↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/146

第二章 殻の巡礼 ④ 黒い殻



 北の村から離れても、朔は何度も振り返りそうになった。


 振り返れば、もう村は見えない。


 崩れた門柱も。

 黒く沈んだ殻も。

 ひとり残った老人も。


 それでも、背中の向こうにある気配だけは消えなかった。


 まだ、いる。


 その言葉が、足の裏にまとわりつく。


 戻りたい。


 もう一度、北の殻を見たい。

 靴が落ちていた場所を調べたい。

 ユイの痕跡を探したい。

 背後から聞こえた気がした「サク」という声の正体を確かめたい。


 見たい。

 知りたい。

 戻りたい。


 けれど、戻らなかった。


 今戻れば、戻れなくなる気がした。


 朔は腰の青い布を握った。


 ハルの布。


 熱い火皿を持つために巻いていた布。


 その手触りが、朔の足を前へ向けさせた。


「高台で火を起こす」


 リオが言った。


「北の村から、もう少し離れる。低い道は使わん」


「はい」


「戻りたい顔をしても、戻らん」


 朔は返事に詰まった。


 リオは振り返らない。


「そういう顔のやつは、だいたい背中で分かる」


「商人って、背中も見てるんですか」


「財布を持って逃げるやつは、顔より背中に出る」


「経験が嫌ですね」


「生き残る経験は、だいたい嫌なもんや」


 リオは淡々と言った。


 朔はそれ以上、何も言わなかった。


 北の村の方から、風が吹く。


 声のように聞こえた。


 でも、言葉にはならなかった。


***


 高台は、北の村を直接見下ろせる場所ではなかった。


 リオが選んだのは、岩と低い木に囲まれた小さな平地だった。


 背後には尾根道。

 前には開けた斜面。

 低い谷へ降りる道は遠い。


 逃げ道は二つある。


 水の音は、かすかにしか聞こえない。


「ここなら、まだましや」


 リオは荷物を下ろした。


「安全とは言わんのですね」


「旅で安全なんて言うやつは、だいたい先に死ぬ」


 朔は苦く笑った。


 火は小さく起こした。


 ツヅリ村の火種入れから、灰に包まれた赤を移す。


 乾いた草へ。

 細い枝へ。

 太めの枝へ。


 昨日よりは、少しだけ手が慣れていた。


 火は大きくはならない。


 けれど、消えなかった。


 朔は火のそばに座り、布袋の奥から、北の村で見つけた布切れを取り出した。


 直接触れないよう、リオが用意した古い革の切れ端の上に乗せる。


 布には炭で書かれた文字がある。


 森は口。

 殻は耳。

 白い者を信じるな。


 リオは火の明かりに近づけ、目を細めた。


「燃やすなよ」


「分かっとる」


 リオは布の端を少しだけ持ち上げた。


 そこは汚れで黒くなっていて、昼間は文字だと分からなかった場所だった。


「……まだ何かある」


 朔は身を乗り出しそうになって、止めた。


 近づきすぎない。


 見すぎない。


 リオがゆっくり読んだ。


「こ……た……え……る……な」


 朔の喉が乾いた。


「こたえるな」


「ああ」


 リオは布を革の上に戻す。


「殻は耳。こたえるな。

 そういう意味かもしれん」


 森の声に返事をするな。


 それは、ツヅリ村で覚えた。


 でも、これは少し違う。


 森の声ではない。

 殻そのものに、答えるな。


 祈るな。

 返事をするな。

 見るな。

 触れるな。


 してはいけないことが増えていく。


 けれど今回は、ただ恐怖が増えたのではなかった。


 誰かがこれを書いた。


 誰かが、同じ危険を知っていた。

 そして、残した。


 その事実だけは、火のように小さく残っている。


「ユイが書いたんでしょうか」


 朔が呟くと、リオはすぐに首を横に振った。


「分からん」


「ですよね」


「でも、ユイかもしれん。ユイでないかもしれん。

 どちらにしろ、誰かが書いた」


 リオは布切れを見つめる。


「名前が分からん誰かの言葉や。

 雑に扱うな」


 朔は頷いた。


「はい」


***


 火のそばでは、二人とも声を落としていた。


 北の村からは、かなり離れている。


 それでも、普通に話す気にはなれなかった。


 殻は耳。


 その言葉があるだけで、夜の空気が変わる。


 木の葉の擦れる音。

 火の爆ぜる音。

 遠い谷の水音。


 その全部が、何かに聞かれているように感じる。


「明日は」


 リオが声を潜めた。


「王都寄りの街道に出る」


 朔は頷いた。


 その瞬間だった。


 遠く、北の村の方から、かすかな音が返ってきた。


「……王都」


 朔とリオは、同時に動きを止めた。


 火が小さく揺れる。


 風はない。


 リオの手が、ゆっくり朔の腕を掴んだ。


 声を出すな。


 そう言われなくても分かった。


 今の声は、リオの声ではない。


 朔の声でもない。


 北の村の方から、ただ一語だけが返ってきた。


 王都。


 聞いていた。


 拾っていた。


 選んで返した。


 朔の背筋を、冷たいものが這う。


 殻は耳。


 こたえるな。


 朔は口を閉じた。


 リオも何も言わない。


 代わりに、リオは足元の土に枝で線を引いた。


 短い線。


 その横に、矢印。


 ここを離れる。


 朔は頷いた。


 すぐに動こうとして、リオに止められる。


 リオはもう一度、土に書く。


 火。


 荷物。


 北を見るな。


 朔は深く息を吸った。


 声ではなく、頷きで返す。


 旅の中で、新しいルールが増えた。


 話せない時は、土に書く。

 火を見る。

 手を掴む。


 村の中で覚えたことが、道の上で形を変えていく。


***


 荷物をまとめようとした時、火種入れが震えた。


 最初は、手が震えているのだと思った。


 違う。


 火種入れそのものが、細かく揺れている。


 土器の中の灰が、音もなく沈む。


 赤い火種の周りに、黒い点が浮いた。


 朔は息を止めた。


 見てはいけない。


 そう思った時には、もう見ていた。


 黒い点の表面に、白が映る。


 火の色ではない。


 月の光でもない。


 白い天井。


 白い床。


 薄いカーテン。


 ピッ。


 ピッ。


 ピッ。


 電子音が、火の中から聞こえた。


***


 白い部屋。


 眩しい光。


 モニター。


 線。


 数字。


 朔はまた、そこにいた。


 目を開けているのか、閉じているのか分からない。


 体は重い。


 声は出ない。


 けれど、音だけが入ってくる。


「K.K.、接続継続」


 誰かの声。


 冷たい。


 忙しい。


 感情がないわけではない。

 感情を、仕事の外に置いている声。


「北側ノードに反応」


 別の声。


「残存ログ、確認」


 画面の文字がにじむ。


 K.K.


 SYNC。


 DEPTH。


 NORTH NODE。


 その下に、別の文字列。


 Y.I.


 朔の意識が、そこで引っかかった。


 Y.I.


 ユイ。


 そう思った瞬間、画面が少しだけ乱れた。


「Y.I.のログが残っています」


「消去は」


「完全ではありません」


「呼び戻し反応?」


「微弱ですが、あります」


 呼び戻し。


 お前は、まだいる。

 戻ってこい。


 北の村の老人の声が重なる。


 朔は動こうとした。


 動けない。


 白い部屋のどこかで、革靴の音がした。


「K.K.側にも変化があります」


「何だ」


「対象が名前を保持しています」


 短い沈黙。


「割り当て名か」


「いえ。自称名です」


 モニターの文字が揺れる。


 K.K.


 SAKU。


 KUROKAWA SAKU。


 ツヅリ村で呼ばれた声。


 トウマの声。

 リーネの声。

 ミナトの声。

 ハルの声。


 サク。


「自称名の保持は、同期に影響します」


「排除できるか」


「現時点では不明です」


 不明。


 その言葉だけが、やけに人間らしく聞こえた。


 革靴の音が近づく。


「なら、記録しろ」


 低い声。


 あの声。


「名前も反応も、すべて」


 画面が白く滲む。


「ORPHESは止めない」


***


「サク」


 声。


 今度は、近い。


 リオの声だった。


 朔は地面に膝をついていた。


 火はまだある。


 だが、炎の縁が少し青白い。


 火種入れの灰は、黒く沈んでいる。


 リオが朔の肩を掴んでいた。


「戻ったか」


「……はい」


「今のは、祈りか」


「違います」


「なら何や」


「分かりません」


 リオは顔をしかめた。


「そればっかやな」


「はい」


 朔は火種入れを見た。


 灰の中の赤はまだある。


 でも、その近くに、黒い点があるように見えた。


「でも、少し増えました」


「何が」


「印です」


「嬉しそうに言うことか」


「嬉しくはないです」


 朔は自分の手を見た。


 震えている。


 だが、名前は覚えている。


 黒川朔。

 サク。


 K.K.ではなく。


 被験者ではなく。


 そう思った瞬間、胸の奥に小さな怒りが灯った。


 名前を持つことを、向こうは異常として見ている。


 そう思えた。


 まだ、思えただけだ。


 でも、思えたことは消えない。


「リオさん」


「なんや」


「ここを離れましょう」


 リオはすでに荷物を背負い始めていた。


「言われんでも、そのつもりや」


「夜です」


「朝まで待つ方が危ない」


 リオは火を小さく分け、火種だけを残す。


「低い道は使わん。水の音も追わん。尾根を行く。

 足元だけ見ろ。北は見るな」


「はい」


「それと」


 リオは朔を見る。


「今からしばらく、しゃべるな」


 朔は頷いた。


 こたえるな。


 布切れの文字が、火の明かりの中で浮かんで見えた。


***


 夜の尾根道は、昼よりも細かった。


 足元だけを見て歩く。


 リオの背中を見る。

 石の位置を見る。

 木の根を見る。


 北の村の方は見ない。


 背後から、ときおり何かが聞こえる気がした。


 王都。


 サク。


 戻ってこい。


 それが本当に聞こえたのか、朔の中で鳴っただけなのかは分からない。


 分からないなら、返事をしない。


 分からないなら、足を止めない。


 しばらく歩いてから、リオが小さな岩場で止まった。


 北の村から、さらに距離を取った場所だった。


 東の空が、ほんの少しだけ薄くなり始めている。


 夜明け前。


 まだ朝ではない。


 でも、完全な夜でもない。


 リオは何も言わずに座り込んだ。


 朔も腰を下ろす。


 火は起こさなかった。


 ただ、火種入れを膝の上に置いた。


 蓋を開ける。


 灰の奥に、小さな赤が残っていた。


 生きている。


 そのすぐ隣に、黒い点があった気がした。


 朔は、一瞬だけ火種入れを捨てようと思った。


 これも見られているなら。


 これも繋がっているなら。


 持っているだけで、また誰かを危険にするなら。


 捨てた方がいいのかもしれない。


 でも、手は動かなかった。


 これはツヅリ村の火だ。


 ミナトを弔った火。

 ハルが子どもたちに持たせた火。

 リーネが渡してくれた火。

 トウマが見ていた火。


 安全だから持っているのではない。


 忘れないために、持っている。


 朔は蓋を閉じた。


 見なかったことにはしない。


 でも、今は持って歩く。


 火種入れを布袋の中へ戻す。


 取り出しやすい場所へ。


 すぐに確かめられる場所へ。


 東の空が、わずかに白くなっていく。


 その白を、朔はまだ信じなかった。


 ただ、道だけを見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。