第二章 殻の巡礼 ② 巡礼の道
ツヅリ村を出てすぐ、朔は道の広さに戸惑った。
森の中を歩いたことはある。
見張り台まで走ったこともある。
訓練で村の外れへ出たこともある。
けれど、それはいつも村へ戻るための外だった。
今は違う。
前に進むほど、ツヅリ村が背中の向こうへ遠ざかっていく。
広場の火も。
壊れた柵も。
祠の黒い染みも。
トウマの声も。
全部が、見えない場所へ下がっていく。
それだけで、足元が少し頼りなくなった。
「大丈夫か」
前を歩くリオが振り返った。
「はい」
朔は答えた。
嘘ではない。
歩けている。
息もできている。
脇腹は痛むが、足は動く。
だから、大丈夫ということにしておく。
リオはそれ以上聞かなかった。
行商人らしい距離の取り方だった。
慰めすぎない。
突き放しすぎない。
ただ、歩く速さだけを少し落とす。
朔は、それに気づいた。
「ありがとうございます」
「何がや」
「歩くの、少し遅くしてくれてます」
「道が悪いだけや」
リオは前を向いたまま言った。
「そういうことにしとけ」
朔は、小さく頷いた。
***
巡礼の道は、思ったより荒れていた。
昔は石を敷いた道だったのだろう。
ところどころに、平たい石が残っている。
苔に覆われ、土に沈み、木の根に押し上げられながらも、かろうじて道の形を保っている。
道の脇には、古い石柱が立っていた。
朔の膝ほどの高さ。
表面には、丸い印が彫られている。
殻の形に似ていた。
その下に、文字らしきものがある。
読めない。
この世界の文字なのか、崩れすぎているだけなのかも分からない。
「巡礼石や」
リオが言った。
「昔の道標。殻から殻へ行く者のための印らしい」
「昔は、普通に巡礼してたんですか」
「少なくとも、そういう話はある」
「今は?」
リオは石柱を見た。
石柱の上半分は欠けている。
誰かが壊したのか。
何かがぶつかったのか。
欠けた面には、黒い汚れが少しだけ染みていた。
「今は、殻に近づきたがらん村も多い」
「祈りの場所なのに?」
「祈れる場所ならな」
リオは短く答えた。
その言い方だけで十分だった。
朔は石柱から目を離した。
丸い印の中心が、なぜかこちらを見ているように感じたからだ。
見るな。
今は、道を見る。
そう思って、朔は足元を見た。
***
昼前、二人は小さな祠の跡を見つけた。
道の脇に、半分崩れた石の囲いがある。
ツヅリ村の祠ほど大きくはない。
けれど、形は似ていた。
中央に白く磨かれた円。
その周りに、浅い溝のような模様。
ただ、白い円は割れていた。
ひびの奥に黒い汚れが溜まっている。
朔は足を止めた。
近づきすぎない。
触れない。
見すぎない。
頭では分かっている。
それでも、視線が引かれる。
あの白い円。
あの黒。
ツヅリ村の祠と同じもの。
そして、どこか白い部屋の床に似た滑らかさ。
「サク」
リオが低く呼んだ。
朔は我に返る。
「近づくな」
「はい」
「ここは、昔は休み場やったらしい」
リオは祠の手前で止まったまま言う。
「巡礼者が火を借りたり、水を飲んだり、祈ったりした場所やと聞いた」
「今は?」
「今は誰も泊まらん」
祠の横には、焼け跡があった。
焚き火の跡ではない。
何かを囲って燃やしたような跡。
黒い灰が、土に薄く残っている。
朔は思わず聞いた。
「何があったんですか」
「分からん」
リオは言った。
「分からんものがあったから、誰かが燃やしたんやろ」
その言葉が、妙に重かった。
分からないから、祈る。
分からないから、調べる。
分からないから、逃げる。
分からないから、燃やす。
同じ言葉が、場所によって違う行動を連れてくる。
朔はミナトの言葉を思い出した。
分からん。せやから、今行くな。
今なら、少しだけ分かる。
分からないことは、いつも前へ進ませてくれるわけではない。
時には、人を壊れた祠の前に立ち尽くさせる。
「行きましょう」
朔は言った。
リオが意外そうに見る。
「見んでええのか」
「見たいです」
朔は正直に答えた。
「でも、今は触らない方がいい」
「賢くなったな」
「怒られる人が増えたので」
リオは少しだけ口元を緩めた。
「それはええことや」
朔は祠に背を向けた。
背中を向けるのは怖かった。
でも、今は道を見る。
***
午後になると、道は低い谷へ向かっていた。
リオはそこで足を止めた。
「こっちが近道」
谷へ下る細い道を指す。
湿った匂いが上がってくる。
水の音も聞こえる。
さらさらと、浅い流れのような音。
どこか心地よい音だった。
だからこそ、朔は嫌だった。
「もう一つは?」
「尾根を回る。遠い。足場も悪い」
「そっちにしましょう」
朔は即答した。
リオは頷いた。
「俺もそう思う」
「聞いた意味あります?」
「念のためや。お前が近道を選ぶようなら、引っ叩いてでも止めようと思った」
「信用がないですね」
「あるから聞いたんや」
リオはそう言って、尾根道へ足を向けた。
朔は谷の方を一度だけ見た。
低い道。
水の音。
湿った空気。
低いところへ行くな。
水の音を追うな。
祠の返事が、まだ生きている。
ツヅリ村の中だけの警告ではなかった。
この道でも、まだ意味がある。
朔は火種入れに手を当てた。
布袋の中で、小さな土器が確かにそこにある。
火は見えない。
でも、ある。
それだけで、少しだけ足が前に出た。
***
尾根道は、思った以上にきつかった。
子どもの身体には、坂が長い。
脇腹の傷も痛む。
途中で何度か立ち止まり、息を整えなければならなかった。
リオは文句を言わない。
ただ、休む場所を選んだ。
見晴らしのいい岩のそば。
背後に木が少ない場所。
逃げ道が二つある場所。
行商人は、戦士ではない。
でも、生き残る道を知っている。
朔はそれを見ていた。
「リオさんは、いつもそうやって場所を見てるんですか」
「そうやな」
「どこを見るんですか」
「休める場所。逃げられる場所。売れる場所。騙されそうな場所」
「最後の二つが商人ですね」
「全部商人や」
リオは水袋を渡してくる。
「道はな、誰にでも同じ顔をせん。
兵士には戦場に見える。
商人には値段に見える。
巡礼者には祈りに見える。
迷子には、全部怖く見える」
朔は水を飲んだ。
「俺には何に見えてますか」
「今は、全部傷に見えとる顔やな」
朔は答えられなかった。
リオは空を見た。
「それでも歩け。歩いてるうちに、道に見えてくる」
その言葉は、慰めではなかった。
経験則だった。
ミナトとは違う種類の大人。
でも、立っている大人だった。
朔は水袋を返した。
「はい」
***
日が傾き始めた頃、小さな集落が見えた。
家は五つほど。
畑は荒れているが、完全に捨てられてはいない。
煙が一筋、上がっている。
人がいる。
朔は少しだけ緊張した。
ツヅリ村を出て初めて会う、外の人間。
リオは歩調を落とした。
「ここは、ヨキ村の外れや。前はよく寄った」
「今は?」
「最近は、あんまり歓迎されん」
「なぜですか」
「殻の道を通る者を嫌がるようになった」
リオはそう言って、村の入り口に立つ木札を指した。
そこには、粗い文字で何かが書かれていた。
朔には読めない。
「何て?」
「巡礼者、立ち入り遠慮」
リオは続けて読む。
「殻の子、入村禁止」
朔は黙った。
リオが横目で見る。
「戻るか」
「いいえ」
「入る必要はない。水だけなら、回り道で取れる」
「でも、ここが今の外の反応なんですよね」
「そうやな」
「なら、見ておきます」
リオは少しだけ眉を上げた。
「見すぎるなよ」
「はい」
二人が村へ近づくと、家の影から男が出てきた。
鍬を持っている。
武器ではない。
でも、持ち方は武器だった。
「リオか」
「久しぶりやな、バッソ」
「その子は?」
男の目が朔に向く。
警戒。
嫌悪。
恐怖。
それらが一緒になった目。
ツヅリ村の視線とは違う。
名前を知る前から、朔を何かに分類しようとする目だった。
「旅の子や」
リオが言った。
「北へ向かう。水を分けてほしい」
「殻の子か」
男はすぐに言った。
朔の背筋が少し冷える。
「違うと言っても信じんやろ」
リオが軽く返す。
「なら、入れるな」
男の声は硬い。
「うちはもう祈らん。殻にも近づかん。巡礼も通さん」
「何があった」
リオが聞く。
男は答えない。
ただ、集落の奥を見る。
そこに、小さな石の祠があった。
白い円には布が被せられている。
祈るためではない。
隠すためだ。
布の上から、石が置かれている。
まるで蓋のように。
「帰れ」
男は言った。
「水は道の先の沢で汲め。ここに入るな」
リオはしばらく男を見ていた。
やがて、頷いた。
「分かった」
朔も頭を下げる。
「すみません」
男は返事をしなかった。
ただ、朔から目を逸らさなかった。
監視する目。
追い返す目。
恐れている目。
朔はその視線を受けながら、集落を離れた。
***
沢で水を汲む間、朔は黙っていた。
リオも急かさなかった。
水は冷たい。
きれいに見える。
でも、水の音が耳につく。
さらさら。
さらさら。
追うな。
朔は水袋に栓をした。
「殻の子って、そんなに嫌われてるんですか」
ようやく聞いた。
リオは少し考えてから答えた。
「嫌われてる場所もある。拝まれてる場所もある。欲しがる場所もある」
「欲しがる?」
「勇者が来れば村が守られる、と思っとるところもある」
「守れなかったら?」
リオは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
朔は青い布に触れた。
腰に結んだ布は、風で少し揺れている。
「殻の子って、何なんですかね」
「俺に聞くな」
「ですよね」
「でも、昔の巡礼歌ではこう言う」
リオは水袋を背負い直した。
「殻より生まれた子は、祈りを運ぶ。
祈りを運ぶ子は、火を絶やさず、名を忘れず、次の殻へ向かう」
朔は顔を上げた。
「火を絶やさず、名を忘れず?」
「そう聞いた。古い歌や。今は歌う者も少ない」
火。
名前。
次の殻。
偶然にしては、今の朔に刺さりすぎる言葉だった。
「その歌、続きは?」
「忘れた」
「大事なところじゃないですか」
「商人は歌で飯を食わん」
「覚えておいてくださいよ」
「お前が覚えろ。殻の子なんやろ」
リオは言ってから、少し顔をしかめた。
「悪い」
朔は首を横に振った。
「大丈夫です」
大丈夫ではない。
殻の子。
勇者。
被験者。
どれも、自分を何かに押し込める名前だ。
でも、リーネは言った。
自分が持って行く名前を、自分で選びなさい。
朔は水袋を背負った。
「俺は、サクです」
リオは朔を見た。
朔は続ける。
「黒川朔。ツヅリ村ではサク。
殻の子かどうかは、まだ分かりません」
リオは少しだけ笑った。
「面倒くさい名乗りやな」
「しばらくこれでいきます」
「ええんちゃうか。道中、長い名乗りの方が時間稼ぎになる」
「そういう実用性ですか」
「旅では何でも使え」
リオは歩き出した。
朔も続く。
空は赤くなり始めていた。
***
その夜、二人は尾根の途中で野宿した。
ヨキ村には入れなかった。
巡礼小屋も、道中の祠も使えない。
だから、岩陰に火を起こした。
ツヅリ村から持ってきた火種を、初めて使う。
灰の中に残っていた小さな赤を、乾いた草に移す。
息を吹きかける。
小さな煙。
弱い光。
火はなかなか大きくならなかった。
朔は焦った。
消えるな。
消えるな。
祈りそうになって、やめた。
祈りではなく、手を動かす。
乾いた枝を細く割る。
風よけに石を置く。
息を強く吹きすぎない。
火が、ようやく小さく立った。
リオが黙って干し肉を差し出す。
朔は受け取る。
火の明かりが、二人の顔を照らした。
広場の火ほど大きくない。
村人たちの顔もない。
リーネもいない。
トウマもいない。
ミナトも、ハルもいない。
それでも、火はある。
朔は火種入れを見た。
空になったわけではない。
灰の奥には、まだ少しだけ赤が残っている。
完全に使い切ったわけではない。
持ってきた火は、ここでも消えなかった。
「サク」
リオが言った。
「明日は、北の村へ近づく」
朔は火を見たまま頷いた。
「はい」
「見たくないものを見ることになるかもしれん」
「分かってます」
「分かってないと思うぞ」
リオは正直に言った。
朔は少しだけ黙った。
「それでも、見ます」
「見すぎるな」
「はい」
その返事が、どこまで守れるかは分からない。
でも、今は道を見る。
火を見る。
名前を忘れない。
朔は腰の青い布に触れた。
そして、火のそばで小さく呟いた。
「黒川朔」
次に、もう一度。
「サク」
どちらも、火の中に消えた。
けれど、消えたのではない。
自分の中に置いたのだと、朔は思うことにした。
夜の向こうで、水の音がかすかに聞こえた。
朔はそちらを見なかった。
火を見ていた。




