まった。


 希望と命令が、同じ言葉の中にあった。


 ハルを死んだと決めるな。

 でも、今すぐ追うな。


 それは残酷だった。


 けれど、たぶん今のミナトにできる、最も誠実な線引きだった。


***


 村の火は、まだ燃えていた。


 森の白い目は、少しずつ引いている。


 完全に消えたわけではない。

 だが、今すぐ襲ってくる気配は薄れていた。


 リーネはミナトの傷を押さえ続けている。


 血は、少しだけ遅くなった。


 止まってはいない。


 ミナトはそれを分かっているようだった。


 朔も分かってしまった。


 分かりたくなかった。


「サク」


 ミナトが呼んだ。


 朔は膝をつく。


「はい」


「泣いてもええ」


 朔は何も言えなかった。


「悔やんでもええ。

 怒ってもええ。

 ワシを恨んでもええ」


「恨むわけ——」


「あるかもしれんやろ」


 ミナトは少しだけ笑った。


 その笑いは、痛みで歪んでいた。


「ワシは、お前を止めた。

 ハルを追わせんかった。

 だから、恨んでもええ」


「そんなこと、言わないでください」


「言う。今言わんと、言えんようになる」


 朔は唇を噛んだ。


 ミナトの手が、朔の手を探す。


 朔はその手を握った。


 大きな手だった。


 節くれだった、硬い手。


 ハルの手とは違う。


 けれど、同じ血の温度があった。


 まだ、温かい。


「サク」


「はい」


「死ぬな」


 朔の呼吸が止まる。


「お前は、すぐ自分を置いていく。

 誰かを守るためなら、自分を数から外そうとする」


 それは、いつかミナトに言われた言葉に似ていた。


 誰かを守るために死ねる奴より、誰かを守るために生き残ろうと足掻く奴の方が好きや。


「ハルを追って死ぬな。

 ワシを悔やんで止まるな。

 村を壊したもんを許さんでええ。

 自分を許せんでもええ」


 ミナトの手に、少しだけ力が入る。


「でも、足掻け」


 朔は、息を吸えなかった。


 その言葉は、命令のようで、祈りのようだった。


 祈ってはいけない村で、ミナトは祈りではなく、言葉を残していた。


「足掻け。

 止まるな。

 見つけられるものは見つけろ。

 守れるものは守れ。

 守れんかったものを、忘れるな」


 ミナトの目が、朔を見ている。


 強い目だった。


 弱っているのに。


 血を流しているのに。


 まだ、誰かを立たせようとする目だった。


「ハルが……」


 朔はようやく声を出した。


「ハルが、戻ってきたら」


 ミナトの目が、少しだけ揺れた。


「戻ってきたら、怒ったれ」


「怒るんですか」


「ああ」


 ミナトはかすかに笑った。


「あいつ、無茶したからな」


 朔の喉の奥が熱くなる。


 涙は出なかった。


 出そうなのに、出なかった。


「サク」


「はい」


「ハルに会ったら、言うといてくれ」


 ミナトの声が細くなる。


「あっぱれや、って」


 朔は、歯を食いしばった。


「……はい」


「それと」


 ミナトの指が、朔の手を握る。


「お前にも言うとく」


「はい」


「よう、足掻いた」


 その言葉で、朔の中の何かが崩れそうになった。


 でも、まだ崩れなかった。


 崩れている場合ではなかった。


 ミナトの手から、少しずつ力が抜けていく。


「サク」


 最後に、もう一度呼ばれた。


「はい」


「足掻け」


 朔は、ミナトの手を握り返した。


「はい」


 返事が届いたのかは分からない。


 ミナトの目が、ゆっくりと閉じた。


 その手から、力が抜けた。


***


 誰も、すぐには声を出さなかった。


 リーネは、ミナトの傷に当てていた布から手を離せなかった。


 手は血で染まっている。


 彼女は祈らなかった。


 祈れなかった。


 ただ、ミナトの手に触れて、静かに目を伏せた。


 村人たちは、火のそばで立ち尽くしている。


 誰かが泣き始めた。


 それでも、森はまだ完全には去っていない。


 だから、火は消せない。


 泣いても、火を見なければならない。


 泣いても、子どもの手を離してはいけない。


 泣いても、次の白い目に備えなければならない。


 朔はミナトの手を握ったままだった。


 泣きたいのに、涙は出なかった。


 手の中には、ハルの温度が残っている。


 目の前では、ミナトの手が冷えていく。


 どちらも本物だった。


 どちらも、もう戻らないかもしれない。


 それでも、村にはまだ火があった。


 子どもたちがいた。


 震える手があった。


 朔は、ミナトの手をそっと地面に置いた。


 そして、火の方を見た。


 消えかけている火が、一つある。


 誰も動けていない。


 朔は立ち上がった。


 足は震えていた。


 脇腹も痛んだ。


 胸の中は空っぽだった。


 それでも、火のそばへ歩いた。


 薪を一本、くべる。


 火が、小さく息を吹き返した。


 朝は、まだ来ていない。


 けれど、夜が終わるまで、火を絶やすわけにはいかなかった。

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