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第二章 殻の巡礼 ⑦ 巡礼者の記録

 エリオと別れてから、街道の白さが少し違って見えた。


 歩きやすい。


 迷いにくい。


 王都へ向かうには、確かにいい道だった。


 けれど、朔にはその道が、まっすぐすぎるように思えた。


 寄り道を許さない道。

 迷うことを前提にしていない道。

 引き返すことも、横へ逸れることも、あまり考えられていない道。


 人を運ぶための道。


 物を運ぶための道。


 記録されたものを、記録された場所へ届けるための道。


「顔が暗いぞ」


 リオが言った。


「元からです」


「それは否定せん」


「否定してくださいよ」


「旅で嘘をつくと高くつく」


 リオはそう言って、街道脇の石柱を見た。


 塔の印。


 王都の印。


 一定の間隔で立っているそれは、道標というより、目印のようだった。


 誰かが迷わないためのもの。


 あるいは、誰かがどこを通ったか分かるようにするためのもの。


 朔は無意識に、腰の青い布へ触れた。


「エリオは、悪い人ではないと思います」


「二回目やな」


「はい」


「悪くないやつほど、面倒なことがある」


「リオさん、経験あります?」


「商売してたら山ほどある」


 リオは肩をすくめる。


「悪いやつは分かりやすい。値段を吹っかける。盗む。脅す。

 でも、善意でこちらの荷を持とうとするやつは厄介や。

 断るとこっちが悪者になる」


 朔は少しだけ黙った。


 白い外套の男。

 エリオ。

 王都の道。


 善意の形をした何か。


 それをどう扱えばいいのか、まだ分からない。


「……荷物は、自分で持つ方がいいですね」


「重すぎる時は、誰かに預けてもええ」


 リオは前を向いたまま言った。


「ただ、誰に預けるかは選べ」


 その言葉は、道の話ではないように聞こえた。


***


 昼過ぎ、街道は二つに分かれた。


 右は、さらに白い石柱が続く王都の管理道。


 左は、草に半分埋もれた細い道。


 そちらには、古い巡礼石がひとつだけ立っていた。


 丸い殻の印。


 欠けてはいるが、まだ残っている。


 その下に、かすれた文字が彫られている。


 リオは足を止めた。


「どっちですか」


 朔が聞く。


「王都へ急ぐなら右や」


「左は?」


「古い巡礼小屋がある。今はほとんど使われとらん。

 けど、昔の巡礼者が残した文書があるかもしれん」


 朔は左の道を見た。


 草に覆われている。


 整えられていない。


 歩きにくそうだ。


 でも、そこには王都の白い石柱がない。


「寄れますか」


「寄れる」


「危険ですか」


「どっちも危険や」


「ですよね」


 朔は頷いた。


「なら、左へ行きたいです」


「理由は?」


「王都の道は、王都が見せたいものへ向かう道に見えます」


 リオは少しだけ目を細めた。


「巡礼道なら、別のものが見えるかもしれない」


「見すぎるなよ」


「はい」


「でも、見なさすぎても商売にならん」


「どっちなんですか」


「だから、目は二つある」


 リオはそう言って、左の道へ足を向けた。


 朔も続く。


 草が足首に触れる。


 道はすぐに狭くなった。


 王都の道から外れると、空気が少し変わった気がした。


 監視されている感じが薄くなる。


 その代わり、忘れられている感じが強くなった。


***


 巡礼小屋は、森の切れ目にあった。


 小屋と言っても、半分は石造りだった。


 低い壁。

 落ちかけた屋根。

 入り口の横に置かれた水瓶。

 その奥に、小さな火床。


 かつては巡礼者が泊まり、火を分け合い、名前を名乗り合った場所なのだろう。


 今は、誰もいない。


 だが、完全に崩れてはいなかった。


 リオは入り口の前で足を止め、まず中を覗く。


 朔も後ろから見る。


 黒い染みは見えない。


 水の音もない。


 白い円もない。


 ただ、古い紙と乾いた木の匂いがした。


「入るぞ」


 リオが言った。


「はい」


「触るなよ」


「まだ何もしてません」


「する顔やった」


「顔って便利ですね」


「便利や」


 リオは小屋の中へ入る。


 火床は冷えていた。


 壁には、細い板がいくつも立てかけられている。


 木の板。


 革の断片。


 薄い石板。


 紙の束。


 文字が書かれている。


 朔には読めないものが多い。


 だが、いくつかは絵のように見えた。


 丸い殻の印。

 火の印。

 手を繋ぐ人の印。

 そして、耳のような形。


 朔の胸が冷える。


 殻は耳。


 リオもそれに気づいたらしく、口元を引き締めた。


「古い記録やな」


「読めますか」


「全部は無理や。古い字やし、方言も混じっとる」


「読めるところだけでいいです」


「急かすな。古い記録は商談より面倒や」


 リオは埃を払わず、布越しに一枚の板を持ち上げた。


 直接触らない。


 朔はそれを見て、少し安心した。


 リオも、もう疑うことを覚えている。


 いや、もともとそういう人なのかもしれない。


***


 最初の記録は、巡礼者の心得のようだった。


 リオがゆっくり読む。


「火を絶やすな」


 朔の体が、わずかに固まった。


 リオは続ける。


「名を忘れるな」


 火。


 名前。


 巡礼歌と同じ言葉。


「殻に問う前に、人に問え」


 朔は顔を上げる。


「もう一度」


「殻に問う前に、人に問え」


 リオは板を見つめながら言った。


「つまり、困ったらまず生きてる人に聞けってことか?」


「いい言葉ですね」


「商人向きやな。祠に聞くより、まず市場で聞け」


 リオは少しだけ冗談めかした。


 だが、朔は笑えなかった。


 殻に問う前に、人に問え。


 祈りより先に、人。


 管理より先に、名前。


 それは、リーネの弔いにも似ていた。


 祈りではなく、名前を呼ぶ。


 古い巡礼者たちは、もう知っていたのかもしれない。


 祈りが危うくなる時があると。


 殻に直接問うことが、危険になる時があると。


「続きは?」


 朔が聞く。


 リオは目を細めた。


「……『返る声が、汝の声ならば、応えるな』」


 朔の喉が乾いた。


 自分自身の声。


 お前は、まだいる。

 戻ってこい。


 北の村の老人が言った言葉。


 これは、昔からあった警告だ。


 今初めて起きた異常ではない。


「これ、王都は知ってるんでしょうか」


 朔が聞く。


 リオは肩をすくめた。


「知っとるやつは知っとるやろ。

 知らんふりしとるやつもおるやろ。

 忘れたやつも、都合よく削ったやつもおるやろ」


 リオは板を戻した。


「古い言葉は、残ってるだけでは役に立たん。読むやつ次第や」


 朔は頷いた。


 読む。


 持つ。


 忘れない。


 それもまた、足掻くことなのだと思った。


***


 次の記録は、巡礼者の名簿だった。


 名前が並んでいるらしい。


 リオがいくつか読み上げる。


「マレイ。ヨハ。ナギ。シグ。……だいぶ古いな」


 知らない名前。


 でも、名前だった。


 役職でも、順位でも、適合率でもない。


 誰かが道を歩き、ここに泊まり、自分の名を残した。


 朔はその板を見つめた。


「全部、巡礼者ですか」


「たぶんな。日付みたいなものもある」


「殻の子?」


「全員ではないやろ。巡礼者には、殻の子に付き添う者もいたらしい」


 付き添う者。


 リオのような人かもしれない。


 ミナトのような人かもしれない。


 リーネのような人かもしれない。


 朔は、そこに自分の名前を加えたいとは思わなかった。


 でも、消えてほしくないと思った。


 誰かが歩いた。


 それだけは、消えないでほしかった。


 リオが別の薄い石板を持ち上げた。


 そこには、絵が彫られていた。


 人の列。


 先頭に火を持つ者。

 中央に小さな人影。

 左右に付き添い。

 後ろに、丸い殻の印。


 その横に、細い線で白い衣の人物が描かれている。


 顔はない。


 手だけが、やけに長い。


「白い者」


 朔が呟く。


 リオも黙った。


 絵の下に文字がある。


 リオが読もうとして、少し顔をしかめた。


「古すぎる。半分しか読めん」


「読めるところだけ」


「……『白き案内人に従うな』」


 朔の手が、青い布を握る。


「案内人」


「ああ」


「白い者は、敵とは書いてないんですね」


「案内人、やな」


 案内する者。


 連れて行く者。


 丁寧に、正しい道を示す者。


 白い外套の男。


 エリオ。


 王都の道。


 全部を同じにしてはいけない。


 だが、白い案内人という言葉は、朔の中に鋭く残った。


「続きは?」


「……『その道は殻へ戻らず、耳の奥へ下る』」


 朔は意味をすぐには理解できなかった。


 殻へ戻らず。


 耳の奥へ下る。


 殻は耳。


 耳の奥。


 聞くものの内側。


 それが何を意味するのかは分からない。


 でも、良くない。


 それだけは分かった。


***


 小屋の奥に、箱があった。


 木製の古い箱。


 鍵は壊れている。


 リオが慎重に蓋を開けた。


 中には、布に包まれた紙束が入っていた。


 紙はかなり傷んでいる。


 端が黒く焦げているものもある。


 リオは一番上の紙を広げた。


 朔は息を止める。


 そこには、文字と図が混ざっていた。


 丸い殻。

 そこから伸びる線。

 線の先に、別の殻。

 さらに別の殻。


 地図のようにも見える。


 回路図のようにも見える。


 朔は思わず後ずさりしかけた。


 回路図。


 なぜ、そう思ったのか分からなかった。


 現代の記憶。


 会社の資料。

 配線図。

 ORPHESの画面。


 何かが重なりそうになる。


 やめろ。


 今、全部を繋げるな。


 リオが紙を見ながら言った。


「巡礼路の図……やと思う」


「殻と殻が繋がってる」


「そう描いてあるな」


「道ですか」


「道やろうな。昔の巡礼道」


 でも、朔にはそれが、ただの道には見えなかった。


 線は直線ではない。


 地形に沿っていない。


 川も山も無視している。


 まるで、見えない何かの流れを描いているようだった。


 リオが紙の端を読む。


「『火を持つ者は、名を運ぶ。名を運ぶ者は、殻を眠らせる』」


 朔は息を止めた。


「殻を眠らせる?」


「そう読める」


「祈るんじゃなくて?」


「眠らせる、やな」


 殻を起こすのではなく。


 祈りを届けるのでもなく。


 眠らせる。


 ORPHES。


 ディープスリープ。


 白い部屋の言葉が、頭の奥でざらついた。


 眠り。


 殻。


 名前。


 火。


 繋がりそうになる。


 まただ。


 朔は額を押さえる。


「サク?」


 リオが聞く。


「大丈夫です」


「大丈夫ということにしとる顔やな」


「便利ですね、顔」


「まあな」


 リオは紙を畳み直した。


「これは持っていくか?」


 朔はすぐには答えなかった。


 持っていきたい。


 でも、持っていけば、また何かに見つかるかもしれない。


 書かれたもの。

 残されたもの。

 名前。


 それを持つということは、重さを引き受けることでもある。


「写せますか」


 朔は聞いた。


「紙を持たずに?」


「はい。必要な部分だけ」


「お前は字が読めんやろ」


「だから、リオさんに頼んでます」


「簡単に言うな」


 リオは文句を言いながらも、荷物から小さな炭と紙片を取り出した。


「全部は無理や。印だけやぞ」


「お願いします」


「あとで高くつける」


「お金ないです」


「出世払いにしとく」


 リオは文句を言いながら、図を写し始めた。


 朔はその様子を見ていた。


 持ち去らない。


 でも、なかったことにしない。


 この世界では、それが大事なのかもしれなかった。


***


 小屋を出る頃、日が傾き始めていた。


 リオは写した紙片を朔に渡した。


 そこには簡単な図がある。


 丸い殻がいくつか。

 それを結ぶ線。

 火の印。

 名前を示すらしい小さな記号。


 完全ではない。


 ただの写し。


 でも、印は増えた。


「これで、王都の道じゃない道も分かるかもしれません」


 朔が言うと、リオは渋い顔をした。


「分かるかもしれん。迷うかもしれん。死ぬかもしれん」


「全部言いますね」


「商人は条件を隠すと信用を失う」


 朔は紙片を布袋に入れた。


 火種入れの近くではなく、別の場所へ。


 黒の気配がするものと、火を近づけすぎたくなかった。


 小屋を振り返る。


 古い巡礼者たちの記録。


 名前。

 火。

 殻。

 白き案内人。

 耳の奥。

 殻を眠らせる。


 どれも答えではない。


 でも、王都が示す道だけが道ではないことは分かった。


 それだけでも、ここへ来た意味はあった。


「行きましょう」


 朔が言う。


「ああ」


 リオが頷く。


 王都の管理道へ戻る前に、朔はもう一度だけ巡礼石を見た。


 欠けた殻の印。


 古い傷。


 消えかけた文字。


 そこに、誰かの指で新しく引っかいたような浅い線があった。


 さっきは気づかなかった。


 文字ではない。


 ただの線。


 けれど、その線は三つ並んでいた。


 火。

 名。

 眠り。


 そう読める気がした。


 朔は声に出さなかった。


 殻に答えるな。


 ただ、その三つを胸の中で繰り返す。


 火。


 名。


 眠り。


 王都へ向かう白い道の横で、古い巡礼石は黙って立っていた。

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