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第二章 殻の巡礼 ① 名前を持つ者



 旅立ちの準備は、驚くほど少なかった。


 持っていけるものが少ないからではない。


 持っていけるものの中に、本当に持っていきたいものがほとんどなかったからだ。


 朔は、村長の家の隅に置かれた布袋を見下ろしていた。


 干し肉。

 硬いパン。

 水袋。

 薬草を包んだ小さな布。

 火打ち石。

 短い縄。

 リオが描いた、道とも地図とも呼びにくい線の集まり。


 それだけだった。


 いや。


 それだけではない。


 リーネが用意した小さな火種入れがある。


 手のひらに収まるほどの、黒く焼けた土器。

 中には、灰に包まれた小さな火種が入っている。


 広場の火から分けられたものだった。


 ミナトを弔った火。

 子どもたちを集めた火。

 夜を越えた火。


 それを持っていく。


 象徴ではない。


 旅の途中で、本当に火を起こすためのものだ。


 だからこそ、重かった。


「消したら、怒られますかね」


 朔が呟くと、リーネは少しだけ目を伏せた。


「怒る人が多すぎますね」


「ミナトさんと」


「ハルと」


「……リーネさんも?」


「私は、怒る前に黙ります」


「それが一番怖いです」


 リーネは笑わなかった。


 けれど、その沈黙は少しだけ柔らかかった。


 朔は火種入れを布袋の奥へ入れようとして、やめた。


 奥に入れるには、少し怖い。


 取り出しやすい場所へ入れ直す。


 すぐに確かめられる場所。


 火は、見えるところに置く。


 第一章で覚えたことだった。


***


 ミナトの短い小刀は、朔には少し重かった。


 長い槍は持っていけない。


 子どもの身体では扱いきれないし、旅には邪魔になる。


 だからリーネは、ミナトが予備として持っていた小刀を渡した。


 柄は古く、手の跡で少し黒ずんでいる。


 刃は短い。


 人を斬るためというより、縄を切り、枝を削り、いざという時に距離を作るためのもの。


 実用品。


 ミナトらしい道具だった。


「これは、持って行っていいんですか」


「あなたに持たせるよう、ミナトが言っていました」


 朔は顔を上げた。


「いつですか」


「昨夜ではありません。もっと前です」


「俺に?」


「ええ」


 リーネは静かに言った。


「『あいつは手ぶらで殴りに行く癖がある。道具を持たせろ』と」


 朔は返事に困った。


 否定できなかった。


「……見抜かれてましたね」


「よく見ていましたから」


 リーネは小刀を朔の手に置いた。


 重い。


 刃物の重さではない。


 ミナトが自分に残した判断の重さだった。


「これは、誰かを殺すために持つものではありません」


「はい」


「生き残るために使いなさい」


 朔は頷いた。


 ミナトの声が頭の奥で重なる。


 死ぬな。

 足掻け。


 朔は小刀を腰の布帯に差した。


 自分には大きすぎるように見えた。


 それでも、持つしかなかった。


***


 村人たちは、朔を見送る準備をしていた。


 盛大なものではない。


 そんな余裕は、どこにもなかった。


 柵は壊れたままだ。

 負傷者もいる。

 見張りも必要だ。

 祠には近づけない。


 それでも、何人かが広場に集まっていた。


 ダンは火皿を抱えて立っていた。


 目の下に濃い影がある。


「道中、森沿いは避けろ」


 ダンは言った。


「北へ向かう道は、途中で二つに分かれる。低い方は使うな。雨がなくても湿ってる」


「分かりました」


「それと、川沿いも夜はやめろ」


「水の音を追うな、ですね」


 朔が言うと、ダンは苦い顔で頷いた。


「そうや。今は全部、気味が悪い」


 言葉は硬い。


 でも、敵意ではなかった。


 責めたい気持ちも、まだ消えてはいないのだろう。


 それでも、ダンは道を教えてくれている。


 それが今の精一杯なのだと、朔にも分かった。


「ありがとうございます」


「礼はいらん」


 ダンは視線を逸らす。


「……戻ってこい」


 短い言葉だった。


 朔は、その一言に少しだけ息を詰まらせた。


「はい」


 戻る。


 その言葉を、軽く言えるほど自分は強くない。


 でも、頷いた。


***


 トウマは、最後まで火のそばから離れなかった。


 昨夜から、ずっと誰かの手を握っている。


 今は母親の手だ。


 朔が近づくと、トウマは母親の後ろに少し隠れた。


 それから、自分で前に出た。


 小さな手に、何かを握っている。


「サク兄ちゃん」


「うん」


「これ」


 差し出されたのは、布の切れ端だった。


 古い、青い布。


 端が少し焦げている。


「これは?」


「ハル兄ちゃんが、火皿持つ時に巻いとったやつ」


 朔は言葉を失った。


 たしかに、見覚えがあった。


 ハルが火皿を持つ時、熱くないように手に巻いていた布。


 昨夜、子どもたちを連れて走った時に使っていたもの。


「見張り台の下に落ちとった。黒いとこからは、離れたとこ」


 トウマは早口で言った。


「汚れてるけど、黒はついてへんって、リーネ様が言うてた」


 朔は布を受け取れなかった。


 受け取れば、何かを認めてしまう気がした。


 ハルがここにいないこと。

 ハルがこれを落としていったこと。

 ハルの代わりに、自分がこれを持って行くこと。


 トウマは布を差し出したまま、唇を噛んだ。


「ハル兄ちゃん、戻ってきたら怒るって言うてた」


 朔は息を止めた。


 ミナトの声が蘇る。


 戻ってきたら、怒ったれ。

 あいつ、無茶したからな。


「だから」


 トウマの声が震える。


「戻ってきた時に怒れるように、探して」


 朔は、ようやく布を受け取った。


 軽い。


 布は軽いはずなのに、手の中でやけに重かった。


「……うん」


 声が掠れた。


「探す」


「死んだって、言わん?」


「言わない」


 朔ははっきり言った。


「まだ、言わない」


 トウマは泣きそうな顔で頷いた。


 朔は青い布を、小刀とは反対側の腰に結んだ。


 名前を持って行きなさい。


 リーネの言葉を思い出す。


 これは名前ではない。


 でも、ハルを呼ぶためのものだった。


***


 出発は、昼前になった。


 リオは荷車を置いていくことにした。


 北への道は荒れている。

 荷車ではかえって足が遅くなる。


「最初の分かれ道までは、一緒に行く」


 リオは言った。


「その先は、様子を見て決める。俺も、王都までは行けるか分からん」


「十分です」


「十分かどうかは、道が決める」


 リオはそう言って、荷物を背負い直した。


 行商人らしい言い方だった。


 朔は一度、村を振り返る。


 広場の火。

 壊れた柵。

 祠のある方角。

 北の見張り台。


 見張り台は、まだ黒く湿っている。


 近づく者はいない。


 でも、完全に放置もできない。


 ダンたちが遠巻きに見張っている。


 村は忙しい。


 傷ついている。


 それでも、動いている。


 誰かが薪を割る。

 誰かが水を運ぶ。

 誰かが泣く子を抱く。

 誰かが火を見る。


 朔は、その景色を目に焼きつけた。


 守れなかったものばかりではない。


 残ったものもある。


 その両方を見なければならない。


「サク」


 リーネが呼んだ。


 朔は振り返る。


「はい」


「名乗る時は、どう名乗りますか」


 不意の問いだった。


 朔はすぐに答えられなかった。


「黒川朔」


 現代の名前。


 白い部屋の画面では、K.K.になっていた。


 被験者。

 記号。

 名前ではないもの。


「サク」


 ツヅリ村で呼ばれた名前。


 ハルが呼んだ名前。

 ミナトが呼んだ名前。

 トウマが呼んだ名前。


 どちらが本物なのか。


 少し前なら、そう考えたかもしれない。


 でも今は、違った。


「黒川朔です」


 朔は言った。


「でも、この村ではサクです」


 リーネは静かに頷いた。


「なら、それを忘れないで」


「はい」


「誰かが別の名で呼んでも。

 殻の子と呼んでも。

 勇者と呼んでも。

 被験者と呼んでも」


 被験者。


 その言葉をリーネが知っているはずはない。


 だが、朔の胸は一瞬だけ冷えた。


 白い部屋。


 モニター。


 SUBJECT:K.K.


 ピッ。


 ピッ。


 ピッ。


 視界の端が、白く滲む。


***


 白い天井。


 蛍光灯。


 消毒液の匂い。


「被験者K.K.、反応継続」


 誰かの声。


「局所環境の崩壊後も、接続は途切れていません」


 モニターの光。


 数字の列。


 SYNC RATE。


 DEPTH。


「むしろ、深くなっています」


 革靴の音。


 近づいてくる。


「なら、次へ進める」


 低い声。


 静かで、冷たい声。


「ORPHESは止めない」


***


「サク」


 リーネの声で、朔は戻った。


 目の前に、ツヅリ村がある。


 火がある。


 リーネがいる。


 リオがいる。


 白い部屋ではない。


 朔は息を吸った。


「今、見ましたね」


「少しだけ」


「白い部屋?」


「はい」


 リーネは責めなかった。


 ただ、朔を見て言った。


「なら、なおさら名前を持って行きなさい」


 朔は頷いた。


「はい」


 それ以上は言わなかった。


 今、白い部屋の話を広げる時ではない。


 でも、分かったことがある。


 向こうは、まだ見ている。


 そして、こちらが壊れたことも、何かの値として扱っている。


 局所環境の崩壊。


 ツヅリ村の夜を、そう呼んだ。


 ミナトの死も。

 ハルの喪失も。

 子どもたちの震える手も。


 全部、環境の変化として数えた。


 朔の手に、青い布の感触があった。


 そうは呼ばせない。


 少なくとも、自分の中では。


***


 村の境に、古い石があった。


 そこから先は、ツヅリ村の外。


 何度も森へ行った。

 訓練にも出た。

 見張り台へも走った。


 けれど、村を離れるためにここを越えるのは初めてだった。


 朔は石の前で立ち止まった。


 リオは少し先で待っている。


 背後には村人たちがいる。


 多くは黙っている。


 手を振る者はいない。

 泣き叫ぶ者もいない。


 ただ、見ている。


 責める目。

 祈るような目。

 恐れる目。

 頼る目。


 その全部を、朔は背中に受けた。


 見られている。


 白い部屋からではない。


 村から。


 ここにいる人たちから。


 その視線は重かった。


 でも、白い部屋の視線とは違う。


 数字ではない。


 名前を持った人間の目だった。


 朔は、村に向かって頭を下げた。


「行ってきます」


 誰に向けた言葉かは、もう少しだけ分かっていた。


 ツヅリ村に。


 ミナトに。


 ハルに。


 火を守る人たちに。


 そして、自分自身に。


 リーネが答えた。


「行ってらっしゃい、黒川朔」


 少し間を置いて、トウマが小さく叫んだ。


「サク兄ちゃん!」


 朔は顔を上げる。


 トウマは泣きながら、それでも前に出ていた。


「ハル兄ちゃん、怒るん忘れんといて!」


 朔の喉が熱くなる。


「忘れない」


 そう答えた。


 リオが歩き出す。


 朔も、石を越えた。


 腰には、ミナトの小刀。


 布袋には、ツヅリ村の火種。


 腰の反対側には、ハルの青い布。


 胸の奥には、リーネの言葉。


 名前を持って行きなさい。


 朔は振り返らなかった。


 今振り返れば、足が止まる気がした。


 前を見る。


 森ではない。

 黒ではない。

 白い部屋でもない。


 今は、道を見る。


 ツヅリ村の火は、背中の向こうでまだ燃えていた。

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