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第二章 殻の巡礼 ⑤ 王都の使者


 夜明け前の尾根道を抜ける頃、朔の足は重くなっていた。


 眠っていない。


 北の村から距離を取るために歩き続けたせいで、脇腹の傷も熱を持っている。


 それでも、足は止めなかった。


 低い道は使わない。

 水の音は追わない。

 北を見ない。

 声に答えない。


 決めたことを、ひとつずつ守る。


 それだけで、どうにか歩けた。


 東の空は白くなり始めている。


 朔は、その白をまだ信じていなかった。


 夜明けの白。

 祠の白。

 白い部屋。

 白い円。

 白い者。


 全部を同じものだと決めてはいけない。


 分かっている。


 でも、胸の奥は勝手に警戒する。


「少し休むぞ」


 リオが言った。


 声は低い。


 昨夜の「王都」という返り声から、二人とも自然に声を落とすようになっていた。


 朔は頷いた。


 岩陰に腰を下ろす。


 火は起こさない。


 煙が見えるからだ。


 リオは干し肉を小さく裂き、朔へ渡した。


「食え」


「喉を通る気がしません」


「通らんでも入れろ」


「商人というより、兵士みたいですね」


「兵士はただで飯をくれん」


 リオは自分も干し肉を噛んだ。


 朔は小さく笑いかけて、途中でやめた。


 笑うには、まだ胸の中が重すぎた。


 それでも、干し肉を口に入れる。


 固い。


 味は薄い。


 でも、噛んでいるうちに、自分がまだ生きていることが分かる。


 生きているなら、食べなければならない。


 それも、たぶん足掻くことの一つだった。


***


 昼近く、二人は王都寄りの街道へ出た。


 巡礼の道とは違う。


 こちらは、人が通っている道だった。


 土は踏み固められ、荷車の轍が残っている。

 道の脇には、古い巡礼石ではなく、王都の紋らしき印が刻まれた石柱が立っていた。


 丸い殻の印ではない。


 縦に伸びる塔のような印。


 その上に、翼にも見える線が添えられている。


「王都の管理道や」


 リオが言った。


「管理道?」


「荷の通行、兵の移動、巡察。そういうもんのために整えられた道や」


「巡礼道とは違うんですね」


「違う。巡礼道は殻へ向かう道。これは王都へ向かう道や」


 朔は石柱を見た。


 殻から殻へ。


 王都へ。


 道にも目的がある。


 そして、目的が違えば、そこを歩く者の扱われ方も変わる。


 リオが少し顔をしかめた。


「先に誰かいる」


 朔も前を見る。


 街道の先に、馬が二頭。


 白い布をかけた荷車。


 その横に、三人の人影。


 一人は革鎧を着た兵士。

 一人は書記のような細身の男。

 もう一人は、白い外套をまとっていた。


 白い。


 朔の手が、無意識に腰の青い布へ伸びる。


 リオが小さく言った。


「落ち着け。王都の使者や」


「知り合いですか」


「見たことはある。あっちは俺を覚えとらんやろうがな」


「避けますか」


「避けたら、避けたことを覚えられる」


 リオは荷物の紐を直した。


「普通に行く。余計なことは言うな」


 朔は頷いた。


 名前を持つ。


 でも、名前を渡す相手は選ばなければならない。


***


 白い外套の男は、若かった。


 三十前後に見える。


 顔立ちは整っていて、声も穏やかだった。


 旅人を威圧する兵士ではない。


 むしろ、困っている者へ手を差し出す役人のように見えた。


「失礼。北の道から来られましたか」


 白い外套の男が言った。


 リオが一歩前に出る。


「行商のリオです。ツヅリから北を回り、王都寄りの街道へ出ました」


「ツヅリ」


 細身の書記が、手元の板に何かを書き込む。


 朔は、その動きに胸が冷えた。


 書かれる。


 記録される。


 名前より先に、場所が記録される。


「ツヅリ村の状況は?」


 白い外套の男が聞いた。


 リオは一瞬だけ朔を見る。


 朔は答えなかった。


「森の異常が出ました」


 リオが言う。


「負傷者もいます。祠にも黒が」


 白い外套の男の表情が、わずかに曇った。


 同情のように見えた。


 少なくとも、そう見えるように整えられていた。


「そうですか。被害に遭われた方々には、王都としても深く哀悼を」


 丁寧な言葉だった。


 間違ってはいない。


 けれど、朔の胸には引っかかった。


 深く哀悼。


 局所環境の崩壊。


 言葉は違うのに、どちらも少し遠かった。


「祠の黒化が確認された場合、王都への報告義務があります」


 白い外套の男は続けた。


「すでに調査班を向かわせる準備をしています。あなた方が来られたのは幸いでした」


「幸い?」


 朔は思わず口を開いた。


 リオがわずかに肩を動かした。


 黙れ、という合図だったかもしれない。


 だが、もう遅い。


 白い外套の男が朔を見る。


 穏やかな目。


 観察する目。


「君は?」


 男が聞いた。


 朔は一瞬、答えに詰まった。


 黒川朔です。


 そう名乗るべきか。


 サクです。


 そう言うべきか。


 殻の子と呼ばれる前に、自分で名乗るべきか。


 リーネの声が胸の奥で響く。


 名前を持って行きなさい。


「サクです」


 朔は言った。


「ツヅリ村から来ました」


 黒川朔、とまでは言わなかった。


 その名前を、今ここで渡していい相手か分からなかった。


 白い外套の男は、柔らかく頷いた。


「サク君。君は、祠から出てきた子ですか」


 朔の背中が冷えた。


 質問の形をしている。


 けれど、答えを待っている声ではなかった。


 もう知っている声。


 確認している声。


 書記の筆が、板の上で止まっている。


 リオの顔が硬くなる。


「なぜ、そう思うんですか」


 朔は聞き返した。


 白い外套の男は微笑んだ。


「その年齢で北の道を越え、祠の黒化について同行者と話している。

 普通の子どもではありません」


 丁寧。


 合理的。


 そして、逃げ道を狭める言葉だった。


「王都では、君のような子を保護しています」


「保護」


「ええ」


 男は頷いた。


「殻から現れた子どもたちは、強い魔素反応を示すことが多い。村に留めておくと、本人にも周囲にも危険が及ぶ場合があります」


 本人にも周囲にも危険。


 朔の胸に、ツヅリ村の火が浮かぶ。


 ミナトの血。

 ハルの青い布。

 祠の黒。


 その言葉は、一部正しい。


 正しいからこそ、腹の奥が冷えた。


「王都なら、専門の治療と教育が受けられます」


 男は続ける。


「祠についても調査できます。君自身のためにも、同行を勧めます」


 君自身のため。


 どこかで聞いたような言い方だった。


 会社の面談室。

 健康診断。

 ORPHES。

 社員のため。

 効率のため。

 長く働くため。


 三門社長の声が、白い外套の男の声と一瞬重なった。


 怒鳴っていない。


 責めてもいない。


 ただ、正しい形をした言葉で、こちらの行き先を決めようとしている。


「断ったら?」


 朔は聞いた。


 リオがわずかに息を止める。


 白い外套の男は、すぐには答えなかった。


 怒らない。


 困ったように眉を下げる。


「断る理由がありますか」


 それは、優しい声だった。


 けれど、朔には怖かった。


「家族を失ったばかりの村に戻るより、危険な北の道を進むより、王都で保護を受ける方が安全です」


 安全。


 また、その言葉。


 リオが言った言葉を思い出す。


 旅で安全なんて言うやつは、だいたい先に死ぬ。


「安全なら」


 朔は言った。


「どうして北の村は壊れたんですか」


 白い外套の男の笑みが、ほんの少し止まった。


「北の村?」


「ユイという子がいたはずです。白い髪の」


 書記の筆が、かすかに音を立てた。


 白い外套の男は、朔をじっと見た。


 初めて、穏やかさの下に別のものが見えた気がした。


「その名を、どこで」


「北の村で聞きました」


「誰から」


「生き残った人から」


 男の視線が、リオへ動く。


 リオは肩をすくめた。


「俺は水を汲んだだけですわ」


「北の村は立ち入り制限区域です」


「木札は倒れてましたけどね」


 リオの声は軽い。


 だが、目は笑っていない。


 白い外套の男は、また朔へ視線を戻した。


「ユイは王都で保護された子です」


「保護された後、村の殻が黒くなった」


「時系列だけで因果は決まりません」


 即答だった。


 朔はその返しに、ぞっとした。


 正しい。


 論理としては正しい。


 でも、人の消えた村を見た後に聞くと、冷たすぎた。


「ユイは生きていますか」


 朔が聞く。


 男は答えなかった。


 代わりに言う。


「君は、必要以上の情報を得ています」


 穏やかな声のまま。


 けれど、さっきまでとは違う。


 少しだけ、輪が狭まった。


「サク君。君の安全のためにも、ここから先は王都の管理下に入るべきです」


「管理下」


 朔はその言葉を繰り返した。


 保護。

 教育。

 治療。

 管理。


 言葉が、少しずつ本当の形を見せ始める。


「俺は、王都へ行くつもりです」


 朔は言った。


「ですが、あなたたちに連れて行かれるつもりはありません」


 兵士が一歩動いた。


 リオも荷物の紐へ手をかける。


 白い外套の男は、片手で兵士を止めた。


「誤解しないでください。私たちは敵ではありません」


「そう言う人ほど、こっちの行き先を決めたがる」


 言ってから、朔は自分でも少し驚いた。


 三門社長へ言えなかった言葉だった。


 白い外套の男は静かに朔を見ている。


「君は疲れている」


「はい」


「強い喪失の後にある」


「はい」


「正しい判断が難しい状態です」


「それも、たぶんそうです」


「なら——」


「でも」


 朔は男の言葉を遮った。


 声は震えていた。


 それでも、止めなかった。


「正しい判断ができないかもしれない人間から、名前を取り上げていい理由にはならない」


 白い外套の男の目が、わずかに細くなる。


「名前?」


「あなたは、俺を保護対象として見ています。殻の子として見ています。

 でも、俺には名前があります」


「サク君」


「それも名前です。

 でも、あなたが管理するための名札じゃない」


 風が通る。


 王都の石柱に刻まれた塔の印が、朝の光を受けて白く見えた。


 朔は、腰の青い布を握った。


「俺は行きます。

 でも、自分で歩きます」


 沈黙。


 白い外套の男は、しばらく朔を見ていた。


 それから、薄く息を吐いた。


「分かりました」


 リオの眉がわずかに動く。


 男は書記へ視線を向ける。


「記録しておきなさい。ツヅリ村のサク。自発的移動。王都方面へ」


 書記が書く。


 朔の胃が重くなる。


 結局、記録される。


 逃れられない。


 でも、少し違う。


 今は、自分で言った名前が書かれた。


「ただし」


 白い外套の男は続けた。


「王都に着いたら、必ず殻管理局へ来なさい。来なければ、こちらから迎えに行くことになります」


 迎えに行く。


 その言い方が、妙に優しかった。


 だから怖かった。


「覚えておきます」


 朔は言った。


「来るとは言いません」


 白い外套の男は、初めて少しだけ笑った。


「賢い子ですね」


 褒め言葉に聞こえた。


 評価に聞こえた。


 朔は答えなかった。


***


 王都の使者たちは、街道を北へ向かって行った。


 ツヅリ村方面へ向かうのだろう。


 調査。


 保護。


 管理。


 その言葉が背中に残る。


 リオはしばらく歩いてから、ようやく息を吐いた。


「肝が冷えたわ」


「すみません」


「謝るなら、もうちょい大人しくしてから謝れ」


「無理でした」


「やろうな」


 リオは朔を横目で見る。


「でも、よう止まった」


「止まってました?」


「殴りかからんかった」


「それは、さすがに」


「お前、顔は殴っとったぞ」


 朔は黙った。


 リオは少しだけ笑った。


「まあ、ええ。連れて行かれんかっただけ上出来や」


「王都に着いたら、来いと言われました」


「来い、やなくて管理下に入れ、やな」


「ですね」


 朔は街道の先を見る。


 王都へ向かう道。


 整えられている。


 歩きやすい。


 だからこそ、どこへ誘導されているのか分かりにくい。


「リオさん」


「なんや」


「王都へは行きます」


「ああ」


「でも、殻管理局にはすぐ行きません」


「やろうな」


「いいんですか」


「よくはない」


 リオは言った。


「でも、まっすぐ檻に入るよりはましや」


 檻。


 保護施設ではなく。


 教育機関ではなく。


 檻。


 朔はその言葉を胸に置いた。


 まだ、本当に檻かどうかは分からない。


 でも、保護という言葉だけを信じることは、もうできなかった。


***


 昼を過ぎても、街道は明るかった。


 巡礼の道より広く、歩きやすい。


 道端には王都の石柱が一定の間隔で立っている。


 見張られているような道。


 朔は、ふと白い部屋を思い出した。


 SUBJECT:K.K.


 対象が名前を保持しています。


 割り当て名ではなく、自称名です。


 ツヅリ村のサク。


 自発的移動。


 また記録が増えた。


 だが、その記録には、少なくとも自分の選んだ名前が入った。


 十分ではない。


 でも、ゼロではない。


 朔は腰の青い布に触れた。


 ハル。


 ミナト。


 リーネ。


 トウマ。


 ユイ。


 名前をひとつずつ胸の中で確かめる。


 王都の道は白く乾いている。


 歩きやすい。


 足跡も残りにくい。


 朔はその道を歩きながら、小さく呟いた。


「黒川朔」


 次に。


「サク」


 リオが聞こえたのか、聞こえなかったのか、何も言わずに隣を歩いていた。


 遠くに、まだ王都は見えない。


 けれど、道だけが先に白く伸びていた。

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