第二章 殻の巡礼 ⑨ 白い塔
王都の道へ戻ってから、リオは歩き方を変えた。
まっすぐ歩かない。
道の中央を避ける。
石の硬い場所を選ぶ。
轍の上を歩く。
時々、意味もなく見える場所で立ち止まり、荷物の紐を直す。
朔は最初、それが何のためか分からなかった。
けれど、しばらくして気づいた。
足跡を残さないためだ。
あるいは、残しても読みづらくするためだ。
白い小鳥のような影。
硬い羽音。
見られたかどうかは分からない。
分からないなら、慌てない。
分からないなら、忘れない。
リオはそういう歩き方をしていた。
朔も真似た。
自分の足跡を見る。
浅い。
重い。
子どもの足。
それでも、足跡は足跡だった。
自分がここを歩いた証拠。
残したくない証拠。
残してしまう証拠。
「疲れたか」
リオが聞いた。
「はい」
「正直でよろしい」
「嘘をつくと高くつくので」
「覚えが早すぎるのも困りもんやな」
リオはそう言って、前を見た。
空は灰色に曇っている。
雨はまだ降っていない。
けれど、遠くの山際が白くぼやけていた。
霧か。
煙か。
それとも、もっと別のものか。
朔は目を細めた。
まだ、王都は見えない。
だが、道だけは迷いなく続いている。
白い石柱。
塔の印。
乾いた道。
王都へ向かう道。
その道を歩いているのに、朔はどこか深い場所へ降りているような気がした。
耳の奥へ下る。
古い記録の言葉が、頭の奥で沈んでいく。
***
昼を過ぎた頃、街道沿いに大きな宿場が見えた。
村ではない。
王都へ向かう旅人や荷車のための、道の中継地だった。
木造の長い建物。
馬を繋ぐ柵。
水場。
荷を調べるための屋根付きの場所。
そして、王都の兵士。
人が多い。
声がある。
鍋の匂い。
馬の鼻息。
車輪の軋み。
商人の値段交渉。
子どもの泣き声。
ツヅリ村を出てから、これほど人の多い場所は初めてだった。
朔は、少しだけ足を止めた。
人がいる。
それだけで、胸が緩みそうになる。
同時に、怖くもなる。
この人数の中で、誰が王都に繋がっているのか分からない。
誰が親切で、誰が記録する側なのか分からない。
「顔」
リオが言った。
「またですか」
「今回はかなり出とる」
「どういう顔ですか」
「腹を空かせた猫が、犬の群れを見とる顔」
「分かりにくいです」
「分かれ」
リオは宿場の手前で足を止めた。
「ここで食料を買う。長居はせん」
「入って大丈夫ですか」
「大丈夫とは言わん。必要や」
必要。
その言葉は便利だった。
怖くても、必要なら入る。
分からなくても、必要なら見る。
ただし、飛び込まない。
朔は頷いた。
***
宿場の中では、噂が飛び交っていた。
北の村のこと。
ツヅリ村のこと。
殻の黒化。
王都の調査班。
勇者候補エリオの巡回。
白い外套の役人。
どれも、少しずつ違っていた。
「北の村は全員、黒に呑まれたらしい」
「いや、王都が保護したんだと」
「ツヅリでは殻の子が暴れたらしいぞ」
「違う。殻の子が子どもを助けたって聞いた」
「勇者候補がいれば、すぐ済んだ話だ」
「祈りが弱い村は、やっぱり駄目だな」
朔は、水袋を握る手に力を入れた。
言い返したかった。
違う。
ツヅリ村は弱かったわけではない。
ミナトは最後まで立っていた。
ハルは子どもたちを逃がした。
リーネは祈れなくても手を使った。
ダンは火を守った。
トウマは泣きながら布を渡した。
でも、ここで声を上げても、何が変わるのか分からなかった。
噂は、声だ。
誰かの口から出て、別の誰かの耳に入り、形を変える。
森の声ほど分かりやすい罠ではない。
だが、人の声もまた、誰かを違う形にする。
朔は奥歯を噛んだ。
リオが横で干し肉を選びながら、小さく言う。
「全部拾うな」
「でも」
「拾ったら、荷物になる」
「間違ってます」
「間違っとる話なんて、道にいくらでも落ちとる」
リオは店主に銅貨を渡す。
「全部拾ったら、歩けん」
朔は黙った。
言い返せなかった。
それでも、胸の中で名前を呼んだ。
ミナト。
ハル。
リーネ。
ダン。
トウマ。
ツヅリ村。
噂に変えさせないために。
少なくとも、自分の中では。
***
宿場の片隅に、王都の掲示板があった。
板にはいくつもの紙が貼られている。
朔には読めない。
だが、王都の塔の印だけは分かる。
リオが一枚を見て、顔をしかめた。
「何ですか」
朔が聞く。
「殻黒化に関する通達」
「読んでください」
「聞いて気分のええもんではないぞ」
「それでも」
リオは短く息を吐き、紙に目を戻した。
「殻の異常、黒化、声の発生、未登録の殻の子を確認した場合、速やかに殻管理局へ報告。
該当者の保護に協力した村には、食料と税の減免を与える」
朔は眉をひそめる。
「協力」
「続きがある」
リオは声を落とした。
「報告を怠り、殻の子を隠匿した場合、該当区域の調査対象指定を行う」
「調査対象」
「まあ、面倒なことになるという意味や」
朔は紙を見た。
文字は読めない。
だが、そこに自分のような存在を囲むための言葉が並んでいることだけは分かった。
保護。
協力。
減免。
隠匿。
調査対象。
脅しではない。
制度だった。
怒鳴り声ではない。
仕組みだった。
「ツヅリ村も」
朔は言いかけて、止まった。
ツヅリ村に調査班が向かっている。
リーネたちは大丈夫だろうか。
ダンは。
トウマは。
黒い祠は。
自分が出たことで、村が守られたのか。
それとも、さらに見つかりやすくなったのか。
分からない。
考え始めると、足が止まりそうになる。
リオが静かに言った。
「戻るか」
朔は顔を上げた。
「戻ったら、何か変わりますか」
「分からん」
「戻らなかったら?」
「分からん」
「どっちも、分からないですね」
「そうや」
リオは掲示板から目を離した。
「せやから、今できることを選べ」
今できること。
戻ることではない。
叫ぶことでもない。
王都に捕まりに行くことでもない。
知ること。
まだ知らない道を、見ること。
「行きます」
朔は言った。
「王都へ」
「まっすぐ管理局へは行かんのやろ」
「はい」
「なら、先に人を探す」
「人?」
「王都にも、記録しか見てないやつばかりやない」
リオは少しだけ声を落とした。
「古い巡礼のことを知っとる者がいる。俺も会ったことはないが、名前だけは聞いた」
「誰ですか」
「写本屋の婆さん。王都の外れで、古い文書を扱っとるらしい」
朔は息を吸った。
殻に問う前に、人に問え。
また、その言葉。
「その人なら、巡礼者の記録を読めるかもしれない」
「かもしれん」
「信用できますか」
「できるかどうかは、会ってからや」
「ですよね」
朔は頷いた。
王都に入る理由が、少しだけ変わった。
管理局へ行くためではない。
王都にいる、人に問うため。
***
宿場を出る頃、空はさらに白く曇っていた。
雨は降らない。
ただ、光だけが薄い。
街道は少しずつ広くなっていく。
荷車の数が増えた。
人の流れも増えた。
王都へ向かう道の幅が、少しずつ人を飲み込むように広がっていく。
そして、夕方前。
丘を越えた時だった。
リオが足を止めた。
朔も止まる。
遠くに、王都が見えた。
最初に見えたのは、城壁ではなかった。
市場の屋根でも、門でも、人の群れでもなかった。
白い塔だった。
高い。
細い。
空に刺さるように立っている。
塔の表面は、夕方の光を受けても赤くならない。
ただ、白い。
冷たいほど白い。
祈りの塔には見えなかった。
見張りの塔にも見えなかった。
どちらかといえば、朔が見た白い部屋の壁に似ていた。
継ぎ目のない白。
触れたら冷たそうな白。
汚れを許さない白。
朔は息を忘れた。
白い天井。
白い床。
白い円。
白い外套。
白い札。
白い小鳥。
白い塔。
全部を同じものにしてはいけない。
分かっている。
それでも、体が先に警戒した。
「王都や」
リオが言った。
その声にも、いつもの軽さはなかった。
「……あれが」
「ああ」
「塔は、何ですか」
「殻管理局の中枢、という話や」
朔は塔を見た。
中枢。
その言葉が、胸の奥で嫌な形に沈む。
白い部屋のモニター。
NORTH NODE。
Y.I.
K.K.
名前を保持しています。
すべて記録しろ。
あの塔にも、誰かが記録されているのかもしれない。
ユイ。
エリオ。
自分。
そして、ハル。
そこまで考えて、朔は青い布を握った。
都合よく読むな。
リオの声が頭の奥で響く。
ハルがいると決めるな。
ハルがいないと決めるな。
ただ、塔を見る。
逃げない。
信じない。
見なかったことにしない。
***
丘の上から見える王都は、遠かった。
城壁の外に、さらに宿場町が広がっている。
煙が上がっている。
人が動いている。
荷車が列を作っている。
門の前には兵士がいる。
生きている都市だった。
その中心に、白い塔が立っている。
まるで、都市全体がその塔の影の中で動いているように見えた。
朔は、ツヅリ村を思い出した。
小さな広場。
火。
壊れた柵。
祠。
ミナトの声。
ツヅリ村は、火を中心に人が集まっていた。
王都は、白い塔を中心に人が動いている。
その違いが、胸に重く残った。
「今日は門には入らん」
リオが言った。
「なぜですか」
「日暮れ前の門は混む。調べも雑になるが、目立つやつは逆に覚えられる」
「俺、目立ちますか」
「殻の子っぽい子どもが、行商人と二人で、王都の札を持たずに来る」
「目立ちますね」
「分かってきたな」
リオは少しだけ頷いた。
「外れの宿へ行く。そこで一晩。明日、写本屋を探す」
「管理局は?」
「向こうから来るまでは、こっちから扉を叩かん」
朔は頷いた。
それが今できる選択だった。
自分で歩く。
自分で問う。
自分で名前を持つ。
でも、全部を一人でやるわけではない。
リオがいる。
それも忘れてはいけない。
「リオさん」
「なんや」
「ここまで、ありがとうございます」
リオは少しだけ嫌そうな顔をした。
「急にやめろ。不吉や」
「お礼です」
「礼は生きて王都を抜けてからにしろ」
「抜ける前提なんですね」
「入る前から出る道を考えんやつは、長生きせん」
朔は小さく頷いた。
出る道。
それは、村で覚えたことでもあった。
逃げ道を覚える日。
ハルと一緒に、何度も走った。
今度は王都で、それを探さなければならない。
***
丘を下りる前に、朔はもう一度だけ白い塔を見た。
高い。
遠い。
白い。
そこに答えがあるのかもしれない。
罠があるのかもしれない。
ユイの記録があるのかもしれない。
ハルの痕跡があるのかもしれない。
自分が何なのかを示すものがあるのかもしれない。
どれも、かもしれない、だった。
でも、今までの旅で分かったことがある。
かもしれない、を理由に飛び込んではいけない。
かもしれない、を理由に目を逸らしてもいけない。
朔は胸の中で名前を確かめた。
黒川朔。
サク。
ハル。
ミナト。
リーネ。
トウマ。
ユイ。
エリオ。
名前が増えている。
荷物も増えている。
恐怖も増えている。
それでも、火種入れの重さが布袋の中にある。
青い布が腰にある。
小刀が帯にある。
写した巡礼路の紙片がある。
何も持たずに来たわけではない。
何も知らずに立っているわけでもない。
朔は息を吸った。
白い塔を信じない。
だが、見る。
王都を信じない。
だが、入る。
管理局へ渡すためではない。
人に問うために。
名前を持ったまま、答えではなく、人に会うために。
丘の下で、白い道が王都へ続いていた。
朔はその道を見た。
そして、ゆっくり歩き出した。




