第二章 殻の巡礼 ⑧ 残る声
王都の管理道へ戻る前に、リオはもう一度、写した紙片を広げた。
丸い殻の印。
火の印。
名を示す小さな記号。
眠りの印。
そして、それらを結ぶ細い線。
地図としては頼りない。
山も川も、道幅も書かれていない。
村の名前も、今の呼び名とは違うものが多い。
だが、王都の石柱が示す道とは別のものが、そこには確かにあった。
「この先に、小さな中継点がある」
リオが言った。
「大きな殻ではない。巡礼者が火を確かめる場所やったらしい」
「祠ですか」
「祠と言うには小さい。休み場に近いな」
朔は紙片を見る。
王都へ向かう管理道は右。
古い巡礼路は、少しだけ左へ逸れる。
遠回り。
歩きにくい道。
けれど、今はそちらを見たいと思った。
王都の道は、王都が見せたいものへ続いている。
古い巡礼路には、王都が忘れたものが残っているかもしれない。
「行きたいです」
朔が言うと、リオはすぐには返事をしなかった。
「王都から外れることになる」
「少しだけですよね」
「その少しが高くつくこともある」
「命の値段ですか」
「覚えが早いな」
リオは紙片を畳んだ。
「行く。ただし、触らん。声に答えん。低い方へ降りん。
お前が走り出したら、殴る」
「殴るんですか」
「言葉で止まらん時はな」
朔は苦笑しようとして、できなかった。
自分が走り出さないと言い切れないからだ。
「分かりました」
「分かってる顔で死ぬやつも多い」
「それ、二回目です」
「三回でも言う」
リオは左の巡礼路へ足を向けた。
朔も続いた。
***
巡礼路は、すぐに細くなった。
草が膝に触れる。
木の根が石を持ち上げ、足元を不安定にしている。
王都の管理道のような白い石柱はない。
代わりに、古い巡礼石がところどころに立っていた。
多くは欠けている。
丸い殻の印がかすれているもの。
火の印だけが残っているもの。
文字が削れて、ただの傷に見えるもの。
その中で、朔は見慣れない印を見つけた。
「リオさん」
リオが振り返る。
「これ」
朔が指した巡礼石には、火でも名でも眠りでもない印が刻まれていた。
五本の線。
指のようにも見える。
掌を開いた形。
手。
朔は、息を忘れた。
手。
ハルの手。
届かなかった指一本分。
リーネの手。
ミナトの手。
トウマが握っていた母親の手。
声ではなく、手。
本物は、温度。
「手の印……ですか」
朔が言うと、リオは石に顔を近づけすぎない距離で見た。
「そう見えるな」
「意味は?」
「読めん。文字が削れてる」
「古い巡礼の印ですかね」
「たぶんな」
リオは周囲を見る。
「この近くに中継点があるはずや。
手の印が案内かもしれん」
案内。
その言葉に、朔は少しだけ身構えた。
白き案内人に従うな。
でも、今あるのは白い者ではない。
石に刻まれた、古い手の印。
従うのではなく、確かめる。
朔はそう思うことにした。
***
中継点は、木々の間にあった。
大きな祠ではない。
石で作られた低い円環。
中央には、白い円も、祭壇もない。
代わりに、平たい石がひとつ置かれている。
その石には、浅い窪みがあった。
人の手を置くのにちょうどいい形。
右手か左手かは分からない。
だが、五本の指が自然に収まるような窪みだった。
朔は足を止めた。
触りたい。
そう思った。
手を置けば、何か分かるかもしれない。
火。
名。
眠り。
そして、手。
ここには、答えに近いものがある気がした。
だが、朔は動かなかった。
動けなかったのではない。
動かないことを選んだ。
「触るなよ」
リオが言った。
「はい」
「早く知りたい顔しとる」
「しています」
「触ったら早いかもしれん」
「はい」
「早い道は、だいたい高い」
「命の値段」
「そうや」
リオは短く頷いた。
「殻に問う前に、人に問え。さっき読んだばかりやろ」
朔は窪みを見たまま、息を吐いた。
古い巡礼者の言葉。
リオの声。
ミナトの声。
それらが、朔の手を止めている。
「じゃあ、人に問います」
「誰に」
「リオさんに」
「聞かれても困る」
「それでも、殻より先です」
リオは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。
「……そうやな」
朔は窪みから少し離れた場所にしゃがんだ。
火種入れを取り出す。
触れない。
問わない。
ただ、見る。
火種入れを石の円環の外側に置いた。
近すぎず、遠すぎず。
灰の奥に、小さな赤がある。
火はまだ生きている。
***
最初は、何も起きなかった。
風が木々を揺らす。
草が擦れる。
遠くで鳥のような声がする。
それだけだった。
朔は窪みを見ていた。
触れない。
声に出さない。
ただ、見る。
しばらくして、石の窪みの周りに、薄い曇りのようなものが浮いた。
水気ではない。
霧でもない。
石が呼吸しているように見えた。
朔は思わず身を乗り出しかける。
リオの手が、肩を押さえた。
強くはない。
だが、確かに止める力だった。
「距離」
短い言葉。
朔は頷いた。
もう一歩分、下がる。
その時だった。
窪みに近づけていた朔の手の甲に、わずかな温度が触れた。
触ったわけではない。
石に手を置いてもいない。
それなのに、手の甲だけが少し温かい。
誰かが、ついさっきそこに手を置いていたような温度。
朔の呼吸が止まる。
温度。
指先。
ハルの手。
あの時、届いた。
ほんの一瞬、届いた。
温度があった。
本物だった。
だからこそ、離れた瞬間が分かった。
朔は青い布を握った。
叫びそうになる。
ハル、と。
だが、声には出さなかった。
声にすれば、どこかの耳が拾う。
森かもしれない。
殻かもしれない。
白い部屋かもしれない。
だから、胸の中だけで呼んだ。
ハル。
温度は、すぐに消えた。
***
火種入れの灰が、ふっと明るくなった。
風はない。
朔もリオも、息を止めたままだった。
赤い火種が、一瞬だけ大きくなる。
炎ではない。
声でもない。
ただ、火の奥に、短い呼吸のような音が混じった。
はっ。
はっ。
走った後の息。
子どもの息。
朔の中で、ハルの姿が立ち上がる。
火皿を持って走るハル。
子どもたちを前へ押し出すハル。
「先に、その子」と言ったハル。
違う。
そう決めることもできなかった。
本物だ。
そう決めることもできなかった。
これは、何だ。
残っているのか。
呼んでいるのか。
真似ているのか。
分からない。
分からないなら、返事をしない。
分からないなら、飛び込まない。
朔は歯を食いしばった。
腰の青い布が、ほんの少し温かくなった気がした。
気のせいかもしれない。
火の熱かもしれない。
自分の手が熱を持っているだけかもしれない。
それでも、朔はその温度を感じた。
希望が、胸の奥で跳ねる。
同時に、恐怖も跳ねる。
希望も罠になる。
ミナトがそう言ったわけではない。
でも、ミナトならそう言う気がした。
リオの手が、まだ肩にある。
朔はその手の重さで、自分がまだここにいることを確かめた。
***
リオは、窪みの横の石に刻まれた文字を見つけた。
苔と土に半分隠れている。
直接触らず、木の枝で少しだけ苔を払う。
古い文字。
ところどころ欠けている。
リオは眉をひそめた。
「読めますか」
朔が聞く。
「少しだけや」
リオは慎重に読む。
「……『声なき者を』」
朔の胸が鳴る。
「声なき者」
「ああ。続きは削れてる」
「次は?」
「『手で……』」
「手で?」
「そこから先が欠けとる」
リオはさらに目を細める。
「その次が……『名を』」
名。
朔は火種入れを見る。
赤は小さくなっている。
だが、まだ消えていない。
「その後は?」
リオは長く黙った。
「……読めん」
「少しも?」
「読めん」
リオはきっぱりと言った。
それから、少しだけ声を低くする。
「いや、読もうと思えば、二通りに読める」
「二通り?」
「『戻せ』にも見える。
『戻すな』にも見える」
朔の手が震えた。
戻せ。
戻すな。
どちらも、胸に刺さる。
ハルを戻せ。
ハルを戻すな。
そのどちらかを、今ここで決めろと言われているようだった。
「どっちなんですか」
朔の声が掠れた。
リオは朔を見る。
「読めん」
「でも」
「読めん」
今度は強かった。
「都合よく読むな」
朔は黙った。
その言葉は痛かった。
だが、必要だった。
戻せと読みたい。
戻せと書いてあってほしい。
そうすれば、ハルを追う理由が増える。
間違っていないと思える。
けれど、それは自分の願いだ。
文字ではない。
朔は目を閉じた。
ミナトの声が蘇る。
死んだとは言うな。
まだ、言うな。
分からんからこそ、今は生きてる者を守れ。
今、生きている者。
リオ。
自分。
そして、どこかにいるかもしれない誰か。
ハルを探すために、自分が死んではいけない。
その言葉が、ようやく胸の中で形になった。
朔は目を開ける。
「触りません」
リオは何も言わない。
「声にも出しません」
朔は続けた。
「でも、忘れません」
リオは短く頷いた。
「それでええ」
***
火種入れをしまう時、朔はもう一度だけ窪みを見た。
手を置くための場所。
でも、今は置かない。
そこに温度があったこと。
火に呼吸のようなものが混じったこと。
青い布が少し温かくなった気がしたこと。
すべてを、確定させない。
でも、なかったことにはしない。
朔は青い布を指で押さえた。
ハル。
声には出さない。
胸の中だけで呼ぶ。
火種入れは布袋に戻した。
取り出しやすい場所へ。
すぐに確かめられる場所へ。
リオは周囲を見回していた。
「そろそろ行く」
「はい」
「長くおる場所やない」
「分かります」
「分かってる顔やな」
「三回目ですね」
「四回目もあるぞ」
朔は少しだけ息を吐いた。
笑いにはならなかった。
でも、呼吸はできた。
***
巡礼路を戻る途中、リオが足を止めた。
朔もすぐに止まる。
「どうしました」
「静かに」
リオは低く言った。
遠くで、鳥が飛んだ。
いや、鳥にしては羽音が硬い。
かすかな金属音。
木々の隙間を、白い小さな影が横切った。
一瞬だけだった。
小鳥のように見えた。
だが、羽ばたきが不自然だった。
リオの顔が険しくなる。
「王都の伝令具かもしれん」
「見られましたか」
「分からん」
分からない。
また、その言葉。
朔は木々の間を見た。
白い影は、もう見えない。
だが、消えた気がしなかった。
自分はハルの痕跡を追っている。
でも、自分もまた、誰かに追われている。
王都の道から外れたことを、もう知られたのかもしれない。
あるいは、たまたま通っただけかもしれない。
都合よく読むな。
リオの言葉が、ここでも効いた。
恐怖もまた、都合よく読んではいけない。
けれど、忘れてもいけない。
「急ぎますか」
朔が聞く。
「走らん」
リオは言った。
「走ると、追われる者の足になる」
「じゃあ」
「普通に歩く。道を変える。足跡を減らす。
見られたとしても、慌てたことまでは見せん」
朔は頷いた。
リオはやはり、道で生きてきた人だった。
***
王都の管理道へ戻る頃、空は曇り始めていた。
白い道が、灰色の光を受けて伸びている。
まっすぐ。
歩きやすい。
逃げにくい。
朔は振り返らなかった。
中継点の手の窪みも。
温度も。
呼吸も。
白い小鳥のような影も。
すべて背中の向こうにある。
だが、置いてきたわけではない。
持っている。
名前と同じように。
火と同じように。
忘れないものとして。
リオが隣を歩く。
少しだけ道を外れ、石の硬い場所を選んでいる。
足跡を残しにくい場所。
朔も、その歩き方を真似た。
追っている。
追われている。
その二つを抱えたまま、進むしかない。
朔は胸の中で、もう一度だけ呼んだ。
ハル。
返事はなかった。
それでよかった。
今、返事があったら、きっと怖かった。
遠くの空を、白い小さな影がもう一度横切った気がした。
朔はそちらを見すぎなかった。
ただ、道を見た。
自分はハルを追っている。
そして王都もまた、朔を追っていた。




