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第二章 殻の巡礼 ③ 北の村

 北の村は、地図の上では近かった。


 リオが描いた線の上では、尾根を越え、沢を二つ避け、古い巡礼石を三つ過ぎた先にある。


 たったそれだけだった。


 けれど、道の上では違った。


 石は崩れていた。

 木の根が道を割っていた。

 水の音は、何度も低い場所へ誘うように聞こえた。


 リオは遠回りを選んだ。


 朔も何も言わなかった。


 近道は、もう近道には見えなかった。


 低いところへ行くな。

 水の音を追うな。


 その言葉を守るたびに、ツヅリ村がまだ背中にある気がした。


 昼前、風の匂いが変わった。


 焦げた匂い。


 古い煙の匂い。


 火事の直後ではない。

 もっと前に燃えて、それでも雨に流れきらなかった匂い。


 リオが足を止めた。


「ここから先や」


 声が低い。


「北の村ですか」


「ああ」


 朔は息を吸った。


 胸の奥が冷たくなる。


 まだ、いる。


 あの言葉が、何度も頭の中で鳴った。


 今度こそ、何かが分かるかもしれない。


 今度こそ、助けられるかもしれない。


 そう思った瞬間、ミナトの声が重なった。


 分からんからこそ、今行くな。


 朔は足を止めた。


 行くな、ではない。


 今は、見る。


 飛び込むためではなく、戻る道を失わないために見る。


「行きましょう」


 朔が言うと、リオは頷いた。


「見すぎるなよ」


「はい」


 何度目かの返事だった。


 守れるかどうかは、まだ分からなかった。


***


 北の村には、門がなかった。


 あったのかもしれない。


 けれど、今は片方の柱だけが残り、もう片方は折れて倒れていた。


 折れた柱の断面は黒く湿っている。


 朔は、そこを見ないようにした。


 村の中に入ると、音がなかった。


 人の声がない。

 家畜の声もない。

 鍋を置く音も、子どもの足音もない。


 ただ、風が壊れた屋根を通り抜ける音だけがしている。


 家は残っていた。


 全て焼け落ちたわけではない。


 むしろ、そのことが怖かった。


 生活の形が残っている。


 軒先に干されたままの布。

 倒れた桶。

 開いたままの扉。

 壁に掛けられた鍬。

 石臼のそばに散らばった穀物。


 人だけが、そこから抜き取られていた。


「……誰もいないんですか」


 朔が聞く。


 リオはすぐには答えなかった。


「いない、とは言い切れん」


「生存者が?」


「隠れてる者がいるかもしれん。

 戻ってきた者がいるかもしれん。

 あるいは」


 リオは言葉を止めた。


「あるいは?」


「人の形をしてても、人か分からんものがいるかもしれん」


 朔は背中に冷たいものを感じた。


 リオは冗談で言っていない。


 旅の道で聞いた噂。

 商人として避けてきた場所。

 そういうものが、この言葉の奥にある。


「声がしても返事するな」


 リオが言った。


「姿を見ても、すぐ近づくな」


「分かってます」


「分かってる顔で死ぬやつも多い」


 朔は黙った。


 リオは厳しい顔のまま、村の奥を指した。


「あそこが殻や」


***


 北の村の祠は、ツヅリ村のものより大きかった。


 祠というより、小さな殿に近い。


 石で囲まれた広場の中央に、白い円形の構造物が立っている。


 かつては人々がそこへ集まり、祈り、火を分け合い、巡礼者を迎えたのだろう。


 今は違う。


 白い円の中心が、黒く沈んでいた。


 ツヅリ村の祠とは比べものにならない。


 黒は点ではない。


 穴に見えた。


 いや、穴ではない。


 そこに何かが開いているわけではない。


 ただ、白い円の中心だけが、朝の光を拒んでいる。


 周囲の石には、何本もの傷がある。


 爪痕。

 刃物の跡。

 焼け焦げ。

 そして、指で引っかいたような細い線。


 朔は近づきすぎない場所で立ち止まった。


 それでも、視線が引かれる。


 黒の中に、何かがある気がする。


 声ではない。


 光でもない。


 ただ、こちらを知っている気配。


 朔は腰の青い布に触れた。


 ハルの布。


 触れるものがある。


 名前を持つものがある。


 だから、少しだけ目を離せた。


「ここで、殻の子が消えたんですか」


 朔が聞く。


 リオは周囲を見渡しながら答える。


「噂ではな」


「誰かが見たんですか」


「見た者は、今ここにおらん」


 その言葉が重かった。


 朔は祠の周囲を見た。


 広場の端に、小さな靴が落ちている。


 片方だけ。


 子どものものだ。


 朔は一歩、そちらへ向かいかけた。


 リオが腕を掴む。


「待て」


「靴が」


「見えてる。せやから待て」


 リオは地面を指した。


 靴の周りの土が、妙に滑らかだった。


 雨で濡れたわけではない。

 踏み固められたわけでもない。


 まるで、そこだけ何度も撫でられたように、土の粒が消えている。


 ツヅリ村の祠の白い円。

 黒い染みの縁。

 白い部屋の床。


 同じ滑らかさ。


 朔は足を止めた。


「罠ですか」


「分からん」


 リオは言う。


「分からんから、踏むな」


 その言葉に、朔は短く息を吐いた。


 ミナトがいたら、同じことを言った気がした。


***


 靴を直接拾うのは諦めた。


 リオが長い枝を使い、そっと引き寄せる。


 靴は軽かった。


 中には何も入っていない。


 黒い液もついていない。


 ただ、内側に小さな布切れが詰められていた。


 朔はそれを見て、息を止めた。


 布切れには文字が書かれている。


 この世界の文字だった。


 朔には読めない。


 リオが眉をひそめながら読む。


「……に、げ、ろ」


 朔の体が固まった。


「にげろ?」


「ああ」


「それだけですか」


「いや」


 リオは布を少し広げる。


 文字は震えていた。


 急いで書いたのか。

 幼い手で書いたのか。

 血ではない。炭か何かで書かれている。


「『森は口。殻は耳。白い者を信じるな』」


 朔は言葉を失った。


 森は口。


 殻は耳。


 白い者を信じるな。


 第八話で見た幻視の言葉が、現実の布の上にある。


 ここにいた誰かが、それを知っていた。


 あるいは、見た。


 そして、靴の中に隠した。


「白い者って何ですか」


 朔が聞く。


「知らん」


 リオの声も硬い。


「白い服の巡礼者か。王都の使者か。殻から出た何かか。

 あるいは、ただ白く見えたもの全部かもしれん」


 白い部屋。


 白い天井。


 白い円。


 白い塔。


 朔の中で、まだ見ていないものまで白く繋がりそうになる。


 やめろ。


 今、全部を繋げるな。


 分からないまま印をつける。


 朔は布切れを見た。


「これは、持っていってもいいですか」


「触るな」


 リオは即答した。


「布ごと袋に入れる。素手で持つな」


「はい」


 朔は頷いた。


 焦らない。


 飛び込まない。


 触れない。


 それでも、持っていく。


 見つけたものを、なかったことにはしない。


***


 村の奥に、生きている人がいた。


 最初は、気づかなかった。


 壊れた納屋の陰で、何かが動いた。


 リオがすぐに朔の前へ出る。


「誰かいるのか」


 返事はない。


 でも、気配はある。


 朔は小刀に手をかけかけて、やめた。


 腰の小刀は、誰かを殺すためのものではない。


 生き残るために使うものだ。


 今は、抜く時ではない。


「こちらはリオです」


 リオが言った。


「行商人。以前、この村へも来た。水と布を売ったことがある」


 しばらく沈黙。


 やがて、納屋の影から老人が出てきた。


 痩せている。


 目が落ちくぼみ、頬がこけている。


 手には木の棒を持っていた。


 武器というより、立つための杖に見える。


「……リオ」


 老人の声は乾いていた。


「生きてたか、オル爺」


「生きとると言うほど、生きとらん」


 老人はそう言って、朔を見た。


 その目が変わる。


「殻の子か」


 朔はすぐには答えなかった。


 逃げたい気持ちが少し出た。


 またその名前か、と思った。


 でも、リーネの声が胸の奥で響く。


 名前を持って行きなさい。


「黒川朔です」


 朔は言った。


「ツヅリ村では、サクと呼ばれていました」


 老人は目を細める。


「長い名や」


「まだ、短くする途中です」


 リオが少しだけ咳払いした。


 笑いそうになったのを誤魔化したのかもしれない。


 老人は笑わなかった。


「ツヅリも、やられたか」


 朔の喉が詰まる。


「……はい」


「殻は」


「黒くなっています。まだ、残っています」


「人は」


「残っています」


 老人は目を閉じた。


「それは、よかった」


 よかった。


 その言葉が、朔には痛かった。


 ツヅリ村は壊れた。

 ミナトは死んだ。

 ハルは消えた。


 それでも、人が残っていることは、よかったと言える。


 この村を見れば、そう思うしかなかった。


「ここには、誰が残ってるんですか」


 朔が聞く。


 老人はゆっくり首を振った。


「残っとるのは、わしだけや」


 風が通る。


 壊れた家の戸が、かたんと鳴った。


「他の人は」


「逃げた者。連れて行かれた者。戻らん者。

 自分から殻へ入った者」


「自分から?」


 朔は思わず聞き返した。


 老人の目が、祠の方へ向く。


「あの時、声がした」


「誰の声ですか」


「一人ずつ違った。

 母の声。子の声。死んだはずの夫の声。

 それから、自分自身の声」


 自分自身の声。


 朔は背筋が冷えた。


「自分の声で、何て」


 老人は口を閉じた。


 答えたくないようだった。


 それでも、しばらくして言った。


「お前は、まだいる。

 戻ってこい」


 まだ、いる。


 その言葉が、胸の奥を叩いた。


 朔は、見張り台の黒を思い出した。


 ハルの指先。

 温度。

 消えた姿。


「戻ってこい、か」


 リオが低く呟いた。


 老人は頷いた。


「呼ばれた者は、殻へ向かった。

 止めた者もいた。

 止められんかった者もいた」


「あなたは、なぜ残ったんですか」


 朔が聞く。


「耳が遠い」


 老人は淡々と言った。


「声が、はっきり聞こえんかった」


 それが冗談なのか、本当なのか、朔には分からなかった。


 けれど老人は笑わなかった。


「聞こえん者だけが残ることもある」


 その言葉は、北の村そのものの墓標のようだった。


***


 老人は、祠には近づくなと言った。


 夜になる前に出ろとも言った。


「夜になると、まだ呼ぶ」


「誰をですか」


「おらん者を」


 老人は答えた。


「おらん者を、いるように呼ぶ」


 朔は何も言えなかった。


 ハルの声が聞こえたら。


 そう考えただけで、足が動かなくなりそうだった。


 今すぐ見張り台の黒へ戻りたい。

 北の祠に触れたい。

 声のする方へ行きたい。


 だが、手は腰の青い布を握っていた。


 怒るために探す。


 死んだとは、まだ言わない。


 でも、声だけでは行かない。


「オルさん」


 朔は老人に聞いた。


「この村の殻の子は、どんな子でしたか」


 老人はしばらく黙った。


「殻の子ではない」


「え?」


「わしらは、そう呼ばんかった。

 あの子には名があった」


 朔は息を止める。


「名前は」


「ユイ」


 老人は言った。


「白い髪の、静かな子やった。

 祈りが上手いと言われとった。

 王都の者が来て、保護すると言うた。

 その後、殻が黒くなった」


 ユイ。


 名前。


 殻の子ではなく、ユイ。


 朔はその名前を胸の中に置いた。


「ユイは、王都へ?」


「連れて行かれた。

 戻ったのか、戻らんのかは知らん」


「戻った?」


 老人は朔を見た。


「殻が黒くなった夜、白い髪の子を見たと言う者がいた」


 朔は言葉を飲み込む。


「ユイかどうかは、分からない」


「そうや。分からん」


 老人は頷いた。


「でも、みんな見たがった。

 見た者から、声を聞いた」


 見る。


 見られる。


 見た者から、声を聞く。


 朔は胸の奥が冷えるのを感じた。


 情報は増えた。


 でも、答えではない。


 印が増えただけだ。


 ユイ。

 白い髪。

 王都の保護。

 黒くなった殻。

 自分自身の声。

 お前は、まだいる。


「サク」


 リオが言った。


「長居は危ない」


 朔は頷いた。


 行きたい場所がある。


 見たいものがある。


 聞きたいことがある。


 でも、今は出る。


 ミナトなら、そう言う。


「オルさん」


 朔は老人に頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言うな」


 老人は言った。


「何も助けておらん」


「名前を教えてくれました」


 老人は黙った。


 その沈黙は、拒絶ではなかった。


「ユイの名前、持っていきます」


 朔が言うと、老人は少しだけ目を伏せた。


「持つなら、落とすな」


「はい」


***


 村を出る時、朔は一度だけ振り返った。


 北の村は、夕方の光の中で静かに沈んでいた。


 人のいない家。

 布を掛けられた祠。

 片方だけの門柱。

 そして、ひとり残った老人。


 まだ、いる。


 その言葉の意味が、少しだけ変わった気がした。


 そこには、助けを待つ誰かがいるのかもしれない。


 そこには、もう戻れない誰かの声だけがいるのかもしれない。


 そこには、名前だけが残っているのかもしれない。


 分からない。


 だから、今は持っていく。


 リオが歩き出す。


 朔も続く。


 腰の青い布が、風に揺れた。


 布袋の中には、にげろと書かれた布がある。


 胸の中には、もう一つ名前が増えた。


 ユイ。


 殻の子ではない。


 誰かがそう呼んだ名前。


 夜が近づいていた。


 背後の村から、かすかな声が聞こえた気がした。


 サク。


 朔は足を止めなかった。


 返事もしなかった。


 ただ、火種入れに手を当てた。


 そして、道を見た。

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