第二章 殻の巡礼 ⑥ 勇者候補
王都の使者と別れてから、リオはしばらく黙っていた。
怒っているのではない。
考えている。
歩く速度も、目の動きも変わらない。
ただ、言葉だけが少ない。
朔も、余計なことは言わなかった。
街道は歩きやすかった。
土は固く、轍も深すぎない。
道端には一定の間隔で王都の石柱が立っている。
塔のような印が刻まれ、朝の光を受けて白く見える。
歩きやすい道。
迷いにくい道。
管理された道。
それが、かえって落ち着かなかった。
巡礼道は荒れていた。
石は割れ、祠は壊れ、水の音は罠のように響いた。
けれど、そこにはまだ、人が歩いた跡があった。
怖がり、避け、燃やし、残した跡があった。
この道には、それが薄い。
誰かのためというより、何かを運ぶための道に見えた。
「リオさん」
「なんや」
「王都の人たちは、いつもあんな感じなんですか」
「あんな、とは」
「丁寧で、優しくて、逃げ道を狭くする感じです」
リオは少しだけ口元を歪めた。
「ええ言い方やな」
「よくない意味で言いました」
「知っとる」
リオは前を見たまま続けた。
「王都にはいろんな人間がおる。兵士も商人も役人も学者も。
全員が同じとは言わん」
「はい」
「でも、殻に関わる連中は、だいたい似とる」
「似てる?」
「丁寧や。書く。測る。分類する。
そして、一度分類したもんを、なかなか人間に戻さん」
朔は黙った。
殻の子。
保護対象。
被験者。
勇者候補。
名前ではなく、分類。
「俺は、分類されていますか」
「されとるやろうな」
「ですよね」
「ただ」
リオは朔をちらりと見た。
「お前は、分類される前にわりと喋る」
「それ、褒めてます?」
「半分な」
「残り半分は?」
「危なっかしい」
朔は苦笑した。
否定はできなかった。
***
昼前、街道の先で人だかりが見えた。
荷車が二台。
旅人らしき者が数人。
王都の兵士が三人。
そして、その中央に、白と青の衣を着た少年がいた。
年は、朔より少し上に見える。
十三か十四。
背はまだ高くないが、立ち姿に迷いがない。
肩まで伸びた淡い金色の髪。
額には、細い銀の輪。
腰には細身の剣。
背には小さな白い外套。
その周囲だけ、妙に整って見えた。
兵士たちは彼を守っているようでもあり、彼に付き従っているようでもある。
「何ですか」
朔が聞くと、リオが目を細めた。
「勇者候補やな」
その言葉に、朔の足が止まりかけた。
勇者。
ハルが何度も口にした言葉。
殴る勇者。
生き残る勇者。
そして、今目の前にいる少年は、誰が見ても“勇者”らしかった。
綺麗な衣。
王都の兵士。
整った立ち姿。
人々の視線。
朔は、自分の服を見下ろした。
旅で汚れた布服。
腰の小刀。
青い布。
火種の入った袋。
子どもの身体。
治りきらない傷。
勇者という言葉からは、遠かった。
「あれも、殻の子ですか」
「そう呼ばれとる」
「名前は?」
「聞いたことがある。たしか……エリオ」
エリオ。
朔はその名前を胸の中に置いた。
殻の子ではなく、エリオ。
それを忘れないように。
***
人だかりの理由は、すぐに分かった。
街道脇の茂みから、白い目の魔物が一体出たらしい。
小型の獣。
ワンアイよりさらに細い。
犬と狐の間のような体で、背中に黒い斑点がある。
すでに兵士が囲んでいる。
だが、誰も手を出していない。
中央の少年――エリオが、一歩前へ出た。
「下がってください」
声は澄んでいた。
怖がっていない。
いや、怖さを見せていない。
旅人たちが後ずさる。
兵士たちも距離を取る。
エリオは片手を前に出した。
その掌に、淡い光が集まる。
魔素。
朔にも、それが分かった。
ツヅリ村で見たリーネの光とは違う。
もっと鋭く、もっと整っている。
祈りというより、道具のような光。
「浄化します」
エリオが言った。
光が伸びる。
槍のようにまっすぐ。
白い目の魔物が跳んだ。
速い。
だが、エリオは驚かなかった。
足を半歩ずらし、光を横へ振る。
魔物の体が空中で止まったように見えた。
次の瞬間、黒い斑点が白く焼け、魔物は地面に落ちる。
声もなく、動かなくなった。
周囲から息が漏れる。
「さすが、王都の勇者候補様だ」
誰かが言った。
「助かった」
「殻の子でも、王都で育つと違うな」
その言葉が、朔の耳に引っかかった。
王都で育つと違う。
違う。
それは事実かもしれない。
エリオは強かった。
迷わなかった。
魔素を扱えた。
倒すべきものを、綺麗に倒した。
朔にはできない。
自分なら、石を投げて軌道をずらす。
火の位置を見る。
逃げ道を確認する。
倒せないなら、距離を取る。
綺麗ではない。
勇者らしくない。
でも、朔は魔物の死骸を見て、少しだけ眉をひそめた。
白い目は消えている。
体も動かない。
だが、黒い斑点の一部が、地面に落ちる前に小さく跳ねた気がした。
燃えたのではない。
弾けた。
そして、すぐ近くの草の陰に入り込んだ。
「リオさん」
朔は小声で言った。
「あの死骸、まだ近づかない方がいい」
「何か見えたか」
「黒が飛びました」
リオの顔が硬くなる。
だが、周囲の旅人たちはすでに安堵している。
兵士の一人が死骸へ近づこうとした。
「触るな!」
朔は反射的に叫んだ。
兵士が振り返る。
人々の視線が、一斉に朔へ向く。
エリオも朔を見た。
澄んだ青い目だった。
その視線には、敵意はない。
ただ、評価するような静けさがあった。
「君は?」
エリオが聞いた。
「サクです」
朔は答えた。
「その死骸の黒が、草の方へ飛びました。近づかない方がいい」
兵士が眉をひそめる。
「勇者候補エリオ様が浄化された。問題はない」
「見えました」
「子どもの見間違いだ」
その言葉に、朔の胸が少し冷えた。
子どもの見間違い。
たしかに、自分は子どもの身体だ。
だが、見たものは見た。
「確認だけしてください」
朔が言うと、兵士は苛立った顔をする。
だが、エリオが手を上げた。
「待って」
兵士が止まる。
エリオは死骸ではなく、朔が指した草の方へ視線を向けた。
掌に小さな光を集める。
草の陰が照らされた。
そこに、黒い粒があった。
粘るような、小さな点。
それは光を受けると、ぷつ、と泡立った。
旅人たちが悲鳴を上げる。
エリオの表情が、初めて少し変わった。
驚き。
それから、すぐに平静。
「隔離します」
彼は短く言った。
光の輪が黒い粒を囲む。
兵士が金属の小箱を持ってくる。
内側に白い布が敷かれている。
エリオは黒い粒を直接触れずに箱へ入れた。
手際が良い。
慣れている。
朔はそれも見た。
「ありがとう」
エリオが朔に向かって言った。
「君の観察は正しかった」
素直な言葉だった。
だが、朔は少しだけ身構えた。
観察。
その言葉が、白い部屋の響きを連れてくる。
「たまたまです」
「たまたまではない。見ていたからだ」
エリオはまっすぐ言った。
「見ることは大事です」
それは、朔も何度も思ってきたことだった。
だからこそ、簡単には頷けなかった。
***
兵士たちが周囲を整理し始める。
旅人たちは距離を取りながら、まだエリオを見ていた。
尊敬。
安堵。
期待。
その視線を、エリオは慣れた様子で受けている。
重そうには見えない。
あるいは、重くないように見せる訓練をされているのかもしれない。
エリオは朔の前へ来た。
「君も、殻の子ですか」
またその言葉。
朔は答える前に、エリオを見た。
悪意はない。
好奇心もある。
警戒もある。
しかし、白い外套の男のような囲い込みの圧は薄い。
同じ檻の中にいる者が、檻の形をまだ知らないまま話しかけている。
そんな印象だった。
「分かりません」
朔は答えた。
「祠から出てきたのは事実です。
でも、殻の子かどうかは、まだ分かりません」
エリオは少し不思議そうにした。
「祠から出てきたなら、殻の子でしょう」
「そう呼ばれています」
「違うのですか」
「名前があります」
エリオは瞬きをした。
「名前は、当然あります」
「あなたは?」
「エリオ・レイス」
すぐに答えた。
迷いがない。
きちんと与えられ、きちんと覚え、きちんと名乗る名前。
「王都殻管理局所属、勇者候補第二位です」
朔は、その後半に引っかかった。
「第二位?」
「はい」
エリオは自然に頷く。
「現時点での魔素適合率、浄化成功率、巡礼任務達成数に基づいた順位です」
数字。
適合率。
成功率。
達成数。
朔の中で、Excelの画面が一瞬だけ重なる。
営業件数。
契約率。
訪問数。
順位。
会議室。
三門社長の声。
お前は何位だ。
何件取った。
数字で示せ。
朔は息を整える。
ここは会議室ではない。
目の前にいるのは三門社長ではない。
エリオはまだ子どもだ。
「それで、あなたは嬉しいんですか」
朔は聞いた。
エリオは少し首をかしげた。
「嬉しい?」
「第二位であることが」
「名誉です」
「嬉しいんですか」
エリオは少しだけ黙った。
初めて、答えを探したように見えた。
「必要なことです」
彼は言った。
「順位があれば、任務の配置が決まります。
適性が分かれば、危険な場所へ誰を送るべきか判断できます。
私は、私の適性に従って動きます」
正しい。
また、正しい。
危険な場所へ誰を送るか。
冷たい順番。
ミナトも、それを考えていた。
けれど、何かが違う。
ミナトは、命から順番を決めた。
エリオは、数字から順番を受け取っている。
「危険な場所へ行きたいんですか」
「行きたいかどうかは、関係ありません」
エリオは即答した。
「必要なら行きます」
その言葉は勇敢だった。
同時に、空っぽにも聞こえた。
「守りたいものは?」
朔が聞いた。
「王都と、その管理下にある人々です」
「名前は?」
「え?」
「その人々の名前を、どれくらい知っていますか」
エリオは黙った。
兵士の一人が不快そうに朔を見る。
リオが背後で、小さくため息をついた。
やりすぎるな、と言いたいのだろう。
でも、朔は止まれなかった。
エリオを責めたいわけではない。
ただ、知りたかった。
この“勇者”は、何を見ているのか。
エリオは少し時間を置いて答えた。
「任務対象者の名前は、可能な限り記録します」
記録。
また、その言葉。
朔は青い布を握った。
「俺は、忘れたくないから名前を持っています」
「記録すれば、忘れません」
「記録するのと、持っているのは違う」
エリオの眉がわずかに動いた。
理解できない、という顔。
いや、理解しようとしている顔かもしれない。
朔には判断できなかった。
***
その時、金属の小箱が小さく鳴った。
かたん。
兵士が振り返る。
箱の中で、黒い粒が動いた。
エリオがすぐに近づく。
光の輪を強める。
だが、黒い粒は光に焼かれながらも、箱の内側で小さく泡立つ。
ぷつ。
ぷつ。
その音に、朔の体が固まる。
見張り台。
ハルの足元。
黒い柱。
指先の温度。
「閉じて」
朔は言った。
「その箱、閉じてください」
エリオが振り返る。
「浄化を続ければ消せます」
「音を聞かせない方がいい」
「音?」
「呼ぶ前に、塞いだ方がいい」
エリオは一瞬考えた。
そして、兵士へ言った。
「蓋を」
「ですが、浄化途中です」
「蓋を」
命令の声だった。
兵士が箱を閉じる。
音が止まった。
周囲の旅人たちが、ほっと息を吐く。
エリオは朔を見た。
「君は、黒の反応をよく知っている」
「知りたくて知ったわけじゃありません」
「それでも、役に立つ知識です」
その言い方に、朔は少しだけ苛立った。
役に立つ。
ハルの喪失も。
ミナトの死も。
ツヅリ村の夜も。
役に立つ知識。
間違ってはいない。
だが、そのまま飲み込むには冷たすぎる。
「あなたは」
朔は聞いた。
「何かを失ったことがありますか」
エリオの表情が止まった。
ほんの一瞬。
それから、彼は静かに言った。
「あります」
即答ではなかった。
だが、嘘にも聞こえなかった。
「それも、記録しましたか」
朔は聞いた。
エリオの目が、少しだけ冷える。
初めて、彼の中の何かに触れた気がした。
「サク君」
エリオは言った。
「君は、混乱しています」
「そうかもしれません」
「喪失の直後は、判断が尖ります」
「それ、さっきも別の人に言われました」
「なら、その人は正しい」
「正しい言葉は、いつも人を助けますか」
エリオは答えなかった。
風が街道を通る。
王都の石柱に刻まれた塔の印が、白く乾いている。
エリオはしばらくして言った。
「私は、君を敵とは思いません」
「俺もです」
朔は答えた。
「でも、同じ場所に立っているとも思えません」
エリオはその言葉を、静かに受け取った。
「王都に来たら、殻管理局へ」
「またそれですか」
「必要なことです」
「あなたの言葉ですか」
エリオは少しだけ黙った。
朔は見逃さなかった。
「……私の役目です」
役目。
ハル。
ミナト。
役目を果たした。
同じ言葉なのに、重さが違う。
ハルの役目は、震える手で選んだものだった。
エリオの役目は、誰かに渡されたものに見えた。
それでも、エリオ自身はそれを軽く扱っていない。
だから、余計に苦しかった。
***
別れ際、エリオは小さな白い札を朔に差し出した。
「王都の門でこれを見せてください。殻管理局への案内が受けられます」
朔は受け取らなかった。
「持っていたら、場所が分かりますか」
「え?」
「俺がどこにいるか」
エリオは少し驚いた顔をした。
「それ自体に追跡の術はありません」
「それ自体には?」
エリオは答えに詰まる。
リオが横で小さく笑った。
「よう聞いた」
朔は札を見た。
白い札。
塔の印。
綺麗に切りそろえられている。
「受け取れません」
朔は言った。
「必要なら、門で自分で聞きます」
エリオは札を下ろした。
怒らない。
困った顔をする。
それもまた、よく訓練された顔に見えた。
「君は、とても警戒しています」
「はい」
「それでは疲れます」
「疲れてます」
「それでも?」
「それでもです」
エリオはしばらく朔を見た。
そして、札を自分の懐へ戻した。
「分かりました」
その言葉が、本当に分かったという意味なのか、今は保留するという意味なのか、朔には分からなかった。
「また会うでしょう」
エリオは言った。
「たぶん」
朔は答えた。
「その時、あなたの名前をもう一度聞きます」
「なぜ?」
「忘れないために」
エリオは、少しだけ目を細めた。
不快ではなさそうだった。
でも、慣れていない顔だった。
「エリオ・レイスです」
彼はもう一度名乗った。
「王都殻管理局所属、勇者候補第二位」
朔は首を横に振った。
「後半は、次はなくてもいいです」
エリオは、初めて少しだけ困ったように笑った。
「考えておきます」
***
エリオたちと別れ、街道を進む。
リオはしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「お前、敵を増やす才能があるな」
「敵ですか」
「まだ敵やない。せやけど、味方にもなりにくい」
「それは困りますね」
「困ってる顔に見えん」
朔は前を見た。
街道は白く乾いている。
歩きやすい。
まっすぐ王都へ向かっている。
その上を、朔は自分の足で歩いている。
「エリオは、悪い人じゃないと思います」
「ああ」
「でも、怖いです」
「そういうやつが一番厄介や」
リオは言った。
朔は頷いた。
エリオは強かった。
正しかった。
礼儀正しかった。
それでも、彼の周りにあるものは、朔の胸を冷やした。
順位。
適合率。
成功率。
任務。
管理局。
勇者という言葉の周りに、数字が巻きついている。
ハルが憧れた勇者とは、違う。
でも、世の中が求める勇者は、きっとエリオの方なのだろう。
綺麗で。
強くて。
記録できて。
管理できる。
朔は、腰の青い布に触れた。
「ハル」
声には出さなかった。
胸の中だけで呼ぶ。
もしハルがここにいたら、エリオをどう見ただろう。
かっこいいと言ったかもしれない。
負けたくないと言ったかもしれない。
それとも、何か違うと気づいただろうか。
分からない。
分からないまま、朔は歩いた。
遠く、街道の先で白い塔の影のようなものが、かすかに見えた気がした。
まだ王都ではない。
ただ、道の先にある白だった。
朔はそれを信じなかった。
けれど、目を逸らしもしなかった。




