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第一章 祈りの殻の子 ⑳ 夜明けの火



 朝は来た。


 けれど、夜が終わっただけだった。


 失ったものが戻ったわけではない。

 黒く湿った見張り台が、元の木の柱に戻ったわけでもない。

 祠の黒い染みが、朝の光で消えたわけでもない。


 森の白い目は、いつの間にか消えていた。


 声もない。


 呼ぶ声も、泣く声も、誰かの名前を真似る声もない。


 ただ、森はそこにあった。


 何もなかったように、朝の薄い光の中で黙っていた。


 それが、かえって怖かった。


 ツヅリ村は残っていた。


 けれど、昨日までのツヅリ村ではなかった。


 森側の柵は一部が壊れ、家畜小屋の壁には白い目の魔物が残した爪痕がある。

 広場の土には、火皿を引きずった跡と、血の跡が混じっていた。

 井戸のそばには、夜通し火を守った男が座り込んでいる。


 北の見張り台は、もう逃げ場所ではなかった。


 柱の根元が黒く湿っている。

 朝になっても乾かない。


 火皿はひっくり返り、灰だけが残っていた。


 祠の黒い点も、昨日より大きくなっていた。


 丸く、美しく磨かれていた白い中心に、指先ほどだった黒が、今は爪ほどに広がっている。


 祈りの場所。

 逃げ場所。

 見張る場所。


 村が頼りにしていたものが、ひとつずつ危うくなっていた。


 それでも、村は残っていた。


 火も、残っていた。


 広場の中央で、小さく燃えている。


 夜の間、誰かが薪をくべ続けた火。


 ミナトが守れと言った火。


 ハルが子どもたちに持たせた火。


 朔が、最後に薪を入れた火。


 大きな火ではない。


 けれど、消えてはいなかった。


***


 被害の確認は、淡々と進められた。


 淡々とやらなければ、誰も立っていられなかった。


 負傷者。

 壊れた柵。

 失われた家畜。

 使えなくなった見張り台。

 近づけなくなった祠。


 そして。


 ミナト・ゲンザ。


 死亡。


 その言葉を、誰もすぐには口にしなかった。


 リーネも、ダンも、村の女たちも、老人たちも。


 ただ、ミナトの亡骸のそばに布をかけた。


 血で汚れた衣服を整え、槍を隣に置いた。


 ハルのことは、誰も数に入れられなかった。


 行方不明。


 そう言う者もいない。


 死んだ。


 そう言う者もいない。


 ただ、子どもたちの中にハルはいなかった。


 その事実だけが、広場の火のそばに置かれていた。


 トウマの母が、火のそばに小さな木の器を置いた。


 中には、薄い粥が入っている。


 子どもたちに配った朝食と同じものだった。


 誰の分か、聞く者はいなかった。


 トウマはそれを見て、また泣いた。


 朔は何も言えなかった。


 死んだとは言うな。


 ミナトの言葉が、まだ耳に残っている。


 でも、生きていると言い切れるものも、何もなかった。


 分からない。


 その言葉は、今日もここにある。


 希望の形ではなく、傷口の形で。


***


 村人たちの視線は、朔に向いた。


 はっきりと責める者はいなかった。


 少なくとも、最初は。


 だが、誰もが何かを飲み込んでいる顔をしていた。


「サクが来てから……」


 誰かが小さく言った。


 それは、朔にも聞こえた。


 言った本人も、聞かせるつもりではなかったのかもしれない。


 すぐに口を閉じた。


 別の女が、その人の腕を掴む。


「でも、子どもらはサクが——」


「分かっとる」


 低い声だった。


「分かっとるんや」


 その人は泣いていた。


 怒っているのか、感謝しているのか、自分でも分からない顔で泣いていた。


 責めたい者もいた。

 礼を言いたい者もいた。

 恐れている者もいた。

 近づきたいのに近づけない者もいた。


 どれも、間違いではなかった。


 ミナトがいなくなった。


 ハルが消えた。


 祠が黒くなった。


 森が村へ来た。


 そして、その中心近くに、朔がいる。


 それは事実だった。


 朔は、言い返せなかった。


 自分が原因ではない。


 そう言い切れない。


 ORPHES。


 白い部屋。


 観測。


 自分がここにいることが、何かを引いているのではないか。


 あの黒と、自分の中にある別の祈りが繋がっているのではないか。


 考えないようにしても、考えてしまう。


 だが、今それを口にすれば、村にまた別の恐怖を置くことになる。


 朔は黙っていた。


 黙って、火のそばに立っていた。


***


 ミナトの弔いは、祠の前では行われなかった。


 リーネがそう決めた。


「祈りは、まだ危ない」


 誰かが泣きながら聞いた。


「でも、弔わないわけにはいかないでしょう」


「はい」


 リーネは頷いた。


 顔は青白かった。


 昨夜から一睡もしていないはずだった。


 けれど、その声はまっすぐだった。


「だから、祈りではなく、名前を呼びます」


 広場の火の前に、ミナトの亡骸が置かれた。


 村人たちが輪を作る。


 いつもなら、祠へ向かって祈りを捧げる。

 殻の奥へ言葉を届ける。

 光が返ってくることを願う。


 けれど、今日は違った。


 誰も祠を見なかった。


 リーネはミナトの前に立った。


 手を合わせない。


 祈りの言葉も唱えない。


 ただ、血で汚れた布を丁寧に畳み、火のそばに置いた。


 そして、名前を呼んだ。


「ミナト・ゲンザ」


 村人たちが息を止める。


「ツヅリ村の長」


 火が小さく揺れる。


「ハルの祖父」


 その言葉で、誰かが嗚咽を漏らした。


 リーネの声も、一瞬だけ揺れた。


 それでも続けた。


「森を見張り、火を守り、最後まで村人を立たせた人」


 祈りではない。


 けれど、祈りに近いものだった。


「怖さを一人に背負わせなかった人」


 リーネは目を伏せる。


「最後まで、火を絶やさなかった人」


 村人たちは黙って聞いていた。


 朔も、その輪の中にいた。


 祈りではなく、記録。


 祈りではなく、名前を残す。


 ミナトがここにいたことを、どこか分からない場所へ送るのではなく、ここにいる者たちの中に置く。


 それが、今のツヅリ村にできる弔いだった。


***


 弔いが終わった後、リーネは朔の隣に来た。


 二人とも、しばらく火を見ていた。


 火は小さい。


 薪を入れなければ、すぐに消えそうだった。


「行くつもりですね」


 リーネが言った。


 問いではなかった。


 朔はすぐには答えなかった。


 自分の中で、まだ言葉になっていなかったからだ。


「このまま村にいるのが、怖いだけかもしれません」


 朔は言った。


「俺がここにいることで、また何かが来るかもしれない。

 そう思ってるだけかもしれない」


「それも、理由の一つでしょう」


 リーネは静かに言った。


「でも、それだけではない」


 朔は火を見る。


 ハルの手の温度。

 ミナトの冷えていく手。

 白い部屋の天井。

 ORPHESの文字。

 黒い柱の泡。


 全部が、ばらばらに浮かんでいる。


「ハルが、どこへ行ったのか知りたい」


 朔は言った。


「祠が何なのかも。

 あの黒が何なのかも。

 俺が何なのかも」


 リーネは目を伏せた。


「知れば、戻れなくなることもあります」


「知らなくても、もう戻れません」


 それは、言ってから自分で気づいた言葉だった。


 昨日までの自分には、もう戻れない。


 殻から出てきた子どもとして、村に守られているだけの自分には戻れない。


 ミナトの言葉を聞いてしまった。

 ハルの温度を失ってしまった。

 自分の手で、火に薪をくべてしまった。


 もう、知らないふりはできない。


 リーネは小さく頷いた。


「なら、行くなら祈りではなく、名前を持って行きなさい」


「名前?」


「ミナトの名前。ハルの名前。ツヅリ村の名前」


 リーネは朔を見る。


「白い部屋があなたをどう呼んでいたとしても。

 殻があなたを何と決めていたとしても。

 あなたが持って行く名前を、自分で選びなさい」


 朔は息を止めた。


 SUBJECT:K.K.


 白い部屋の画面にあった記号。


 被験者。

 観測対象。

 名前ではないもの。


 それに対して、リーネは名前を持てと言っている。


 祈りではなく。


 管理でもなく。


 誰かが呼んだ名を、自分で持って行けと。


「……はい」


 朔は頷いた。


***


 昼前、リオが村に戻ってきた。


 昨夜の襲撃の気配を遠くから見て、朝になってから恐る恐る近づいてきたらしい。


 荷車は道の途中に置いてきたと言った。


 村の様子を見たリオの顔は、すぐに青くなった。


「ミナトさんは……」


 誰も答えなかった。


 リオはそれだけで分かったようだった。


 帽子を脱ぎ、深く頭を下げた。


 それから、祠の黒い染みと、北の見張り台の方を見て、震える声で言った。


「北でも、似たような話を聞いた」


 村人たちの目がリオに向く。


「殻が黒くなって、声がして、子どもが消えたって」


「子ども?」


 朔が聞いた。


 リオは頷く。


「殻の子や。

 詳しいことは分からん。

 でも、王都の者らが、殻を調べとるらしい」


 王都。


 その言葉が、広場に落ちる。


「昔は、殻の子は巡礼に出るもんやと言われとった。

 各地の殻を巡って、祈りを確かめるんやと。

 でも今は……」


 リオは言葉を濁した。


「今は?」


「殻を巡った者が戻ってこん、という話もある」


 沈黙が落ちる。


 詳しい説明はなかった。


 それで十分だった。


 北の村。

 黒くなる殻。

 消えた殻の子。

 王都の調査。

 殻の巡礼。


 道が、見えた。


 安全な道ではない。


 むしろ、危険な方へ続いている。


 それでも、ここに留まっていても何も分からない。


 リオは火を見つめながら、ぽつりと言った。


「ツヅリに残っても、次が来るだけかもしれん」


 誰も、否定できなかった。


***


 夕方近く、朔は広場の火の前に立っていた。


 朝からずっと燃え続けている火。


 何度も消えかけ、そのたびに誰かが薪を足した火。


 ミナトを弔った火。

 子どもたちを集めた火。

 村人が互いの顔を確かめた火。


 リーネは少し離れた場所にいる。

 村人たちも、それぞれ片づけや見張りに戻っている。


 誰も元通りではない。


 けれど、誰かが水を汲んでいる。

 誰かが柵を直している。

 誰かが子どもに粥を渡している。


 村は壊れた。


 でも、まだ残っている。


 朔は火を見た。


 行きます。


 そう言おうとして、誰に向けた言葉なのか分からなくなった。


 ミナトに。

 ハルに。

 リーネに。

 ツヅリ村に。


 それとも、まだどこかでこちらを見ている白い部屋に。


 朔は、ゆっくり息を吸った。


「行きます」


 声は小さかった。


 けれど、火のそばではっきり聞こえた。


「逃げるためじゃない」


 自分に言い聞かせるように続ける。


「戻るために。

 止めるために。

 知るために」


 その言葉が正しいのかは分からない。


 でも、今の朔にはそれしかなかった。


 ハルがどこにいるのか。

 黒が何なのか。

 殻が何なのか。

 ORPHESが何なのか。

 自分が何なのか。


 分からない。


 だから、足掻く。


 朔は火のそばにしゃがんだ。


 薪を一本、置く。


 火は大きくならなかった。


 ただ、消えなかった。


 それで十分だった。


 今は、十分だった。

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